無職転生×我間乱 ――六面世界の大亀流―― 作:からし明太子
第一話 大亀流
大亀流で最初に教わったのは、剣の振り方ではなかった。
立ち方だった。
「立て」
「立ってる」
「立て」
「……だから立ってるだろ」
「それは立ってるんじゃない。突っ立ってるんだ」
なんだその禅問答。
山奥の道場に連れてこられた翌朝。
俺は朝日も昇りきっていない庭の真ん中で、一人の爺さんと向き合っていた。
年齢は、分からない。
六十?
七十?
白髪。
白い髭。
背は俺をここまで連れてきた男よりずっと低い。
身体も細い。
着流し姿で、腰には刀すら差していなかった。
初めて見た時は、正直に言えば、
――この爺さんが当主?
と思った。
強そうには見えなかった。
道場にいた他の連中の方が、よほど強そうだった。
腕が俺の胴ほどある大男。
顔に傷のある剣士。
朝っぱらから木刀を振り回して汗を流している若者。
そういう分かりやすく「武芸者です」と主張している連中の中に混ざると、この爺さんは完全に近所の老人である。
畑で大根でも抜いている方が似合う。
「なんじゃ」
「いや」
「今、弱そうな爺じゃと思ったじゃろ」
「……思ってない」
「ほう」
爺さんが笑った。
「嘘が下手じゃの」
見透かされた。
隣で、俺をここまで連れてきた男が吹き出した。
「くっ……」
「笑うなよ、おじさん」
「兄さんだっつってんだろ!」
「いい歳して無理するなよ」
「てめえ……」
「宗一郎」
爺さんが呼ぶ。
「はい」
さっきまで俺と言い争っていた男――久世宗一郎は、一瞬で姿勢を正した。
怖いのだろうか。
「五つのガキと喧嘩するな」
「いや、こいつが……」
「五つじゃぞ」
「……はい」
勝った。
俺が笑うと、宗一郎さんが睨んできた。
大人げない。
「さて」
爺さんが俺を見る。
「改めて名乗っておこうかの」
その声からふざけた色が消えた。
「大泉亀伝坊」
大泉、亀伝坊。
「大亀流の当主じゃ」
俺は爺さんを見上げた。
この人が。
「お前さんの名前は?」
「レン」
「それだけか?」
「それだけ」
「家名は?」
「ないよ」
「親は」
「知らない」
「生まれは」
「それも知らない」
「ふむ」
亀伝坊はそれ以上聞かなかった。
可哀想だとも言わなかった。
大変だったな、とも言わなかった。
ただ一度頷いた。
「ならレン。今日からお前さんはこの大亀流で暮らす」
「うん」
「飯を食いたければ働け」
「……弟子なのに?」
「弟子じゃからじゃ」
異世界に来てまで労働からは逃れられないらしい。
五歳児なんだけど。
「掃除、炊事、薪拾い、水汲み。できることは何でもやれ」
「剣は?」
「その合間じゃな」
「逆じゃない?」
「嫌なら帰ってもよいぞ」
「やる」
「即答か」
「剣を教えてくれるなら」
亀伝坊が少し笑った。
「よかろう」
そして。
「では、立て」
最初に戻った。
◇
「足の裏で地面を掴め」
「無理だろ」
「やれ」
「足の裏に指なんて――」
「あるじゃろ」
「あ、指ってそっち?」
足の指だった。
俺は裸足になっていた。
山の朝は寒い。
地面も冷たい。
「膝を曲げろ」
曲げる。
「曲げすぎじゃ」
伸ばす。
「伸ばしすぎじゃ」
「どっちだよ」
「真ん中じゃ」
「一番難しいやつじゃん」
「腰を落とせ」
落とす。
「尻が出とる」
「五歳児に求めるレベルじゃなくない?」
「口を動かすな」
「質問してるんだけど」
木刀の先で脇腹を小突かれた。
「痛っ」
「肩の力を抜け」
抜く。
「抜きすぎじゃ」
「もう分かんない!」
「考えろ」
剣を振るどころではなかった。
ただ立つ。
それだけ。
しかし、やってみると難しい。
頭。
首。
肩。
背骨。
腰。
膝。
足。
一ヶ所を直せば、別の場所がおかしくなる。
背筋を伸ばせば肩に力が入る。
肩の力を抜けば腰が曲がる。
腰を直せば今度は膝が固まる。
俺の身体なのに、思うように動かない。
いや。
今まで思うように動かしていたつもりになっていただけなのだ。
「宗一郎」
「はい」
「立て」
宗一郎さんが俺の横に立った。
ただ立っている。
それだけだった。
なのに。
「……何か違う」
「何がじゃ?」
「分かんない」
「なら見ろ」
見る。
足。
腰。
肩。
手。
何がおかしい?
