【推しの子】もしも星野アイの隣人が天才外科医だったら〜命を救う、その先へ〜 作:ペンギンって可愛いですよね
暗闇だった。
音もない。
光もない。
身体の感覚すらなく、意識だけが深い海の底を漂っている。
不思議と恐怖はなかった。
むしろ、長い仕事を終えたあとのような、穏やかな感覚に包まれていた。
――俺は、死んだのか...
そう考えた瞬間、途切れていた記憶が少しずつ戻ってくる。
白い手術室。
無影灯のまぶしい光。
規則正しく鳴る心電図の音。
手袋越しに伝わってくる、人間の身体の感触。
そして、自分の手に握られていた一本のメス。
前世の自分は、外科医だった。
幼いころから人の身体に興味を持ち、医学書を読み漁り、当然のように医学部へ進んだ。
卒業後は外科を選び、寝る間も惜しんで手術と研究に没頭した。
他の医師が手を出せないほど難しい症例でも、決して諦めなかった。
失敗すれば、患者は死ぬ。
その重圧を感じなくなったことは、一度もない。
それでも、手術室に入れば不思議と迷いは消えた。
血管の位置。
臓器の状態。
必要な切開の深さ。
縫合の角度。
すべてが手に取るように分かった。
いつしか周囲からは、天才外科医と呼ばれるようになった。
海外の病院から招かれたこともある。
名前を検索すれば、論文や手術記録がいくつも表示された。
テレビ出演や取材の依頼も届いたが、ほとんど断った。
有名になることに興味はなかった。
目の前の患者を救えれば、それでよかった。
だが、どれほど技術を磨いても、すべての命を救えるわけではない。
手術が間に合わなかった患者。
病状が進行しすぎていた患者。
術中に急変し、そのまま帰らぬ人となった患者。
遺族に頭を下げた回数は覚えていない。
もっと早く気付けていれば。
別の方法を選んでいれば。
自分にさらに技術があれば。
救えなかった命は、何年たっても胸の奥に残り続けた。
だからこそ、休むことをやめた。
診察を終えれば手術へ入り、手術を終えれば研究室へ向かった。
食事は適当に済ませ、睡眠時間も削った。
周囲から何度も止められた。
「先生が倒れたら、救える患者も救えませんよ」
分かっていた。
誰よりも分かっていたはずだった。
それでも、自分を待つ患者がいると思うと、足を止めることができなかった。
最後の日も、長時間に及ぶ手術を終えたばかりだった。
困難な症例だったが、手術は成功した。
患者の状態が安定したことを確認し、手術室を出る。
廊下で待っていた家族に成功を伝えると、何度も頭を下げられた。
涙を流しながら感謝され、胸の奥に小さな安堵が広がった。
これで、また一人救えた。
そう思いながら医局へ戻り、椅子に腰を下ろした。
少しだけ休むつもりだった。
次の瞬間、胸に激しい痛みが走った。
呼吸ができない。
視界が狭くなり、机に置いてあった資料が床へ落ちる。
助けを呼ぼうとしたが、声は出なかった。
医師である自分には、何が起きているのか分かってしまった。
限界だった。
酷使し続けた身体が、とうとう悲鳴を上げたのだ。
誰かが自分の名前を呼んでいた。
廊下を走る足音が聞こえた。
だが、意識は急速に遠ざかっていった。
死にたくない...
そう思わなかったと言えば、嘘になる。
まだ救いたい患者がいた。
完成させたい研究もあった。
若い医師たちに伝えたいことも、たくさん残っていた。
それでも、最後に浮かんだのは後悔ではなかった。
手術を終えた患者の、安定した心電図。
家族の涙。
救えた命が一つでもあったこと。
自分の人生は、それほど悪くなかった。
そう思いながら、彼は静かに目を閉じた。
そのはずだった。
「――ぎゃあ!」
突然、大きな声が響いた。
いや、違う。
これは誰かの声ではない。
自分の口から出ている。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
まぶしい光が目に飛び込んでくる。
何人もの人間が動き回り、何かを話している。
だが、言葉がうまく聞き取れない。
視界もぼやけていた。
身体を動かそうとしても、思うように動かせない。
手を持ち上げたつもりが、目の前で小さな指がわずかに震えただけだった。
――何だ、これは...
