【推しの子】もしも星野アイの隣人が天才外科医だったら〜命を救う、その先へ〜   作:ペンギンって可愛いですよね

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第二十三話「車いす卒業」

 

B小町のメンバーにアクアとルビーを紹介してから、一週間後――。

 

都立大学病院。

 

アイは何度目かになる診察を受けるため、悠真の診察室を訪れていた。

 

診察室の扉が開き、看護師に車いすを押してもらいながら中へ入ってくる。

 

「こんにちは、先生!」

 

「こんにちは、アイさん」

 

悠真はいつものように穏やかな笑みを浮かべ、アイを迎えた。

 

「今日は随分と元気そうですね」

 

「うん! 最近はお腹もほとんど痛くないし、体もだいぶ軽くなったんだ」

 

「それは良かったです。ただ、調子が良いからといって無理をしてはいけませんよ」

 

「分かってるって」

 

アイは少しだけ頬を膨らませる。

 

まだ診察も始まっていないのに、早くも注意されたことが不満らしい。

 

その様子に悠真は小さく笑うと、カルテへ視線を落とした。

 

「では、今日の状態を確認しましょうか」

 

「はい!」

 

アイは看護師に手伝ってもらい、ゆっくりと車いすから立ち上がった。

 

そのまま自分の足で診察台まで歩いていく。

 

以前は立ち上がるだけでも痛みに顔をしかめていたが、今では歩き方もかなり安定している。

 

悠真はその様子を注意深く観察した。

 

「歩いている時に痛みや違和感はありませんか?」

 

「ほとんどないよ。長く歩くと少し疲れるけど、それくらいかな」

 

「ふらついたり、息苦しくなったりすることは?」

 

「それもない!」

 

「なるほど」

 

悠真は頷きながらカルテへ書き込んでいく。

 

アイが診察台へ横になると、悠真は腹部の傷を丁寧に確認した。

 

縫合した部分は綺麗に塞がり、炎症や腫れも見られない。

 

周囲を慎重に触診しながら、痛みの有無を尋ねていく。

 

「ここは痛みますか?」

 

「大丈夫」

 

「では、こちらは?」

 

「そこも平気!」

 

「少し押しますよ」

 

「うん」

 

悠真がゆっくりと腹部を押しても、アイの表情に大きな変化はなかった。

 

内臓の状態にも異常はなく、傷は順調に回復している。

 

その後も聴診や簡単な体力の確認を行い、診察は問題なく進んでいった。

 

一通りの確認が終わると、アイは診察台へ腰掛けたまま、嬉しそうに悠真を見た。

 

「先生、どう?」

 

「非常に順調ですね」

 

「本当!?」

 

「はい。傷口も綺麗に塞がっていますし、腹部の状態にも問題はありません。体力もかなり回復しています」

 

悠真の言葉に、アイは安心したように息を吐いた。

 

「良かったぁ……」

 

「アイさんがきちんと安静にしていた成果ですね」

 

「でしょ?」

 

アイは得意げに胸を張る。

 

「私だって、ちゃんと言われたことを守れるんだから!」

 

「そうですね」

 

悠真は微笑みながら頷いたものの、その声にはわずかに疑うような響きがあった。

 

アイはすぐにそれに気づく。

 

「今、絶対信じてなかったでしょ?」

 

「いえ、そのようなことはありませんよ」

 

「ほんとに?」

 

「本当です」

 

悠真は平然と答えたが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。

 

「怪しい……」

 

アイはじっと悠真を見つめたあと、何かを思い出したように表情を明るくした。

 

「あっ、そうだ先生!」

 

「どうしました?」

 

「B小町のみんなとちゃんと話せたんだ!」

 

悠真はカルテを書いていた手を止め、アイへ視線を向ける。

 

「皆さんとですか?」

 

「うん!」

 

アイは楽しそうに頷いた。

 

「記者会見の前に、改めてみんなと話す機会があってさ。今まで秘密にしてたこととか、いろんなことを話したの」

 

「そうだったんですね」

 

「みんな怒ってるかなって、少しだけ怖かったんだけど……全然そんなことなかった」

 

その時の光景を思い出したのか、アイの表情が柔らかくなる。

 

「むしろ、もっと早く話してほしかったって言われた」

 

「そうですか」

 

「うん。それに、アクアとルビーのことも紹介できたんだ!」

 

「明かしたんですね」

 

「そう! この前、みんなのレッスンが午前中で終わる日があったから、その日の午後に三人で行ったの」

 

アイは身振りを交えながら、その時の出来事を話し始めた。

 

最初はB小町のメンバーたちも少し緊張していたこと。

 

