【推しの子】もしも星野アイの隣人が天才外科医だったら〜命を救う、その先へ〜 作:ペンギンって可愛いですよね
初めてのリハビリを終えた翌日からも、アイは毎日リハビリを続けた。
もちろん、アクアとルビーが実の子どもであることを知られないよう、悠真がリハビリ室を一時間だけ貸し切りにしていた。
二日目は、平行棒を使った歩行練習。
三日目は、車いすから自分の力で立ち上がる練習。
そして四日目には、ベッドから車いすへ一人で移動する練習も行った。
最初は立ち上がるだけでも足が震えていたアイだったが、日を追うごとに少しずつ動きは安定していった。
「よいしょ……」
アイはベッドの端に腰掛け、慎重に両足を床へつける。
その隣には車いすが置かれていた。
車輪にはしっかりとブレーキが掛けられている。
悠真はすぐ横に立っていたが、手を出さずにアイの様子を見守っていた。
「慌てなくて大丈夫です」
「立ち上がったあと、体が安定してから車いすへ移ってください」
「分かってるよ、先生」
アイはベッドへ手をつき、ゆっくりと腰を上げる。
一瞬だけ足元が揺れたものの、すぐに体勢を立て直した。
そのまま体の向きを変え、車いすの肘掛けへ手を伸ばす。
「あと少しです」
悠真の言葉を聞きながら、アイはゆっくり腰を下ろした。
無事に車いすへ座ると、アイは大きく息を吐いた。
「できた!」
「一人で乗れたよ!」
少し離れた場所で見守っていたルビーが、嬉しそうに手を叩く。
「ママ、すごい!」
アクアも安心したように頷いた。
「前よりずっと安定してるよ」
「本当?」
「うん」
「最初は立っているだけでも危なかったから」
「それは言わなくてもいいんじゃない?」
アイは少し頬を膨らませる。
悠真は小さく笑ったあと、車いすの位置やアイの姿勢を確認した。
「問題ありません。これなら、ベッドと車いすの間の移動は一人でもできそうですね。ただし、必ずブレーキを確認してください」
「分かりました、先生!」
「それから、疲れている時は一人で無理をしないこと」
「はーい!」
「返事だけではなく、きちんと守ってくださいね」
「先生、心配性だなぁ」
アイが楽しそうに笑う。
するとアクアが呆れたように口を開いた。
「お母さんがすぐ無理をしようとするからでしょ」
「ママ、退院したらすぐお仕事に行こうとしてたもんね」
ルビーも続ける。
二人から責められ、アイは視線を逸らした。
「行こうとしてたんじゃなくて、ちょっと考えただけだよ」
「同じです」
悠真が即座に返した。
「少なくとも、次の診察で私が許可するまでは仕事は禁止です」
「歌も?」
「禁止です」
「ダンスも?」
「当然です」
「軽く踊るだけでも?」
「駄目です」
アイは車いすの上で項垂れた。
「厳しい……」
「アイさんがもう一度病院へ運ばれないためです。退院するからといって、傷が完全に治ったわけではありませんから」
悠真の真剣な声に、アイはようやく素直に頷く。
「分かった。ちゃんと先生の言うこと聞くよ」
「お願いします」
そんなリハビリを三日間続けた結果、アイは短い距離であれば、誰かに支えてもらいながら歩けるまでに回復した。
ベッドから車いすへの移動も、一人でできるようになった。
しかし、まだ一人で安定して歩くことは難しい。
腹部の傷に負担を掛けないためにも、退院後もしばらくは車いすを利用することになった。
そして、ついに退院の日を迎えた。
朝から病室では、荷物をまとめる音が響いていた。
アイは入院中に使っていた私物を鞄へ入れながら、どこか落ち着かない様子で何度も時計を確認している。
「まだかなぁ」
「何が?」
アクアが尋ねる。
「お迎え」
「さっき社長から、もう病院の近くまで来てるって連絡があったよ」
「本当?」
アイの顔が一気に明るくなった。
「やっと家に帰れる!」
「病院食ともお別れだ!」
その言葉に、荷物を整理していたルビーが笑う。
「ママ、ずっと病院食のことばっかり言ってる」
「だって本当に味が薄かったんだもん」
「体のために作られた食事ですからね」
いつの間にか病室へ入ってきていた悠真が苦笑した。
「先生!」
アイは車いすの上から元気よく手を振る。
「今日で退院だね!」
「そうですね」
悠真はカルテを確認しながら頷いた。
「今朝の検査結果にも問題はありません」
「傷口も順調に治っています」
「予定どおり退院して大丈夫です」
「やった!」
アイは両手を上げようとした。
