無職転生×我間乱 ――六面世界の大亀流―― 作:からし明太子
山に拾われた子供
俺には、前世の記憶がある。
なんて言うと、ずいぶん大層な話に聞こえる。
前世では勇者だったとか。
剣豪だったとか。
世界を救った英雄だったとか。
そういう話なら格好もついたのだろう。
残念ながら、そんなものじゃない。
ごく普通の日本人だった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
特別頭が良かったわけでもない。
スポーツで全国大会に出た経験もなければ、喧嘩が強かったわけでもない。
剣道?
授業で竹刀を握った程度だ。
そんな俺が死んだ。
どうやって死んだのか、そこはあまり思い出したくない。
覚えていないわけではない。
ただ――死んだ瞬間よりも、死ぬまでの生き方の方が、よほど情けなかった。
だから。
次に目を覚ました時、俺は泣いていた。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
いや。
正確に言えば、泣かされていた。
寒い。
眩しい。
腹が減った。
そして何より、
(……ちっさ)
手が。
自分の手が。
赤ん坊の手だった。
そこでようやく理解した。
どうやら俺は、生まれ変わったらしい。
◇
転生。
まさか本当にそんなものがあるとは思わなかった。
ましてや、生まれ変わった先が以前とまったく違う世界だとは。
人間がいる。
これはいい。
言葉もある。
これもいい。
剣もある。
まあ分かる。
魔物もいる。
……まあ、ここまでは百歩譲ろう。
問題は。
「今日は冒険者さんがゴブリンを三匹退治してくれたんだって!」
「へえ!」
「魔術師だったらしいよ!」
魔術がある。
最初に聞いた時は子供の冗談だと思った。
しかし、孤児院の世話係だった婆さんが薪に火をつける時、指先から本当に炎を出した。
俺はその晩、眠れなかった。
魔法である。
ファンタジーである。
異世界転生である。
そこまで揃えば、普通は期待する。
俺にも何か凄い才能があるんじゃないか。
膨大な魔力とか。
伝説の勇者の血筋とか。
神様から授かった特別な能力とか。
結論から言う。
無かった。
少なくとも、五歳までの俺には。
◇
俺はこの世界では孤児だった。
親の顔は知らない。
どこの誰が産んだのかも知らない。
気づいた時には、小さな町の外れにある孤児院にいた。
だから、この世界で与えられた最初の名前も簡単なものだった。
レン。
それだけ、姓は無い。
前世の名前を名乗ろうとも思わなかった。
別に嫌いだったわけではない。
ただ、あいつは死んだのだ。
なら、今ここにいる俺はレンでいい。
そんな程度の気持ちだった。
孤児院の生活は、想像していたより悪くなかった。
食事は質素。
服は他人のお下がり。
冬は死ぬほど寒い。
喧嘩も多い。
でも、飯は出た。
雨風は凌げた。
病気になれば薬草を煎じてもらえた。
それだけで、この世界では十分恵まれていたのだろう。
俺も特別不満はなかった。
ただ一つ、退屈だったことを除けば。
五歳児の身体というのは、本当に自由が利かない。
走ればすぐ疲れるし、重い物は持てない。
少し夜更かしすれば翌朝起きられない。
そのくせ、中身には前世の記憶がある。
同年代の子供と泥団子を作って遊ぶのも、最初のうちは楽しかった。
しかし毎日となると苦痛である。
「レン! 騎士ごっこやろう!」
「昨日やったでしょ」
「じゃあ今日は俺が勇者!」
「昨日もお前が勇者だったろ」
「いいじゃん!」
「よくない。今日は俺が魔王やる」
「魔王!?」
まあ、結局やるんだけど。
そして俺は魔王役のくせに、木の枝を持った五人を返り討ちにして泣かせた。
翌日、院長先生に怒られた。
理不尽だろう。
◇
剣に興味を持ったきっかけは、そんな遊びだった。
最初はただの木の枝。
けれど振っているうちに、なんとなく面白くなった。
前世には無かった感覚だ。
振れば風を切り、足の位置を変えると振りやすくなる。
腰を使えば、もっと強く振れる。
何度も繰り返す。
昨日より今日。