混乱しながら、必死に状況を確認する。
自分は裸だった。
身体が異常なほど小さい。
誰かの手に抱き上げられ、柔らかな布に包まれる。
「元気な男の子ですよ」
今度は、はっきりと言葉が聞こえた。
日本語だった。
「本当ですか……よかった……」
疲れ切った女性の声がする。
ぼやけた視界の向こうに、一人の女性が横たわっていた。
その目には涙が浮かんでいる。
隣に立つ男性も、安心したように笑っていた。
「よく頑張ったな」
「あなたも……」
「俺は何もしてないよ」
二人は笑い合っている。
その様子を見ながら、彼の中に一つの可能性が浮かんだ。
馬鹿げている。
医学的にあり得ない。
死後の世界など証明されていない。
魂が存在するという確かな証拠もない。
ましてや、記憶を保ったまま別の人間として生まれ変わるなど、科学では説明できない。
それでも、目の前の状況を説明できる言葉は一つしかなかった。
――俺は、赤ん坊として生まれ変わったのか。
「名前はどうする?」
男性が尋ねる。
女性はしばらく考えたあと、腕に抱かれた赤ん坊を優しく見つめた。
「悠真」
「悠真?」
「うん。人に優しく、自分の信じた道を真っすぐ進める子になってほしいから」
「いい名前だな」
男性はうなずき、小さな手を指先でそっと握った。
「今日から、お前は悠真だ」
悠真。
それが、二度目の人生で与えられた名前だった。
赤ん坊としての生活は、想像以上に不自由だった。
意識は大人のままだというのに、身体はまったく言うことを聞かない。
言葉を理解できても、話すことはできない。
空腹になれば泣き、眠くなれば泣き、身体が不快でも泣くしかない。
自分の意思とは関係なく泣き声が出るたびに、悠真は心の中でため息をついた。
だが、その一方で、両親から惜しみない愛情を注がれた。
母は何度夜中に起こされても、嫌な顔をせず抱き上げてくれた。
父は仕事から帰ると、真っ先に悠真の顔を見に来た。
前世では仕事にすべてを捧げ、家庭を持つこともなかった。
両親もすでに亡くなっており、長い間、一人で生きていた。
だからこそ、誰かに無条件で愛されるという感覚は新鮮だった。
悪くない。
そう思えた。
一歳になるころには、悠真は簡単な言葉を話せるようになっていた。
本来ならもっと早く話すこともできたが、あまりに早すぎれば不自然だと考え、意識的に抑えていた。
それでも、両親からすれば十分に成長の早い子どもだった。
二歳になると、絵本を一人で読み始めた。
三歳では、父が読んでいた新聞の文字まで理解した。
「悠真、これ読めるのか?」
「うん」
「この漢字も?」
「分かるよ」
父はしばらく固まったあと、慌てて母を呼びに行った。
その日から、両親は悠真が普通の子どもではないことに気付き始めた。
だが、決して無理に何かをさせようとはしなかった。
「勉強したいなら、好きなだけしなさい」
「でも、外で遊ぶことも大切だからね」
そう言って、興味を持った本を買い与え、休日には公園にも連れていってくれた。
悠真にとって、その距離感はありがたかった。
前世の記憶があるとはいえ、今の身体と脳はまだ成長途中だ。
焦る必要はない。
一度目の人生では、あまりにも急ぎすぎた。
二度目くらいは、ゆっくり生きてもいい。
そう考えた時期もあった。
しかし、医療への情熱だけは消えていなかった。
五歳のころ、テレビで心臓手術の特集を見た。
画面に映る手術室。
無影灯。
メスを握る外科医。
規則正しく鳴るモニター音。
それを見た瞬間、胸の奥が強く締め付けられた。
懐かしさ。
焦り。
そして、もう一度あの場所へ戻りたいという衝動。
自分は、やはり医師になりたい。
前世で何度も苦しんだ。
救えない命を前に、自分の無力さを嫌というほど思い知らされた。
それでも、命がつながった瞬間の喜びを忘れられなかった。
今度こそ、もっと多くの命を救う。
そのために与えられた人生なのかもしれない。
医者としては、根拠のない運命論を信じることなどできない。
だが、そう考えたくなるほど、この転生は出来すぎていた。
小学校へ入学すると、悠真は周囲との差をさらに広げていった。
授業の内容は、すでに知っていることばかりだった。
テストはすべて満点。
