白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~ 作:ポオツマス亭
星暦八七五年九月。
ベレリアント戦争が勃発する、およそ一年前のことだ。
私は、キャメロット連合王国海軍大佐の身分と、数通の外交文書が入った鞄を持ち、エルフの国、エルフィンド王国最大の軍港・ファルマリアの地を踏んだ。
――駐在武官として。
キャメロットの海運会社アヴァロン・マリーン・ラインが所有する最新鋭の蒸気客船「アルガンティック」が、ファルマリアの長大な防波堤をくぐり、穏やかな内港へと滑り込んでいく。夏が終わり、荒海から吹き付ける風はひどく鋭かった。
肌に触れる空気は、確実に秋の訪れを告げている。甲板を洗う潮の匂いに混じって、どこか遠くの針葉樹林が放つ青臭い香りが鼻腔をくすぐった。
私は一等客室デッキの左舷側手すりに両手をかけ、海軍士官用の黒い外套の襟を立てながら、目の前に広がるエルフィンド海軍の心臓部を凝視していた。
港外の錨地には、大小様々な海軍艦艇が居並んでいた。そのほとんどが、かつてエルフィンド海軍が、特使であった父の協力を得て発注した艦艇であり、その中にあって、異質なまでの気品を放つ二隻の巨艦が錨を下ろしていた。
鋼鉄の巨躯であるはずのその二隻は、まるで湖面に浮かぶ水鳥のような美しい佇まいを見せている。
――
我が祖国に発注されたそれらの艦影は、中央部に重厚な装甲要塞を構え、その周囲を瀟洒な木造の上部構造物で飾っていた。流麗なクリッパー型の艦首と、高くそびえる二本のマスト。背後に控える白大理石色の街並みの中で、異様なほどの存在感を放っている。
煤煙で汚れることを拒むかのように上部構造物は純白に、船体は深い海色に塗られ――まるで鏡のように磨き上げられていた。
その艦首で冷たい風に翻っているのは、エルフィンド王国の誇り高き象徴――青と白の二色旗。そして、艦尾には同色だが、燕尾型の
奇妙な感慨が、私の胸を去来する。
なぜならその二隻の竜骨を据え、装甲板を張り、鋲を打ち込み、巨大な蒸気機関と大砲を据え付けたのは、他でもない我が祖国の造船所だったからだ。
霧の国で産声を上げた鋼鉄の水鳥たちが、今は世界の果てのようなエルフの平和に呆けた軍港で、異国の旗を掲げて眠っている。キャメロットの高度な技術力と外交的打算の結晶が、そこにはあった。
私は上着のポケットから使い慣れた海軍仕様の真鍮製単眼鏡を取り出し、静かにリョースタへと視線を合わせた。
レンズが切り取る円い視界の向こう、客船がその巨大な舷側をかすめるように進むにつれ、甲板に見事なまでに整列させられた水兵たちの白い制服を、私は克明に捉えていた。その足元の甲板は、遠目にも一点の塵もなく掃き清められているのが分かった。
――やはり、私の直感は正しい。
私は内心で冷ややかな評定を下していた。ドクトリンが古い。あれでは動く要塞、いや、ただの豪華な浮き砲台だ。
視線をそのまま、磨き上げられた司令艦橋のバルコニーへと滑らせた。そこに、細身の白銀の軍服をまとった二人の士官の姿があった。
そのうちの一人は、凛とした立ち姿と、風に遊ぶ
エレオノーラ・メルリンド大尉……いや、あれから二十年だ。今は少佐――
かつて十歳から十三歳までの三年間、異国の地で孤独だった私の手を引き、海に生きる者の真髄を悪戯っぽく教えてくれた、年の離れた美しい『お姉さん』だった人。
その傍らで、いささかの隙もない冷徹な威厳を放ち、港内を見下ろしているもう一人の女性士官――彼女の師であり、この至高の装甲艦の一隻を任される艦長、ミリエル・カランシア大佐の姿もあった。