いや。
何が俺と違う?
「……力、入ってない?」
「ほう」
亀伝坊の片眉が上がった。
「宗一郎さん、全然力入れてない」
「そう見えるか?」
「うん」
宗一郎さんが少し笑った。
「じゃあ押してみろ」
「いいの?」
「ああ」
両手で腰を押した。
「ふっ!」
動かない。
「……あれ?」
もっと強く。
「ぬぬぬ……!」
「何してんだお前」
「黙ってろ!」
五歳児なりの全力で押す。
まったく動かない。
岩でも押しているみたいだった。
いや。
岩ならまだ滑るかもしれない。
「今度は儂を押してみい」
「爺さんを?」
「誰が爺さんじゃ」
「自分で爺って言ってたじゃん」
「それとこれとは別じゃ」
面倒臭い爺だ。
ともかく。
亀伝坊の腰へ手を当てる。
「いくぞ」
「好きにせい」
押した。
ズルッ。
「うわっ!」
俺が転んだ。
「……何した?」
「何も」
「嘘つけ!」
「押されたから退いただけじゃ」
「退くなよ!」
「なぜじゃ」
「押せって言っただろ!」
「押してみろとは言ったが、受け止めるとは言っておらん」
「屁理屈!」
宗一郎さんが腹を抱えて笑っている。
覚えてろよ。
「では今度こそ」
亀伝坊が立つ。
「押せ」
「今度は逃げない?」
「逃げん」
「本当?」
「しつこいの」
疑いながら押した。
動かない。
宗一郎さん以上だった。
「うぐぐ……!」
どうなってる?
こんな細い爺さんなのに。
俺なんて片手でも吹っ飛ばせそうな身体なのに。
「力とはの」
亀伝坊が言った。
「筋肉だけから生まれるものではない」
その瞬間。
ぐん。
「わっ!?」
押していた俺の身体が前へ吸い込まれた。
亀伝坊が少し腰を引いただけだった。
慌てて足を出す。
転ばない。
よし。
と思った瞬間。
額を指で弾かれた。
「いたっ!」
尻餅をついた。
「地面」
亀伝坊が自分の足を指す。
「膝」
次に膝。
「腰」
腰。
「背」
背骨。
「肩」
肩。
「腕」
最後に手。
「身体とは、一つじゃ」
俺は地面に座ったまま亀伝坊を見る。
「一つ?」
「腕だけで刀を振れば、腕の力しか刀には乗らん」
亀伝坊が落ちていた細い枝を拾う。
「足で地を蹴り」
右足が僅かに動く。
「膝で受け」
腰が回る。
「腰を通し」
肩。
肘。
手首。
枝が。
消えた。
パァン!
