【推しの子】もしも星野アイの隣人が天才外科医だったら〜命を救う、その先へ〜 作:ペンギンって可愛いですよね
診察を終えたアイは、都立大学病院の廊下を自分の足で歩いていた。
隣では看護師が少し距離を空けながら、いつでも支えられるように見守っている。
数日前までは、どこへ移動するにも車いすが必要だった。
しかし今は、ゆっくりではあるものの、誰かに押してもらうことなく自分で前へ進んでいる。
一歩。
また一歩。
傷の痛みはほとんどない。
足取りも思っていたより安定していた。
それでも、調子に乗ってはいけない。
先ほど悠真から何度も注意されたばかりだ。
「無理は禁止、かぁ」
アイは小さく呟く。
「先生、心配しすぎなんだよね」
そう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
何度も念を押してくるのは、それだけ自分の体を心配してくれているからだ。
そのことはアイにも分かっていた。
病院の玄関まで歩き、迎えに来ていた車へ乗り込む。
今日は苺プロダクションのスタッフが運転を担当してくれていた。
後部座席へ座ったアイは、窓の外を眺めながら自宅へ向かう。
車いすを卒業できたことを、まだアクアとルビーには伝えていない。
朝、家を出る時にはいつものように車いすに乗っていた。
二人とも診察結果を心配しているはずだ。
どんな反応をするだろう。
そう考えるだけで、アイの胸は温かくなった。
やがて車は、自宅マンションの前へ到着した。
スタッフが降りて後部座席の扉を開ける。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
「ありがとう!」
アイは慎重に足を地面へ下ろした。
以前なら、そのまま車いすへ移るところだった。
しかし今日は違う。
自分の足で立ち上がり、マンションの入口へ向かって歩き始める。
スタッフも隣で少し心配そうに見守っていたが、アイの歩き方に危なげはない。
エレベーターで自宅の階まで上がり、廊下を進む。
玄関の前で立ち止まったアイは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
車いすを卒業したことは、扉を開けるまで秘密にしておこう。
アイは鍵を取り出し、玄関の扉を開けた。
「ただいまー!」
その声が家の中へ響く。
すぐにリビングから足音が聞こえてきた。
「ママ!」
最初に駆けてきたのはルビーだった。
その少し後ろを、アクアが落ち着いた足取りでついてくる。
「おかえり、ママ!」
「おかえりなさい、お母さん」
二人は玄関へ顔を出した。
そして、同時に動きを止めた。
「……あれ?」
ルビーが目をぱちぱちと瞬かせる。
アクアもアイの足元へ視線を向けた。
そこにあるはずの車いすがない。
誰かに支えられている様子もない。
アイは自分の足で立っていた。
「ママ……」
ルビーの目が大きく開く。
「もしかして……」
アイは満面の笑みを浮かべた。
「今日で車いす卒業だって!」
一瞬の静寂。
次の瞬間――。
「やったぁぁぁ!」
ルビーが大きな声を上げる。
そのままアイへ飛びつこうと駆け出した。
「ルビー」
アクアがすぐに妹の腕をつかむ。
「お母さんのお腹はまだ治りきってない」
「あっ!」
ルビーは慌てて足を止めた。
「そうだった!」
勢いよく抱きつくことを諦め、今度はアイの手を両手で握る。
「ママ、良かったね!」
「うん!」
「もうずっと歩けるの?」
「普通に歩いていいって!」
「本当に!?」
ルビーは嬉しそうに何度も跳びはねる。
「ママが歩けるようになった!」
「やった! やった!」
その様子を見ながら、アイは嬉しそうに笑う。
一方のアクアは、アイの全身を注意深く見ていた。
「痛みは?」
「ほとんどないよ」
「歩いた時にふらついたりは?」
「それも大丈夫!」
「傷口の状態は?」
「先生が順調だって言ってた」
アイが答えるたびに、アクアは小さく頷いていく。
四歳児とは思えない確認の仕方だった。
「そっか」
すべてを聞き終えたアクアは、ようやく表情を和らげた。
「良かったね、お母さん」
その言葉に、アイの胸がじんわりと温かくなる。
「ありがとう、アクア」