エルフィンド海軍が誇る俊英たちがそろい踏みするその光景は、人間を寄せ付けぬほどに完成された、一枚の絵画のようであった。
もし、いま――近年、我が国の強欲な資本家や造船所が技術を流し込み、エルフたちが「魔人種の国」と蔑むオルクセン王国が猛烈な勢いで整備している、あの近代海軍がこの港に押し寄せてきたら、どうなるか。
オルクセンのオークたちは、野蛮という偏見とは裏腹に、恐ろしいほどの合理主義と貪欲さでキャメロットの海軍戦術を吸収し、独自の進化を遂げつつある。彼らは美しさのために軍艦を磨きはしない。ただ、敵を最も効率的に撃沈するためだけに鋼鉄の牙を研いでいる。
祖国キャメロットが送り出した鉄の戦闘艦が、エルフの伝統としがらみに縛られたまま、オークの冷酷な化学と砲火によって引き裂かれる日がくるのだろうか。
キャメロット製の兵器が、この美しい瑠璃色の海で代理戦争を演じる――その光景を想像しただけで、私の唇には自嘲気味な笑みが浮かんだ。
美しいエルフィンドの住人たちは、まだ気づいていない。自分たちが抱く傲慢な絶対平和の夢が、どれほど薄い氷の上に成り立っているかを。そして、その氷を叩き割るための鉄槌が、すぐそこまで迫っていることを。
「……さて、女王陛下の目としての仕事を始めるとしよう」
誰に聞かせるでもない言葉を風に逃がし、私は手すりから手を離した。
客船が完全に接岸し、重い金属音とともにタラップが下ろされる。
軍帽の目庇(まびさし)に施された金刺繍を軽く揺らし、私はそれを深くかぶり直して居住まいを正した。胸に飾られた勲章のリボンが、秋の陽光に照らされる。
私は最優先の案内を受け、堂々とタラップを降り、港湾の象徴のようにそびえる入国審査所へと向かった。
白く、巨大な神殿のようなその建物の内部は、外気よりもさらに数度気温が低いように感じられた。床に敷き詰められた灰白色のタイルが、私の革製短靴の音を冷酷に跳ね返す。
並ぶ者とてない、閑散としたカウンターの向こう。
そこに、エルフィンド海軍の通常装に身を包んだ、一人の白エルフの少尉が座っていた。
その姿を一瞥しただけで、神経がちりちりと震えるような、あるいは逆に凍り付くような奇妙な感覚に囚われた。それは男としての情欲などではなく、猛吹雪の雪山で完璧な結晶を宿した氷壁を仰ぎ見たときのような、本能的な畏怖に近い。
怖いほどに、美しかった。
豊かに波打つ
エルフの象徴である尖った耳が、その髪の隙間から滑らかな曲線を描いて覗いていた。透き通るような肌は、あまりにも白く、血が通っているとは思えないほどに均一だ。
何より、軍服に身を包んだ私を正面から射抜いたその双眸――冬の凍てついた湖の底を思わせる、冷徹な
彼女にとって、目の前に立つ人間は、道端の石ころや、あるいは数十年で朽ち果てる家畜の類と大差ないのだろう。
「……次。書類を出しなさい」
彼女の声が室内に響いた。それはガラスの鈴を硬い床に落としたかのように清冽で、そして一切の感情の起伏を排除した硬さを持っていた。
「……貴方のような短命種が、何用でファルマリアへ? ――早く書類を。私の時間を無駄にしないで」
私は歩みを進め、大理石のカウンターへと滑り込ませるようにして、キャメロット連合王国のパスポートと、外務省の発行した駐在武官の信任状を差し出した。
彼女は長くとがった、美しく磨き抜かれた爪の指先でそれを引き寄せた。ページをめくる、微かな紙の擦れる音さえもが、この空間では妙に冷たく、重々しく聞こえる。
「キャメロット連合王国王立海軍、大佐――アーサー・リチャード・タリンナリー。駐在武官としての信任状ね……」
彼女は外交特権を示す書類に目を落としたまま、その美しい唇の端を、微かに、皮肉な曲線へとゆがめた。