しかし、ルビーがすぐに打ち解けたこと。

 

アクアがB小町について詳しく話し始め、全員から本当に四歳児なのかと疑われたこと。

 

そして二人の名前を紙に書いて見せたところ、アイのネーミングセンスを全員に笑われたこと。

 

「アクアとルビーも楽しそうだったし、みんなも二人を可愛がってくれたんだ」

 

アイは心から嬉しそうに笑っていた。

 

「今までは、仕事の時は子どもたちのことを隠さなきゃいけなかったでしょ?」

 

「はい」

 

「でも、もう隠さなくていいんだって思ったら、すごく楽になった」

 

アイは自分の胸へ手を当てる。

 

「みんなと普通に話せて、アクアとルビーを大切な仲間に紹介できて……なんていうか、やっと本当の私を見せられた気がする」

 

悠真は何も言わず、穏やかな表情でアイの話を聞いていた。

 

以前のアイは、誰かに本当の自分を知られることを恐れていた。

 

子どもがいることだけではない。

 

弱さを見せることも、助けを求めることもできず、何もかも一人で抱え込んでいた。

 

しかし今のアイは、少しずつ周囲を頼れるようになっている。

 

家族の存在を隠さず、大切な仲間たちへ紹介することもできた。

 

それは傷が回復することと同じくらい、大きな前進だった。

 

「良かったですね」

 

悠真は優しく微笑んだ。

 

「アイさんを取り巻く環境が、少しずつ良い方向へ向かっていると思います」

 

「うん!」

 

「皆さんと話すことができて、アクア君とルビーちゃんも紹介できた。アイさんが勇気を出して一歩踏み出した結果ですね」

 

「先生のおかげでもあるよ」

 

「私は治療をしただけです」

 

悠真は静かに首を横に振った。

 

「実際に皆さんと向き合ったのは、アイさん自身ですから」

 

「でも、先生が助けてくれなかったら、こんなふうにはなってなかったもん」

 

アイは真っ直ぐに悠真を見る。

 

「だから、ありがとう」

 

悠真は少しだけ目を細めた。

 

「どういたしまして」

 

しばらく穏やかな空気が流れる。

 

しかし、アイは突然何かを思い出したように頬を膨らませた。

 

「そうだ、先生!」

 

「今度は何ですか?」

 

「聞いてよ!」

 

アイは不満そうな表情で悠真へ詰め寄る。

 

「みんなが私のネーミングセンス、どうかしてるって言ってくるの!」

 

「ネーミングセンスですか?」

 

「そう!」

 

アイは力強く頷く。

 

「愛久愛海も瑠美衣も、ちゃんと一生懸命考えて付けた名前なのに! 社長までアイのネーミングセンスは諦めろって言うんだよ!」

 

悠真は数秒間、無言でアイを見つめた。

 

そして、笑いながら即答した。

 

「それは私も思います」

 

「先生も!?」

 

アイは目を見開いた。

 

「ひどい!」

 

あまりにも迷いのない返答だったため、アイは診察室中に響くような声を上げる。

 

悠真は笑いを堪えながら口元へ手を当てた。

 

「申し訳ありません。ただ、愛久愛海と書いてアクアマリンと読むのは、初見ではかなり難しいかと」

 

「ちゃんと読めるもん!」

 

「アイさんは名付けた本人ですからね」

 

「瑠美衣だって可愛いでしょ?」

 

「可愛い名前だとは思います」

 

「じゃあいいじゃん!」

 

「可愛いことと、初見で読めることは別問題です」

 

悠真が冷静に指摘すると、アイはさらに頬を膨らませた。

 

「先生までみんなと同じこと言う!」

 

「私には敵しかいない!」

 

「敵ではありませんよ」

 

悠真は笑いながら否定する。

 

「名前に込めた愛情は十分に伝わりますし、アイさんらしい素敵な名前だとも思います」

 

「本当?」

 

「はい。ただし、ネーミングセンスが独特だという意見には同意します」

 

「やっぱりひどい!」

 

アイが不満そうに叫び、悠真はとうとう堪えきれずに笑ってしまった。

 

診察室の端にいた看護師も、二人のやり取りを見ながら小さく笑っている。

 

「もう、先生なんて知らない!」

 

アイはぷいっと横を向く。

 

「すみません。つい本音が出ました」

 

「謝ってるように聞こえないんだけど」

 

「気のせいですよ」

 

「絶対違う!」

 

しばらく拗ねていたアイだったが、やがて自分でも可笑しくなったのか、小さく吹き出した。

 

悠真もつられるように笑う。

 

穏やかな笑いが収まったところで、悠真は改めてカルテへ視線を戻した。

 