「……」
数歩先に生えていた草が、纏めて千切れ飛んだ。
枝で。
ただの枝である。
「すべてを繋げれば、身体すべての力を刃へ乗せられる」
前世で似た話を聞いたことはある。
野球だって腕だけで投げるわけじゃない。
ボクシングだって腕だけで殴るわけじゃない。
腰を使え。
下半身を使え。
全身を使え。
言葉では知っていた。
でも。
目の前でやられると話が違った。
「……俺にもできる?」
「できる」
「いつ?」
「知らん」
「教える側がそれ言う?」
「お前さん次第じゃからの」
なるほど。
俺は立ち上がった。
「もう一回」
「何をじゃ?」
「立ち方」
亀伝坊が目を細めた。
「さっきの続き」
「剣は振らんぞ?」
「いい」
まず。
立てない奴が。
剣なんて振れるわけがない。
◇
大亀流での生活は、それまでの人生で一番きつかった。
朝。
まだ暗いうちに起きる。
走る。
山を。
「待って! 待ってって!」
「遅えぞ新入り!」
「五歳だぞ!」
「知るか!」
年上の門弟たちについて山道を走る。
当然ついていけない。
転ぶ。
起きる。
また転ぶ。
「はぁ……はぁ……!」
吐きそうになる。
というか三日目には吐いた。
「おえぇ……」
「吐いたら水飲んどけ」
「優しくない……?」
「そのあと続きな」
「鬼かよ……」
走った後は水汲み。
桶は小さいものを用意してもらった。
そこだけは五歳児扱いしてくれた。
ありがたい。
でも往復する回数が他の奴の倍だった。
意味ないだろ。
飯を食う。
美味い。
孤児院より量が多い。
肉も出る。
山菜も出る。
卵もある。
これだけ動けば当然か。
食い終わる。
掃除。
そしてようやく稽古。
「百回」
「分かった」
「ゆっくりじゃ」
「速く振らなくていいの?」
「今のお前が速く振って何になる」
木刀を握る。
構える。
振り下ろす。
一。
足。
膝。
腰。
肩。
腕。
二。
一つにする。
三。
また肩に力が入った。
「違う」
竹の棒が飛んでくる。
肩を叩かれた。
「痛っ」
「そこに力を入れるな」
「入れないと振れない」
「必要な時だけ入れろ」
「難しいよ」
「だから稽古するんじゃろ」
ごもっとも。
十。
二十。
三十。
五十。
腕が重い。
七十。
握力がなくなる。
九十。
手の皮が痛い。
「百……!」
「もう百」
「え?」
「今のは力が抜けとらん」
「数えてたの!?」
「当然じゃ」
鬼だ。
この爺さん間違いなく鬼だ。
◇
それでも。
楽しかった。
苦しい。
痛い。
朝は眠い。
冬でも水は冷たい。
飯の前に薪を割らされる。
年上の門弟にはからかわれる。
でも。
毎日何かが変わった。
昨日できなかった姿勢ができる。
昨日より少し長く走れる。
昨日より木刀が軽く感じる。
足の裏で地面を捉える感覚が、少しだけ分かる。
前世では得られなかったもの。
積み重ね。
努力なんて言葉は嫌いだった。
やればできる。
諦めなければ夢は叶う。
そんなもの。
成功した奴が後から言う綺麗事だと思っていた。
今でも半分くらいそう思っている。
努力したからって報われる保証なんてない。
才能がある奴には勝てないかもしれない。
どれだけ頑張っても駄目なことはある。
でも。
昨日の自分より少しマシになることぐらいは、できるらしい。
それを。
俺は初めて知った。
◇
入門から三ヶ月。
俺は初めて、大亀流の技を見せてもらった。
場所は裏山だった。
「今日は素振りしないの?」
「せん」
「走るのは?」
「もうしたじゃろ」
「じゃあ何するの」
「見せてやろうと思っての」
亀伝坊の後について歩く。
宗一郎さんもいた。
他にも門弟が数人。
少し開けた場所へ出た。
そこには。
丸太が立っていた。
太い。
俺の胴体より遥かに太い。
「宗一郎」
「はい」
宗一郎さんが前へ出る。
腰の刀を抜いた。
初めて見る。
宗一郎さんの本物の構え。
空気が変わった。
俺は息を止めた。
「よく見ておけ、レン」
「うん」
「大亀流には五つの根幹がある」
五つ。
「雷」
宗一郎さんが腰を落とす。
「火」
刀を持つ腕。
「空」
呼吸。
「水」
視線。
「土」
足。
「五つをもって、五剣」
宗一郎さんが動いた。
いや。
消えた。
「――雷電型」
次の瞬間。
丸太の前にいる。
カッ、カッ、カァン!
