【推しの子】もしも星野アイの隣人が天才外科医だったら〜命を救う、その先へ〜 作:ペンギンって可愛いですよね
翌日――
朝の回診の時間。
コンコン。
病室の扉がノックされる。
「失礼します」
扉を開けて入ってきたのは悠真だった。
その後ろにはアクアとルビー。
そしてアクアが一台の車いすを押していた。
「おはよう!」
アイはいつものように明るく挨拶する。
「おはようございます」
悠真も笑顔で返した。
しかし、アイの視線はすぐにアクアが押している車いすへ向く。
「ん?車いす?誰か使うの?」
アイが不思議そうに病室を見回す。
すると、アクアとルビーは同時にアイを見た。
「「お母さん/ママだよ」」
「え?」
アイは目を丸くする。
「私?」
「そうです」
悠真が頷いた。
「ずっとベッドの上にいると、筋力が落ちますし、体も硬くなってしまいます」
「もうすぐ退院です。それまでに、ある程度体力を戻しておきましょう」
アイは珍しく少し不安そうな表情を浮かべた。
「でも……もう動いて大丈夫なの?」
悠真は落ち着いた口調で答える。
「はい。ただし、いきなり一人で長い距離を歩くわけではありません」
「まずは立つ練習から始めて、体の状態を確認しながら数歩だけ歩いてみましょう。少しでも痛みや気分の悪さがあれば、すぐに中止します」
「私がずっと隣にいますから、安心してください」
アイは少し考えたあと、小さく頷いた。
「分かった!先生がそう言うなら頑張る!」
「その意気です」
悠真は微笑んだ。
アクアが車いすをベッドの横へ寄せる。
「お母さん、ゆっくりね」
「ありがとう!」
アイは掛け布団をめくり、ベッドの端へゆっくり移動する。
そのまま足を床へ下ろしたが、足の裏が床に触れた瞬間、わずかに表情を曇らせた。
「どうしました?」
悠真がすぐに尋ねる。
「痛いわけじゃないんだけど……なんか変な感じ」
「ずっと寝ていたから、足が自分のものじゃないみたい」
「数日間ほとんど使っていなかった筋肉を、急に動かそうとしていますからね、珍しいことではありません」
悠真はアイの正面に立ち、手を差し出した。
「まずは一度立って、問題がないか確認しましょう」
「うん」
アイは悠真の手を握り、反対の手をベッドへつく。
悠真が腕と背中を支える中、ゆっくりと腰を浮かせた。
「慌てなくて大丈夫です。足に力を入れて、ゆっくり立ち上がってください」
「よいしょ……」
アイは慎重に立ち上がった。
しかし、両足が伸びた直後、体がわずかに揺れる。
「わっ……」
悠真がすぐにアイの体を支えた。
「大丈夫ですか?」
「うん。ちょっとふらっとしただけ」
「目眩や吐き気は?」
「ないよ」
「お腹の傷は痛みませんか?」
「少し引っ張られる感じはするけど、痛くはないかな」
悠真はアイの表情を確認しながら頷く。
「それなら大丈夫そうですね。ですが、今はこれだけでも十分なリハビリになります」
「えっ、立っただけなのに?」
「立つという動作にも、足や腰、お腹の筋肉を使っていますから」
アイは驚いたように自分の足元を見た。
「前ならライブで何時間も踊れてたのに…今は立つだけで大仕事なんだね」
「今は手術を終えたばかりですから。以前のアイさんと比べる必要はありません。今日できることを少しずつ増やしていけばいいんです」
「そっか」
アイは安心したように笑った。
そのまま数秒立ったあと、悠真の指示でゆっくりと車いすへ腰掛ける。
「どうですか?」
「思っていたより疲れたかも。でも、ちゃんと立てた!」
「ええ。最初としては十分です」
ルビーが嬉しそうにアイのそばへ駆け寄った。
「ママ、すごい!」
「立っただけだよ?」
「でも、すごいもん!」
ルビーが満面の笑みで答える。
アクアも安心したように息を吐いた。
「無理はしないでね、お母さん」
「分かってるよ」
アイはそう答えながら、アクアの頭を優しく撫でた。
「アクアもルビーも心配性だなぁ」
「誰のせいだと思ってるの?」
アクアが呆れたように返す。
「私かな?」
「ママだよ!」
ルビーの即答に、病室の中へ笑い声が広がった。
「それでは、そろそろ移動しましょうか」
悠真が言うと、アクアが車いすの後ろへ回る。
「ママ、押していい?」
ルビーが期待に満ちた目で尋ねた。
「もちろん!」
「でも安全運転でね?」
「はーい!」
ルビーは車いすの持ち手へ手を伸ばそうとした。
しかし、その直前、アクアが静かに口を開く。
「今日は俺が押す。ルビーだと勢いよく走りそうだから」
「走らないよ!……たぶん」
「たぶんって言った」
「むぅ……」
ルビーは頬を膨らませたが、やがて気持ちを切り替えるようにアイの隣へ移動した。
「じゃあ私はママの隣を歩く!」
「それなら安心ですね」