今日より明日。
少しずつ上手くなるのが分かった。
魔術も興味はあったから、もちろん試した。
だが孤児院に魔術の教本なんてものは無い。
婆さんに頼んでも、
「魔術なんて習う金がどこにあるんだい」
で終わった。
世知辛いな。
異世界に来ても教育格差は存在するらしい。
その点、木の枝ならタダだった。
だから振った。
毎日。
朝。
昼。
夕方。
他の子供が遊んでいる横で、一人で木の枝を振った。
最初は百回。
そのうち二百回。
三百回。
手の皮が破れて、血が出た。
婆さんに怒られた。
「馬鹿だね! 子供がそんなことしてどうするんだい!」
「強くなる」
「何のために!」
「……さあ」
本当に分からなかった。
強くなって何をしたいのか。
別に英雄になりたいわけじゃない。
冒険者になりたいわけでもない。
ただ。
昨日できなかったことが、今日できる。
その感覚が好きだった。
前世では、何かを続けて身につけた記憶がほとんどなかった。
だから。
今度は途中で投げたくなかった。
それだけだったのかもしれない。
◇
俺が五歳になった頃。
その男は孤児院にやってきた。
変な男だった。
いや。
変なんて言葉では足りない。
この世界に生まれて五年。
冒険者も見た。
兵士も見た。
獣人も見た。
一度だけ、耳の長いエルフらしい女も見た。
だが。
その男は、その誰とも違っていた。
和服。
俺の知っている言葉なら、そう呼ぶ。
紺色の着物。
その上から羽織。
腰には一本の刀。
剣ではない。
刀だった。
反りのある細身の刃を収める鞘。
そんな物を、この世界に生まれて初めて見た。
俺は思わず男を凝視した。
男も俺を見た。
正確には。
俺が握っていた木の枝を見た。
「……坊主」
「なに」
「今の、もう一回やってみろ」
「今の?」
「振ってただろ」
「素振り?」
「そうだ」
俺は首を傾げながら木の枝を構えた。
誰かに教えてもらったわけではない。
何千回も振る中で、なんとなく一番振りやすくなった構え。
足を開く。
腰を落とす。
振る。
ひゅっ。
まだ子供だ。
大した音は出ない。
それでも男の眉が僅かに動いた。
「もう一回」
振る。
「もう一回」
振る。
「今度は横」
「注文多いな、おじさん」
「おじ……」
男の額に青筋が浮かんだ。
失敗したかもしれない。
でもどう見ても子供じゃない。
「兄さんと呼べ」
「無理あるだろ」
「……いいから振れ」
仕方なく振った。
男は腕を組んで俺を見る。
目が変わっていた。
さっきまで孤児院の中を退屈そうに眺めていた目ではない。
真剣だった。
怖いというより。
刀を見ているような目だった。
「坊主」
「レン」
「ん?」
「名前。坊主じゃない」
「……レンか」
男は俺の前にしゃがんだ。
「剣を習いたいか?」
突然だった。
「習えるの?」
「ああ」
「金ないけど」
「見りゃ分かる」
「失礼だな」
「孤児院で豪商の倅みたいな服着てたら、そっちの方が怖えよ」
確かに。
男は口の端を上げた。
「山に道場がある」
「道場?」
「ああ」
その言葉に、胸が鳴った。
この世界で初めて聞いた。
懐かしい言葉。
「剣を教える場所?」
「正確には違う」
「じゃあ何?」
「人を斬るための技を教える場所だ」
さらっと怖いことを言った。
普通なら五歳児に聞かせる話ではない。
でも。
その男は冗談を言っていなかった。
「剣って、人を殺すものだろ」
俺が言うと。
男は黙った。
「違うの?」
「……いや」
しばらくして、男は笑った。
「違わねえな」
そして立ち上がる。
「来るか?」
簡単な質問だった。
この孤児院を出る。
知らない男について山へ行く。
危険しかない。
常識的に考えれば断るべきだ。
でも。
腰に差した刀から目が離れなかった。
それに。
なぜだろう。
この男が嘘を言っているようには思えなかった。
「飯は?」
「出る」
「寝る場所は?」
「ある」
「寒い?」
「山だからな」
「遠い?」
「歩いて三日」
「五歳児に歩かせる気?」
「途中で背負ってやる」
「最初から背負えよ」
「甘ったれんな」
ひどい話だ。
でも。
俺は少し笑った。