三つ。
音がした。
丸太に三本の傷。
一歩。
たった一歩の侵入から。
三段。
俺の目ではギリギリ追えた。
いや。
本当に追えたのか?
「……今の」
胸が鳴っている。
「速……」
宗一郎さんが戻る。
「五剣ノ一、雷電型第一式――《落雷》」
亀伝坊が言う。
「電光石火の迅さを旨とする型じゃ」
迅さ。
その一言が、妙に胸に残った。
「次」
別の門弟が出る。
でかい男だ。
刀を片手で振り被る。
空いた手を持ち手側の肘裏へ。
何を。
パンッ!
肘を弾いた。
刀が。
落ちた。
違う。
振り下ろされたのか。
ドンッ!
そのまま鞭のようにしならせ振り下ろされた斬撃により丸太が真っ二つに裂けた。
「……は?」
「焔燃型第一式――《火柱》」
俺は口を開けた。
木が刀であんな風になるのか。
「力を刃へ叩き込む、五剣ノ二」
「俺もやりたい」
「まだ無理じゃ」
「なんで」
「腕折れるぞ」
「……じゃあいい」
骨折は嫌だ。
次。
細身の男。
自然体。
構えてすらいない。
宗一郎さんが木刀で打ち込む。
「危な――」
消えた。
まただ。
いや。
今度は速いわけじゃない。
身体を回した。
ただ、それだけ。
なのに宗一郎さんの木刀が空を切る。
男はありえないほど近い場所へ移動していた。
「虚空型第一式――《影縫》」
五剣ノ三。
全身を脱力し、余った力を身体の回転へ使う。
通常なら踏み込めない間合いへ入る。
通常なら避けられない場所から逃げる。
「……気持ち悪い動き」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
男が苦笑した。
次は4つ目の技だろう。
上段から振り下ろされた刀を、途中で握りが変わる。
軌道が変わった。
「水龍型第一式――《逆鱗》」
「今、刀曲がった?」
「曲がっておらん」
「じゃあなんで」
「握りを替えた」
「振ってる途中で?」
「そうじゃ」
「そんなのあり?」
「あるから見せとる」
滅茶苦茶だ。
最後。
土公型。
宗一郎さんと別の男が刀を打ち合わせる。
カンッ!
刀が触れた瞬間。
男の刀が回った。
宗一郎さんの木刀が大きく弾かれる。
「《荒神》」
五剣ノ五。
敵の武器そのものを打ち、崩し、破壊する。
俺は黙っていた。
言葉が出なかった。
今まで剣術と言えば。
構える。
振る。
突く。
受ける。
せいぜいそんなものだと思っていた。
違った。
大亀流は。
身体を使っていた。
足。
膝。
腰。
肩。
肘。
手首。
指。
呼吸。
重心。
脱力。
回転。
全部。
人間の身体に存在するものを全部使って、人を斬ろうとしている。
「……すげえ」
気づけば声が出ていた。
亀伝坊を見る。
「俺もこれ全部覚えるの?」
「覚える」
「いつから?」
「明日」
「明日!?」
「嫌か?」
「やる!」
即答だった。
五つ。
雷。
火。
空。
水。
土。
全部覚えたい。
全部使いたい。
胸が熱い。
「ただし」
亀伝坊が指を一本立てた。
「一式だけじゃ」
「一式?」
「五剣には、それぞれ三つの段階がある」
三つ。
「一式を修め」
「うん」
「二式を修め」
「うん」
「最後に三式へ至る」
「じゃあ十五個?」
「そうなるの」
十五。
俺は頭の中で数える。
たった十五。
いや。
さっきの技を見る限り、たぶん一個覚えるだけでも死ぬほど大変だ。
でも。
「全部覚えた奴いる?」
亀伝坊が黙った。
ほんの少しだけ。
笑ったように見えた。
「いる」
「強い?」
「ホッホッ、強いぞ」
「亀じいより?」
「誰が亀じいじゃ!」
「じゃあ亀伝坊さん」
「……まあよい」
変な爺さんだな、でも亀じいの方がしっくりくるから、亀じいでいいや。
「で、強いの?」
「強いよ」
答えたのは宗一郎さんだった。
いつもの軽い声ではなかった。
少し。
遠くを見るような顔をしていた。
「化け物みてえにな」
「ふうん」
会ってみたい。
その時は単純にそう思った。
十五の技を全部覚えた人間。
どんな動きをするんだろう。
どれくらい速い?