しかし、腹部へわずかに力が入ったのか、途中で動きを止める。
その様子を見た悠真が眉を寄せた。
「今のように、急に体を動かすのは禁止です」
「まだ何もしてないよ?」
「両手を勢いよく上げようとしましたよね」
「見てたの?」
「目の前にいましたから」
アイは誤魔化すように笑った。
「あはは……」
「笑って誤魔化さないでください」
悠真は呆れながらも、退院後の注意事項が書かれた用紙をアイへ渡した。
「退院してからも、傷口を刺激するようなことは絶対にしないでください」
「重い荷物を持つことも禁止です」
「走ったり、激しく踊ったりするのも駄目です」
「入浴についてもしばらくは湯船につからず、シャワーだけにしてください」
「食事も一度に食べ過ぎないように」
アイは用紙を見ながら、少し困ったように眉を下げた。
「禁止されること多くない?」
「大きな手術を受けたのですから当然です」
「痛みが強くなったり、傷口が腫れたり、熱が出たりした場合は、すぐに病院へ連絡してください」
「分かりました」
「本当に分かっていますか?」
「分かってるよ!」
アイは頬を膨らませながら答える。
その横で、アクアが悠真から用紙を受け取った。
「俺も読んでおきます」
「お願いします」
「アイさん一人に任せるより安心です」
「先生、私のこと信用してないでしょ」
「...患者としては信用しています」
「今、少し間がなかった?」
「気のせいです」
悠真が涼しい顔で答えると、ルビーが楽しそうに笑った。
しばらくして、病室の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
コンコン。
扉が開き、斎藤が顔を覗かせる。
「迎えに来たぞ」
「社長!」
アイが笑顔で手を振る。
斎藤は病室へ入ると、元気そうなアイの姿を見て安堵の息を吐いた。
「まったく……」
「いきなり、病院から連絡をもらった時は何事かと......退院って聞いて本当に安心したぞ」
「心配掛けてごめんね」
アイが素直に謝る。
斎藤は一瞬だけ意外そうな顔をしたあと、すぐに視線を逸らした。
「分かればいい」
「荷物はこれだけか?」
「うん!」
「それと車いす」
斎藤は病院から借りることになった車いすへ目を向ける。
「これも持って帰るのか?」
「はい」
悠真が答えた。
「まだ一人で歩くのは難しいので、しばらくは車いすを使用してもらいます」
「病院から貸し出せるよう手配してあります。返却については、次回の診察で状態を確認してから判断します」
「分かりました」
斎藤は真剣な表情で頷く。
「こちらでも絶対に無理はさせません」
「お願いします。特に仕事へ復帰しようとしたら止めてください」
「もちろんです」
斎藤は即答した。
「こいつは放っておくと、退院したその日に事務所へ行きかねないからな」
「行かないよ!」
アイがすぐに反論する。
「ちょっと顔を出そうとは思ってたけど」
「同じだ、バカ!」
斎藤の怒鳴り声が病室へ響く。
アクアは呆れたようにため息をつき、ルビーは楽しそうに笑っていた。
荷物をまとめ終えると、四人は病室を出た。
アクアが車いすを押し、ルビーはその隣を歩く。
悠真も見送りのために一緒に病院の出入口まで向かった。
周囲には他の患者や病院スタッフもいるため、アクアとルビーはアイを母親とは呼ばず、静かについていく。
アイは何度も廊下を振り返っていた。
「この病院ともお別れかぁ」
「寂しいですか?」
悠真が尋ねる。
「うーん」
「先生たちにはすごくお世話になったから、ちょっと寂しいかも…でも、やっぱり家に帰れる方が嬉しい!」
「それが一番です。病院は長く滞在する場所ではありませんから」
やがて一行は病院の正面玄関へ到着した。
その先には斎藤が乗ってきた車が停まっていた。
斎藤は後部の荷物を載せる場所を開け、アイの鞄を積み込んでいく。
続いて、病院から借りた車いすを折り畳んで車へ乗せた。
悠真と斎藤が左右からアイを支え、ゆっくりと立ち上がらせる。
「足元に気をつけてください」
「はーい」
「勢いよく座らないでくださいね」
「先生、最後まで心配性だね」
「最後ではありません」
悠真は真面目な顔で答える。
「次回の診察でも、私が担当しますから」
「そっか」
アイは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また先生に会えるね」