教師から質問されれば、年齢に似合わない説明を返した。
特に理科への興味は強く、人体の仕組みについて尋ねられた際には、教師より詳しく説明してしまったこともある。
「悠真君は、将来何になりたいの?」
担任に尋ねられ、悠真は迷わず答えた。
「外科医です」
「お医者さんじゃなくて、外科医?」
「はい。手術で人を助けたいです」
担任は驚いたあと、優しく笑った。
「それなら、たくさん勉強しないとね」
「分かっています」
もちろん、分かっていた。
前世で一度通った道だ。
だが、知識があるからといって、簡単に医師になれるわけではない。
現在の医療は、前世の時代から少し進歩していた。
新しい治療法。
新しい薬剤。
進化した医療機器。
変化したガイドライン。
過去の知識だけに頼ることは危険だった。
悠真は基礎から学び直した。
小学生のうちに中学、高校の内容を終え、中学生になるころには大学レベルの生物学や化学を学んでいた。
医学書や論文も読み始めた。
前世の知識と現在の医学を比較し、自分の中で一つずつ組み直していく。
周囲からは天才と呼ばれた。
だが、悠真自身はその言葉を好まなかった。
手術は才能だけではできない。
膨大な知識。
経験。
判断力。
そして、失敗を恐れながらも手を止めない覚悟。
どれか一つでも欠ければ、患者を救うことはできない。
高校を卒業すると、悠真は当然のように医学部へ進学した。
入学当初は、年齢の近い学生たちと同じように講義を受けた。
それでも、実習が始まると隠し切れなくなった。
解剖学の知識。
器具の扱い。
縫合の正確さ。
どれも学生の水準を大きく超えていた。
「君、本当に初めてなのか?」
実習担当の教授から、何度そう聞かれただろう。
「本で勉強しました」
悠真はそのたびに、そう答えた。
嘘ではない。
ただし、それだけでもなかった。
大学卒業後、研修医として病院に入ると、悠真の名はすぐに院内へ広まった。
診断が速い。
処置に迷いがない。
急変時でも冷静さを失わない。
そして何より、手先が異常なほど正確だった。
初めて手術の助手に入った日も、悠真は懐かしさを感じていた。
消毒液の匂い。
照明の熱。
張り詰めた空気。
前世で何千回と立った場所。
やっと戻ってきた。
その感情を表に出すことなく、指導医の指示に従った。
やがて執刀を任されるようになり、難しい症例をいくつも成功させた。
二十代半ばになるころには、若手でありながら多くの医師から信頼される存在となっていた。
それでも、前世のような無茶はしなかった。
眠る。
食べる。
休む。
一見当たり前のことを、意識して守った。
自分が倒れれば、患者を救えない。
前世の最後が、それを何よりも強く教えていた。
二十九歳になった春。
悠真は都内の大学病院へ移ることになった。
より高度な設備が整い、難しい症例が集まる病院だった。
新しい術式の研究にも参加できる。
申し分のない環境だった。
問題は、これまで住んでいた場所から遠いことだった。
緊急の呼び出しも多いため、悠真は病院の近くへ引っ越すことを決めた。
いくつかの物件を見た結果、徒歩で通える距離にあるマンションを選んだ。
特別高級というわけではないが、セキュリティーはしっかりしている。
部屋も一人で暮らすには十分な広さだった。
「ここでお願いします」
内見を終えると、悠真はその場で契約を決めた。
引っ越し当日。
必要最低限の家具と、大量の医学書が部屋へ運び込まれた。
本棚を組み立て、段ボールから本を取り出して並べる。
外科。
救急医学。
循環器。
消化器。
脳神経。
書籍だけで壁の一面が埋まっていった。
「前の人生から、何も変わってないな」
悠真は苦笑した。
違うのは、以前より少しだけ自分の身体を大切にするようになったことくらいだ。
作業が一段落し、窓を開ける。
春の柔らかな風が部屋へ流れ込んできた。
遠くには東京の街並みが広がっている。
車の音。
人々の話し声。
どこかから聞こえてくる音楽。
この世界で生まれ直してから、もう二十九年がたった。
今のところ、前世と大きく違う部分は見つかっていない。
国の名前も、歴史も、文化も同じ。
有名な企業や芸能人には多少知らない名前もあったが、それは自分が前世で芸能界に興味を持っていなかったからだと思っていた。