どれくらい強い?
「レン」
「なに?」
「お前さんはどれが気に入った」
亀伝坊が聞いた。
五つ。
考える必要なんてなかった。
「最初の」
「雷電かの」
「うん」
あれがいい。
一瞬で間合いを詰めた。
目で追えないほど速く。
相手が気づいた時には、もう斬られている。
「一番速かった」
「……そうか」
亀伝坊が俺の脚を見る。
次に腰。
肩。
目。
何かを測るように。
「宗一郎」
「はい」
「この子、どう見る」
「足は悪くないです」
「うむ」
「反応も。昨日、石投げてみましたけど全部避けたんで」
「お前、昨日石投げてたの!?」
「小石だ、小石」
「当たったら痛いだろ!」
「避けただろ」
「そういう問題じゃない!」
こいつ本当に大人か。
亀伝坊は俺たちを無視している。
「目は?」
「いいですね」
「身体は軽い」
「はい」
「力は?」
「五歳です」
「ホッホッ、じゃろうな」
なんだ。
勝手に人を品評して。
「何?」
亀伝坊が俺を見る。
「レン」
「うん」
「雷電型は迅さを求める」
「さっき聞いた」
「ただ足が速ければよいのではない」
「……違うの?」
「違う」
亀伝坊が俺の額を指で押した。
「相手より早く見る」
目。
胸を押す。
「早く感じる」
心。
肩。
腰。
足。
「早く動く」
そして。
「早く斬る」
亀伝坊の指が離れる。
「すべて揃って初めて、迅いという」
俺は自分の手を見る。
「できるかな」
「知らん」
「またそれ?」
「じゃが」
亀伝坊が笑った。
「向いとるかもしれんの」
その一言。
たぶん俺は。
相当嬉しかったのだと思う。
「じゃあ明日から雷電型?」
「阿呆」
竹の棒が頭に落ちた。
「痛っ!」
「五つ全部じゃ」
「え?」
「雷電だけ教えると思ったか?」
「だって向いてるって」
「向いているものだけやって何になる」
「得意技を伸ばす?」
「十年早い」
「十年も!?」
「大亀流の剣士は、まず五剣すべての一式を身につける」
雷だけじゃない。
火。
空。
水。
土。
「何故?」
「いずれ分かる」
「今教えてよ」
「自分で考えろ」
またそれだ。
この流派。
説明が足りない。
でも。
嫌いじゃなかった。
◇
翌日。
五剣の修行が始まった。
まず雷電。
奇妙な構え。
間合いへの侵入。
相手の反応を見てから繋ぐ壱、弐、参。
「違う!」
転ぶ。
次。
焔燃。
《火柱》。
「腕で振るな!」
「昨日腕で振る技って言ってなかった!?」
「言っとらん!」
肘が痛い。
次。
虚空。
《影縫》。
脱力。
「力を抜け!」
「抜いてる!」
「抜けとらん!」
「これ以上抜いたら倒れる!」
「なら倒れろ!」
本当に倒れた。
水龍。
《逆鱗》。
「握りを替えろ!」
「刀落ちた!」
「拾え!」
土公。
《荒神》。
「回せ!」
「手首痛い!」
「無駄な力が入っとるからじゃ!」
「五歳にやらせる技じゃないだろこれ!」
「口動かす暇があるなら身体動かせ!」
夕方。
「……死ぬ」
俺は道場の床に大の字になっていた。
指一本動かしたくない。
全身が痛い。
手には豆。
足にも豆。
肩も腰も痛い。
「どうじゃ」
亀伝坊が覗き込む。
「……何が」
「大亀流」
俺は天井を見る。
思っていたより。
ずっと難しい。
自分には才能があるのかもしれない。
そんな期待もあった。
転生者だ。
前世の記憶もある。
何か特別でもいいじゃないか。
