タルミナ秘文録《ゼルダの伝説 時のプレリュード》 作:北条 ゆう(いすわーる)
湿った腐葉土の臭いと、獣の死臭に似た淀んだ空気が、
《迷いの森》。ハイラル王国のいかなる法も、威光も届かぬ、歪んだ森の迷宮。
「はぁ、はぁ、……クソ……!」
四十路も中頃の中年男性。
彼は、もはや普段の上品な笑顔の仮面を維持する余裕もなく、醜く顔を歪め、泥にまみれていた。背負った巨大な荷物の中身が、彼の歩みに合わせてガタガタと不吉な音を立てる。巨大な背負カバンの中に詰め込まれた、古今東西の奇怪なお面たちが、暗闇の中で主人の無様な敗走を嘲笑っているかのようだった。
彼はお面屋。《しあわせのお面屋》。
ハイラル城下町のきらびやかな表通りや、カカリコ村の素朴な民家を巡っては、言葉巧みに「幸運を呼ぶお面」「女神の祝福が宿る木彫り」などと騙り、耳の長い《名誉ハイリア人》気取りの俗物や、格差社会にしがみつこうとする中産階級の不安を
一口で言って、詐欺師。
「ここは一体、どこなんだ?!」
いつも通りハイラル王都の家々を回り訪問販売をしていたはずが、気づけば深い森の中を歩いていた。
全く理解出来ない状況だ。
いくら地図を見ても、ハイラル王都近郊にこのような深い森など存在していないはずなのだ。
『ケケケ……ケケケケケケ!』
突如、頭上から降ってきたのは、子供のようでありながら、どこか狂気を
「……ッ!? 誰だ、そこにいるのは!」
お面屋は足を止め、周囲の巨木を見上げた。ねじくれた木々の枝が、まるで生者を捕らえようとする《生ける
『クク、あははは! 迷子、みーつけた。あはッ、珍しいー! おじさんの迷子だ!』
姿は見えない。だが、声音に宿る圧倒的な敵意と、底知れぬ怨嗟の色にお面屋の総毛が逆立った。
「ま、待ってください、私はただの旅の商人です! 敵ではありません! 君のような聡明な少年には、最高の品を……」
お面屋が持ち前の、人を煙に巻く詐欺師の口調を
――ヒュッ
冷たい風を切り裂くような、短い音が空間を走った。
「ぎゃああああっ!?」
見れば、泥に汚れたズボンを貫通し、足に吹き矢が深く突き刺さっていた。矢の周囲の布地が、
足の自由を奪われたお面屋は、背中の重い荷物の重さにバランスを崩し、無様に前のめりになって地面へと転倒した。顔面から粘ついた泥へ突っ込み、激しく咳き込む。
「がはっ、ゲホッ! う、動かん、足が……!」
お面屋は必死に
『やあ』
だがその彼の視界に、一人の小柄な影が滑り降りてきた。
枯れた木の皮を継ぎはぎしたような肉体。大きなオレンジ色の帽子。その奥で、ランタンのように怪しく光る一対の瞳。それは、かつてこの森で息絶えた少年のなれの果て。
《小鬼スタルキッド》。
スタルキッドは、手にした吹き矢の筒を
『どうしたの、おじさん? 綺麗な服が、泥で汚れちゃってるよ』
その声を聞いた瞬間、お面屋の脳裏に、詐欺師としての生存本能が火を噴いた。まだ口は動く。これまで数多の修羅場を、この弁舌だけで切り抜けてきたのだ。
「ま、待ってください……聡明な少年よ」
相手が人間であろうがなかろうが、話が出来るのであれば、欲を刺激し、言葉で
お面屋は、泥まみれの顔に、これ以上ないほど卑屈で、しかし親しみやすい《営業用の笑み》を貼り付けた。
「あなたを見て一目で気づきました。いやはや、あなたは素晴らしい少年だ! 君はこの森の王だ。ハイラルの
スタルキッドの動きが止まる。お面屋は「手応えあり」と確信し、さらに言葉をまくし立てた。声を震わせ、同情を引くように。
「私は、あの薄汚いハイラル城下町で、ハイリア人の
『……あ』
「この中には、世界を変える力を持つ秘宝が眠っています。信じなさい……信じなさい……これらをすべてを君に差し上げましょう! 私を助ける代わりに、この秘宝を手にすれば――」
『ァァァァァァァアアアアッ!!』
だが、お面屋の算段は、致命的なまでに間違っていた。
彼が紡いだ言葉の数々、
「ぁ、あ――」
お面屋が弁明の言葉を口にするよりも早く。
スタルキッドは、猛烈な速度で新たな吹き矢を筒へと
――ヒュッ!!