「診察以外では、なるべく会わない方がいいですよ」
「病院に診察以外で来るということは、何か問題があったということですから」
「真面目だなぁ」
悠真と斎藤に支えられながら、アイは慎重に助手席へ腰掛けた。
斎藤がシートの位置を調整し、腹部へ負担が掛からないよう確認してからシートベルトを締める。
後部座席には、すでにアクアとルビーが座っていた。
「ママ、大丈夫?」
ルビーが身を乗り出すように尋ねる。
「大丈夫だよ!ちゃんと座れた!」
「ルビー、走っている時は前に身を乗り出すなよ」
アクアが注意する。
「まだ走ってないもん」
「今のうちから言ってるんだよ」
二人の会話を聞きながら、アイは車内を見回した。
そして、ふと首を傾げる。
「あれ?ミヤコさんは?」
斎藤は運転席へ乗り込みながら答えた。
「事務所だ。今日はあいつに事務所を任せてきた」
アイは少し不満そうに頬を膨らませる。
「ミヤコさんばかりに任せちゃ駄目だよ、佐藤社長」
斎藤の眉がぴくりと動いた。
「斎藤だ、クソアイドル!それに事務所に一人はいないと、うちは回らないんだよ!」
「えへへ、間違えちゃった」
「わざとだろ!」
「どうだろうね?」
アイは楽しそうに笑った。
斎藤は額に手を当て、大きなため息をつく。
「退院早々、本当に元気だな……」
「元気なのは良いことだよ!」
「限度がある!」
そのやり取りを見ていた悠真も、思わず苦笑した。
しかし、すぐに真剣な表情へ戻る。
「アイさん」
「はい、先生」
「もう一度だけ言っておきます。退院できたからといって、完全に治ったわけではありません。くれぐれも傷を刺激するようなことはしないでください」
「痛みがなくても、無理に動けば傷口が開く可能性があります。自分で歩こうとせず、しばらくは必ず車いすを使ってください」
アイは悠真の表情を見つめる。
いつもの冗談を言うような様子ではない。
自分を本気で心配してくれていることが伝わり、アイも真剣に頷いた。
「分かりました。先生との約束、ちゃんと守るよ」
「仕事もしばらく休むし、無理に歩いたりもしない」
「本当ですね?」
「本当!」
「アクアとルビーもいるから、二人に見張ってもらうよ」
後部座席からルビーが元気よく手を上げる。
「私がママを見張ります!」
「俺もいるから安心してください」
アクアも落ち着いた声で続けた。
悠真は二人を見て、ようやく安心したように微笑む。
「では、二人にお願いします」
「はい!」
「分かりました」
続いて悠真は、運転席の斎藤へ視線を向けた。
「斎藤社長もお願いします」
「ああ…こいつが何を言っても、医師の許可が出るまでは絶対に仕事をさせない」
「約束します」
「ちょっと、私の意思は?」
「「患者に拒否権はありません」」
「先生と社長が同じこと言ってる……」
アイは不満そうに呟いた。
それでも、口元には笑みが浮かんでいる。
悠真は車から一歩離れた。
斎藤がエンジンを掛ける。
「それでは先生、本当にありがとうございました」
斎藤が改めて頭を下げる。
「俺たちの大切なアイを助けていただいて……何度礼を言っても足りません」
「医師として当然のことをしただけです」
悠真は穏やかに答えた。
アイは助手席の窓を開け、悠真へ笑顔を向ける。
「先生!本当にありがとう!私を助けてくれて」
悠真は少しだけ目を細めた。
「助かったのは、アイさん自身が頑張ったからです。これからも、その命を大切にしてください」
「うん!」
アイは力強く頷く。
「また診察でね、先生!」
「はい」
「ただし、それまでは安静にしてください」
「最後までそれ言うんだ」
「大切なことですから」
アイは楽しそうに笑い、窓を閉めた。
斎藤の車がゆっくりと動き出す。
後部座席のルビーが、窓越しに大きく手を振っている。
その隣では、アクアが静かに頭を下げていた。
悠真も小さく手を上げ、遠ざかっていく車を見送る。
やがて車は病院の敷地を出て、街の中へ消えていった。
悠真はしばらくその方向を見つめていた。
あの日、血に染まった姿で運ばれてきたアイ。
命を失っていてもおかしくなかった彼女が、今は二人の子どもと一緒に家へ帰っていく。
それだけで、十分だった。
「退院おめでとうございます、アイさん」
悠真は誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
そして白衣を翻すと、再び患者たちが待つ病院の中へ戻っていった。