医師として生きることに夢中で、テレビや漫画を見る時間はほとんどなかった。
研修医時代に同僚から勧められ、いくつか漫画やアニメを見たことがある程度だ。
それも内容を細部まで覚えているわけではない。
だから、この世界が自分の知っていた現実と違う可能性など、考えたこともなかった。
そのとき、隣の部屋から小さな笑い声が聞こえてきた。
子どもが二人いるらしい。
男の子と、女の子。
壁越しでは内容まで聞き取れないが、楽しそうに何かを話している。
続いて、若い女性の声が響いた。
「二人とも、あんまり騒いじゃ駄目だよ。隣に新しい人が引っ越してきたんだから」
「はーい」
「分かった」
返事をする二人の子ども。
悠真はわずかに笑った。
「仲のいい家族みたいだな」
芸能人が多く住む地域だとは、不動産会社から聞いていた。
だが、隣人が誰であろうと、悠真には関係がない。
患者の個人情報と同じように、他人の生活へ不用意に踏み込むつもりはなかった。
時計を見る。
明日は朝から手術が入っている。
悠真は窓を閉め、机の上にカルテの資料を広げた。
患者はまだ若い。
手術の難易度は高いが、成功すれば日常生活へ戻れる可能性は十分にある。
血管の走行。
切除範囲。
出血した場合の対処。
起こり得る合併症。
頭の中で手術を最初から最後まで再現していく。
命を救う。
一度目の人生でも、二度目の人生でも、それだけは変わらなかった。
このときの悠真は、まだ知らない。
隣に住む若い母親が、日本中から愛される存在であることを。
その子どもたちが、普通ではない秘密を抱えていることを。
そして近い未来、このマンションの廊下で、自分の二度目の人生を大きく変える事件が起きることを。
血に染まった少女を前にした瞬間。
悠真は初めて、この世界の正体を知る。
それはまだ、少し先の話だった。
あとがき
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
新しく『【推しの子】』の二次創作を始めることにしました。
実は最初、この作品は二次創作ではなく、普通の外科医を主人公にしたオリジナル作品として考えていました。
ですが、冷静に考えると、僕は医者でも何でもない、ただのド素人一般人です(笑)。
「これは始める前から厳しいな……」と気付き、それなら好きな作品で書こうと思い、大好きな『【推しの子】』のIF作品として執筆することにしました。
そして、現在執筆している別作品の主人公・レインが医者になったことも、この作品を書くきっかけの一つです。
「せっかくなら、医者を主人公にした別作品を書いてみるのも面白いのでは?」と思い、この作品を書くことにしました。
本作は、「もし世界最高峰の天才外科医が転生し、星野アイを救うことができたら?」というテーマで進んでいきます。
第一話では主人公の前世と転生、そして二度目の人生で再び外科医になるまでを書きました。
まだ『【推しの子】』の登場人物はほとんど登場していませんが、ここから少しずつ物語を進めていく予定です。
主人公自身も、この世界が『【推しの子】』であることにはまだ気付いていません。
そして、あの日の事件をきっかけに、原作とは異なる物語が始まります。
なお、もう一度言いますが、僕は医者でも何でもなく、ごく普通の一般人です。
そのため、医学についてはできる限り調べながら執筆していきますが、知識不足から間違いや表現がおかしい部分も出てくると思います。
そのあたりは、「フィクションだから」と温かい目で読んでいただけると嬉しいです。
また、「原作改変はちょっと……」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
ですが、僕は自分が書きたい物語を、自分が読みたい形で書くことを大切にしています。
もちろん原作へのリスペクトは忘れませんが、本作はIF作品として、僕なりの『【推しの子】』を書いていこうと思っていますので、その点はご了承いただければ幸いです。
感想や評価、ブックマークなども励みになりますので、よろしければお願いいたします!
それでは、第二話以降もよろしくお願いいたします!