悠真も笑った。
「では行きましょう」
四人は病室を出た。
アクアが慎重に車いすを押し、ルビーはアイの隣を歩く。
悠真は少し前を歩きながら、周囲に人がいないか確認していた。
廊下を進んでいる途中、ルビーが楽しそうに尋ねる。
「ママ!退院したら最初に何したい?」
「うーん……」
アイは腕を組み、真剣に考える。
「まずは家に帰って、みんなで美味しいご飯を食べたい!」
「病院食がそんなに嫌ですか?」
悠真が苦笑する。
「嫌じゃないけど、味が薄いんだもん」
「退院しても、いきなり刺激の強いものをたくさん食べるのは駄目ですよ」
「えー」
「じゃあラーメンは?」
「体調を見ながらですね」
「焼肉は?」
「食べ過ぎなければ」
「お寿司は?」
「一度に全部食べるつもりですか?」
悠真が呆れたように尋ねると、アイは楽しそうに笑った。
「あはは! 冗談だよ!」
「それから、早くお仕事にも戻りたいなぁ」
悠真の表情が少しだけ真剣になる。
「お仕事のことは、傷が完全に治ってから考えてください」
「歌うだけなら大丈夫じゃない?」
「歌うだけでは終わらないでしょう……アイさんの場合、歌えば踊りたくなるです」
「ばれた?」
「貴方を見ていれば分かります」
即答する悠真に、アイはまた声を上げて笑った。
「先生、本当に真面目だね…でも、そういうところ嫌いじゃないよ」
悠真は少し照れくさそうに咳払いする。
「ありがとうございます」
「ですが、褒めても復帰の許可は早めませんよ」
「けちー」
「医者ですから」
そんな会話を続けながら、四人はリハビリ室の前へ到着した。
悠真は廊下の左右を確認してから扉を開ける。
室内には平行棒や歩行器、椅子、軽い運動に使う器具などが並べられていた。
しかし、他の患者や病院スタッフの姿はない。
アイは車いすに座ったまま、不思議そうに室内を見回した。
「あれ?誰もいないの?」
「今日は一時間、このリハビリ室を貸し切りにしています」
悠真が扉を閉めながら答える。
「貸し切り?」
アイだけでなく、アクアとルビーも驚いたように悠真を見る。
「はい」
「通常どおりリハビリを行えば、理学療法士や他の患者さんも同じ部屋にいることになります」
悠真はアクアとルビーへ視線を向けた。
「そうなれば、二人がアイさんをお母さんと呼ぶところを聞かれるかもしれません。それにアイさん自身も有名人ですから」
「理学療法士の方々にも守秘義務はありますが、知る人間は少ない方がいいでしょう」
「万が一のことを考えて、今日はこの時間だけ誰も入らないように手配しました」
アイはしばらく言葉を失い、悠真を見つめていた。
やがて、優しく微笑む。
「そこまで考えてくれてたんだ……ありがとうございます、先生」
「患者さんの治療だけでなく、プライバシーを守ることも医師の仕事です」
「ここなら二人も、周囲を気にせずアイさんを応援できます」
「やった!」
ルビーが嬉しそうに両手を上げる。
「ママって呼んでもいいんだね!」
「もちろんです」
「ただし、リハビリの邪魔にならない程度にしてください」
「はーい!」
「返事だけは立派」
アクアが小さく呟く。
「お兄ちゃん、何か言った?」
「何も」
アクアが目を逸らした。
二人のやり取りにアイが笑う。
悠真も小さく笑ったあと、腕時計へ視線を落とした。
「では、さっそく始めましょう」
まず悠真は、アイを平行棒の手前まで移動させた。
車いすのブレーキを掛け、足を置く板を上げる。
「先ほど病室で一度立った時は、大きな問題はありませんでした」
「ここでは平行棒を使って、もう一度立ち上がります。余裕があれば、その場で足踏みをしてみましょう」
「いきなり歩かないの?」
「まずは立った状態で体を支えられるか確認します。歩くのは、その後です」
「分かりました、先生!」
アイは元気よく返事をすると、平行棒へ手を伸ばした。
悠真はアイの横に立ち、腰と腕を支えられる姿勢を取る。
「では、ゆっくり立ちましょう」
「一、二、三」
掛け声に合わせ、アイが腰を浮かせる。
平行棒を強く握りながら、ゆっくりと立ち上がった。
先ほどよりもふらつきは少ない。
悠真はアイの顔色を確認する。
「気分はどうですか?」
「大丈夫」
「傷はどうですか?」
「ちょっと違和感はあるけど、痛くないよ」
「それなら、そのまま十秒だけ立ってみましょう」
「十秒なら余裕!」
アイは笑って答えた。
しかし、五秒ほど経ったところで、笑顔がわずかに引きつる。
「……立ってるだけなのに、足がぷるぷるしてきた」
「無理に強がらなくていいですよ」
「まだ強がってないもん」
「では、その震えは何でしょう?」
「これは……武者震い?」
「誰と戦うんですか……とりあえず座りましょうか」