でも。
現実は。
雷電型では転び。
火柱では腕を痛め。
影縫では足が絡まり。
逆鱗では木刀を落とし。
荒神では手首を捻った。
酷い。
才能以前の問題だ。
「……全然できない」
「当たり前じゃ」
「向いてるかもしれないって言ったじゃん」
「一日で技を使える奴がおるか」
「いない?」
「おったら気味が悪いわ」
そういうものか。
少し安心した。
「明日も同じ?」
「明日は今日より多い」
「増えるの!?」
「当然じゃ」
「鬼!」
「明後日はもっと増えるぞ」
「悪魔!」
「十年後はもっとじゃ」
「そこまでには逃げてるかも」
「そうか」
亀伝坊は笑った。
「ホッホッ、逃げたければ逃げればよい」
あっさり言う。
「門は閉じておらん」
俺は顔だけ動かして、外を見る。
道場の門。
その向こうには山道がある。
下れば町へ戻れる。
孤児院に帰ることだってできる。
「ただし」
亀伝坊が俺の横に座る。
「強くなりたければ、明日も刀を握れ」
それだけだった。
強制しないし、逃げてもいいし、辞めてもいい。
だからこそ、決めるのは俺だった。
前世の俺は何度も辞めた。
面倒だから、才能がないから。
恥をかきたくないから。
上手くいかないから。
理由なんて、いくらでも作れた。
でも、今は。
目を閉じると、浮かんでくる。
宗一郎さんの雷電型。
一歩。
そして三つの斬撃。
見えなかった。
格好よかった。
俺も。
あそこまで行きたい。
「……明日」
「ん?」
「何時から?」
「日の出前じゃ」
「早すぎる」
「嫌なら寝とれ」
「起こして」
「ホッ、自分で起きろ」
「五歳児には優しくしろよ」
「お前さん、都合が悪くなると五歳になるの」
「実際五歳だよ」
亀伝坊が笑う。
俺も少し笑った。
◇
翌朝。
空はまだ暗かった。
身体中が痛かった。
起きたくなかった。
布団は暖かい。
外は寒い。
あと少し。
もう少しだけ。
寝てもいいんじゃないか。
誰も怒らない。
亀伝坊も、嫌なら寝ていろと言った。
だから。
「……よし」
起きた。
痛む身体を動かす。
服を着る。
木刀を持つ。
外に出る。
寒い。
息が白い。
道場の庭には。
亀伝坊がいた。
「遅いのう」
「まだ日の出前だろ」
「儂より遅い」
「爺さんは朝早いんだよ」
「誰が爺さんじゃ!」
いつものやり取り。
俺は庭の中央へ立つ。
足。
膝。
腰。
背。
肩。
昨日教わった通り。
いや、昨日より少しだけ上手くなろうと。
「……どう?」
亀伝坊が俺を見る。
「まだ突っ立っとるだけじゃな」
「厳しくない?」
「じゃが」
少し間があった。
「昨日よりはマシじゃの」
そうか。
なら、今日は昨日よりマシ。
明日は今日よりマシになればいい。
「亀伝坊さん」
「なんじゃ」
「雷電からやろう」
「何故じゃ」
「一番好きだから」
「五つ全部やるぞ」
「分かってる」
でも最初は雷がいい。
俺は木刀を握りしめる。
この日から俺の日常は飯を食って、働いて、眠って。
そして、剣を振ることになった。
雨の日も雪の日も。
手の皮が剥がれても。
足から血が出ても。
刀を握ったし。
雷を追った。
炎を知った。
虚ろを歩いた。
水を追い。
土を踏んだ。
そして数年後。
山の外から大亀流を訪れた武芸者たちは、この庭で一人の子供と向き合うことになる。
九歳になった俺と。
――だが、それはもう少し先の話だ。