白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~ 作:ポオツマス亭
ファルマリア駅の寒々しい石造りのプラットフォームが滑るように後方へと去っていく。
キャメロット製の蒸気機関車に牽かれた列車は、大きく右へとカーブを描きながら、静かにファルマリアの市街地を脱しつつあった。
磨き上げられた最高級のマホガニー材。そこに、流麗な植物模様の様式をあしらった精緻な
天井を飾るドーム型の飾り窓や、艶消しの乳白色ガラスに神話の妖精が浮き彫りにされた、祖国の高名なガラス工芸家が手がけたレリーフ、そして青銅のブラケットランプが、温かみのある琥珀色の光を投げかけている。
その光が、ふかふかとした厚手のペルシャ風絨毯を踏みしめる私の足音を優しく吸い込み、深紅のベルベットを張った重厚なソファを艶やかに照らし出していた。
我が祖国キャメロットの鉄道会社が、現地に駐在する自国の外交官向けに仕立てたという、この特注の
乗車してようやく気がついたが、私は二十三年前に初めてこの国へ足を踏み入れた際――まだ十歳だった頃――も、父に連れられてこの客車に揺られたのだった。
当時は、母を失った心痛と極度の緊張、そして――自分の周りを取り囲んでいた、美しくも冷ややかな
キャメロットの利権をねじ込もうとする父の政治的野心に、ただの「愛らしい飾り」として同伴させられていた少年にとって、その旅はあまりに重苦しかった。
だが、その三年に及ぶ滞在の始まりの日、エルフィンド海軍側の連絡将校として、
そして、二十年前に十三歳となった私に、あの人が私の告白に冷たい別れを告げた日のことだけは、鮮明に覚えている。
海風は先ほどよりもいっそう冷たく、機関車が吐き出す重たい煤煙の匂いを交えながら、私の頬を容赦なく叩いていく。
この冷涼な刺激が、私の張り詰めた神経には心地よかった。
外套の内ポケットへ手を差し入れ、先ほど滑り込ませたばかりの極薄の紙片の感触を、手袋越しではない、生の指先で確かめる。
その薄紙を、私は手慣れた手つきでシガーケースの革張りの二重底へと滑り込ませ、完全に隠蔽した。
プラットフォームに溢れていた見送りの群衆――その中に、我々に向けられた『監視の目』が紛れていなかったか、脳裏で乗車時の光景を逆再生するように検証する。
エンジャートン領事からあの紙片を受け取った瞬間、立ち込める蒸気のカーテンは完璧だったはずだ。だが、万が一にでも、あの刹那の接触を捉えた「
私は微かな皮膚の粟立ちを覚えながら、隠蔽を終えたシガーケースを引き出した。
アヴァンデール子爵家の紋章が銀細工で施された、見事な一品だ。
中から細巻きの葉巻を一本引き抜き、指先でその乾燥具合を確かめてから、マッチの火を点けた。
細い先端が赤く爆ぜ、独特の濃厚な香りと共に、青白い紫煙が冷たい風の中に溶けていく。
南センチュリースター産の葉巻ほど美味い葉巻はないな。
ガラス扉の向こう、サロンの車内でゆったりと腰かけているプレストン一等書記官は、もっぱら上品な嗅ぎ煙草を好んでいるようだが、実戦を潜り抜けてきた私にとっては、この細巻きが最も心を落ち着かせる薬だった。
列車はまだ速度を上げていない。
車輪がレールを叩く不規則な駆動音が、足元から鈍く伝わってくる。
遮るもののない展望デッキからは、先ほど離れたばかりのファルマリア港が一望できた。
瑠璃色の港外にぽつんと浮かぶ、二隻の美しい装甲艦。
磨き上げられた「
私は軍帽の目庇に軽く指先を触れ、遠ざかる二隻に向けて、音のない別れの挨拶を送った。
(なに、心配いらないさ、
だが、感傷に浸る時間は長く続かなかった。
港に流れ込む川沿いに視線を動かしてみる。
カーブを曲がり終えた列車の左右には、ファルマリアの軍港を包み込むようにして険しい稜線が連なっていた。
だが、その天然の障壁たる稜線には、奇妙な「隙間」が存在していた。