風切り音。
それは片足をかばいながら、半身を起きあげていたお面屋の胸の真ん中を、正確に射抜いた。
「が、ふっ……!?」
言葉が、血の泡となって口から
胸に突き刺さった矢から、心臓へと直接、絶望的な冷気が流れ込んでいくのが分かった。
「(なぜだ……私は、私は《しあわせのお面屋》……相手が望む言葉を……一番欲しがる言葉を……)」
言葉は紡がれない。
肺が使えなくなり、酸素を求めて
お面屋の詐欺師としてのプライドは、霧の彼方へと消え去っていく。
――静寂が戻る。
ただスタルキッドの呼吸音だけが、霧の奥へと吸い込まれていく。
足元には、先ほどまで
見開かれたその瞳は、すでに空の色を映すこともなく、ただ
『……ふぅ、う……けけっ』
スタルキッドの、薄気味悪い笑い声。
首を小さく傾げ、死体の胸に突き刺さった吹き矢を
迷いの森に侵入した《大人》を狩る。
『大人たちは、この深い緑の森の結界を侵し、汚す。だから、排除しなければならない』。
それがこの森の怪異となった彼に与えられた、本能に近い役割であり《仕事》だった。
『おじさん、何か面白いもの、持ってるかな……?』
そして、狩りの後には、ささやかな楽しみが待っている。
『何があるかな、何があるかな?』
スタルキッドは死体から巨大な背負いカバンをはぎ取り、泥の地面に置いた。
細く、枯れ木のようになった指先で、カサ、カサ、と音を立てて荷物を漁り始める。
『つまんない……全部、つまんないや』
中から出てくるのは、どれもこれも不気味に歪んだ顔のお面ばかりだった。泣き顔、怒り顔、あるいは滑稽に笑う道化の顔。ハイラルの俗物どもを騙すために小悪党が集めた、まがい物の数々。
期待外れの玩具を放り出すように、スタルキッドはお面を次から次へと泥の上へ投げ捨てていく。
だが、その指がカバンの最奥、何重もの古びた布で厳重に包まれた《何か》に触れた、その時だった。
――ドクン。
指先から、文字通り皮膚を突き抜けて、心臓へと直接響くような拍動が伝わってきた。
『……え?』
スタルキッドの動きが止まる。
どこからか、細く、しかし抗いがたい声が聞こえるような気がした。
それは彼の名前を呼ぶような、あるいは、ずっと待ち焦がれていた《友》が闇の向こうから手招きしているような、甘く怪しい誘惑だった。
【おいで……ここだよ。ボクを、見て】
吸い寄せられるように、スタルキッドは包み布を
現れ出たのは、一際異彩を放つ、ハートの形をした大きな仮面だった。
禍々しい原色が複雑に入り乱れた文様。そして何より、その中央で不気味に
お面屋の死体から漂う死臭すらも
『あ……あ……』
その美しさに、スタルキッドは息を
どうしても目が離せない。
このお面は、他のどれとも違う。これは、自分と同じだ。世界から拒絶され、孤独の底で、ずっと誰かに見つけてもらえるのを待っていた、可哀想な仲間だ――
魅入られたように、スタルキッドは両手でその仮面を持ち上げた。
お面の感触。それは吸い付くように、彼の小さな両手に馴染んだ。抗う術など、最初から無かった。彼はただ、引き寄せられるままに、その異形の仮面を、自らの顔へと押し当てた。
「あ、が……ッ!?!?!?」
そして仮面をはめた瞬間、彼の精神の奥底、昏い深海よりも深く沈められ、
「ぅ、ぁ、うあああああああああっ!!!!」
スタルキッドは頭を抱え、泥の上を転がり回った。
脳裏に光景が、色彩が、音が、匂いが、濁流となって押し寄せてくる。
・あとがき
初めまして、あるいはこんにちは。作者の北条ゆうです。
ムジュラの仮面の前日
次回からは本編となります!
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それでは、またお会い出来ることを願って。