「さて、診察結果についてですが」

 

その声が医師としての真剣なものへ変わり、アイも姿勢を正す。

 

「うん」

 

「腹部の傷は順調に回復しています。日常生活に必要な範囲であれば、歩行にも問題ありません」

 

「じゃあ……」

 

期待を込めた目を向けるアイに、悠真は微笑んだ。

 

「本日で車いすは卒業です」

 

一瞬、アイの動きが止まった。

 

「……本当?」

 

「はい。今後は自分の足で歩いていただいて構いません」

 

「やったぁ!」

 

アイは両手を上げ、満面の笑みを浮かべた。

 

「本当に!? もう車いすに乗らなくていいの!?」

 

「病院内を長時間移動する場合や、体調が優れない時は無理をしないでください。ただ、基本的には必要ありません」

 

「やった! ありがとうございます、先生!」

 

アイは今にも診察台から飛び降りそうな勢いで喜ぶ。

 

悠真はその様子を見て、すぐに表情を引き締めた。

 

「ただし」

 

その一言で、喜んでいたアイの動きがぴたりと止まる。

 

悠真は念を押すように続けた。

 

「仕事はまだ駄目です」

 

「……むぅ」

 

「レッスンもライブも、長時間の撮影も許可できません」

 

「分かってるよ」

 

「車いすが必要なくなったことと、完全に回復したことは別です」

 

「うん」

 

「傷口は塞がっていますが、体の内部はまだ完全には治っていません。ここで無理をすれば、傷が開いたり、体調を崩したりする可能性があります」

 

「分かったってば」

 

「軽い散歩程度なら構いませんが、走ったり、激しく踊ったりしてはいけません」

 

「先生」

 

「はい」

 

アイは再び頬をぷくっと膨らませた。

 

「そんなに言われなくても分かってるよ」

 

「本当ですか?」

 

悠真が疑うように尋ねると、アイはますます不満そうな顔をする。

 

「分かってるって!」

 

「私だって、もう勝手に仕事に戻ろうとしたりしないもん」

 

「そうですか」

 

「その反応、絶対信じてないでしょ!」

 

「アイさんは、少し調子が良くなると無理をしそうですから」

 

「しないってば!」

 

「本当に?」

 

「本当!」

 

アイは胸を張って答える。

 

しかし、悠真はじっとアイの目を見つめ続けた。

 

その視線に耐えられなくなったのか、アイは少しずつ目を逸らしていく。

 

「……たぶん」

 

「ほら」

 

悠真は呆れたようにため息をついた。

 

「だから念を押しているんです」

 

「だって、少しくらいなら大丈夫かなって思うじゃん」

 

「駄目です」

 

「ちょっとだけでも?」

 

「駄目です」

 

「軽く歌うくらいは?」

 

「歌うだけなら体調次第ですが、ダンスは絶対に駄目です」

 

「先生、厳しい!」

 

「医者として当然です」

 

悠真はきっぱりと言い切った。

 

「アイさんが完全に回復するまでは、何度でも同じことを言います」

 

「そんなに言われなくても分かってます!」

 

アイは頬を膨らませたまま愚痴る。

 

それでも、その表情には以前のような焦りや不安はなかった。

 

仕事へ戻りたい気持ちはある。

 

しかし今は、自分の体を大切にしなければならないことも理解している。

 

何より、待ってくれている仲間や家族がいることを知っている。

 

「次の診察でも問題がなければ、復帰に向けた運動について考えていきましょう」

 

悠真がそう告げると、アイの表情が明るくなった。

 

「本当?」

 

「はい。ただし、今後も指示を守ることが条件です」

 

「守る!」

 

「即答しましたね」

 

「だって早く戻りたいもん!」

 

「焦らず、一つずつですよ」

 

「うん!」

 

アイは元気よく頷いた。

 

診察を終えたアイは、看護師に支えてもらいながらゆっくりと床へ足を下ろす。

 

そして、車いすには戻らず、自分の足で立ち上がった。

 

まだ少し慎重な足取りではあったものの、その姿は以前よりもずっと力強い。

 

「先生」

 

診察室を出る直前、アイが振り返る。

 

「どうしました?」

 

「次に来る時は、もっと元気になってるからね!」

 

悠真は穏やかに微笑んだ。

 

「楽しみにしています。ただし、無理は禁止ですよ」

 

「また言った!」

 

アイは頬を膨らませながらも、嬉しそうに笑う。

 

そのまま自分の足で診察室をあとにした。

 

命を取り留めたあの日から、少しずつ重ねてきた回復への道。

 

アイはこの日、車いすを卒業し、再び自分の足で未来へと歩き始めた。

 

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