「行く」
男が目を細める。
「即答か」
「うん」
「怖くねえのか?」
「怖い」
「ならなんでだ」
俺は木の枝を見る。
何千回も振った枝。
手垢で握る部分だけ色が変わっている。
「もっと上手くなれそうだから」
男は何も言わなかった。
ただ。
しばらくして、
「そうか」
とだけ答えた。
◇
孤児院を出る時。
婆さんには散々怒られた。
「どこの馬の骨とも分からない男についていくなんて!」
「身元は話しただろうが」
「刀を持った男を信用できるかい!」
「もっともだ」
「納得するな!」
男は院長や町の役人にいくつか書類を見せた。
どうやら本当に身元は確からしい。
俺にはよく分からなかった。
最後に婆さんは俺を強く抱きしめた。
「嫌になったら帰っておいで」
「うん」
「無理しちゃ駄目だよ」
「分かってる」
「ちゃんと食べるんだよ」
「婆ちゃんみたいだな」
「誰が婆ちゃんだい!」
「痛い痛い!」
耳を引っ張られた。
最後まで乱暴な婆さんだった。
でも。
孤児院が見えなくなった時。
少しだけ寂しかった。
「泣くなら戻るか?」
前を歩く男が言った。
「泣いてない」
「そうか」
「……泣いてない」
「分かった分かった」
絶対分かってない。
◇
三日と言ったくせに、道場までは四日かかった。
理由は簡単。
俺が遅かった。
「おせえ」
「五歳だぞ俺!」
「もっと足を上げろ」
「虐待だろこれ!」
「げんきじゃねえか」
男の背中に乗りながら文句を言う。
結局半分以上背負われた。
山は深かった。
道らしい道も途中で無くなった。
魔物にも遭遇した。
狼に似た、大型犬ほどの獣。
俺は初めて間近で魔物を見て固まった。
男は。
一歩前へ出た。
何をしたのか。
分からなかった。
刀を抜いたことすら見えなかった。
気づいた時には。
魔物の首が落ちていた。
「……」
「どうした」
「今の」
「あ?」
「見えなかった」
「そりゃそうだ」
「もう一回やって」
「魔物をもう一匹連れてこい」
「そういう意味じゃない」
男は刀についた血を振り払い、鞘へ戻した。
その時。
俺は初めて知った。
木の枝を何千回振ったところで。
俺はまだ、剣の入口にすら立っていなかったのだと。
悔しいより。
嬉しかった。
まだこんなに先がある。
◇
四日目の夕方。
山の奥。
霧の向こうに。
道場が現れた。
木造の建物。
広い庭。
薪割りをしている男。
井戸から水を汲んでいる少年。
縁側で刀の手入れをする者。
何人もの人間がいた。
全員。
刀を差している。
「着いたぞ」
男が言った。
「ここが――」
門を見る。
そこには、この世界の文字で何かが書かれていた。
俺にはまだ全部は読めない。
男が教えてくれた。
「大亀流」
だいきりゅう。
いや。
違う。
男の発音を聞いて、そうではないと分かった。
おおがめりゅう。
「今日から、お前が剣を学ぶ場所だ」
俺は門を見上げた。
この時の俺は。
まだ知らなかった。
ここで学ぶ剣が。
雷のように走り。
炎のように断ち。
虚ろのように消え。
水のように変じ。
大地のように砕くことを。
そして。
その剣を握って。ま
いつか俺が。
赤い髪の少女と出会うことも。
年下のくせに妙に達観した魔術師と出会うことも。
緑色の髪を持つ戦士と旅をすることも。
世界最強と呼ばれる男に刀を向けることも。
もちろん知らない。
この時の俺はただ。
道場の向こうから聞こえてくる、
ガンッ。
ガンッ。
という木刀の音に。
胸を躍らせていた。
「なあ」
「なんだ」
「早くやろう」
「何をだ」
「剣」
「……お前、四日歩いて疲れてねえのか?」
「疲れた」
「なら今日は寝ろ」
「嫌だ」
「寝ろ」
「一回だけ」
「寝ろ」
「見るだけでも」
「寝ろ」
「ケチ」
男の拳骨が頭に落ちた。
「痛ぇ!」
「まず師匠に挨拶だ、馬鹿弟子」
「まだ弟子になってねえだろ!」
「今なった」
「勝手だな!」
男が笑う。
俺も。
たぶん笑っていた。
こうして。
俺の二度目の人生で初めての、本当の修行が始まった。
後に俺の人生そのものになる剣。
――大亀流。
その門を。
俺は五歳で潜った。