「はい」
アイは素直に認め、ゆっくり車いすへ戻った。
ルビーが心配そうに顔を覗き込む。
「ママ、大丈夫?」
「大丈夫だよ!ちょっと疲れただけ」
「立てただけでもすごいよ!」
「ありがとう、ルビー」
アイはルビーの頭を優しく撫でた。
数分間休憩したあと、再び立ち上がる。
今度は平行棒を握ったまま、片足ずつわずかに持ち上げる練習を始めた。
「まずは右足を少しだけ上げてください」
「こう?」
「はい。下ろしたら次は左足です」
右足。
左足。
その場でゆっくりと足踏みを繰り返す。
最初はぎこちなかったが、回数を重ねるにつれて動きが安定していった。
「ママ、頑張れー!」
ルビーが少し離れた場所から声援を送る。
「あと少し!」
アクアも真剣な表情で見守っていた。
アイは二人の声を聞きながら、慎重に足を動かす。
「ライブのダンスに比べたら、これくらい……」
「比較するものを間違えています」
悠真がすぐに止めた。
「今日は舞台に戻るための第一歩です。今は上手に歩くことより、安全に体を動かせることの方が大切です」
その言葉に、アイは動きを止めることなく微笑んだ。
「舞台に戻るための第一歩かぁ…それなら頑張らないとね」
「頑張り過ぎないことも大切です」
「先生は難しいこと言うなぁ」
「医者ですから」
アイは小さく笑いながら、その場での足踏みを続けた。
十回ほど終えたところで、悠真が休憩を指示する。
「一度座りましょう」
「まだできるよ?」
「できるところで止めるのが、最初のリハビリでは大切なんです。疲れ切るまで続ければ、次に体を動かすのが嫌になりますから」
「なるほど」
アイは納得し、ゆっくり車いすへ腰掛けた。
呼吸は少し早くなっている。
額にも薄く汗が浮かんでいた。
悠真は脈拍を確認し、傷の痛みや気分の悪さがないかを尋ねる。
「問題ありませんね。次は平行棒の中を数歩だけ歩いてみましょう」
「いよいよ歩くんだね」
アイの表情に少し緊張が浮かぶ。
「怖いですか?」
「ちょっとだけ」
「でも、先生が隣にいるんでしょ?」
「もちろんです」
「それなら大丈夫」
休憩を終えると、アイは三度目の立ち上がりに挑戦した。
両手で平行棒を握り、悠真がすぐ横につく。
「今日は端まで歩く必要はありません」
「まず右足を一歩だけ前へ出しましょう」
アイは平行棒を握る手へ力を込めた。
そして、ゆっくりと右足を前へ出す。
床に足がつく。
続いて左足。
たった二歩。
それでもアイにとっては、手術後初めて自分の足で前へ進んだ瞬間だった。
「歩けた……」
アイは自分の足元を見つめ、驚いたように呟く。
「ええ。しっかり歩けていますよ」
悠真が優しく答える。
「ママ、すごい!」
ルビーが飛び跳ねそうな勢いで喜ぶ。
「ルビー、床で跳ねない」
アクアが止めながらも、その口元には安堵の笑みが浮かんでいた。
アイは二人を見て、嬉しそうに笑う。
「もう少し歩いてもいい?」
悠真はアイの足元と表情を確認した。
「あと二歩だけです」
「それで今日は終わりにしましょう」
「はーい」
アイは再び右足を出す。
続いて左足。
合計四歩。
悠真の支えを借りながらではあったが、転ぶことなく前へ進めた。
「よくできました」
悠真の言葉を合図に、アイはゆっくり車いすへ戻る。
座った瞬間、大きく息を吐いた。
「疲れたぁ……」
「四歩しか歩いてないのに」
「最初の一歩を踏み出すのが一番大変なんです」
悠真はアイの前へしゃがみ、穏やかに微笑んだ。
「今日の目的は長く歩くことではありません。安全に立てることと、自分の足で一歩を踏み出せることを確認することでした」
「どちらも達成できています。今日のリハビリは百点です」
「ほんと?」
「ええ」
アイの顔に、子どものような笑顔が浮かぶ。
「やった!」
「ママ、おめでとう!」
ルビーが嬉しそうに手を叩く。
アクアもアイの前へ歩み寄った。
「お疲れさま、お母さん」
「ありがとう、二人とも」
アイはアクアとルビーを交互に見つめる。
「二人が応援してくれたから頑張れたよ」
その言葉にルビーは嬉しそうに笑い、アクアは少し照れたように視線を逸らした。
一時間の貸し切り時間をすべて使う必要はなかった。
悠真はアイの疲労を考え、最初のリハビリを早めに切り上げることにした。
「今日はここまでにしましょう。残りの時間は休憩に使います」
「えー、もう終わり?」
「無理をしないと約束しましたよね?」
「はーい」
不満そうに返事をしながらも、アイの表情は満足そうだった。
わずか四歩…普段のアイなら、意識することすらない距離だっただろう。
だが今の彼女にとって、その四歩は退院へ向かう大きな前進だった。
そして、再びステージに立つ未来へ続く、確かな第一歩でもあった。