「でも」
アクアの表情が再び真剣になる。
「仕事はまだ駄目って言われたんでしょ?」
アイの笑顔がわずかに引きつった。
「……なんで分かったの?」
「車いすを卒業しただけで、いきなりライブやレッスンが許可されるはずがないから」
「うっ……」
「先生からも、かなり念を押されたんじゃない?」
「……何回も言われた」
アイは不満そうに頬を膨らませる。
その様子を見て、アクアは小さくため息をついた。
「当然だよ」
「アクアまで先生と同じこと言う!」
「無理をしそうだからだよ」
「しないってば!」
アイが即座に否定する。
しかしアクアは疑うような目を向けた。
「本当に?」
「本当!」
「絶対?」
「絶対!」
「少し体調が良いからって、踊ったりしない?」
「……踊らない」
アイは一瞬だけ間を空けて答える。
アクアはそのわずかな間を見逃さなかった。
「今、間があった」
「気のせい!」
「気のせいじゃないよ」
「もぉ! 先生もアクアも心配しすぎ!」
アイが再び頬を膨らませる。
その横でルビーが首をかしげた。
「ママ、まだお仕事できないの?」
「うん。もう少しだけ休まないと駄目なんだって」
「そっかぁ」
ルビーは少し残念そうな顔をする。
しかしすぐに表情を明るくした。
「じゃあ、ルビーがママといっぱい遊んであげる!」
「本当?」
「うん!」
ルビーは元気よく頷いた。
「お絵描きしたり、お人形で遊んだりするの!」
「それなら激しく動かなくていいでしょ?」
アクアも少し考えてから頷く。
「それくらいなら大丈夫だと思う」
「やった!」
ルビーはアイの手を引こうとする。
しかし、すぐにアクアから止められた。
「引っ張ったら駄目だよ」
「あっ、そっか!」
ルビーはまた慌てて手を離す。
「ごめんね、ママ」
「大丈夫だよ」
アイは笑いながらルビーの頭を撫でた。
三人はゆっくりとリビングへ向かう。
アイが自分の足で歩いているだけで、いつもの家の中が少し違って見えた。
リビングのソファへ腰を下ろすと、ルビーがすぐ隣へ座る。
アクアは少し離れた場所から、アイの様子を確認していた。
「アクアもこっちおいでよ」
「僕はここでいいよ」
「遠い!」
アイは不満そうに言う。
「せっかく車いす卒業したんだから、今日はもっと一緒に喜んでよ」
「喜んでるよ」
「顔に出てない!」
「いつも通りでしょ」
「そうだけど!」
そのやり取りを聞きながら、ルビーが楽しそうに笑う。
「アクア、照れてるんだよ!」
「照れてない」
「絶対照れてる!」
「違う」
「じゃあ、ママの隣に座れるでしょ?」
ルビーに言われ、アクアは少しだけ黙った。
そして諦めたようにアイの反対側へ腰を下ろす。
「これでいい?」
「うん!」
アイは嬉しそうに笑い、二人の頭へそっと手を置いた。
右にはルビー。
左にはアクア。
車いすを卒業できたことも嬉しい。
自分の足で再び歩けるようになったことも嬉しい。
しかし、それ以上に嬉しかったのは、こうして二人のそばへ少しずつ戻ってこられたことだった。
「ママ?」
ルビーが不思議そうに見上げる。
「どうしたの?」
「ううん」
アイは首を横に振る。
「二人がいてくれて良かったなって思っただけ」
「急にどうしたの?」
アクアが尋ねる。
「言いたくなったから」
アイは二人を見つめ、優しく微笑む。
「心配かけてごめんね」
「それと、ずっと待っててくれてありがとう」
ルビーはアイの腕へそっと寄り添った。
「ルビー、ずっとママのこと待ってるよ」
「ありがとう」
アイは次にアクアを見る。
アクアは少しだけ視線を逸らしたあと、静かに言った。
「無事に帰ってきてくれたなら、それでいいよ」
短い言葉だった。
けれど、その言葉に込められた想いをアイは理解していた。
「うん」
アイは静かに頷く。
「ちゃんと帰ってきたよ」
その日の午後。
三人はリビングで絵を描いたり、テレビを見たりしながら穏やかな時間を過ごした。
まだ仕事には戻れない。
走ることも、踊ることもできない。
完全に元通りになったわけではなかった。
それでもアイは、自分の足で家へ帰ってくることができた。
そして大切な子どもたちへ、笑顔でただいまと言うことができた。
それはアイにとって、何よりも大きな一歩だった。