「星歴八四二年生まれね。人間が三十を過ぎれば肉体の衰えが始まる頃でしょう。五大洋に君臨する大帝国のエリート軍人が、わざわざ我が国でその貴重で短い余生を浪費するつもり?」
挨拶の代わりに放たれたのは、長命種である白エルフによる、残酷なまでの時間的な優位の誇示だった。数百年、あるいは千年の時を生きる彼女たちから見れば、人間の大佐が重ねてきたキャリアも、築き上げてきた勲章も、ほんの一瞬のまたたき、あるいは泡沫に過ぎない。
並みの人間であれば、その傲慢極まる態度に気圧されるか、あるいは屈辱に頬を染めているところだろう。
私は、その極上の氷像に向けて、
「ご指摘の通り、マイ・レディ。我々人間の時間は、貴方のように無限ではない。実に儚く、瞬く間に過ぎ去ってしまう。だが、だからこそ――私たちは、今この瞬間に出会った『比類なき美』に対して、命を削るような熱量で深く、激しく見惚れることができる。永遠を生きる貴方たちの退屈な目には、おそらく決して映ることのない輝きが、私たちの刹那にはある」
彼女の、機械のような正確に書類を検分していた指先が、ほんの一瞬、完全に停止した。
薄青の瞳が、初めて紙面から離れ、真っ直ぐに私の顔を捕らえる。
その視線は、私の胸元に飾られた貴族の身分を示す飾章と、海軍の勲章をなぞり、それから私の目元にある笑い皺へと移動し、値踏みするように、じっくりと、冷酷に走った。
彼女の瞳の奥で、傲慢な無関心が、微かな「不快」と、それを上回る「奇妙な好奇」へと変質していくのが分かった。
人間の分際で、白エルフである自分を「マイ・レディ」と呼び、臆することもなく洗練された秋波を送り、あまつさえその精神の優位を揺るがそうとしたのだから。
「……口の減らない短命種」
彼女は吐き捨てるように言うと、重厚な真鍮製のスタンプを掴み、旅券のページへ――まるで『汚物』を排除するかのように、容赦なく叩きつけた。
ガシャン、と鋭い金属音が静寂を破る。それは我が国に対する宣戦布告にも似た、冷酷な響きだった。
「ようこそ、エルフィンドへ、タリンナリー大佐。精々、我が国の美しさと気高さに心を焼き尽くされませんよう、お気をつけて。貴方の短い一生の思い出が『灰』にならぬうちに進言いたします……早めにご帰国なされることです」
彼女が告げたその言葉は、冷徹な警告か皮肉のつもりだったのだろうか。
しかし、先ほど港外で見た
「ご忠告、痛切に胸に刻みましょう。……もっとも、私の目は、すでにこの国の美しさという洗礼に眩んでいるようですがね」
私は差し出された彼女の手からゆっくりとパスポートを受け取った。
「お名前を伺っても?」
彼女は私から視線をそらし、忌々しげに手元の書類へペンを走らせながら、冷徹な声を落とした。
「その名を知ることは、貴方の短い一生の余録に過ぎないでしょう。……エルフィンド海軍、ルチア・セレンディス少尉。せいぜい、その短い記憶に留めておかれることです」
背を向け、入国審査所の重い扉へと歩き出す。去り際、彼女のあの凍てついた薄青の視線が、自分の背中にナイフのように突き刺さったままであることを、私は確信していた。
(……なるほど、これが白エルフの傲慢か。だが、私の胸の奥にある二十年前の白銀の面影――あの『エリー』の瞳もまた、これほどまでに冷たく、そして苛烈だっただろうか。いや、私を『可愛い子爵様』と呼んで優しく抱きしめてくれたあのお姉さんの瞳の奥にも、これと同じ人間への憐みと蔑視が、あの頃から確かに潜んでいたのだ。私はただ、その美しさに目を眩まされていただけなのかもしれない)
星歴八七五年九月。
美しい
私と……忘れえぬ