この壁が、鉄路と川が並行して通る場所だけ、ぷっつりと途切れて欠けているのだ。
しかも、防御陣地などはなにも用意されていない。
(……全く隙だらけじゃないか)
誰に聞かせるわけでもない、乾いた落胆の言葉が口から漏れた。
要塞防衛、あるいは都市防衛のドクトリンにおいて、防壁に「隙間」を設けるなど言語道断だ。
あえて敵の侵入ルートをそこ一点に限定させ、十字砲火で一網打尽にするための「キルゾーン(誘引地帯)」として設計されているならば、まだ理解できる。
だが、この構成を見る限り、そんな高度な思想は微塵も感じられない。
ただ、単純に、川と鉄路の横を、無防備なまま素通しにしているだけだった。
専門外の私でさえ秒単位の観察で気づくほどの、これは戦術以前の常識の欠如だった。
私は海軍士官であり、陸上戦に関しては一歩引いた立場をとるのが礼儀だ。だが、敵地を訪れた軍人がまず行うべきは、退路の確保と敵の脆弱性の見極めである。
おそらくは、あのエスタリンドをはじめとする宮廷の文官たちが、「美しい市街の景観を汚すな」と予算を削り、あるいは「鉄路という
もしオルクセンが……。
――いや、オルクセン国軍の合理主義的な参謀本部なら、この無防備な鉄路と街道から突入してファルマリアの背後を数時間で遮断して、港町を占領するだろう。
敵がその「美しさの隙間」から、鉄の牙を剥いて容易に攻め込んでくることなど、彼女らの平穏な頭脳には想定すらされていないのだ。神聖なる国境線が蹂躙されるなどという悪夢はどこにも存在しないのだろう。
ガタゴトと、車輪の駆動音が一段と高くなり、列車の速度が上がっていく。
不合理極まる地形はみるみるうちに後方へと流れ去り、景色の右側には鬱蒼とした森と次の緩やかな稜線が、左側にはどこまでも青々とした丘陵が広がり始めた。
どこか、キャメロットの父の領地に似た、のどかで、美しく、それゆえに感傷的な丘陵の景色。
――こんなところで戦争など起きて欲しくないものだ。
だが、その願いはかなうことがなかった。ベレリアント戦争で、この丘陵は……エルフィンド陸軍の血に染まった。
「大佐殿。そろそろ、お食事の時間になります」
背後で、
シトリン・アルヴェーン大尉が、軍帽を端正にかぶり直した姿でデッキに半身を覗かせ、硬質で涼やかな声をかけてきたところだった。
吹き込む煤煙の向こう、逆光の中で揺れる
──彼女が、一瞬だけ『エリー』に見えた。
私の心臓が、二十年前、十三歳の別れの間際の少年のそれのように不意に跳ね上がる。
だが、すぐに、冷徹な理性がその甘美な幻影を容赦なく引き剥がしていた。
同じ
――だが、振り返る刹那、私は脳裏の戦略地図を瞬時に畳み、冷徹に地形を測量していた「猟犬の瞳」に、旅愁を帯びた優しい「
「ええ、今戻りますよ。大尉」
私は穏やかに微笑んだ。彼女たちが「神聖にして不可侵」と信じて疑わないエルフィンドの平原が目の前を通り過ぎていく。
最後のギリギリまで飲んで短くなった葉巻の吸い殻をデッキの端にある吸い殻入れに仕舞った。
(港湾外縁の防備陣地を放置しているのは、エルフィンド陸軍の怠慢か、あるいは宮廷の無知か。……ティリアンに着いたら、我が公使館の陸軍駐在武官ペンドルトン中佐に伝えるべきか)
(いや、あのプライドばかり高い陸軍屋には、この地形の価値など理解できまい。たとえ、できたとしても相手は傲慢な
(それとも、ファラサール大将との会見時に、閣下に進言してみるか?……いや、よそう――私の役割は、この美しい箱庭に鉄槌が下るのを、特等席で見届けることなのだから)
プロの軍人としての無意味な職業病と、この哀れなエルフの国が辿るであろう美しい破滅への冷酷な期待を胸の内で混ぜ合わせ、私は「
「お待たせしましたね」
私はアルヴェーン大尉に向けて優雅に声をかけると、これから提供されるであろう、エルフたちのいささか物足りない「清らかなる食事」に胃袋を慣らす覚悟を決め、暖かく、そして冷酷な欺瞞に満ちた
(続く)