白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~ 作:ポオツマス亭
シトリン・アルヴェーン大尉はガラス越しに、男の横顔をじっと見ていた。
細巻きの葉巻を指先で弄び、青白い紫煙を冷たい海風へと逃がしている姿。
キャメロットの王立海軍大佐アーサー・タリンナリー、駐エルフィンド公使館付駐在武官。
完璧な
その男が今、無防備な背中を晒して展望デッキに立っている。
「……まもなく、お食事をお運びいたします」
背後からかけられた小声に、私は微かに肩を揺らした。振り返れば、エルフィンド国鉄の制服に身を包んだ客室係の白エルフの娘が、緊張した面持ちで控えている。
「そう。大佐にも伝えてあげて、大尉」
サロンの深紅のソファにゆったりと腰かけたまま、ヴァレリア・エスタリンド二等書記官が、形の良い顎を少しだけ揺らして命令してきた。
その指先は、まるで自分の飼い犬に指示するかのように尊大で、いかにも宮廷文官らしい傲慢さに満ちている。
(相変わらず、偉そうに……)
胸の内で小さく毒づく。
氏族の格も宮廷での地位も彼女の方が上だが、私は海軍最高司令部附の将校だ。文官の召使ではない。
しかし、私はその不快感を人形めいた無表情の裏に押し隠し、「承知いたしました、書記官殿」とだけ冷涼に返した。
私はベレリアント半島の西側にある小さな白銀樹の生まれだった。格は高かったのだが、なぜか新しい子が生まれないと嘆かれていた樹だった。その嘆きの中で生まれたのが私だった。
だが、氏族の期待に反して、私は故郷よりも『海』を求めた。
なぜかはわからかったが、私は『土』が嫌いだった。
氏族の格で言えば文官以上になれるのにと氏族中から反対されたが、私はそれらすべてを振り切って海軍の門を叩いた。
そして、今や海軍大尉。そして、最高司令部附のエリート士官。自分の選んだ道に一片の後悔もない。
再びガラス越しに外へ視線を戻す。
タリンナリー大佐は、南方の葉巻を美味そうに吸い込んでいる。
(あの若い大佐は……閣下たちが仰っていた通りの御方なのだろうか)
◇
『――シトリン。今度来訪するキャメロットの駐在武官は、
首都ティリアンに建てられた赤レンガの重厚な建造物、そこに海軍省と海軍最高司令部があった。執務机の向こうで、組んだ手に顎を乗せた海軍最高司令官トゥイリン・ファラサール大将が、鋭くもどこか慈愛に満ちた声で私を呼んだ。
その大将閣下の傍らには、もう一人、冷徹な理知を漂わせる傑物が控えていた。
セレスティン・ヴァロワール中将。
二十年前、海軍省軍務局長としてキャメロットとの間で装甲艦「
ファラサール大将が全幅の信頼を置く腹心であり、現在は海軍次官。次期海軍大臣とも目される、まさに実務的な海軍の最高実力者の一人だった。
『大将閣下のおっしゃる通りです、大尉』
ヴァロワール中将は、知的な細い眼鏡の奥の瞳を冷ややかに光らせ、手元のファイルをそっと閉じた。
『先代のタリンナリー伯爵は、傲慢なキャメロットの宮廷にあって、例外的に我が国の伝統と調和を尊重してくれた。その息子であるタリンナリー大佐も、幼少期を我が国で過ごし、その精神を分かち合っているはずです』
中将は私の前に静かに歩み寄ると、軍服の襟元を正し、低い声で言葉を継いだ。
『先の交渉で、宮廷の文官どもがどれほど我が国の防衛予算を削ろうとしたか、貴方も知っているでしょう。……アルヴェーン大尉、貴方は最高司令部の名において、大佐が我が国に失望せぬよう、海軍の誇りをもって彼に寄り添いなさい。交渉のすべては、かつて伯爵を信頼したように、今回も海軍省である私が主導します』
大将閣下も、中将の言葉に深く肯く。
『シトリン、海軍の威信にかけて、大佐には我が国の忠実な理解者であり続けてもらわねばなりません。貴女を最高司令部附の
『はっ。海軍の誇りにかけて、必ずや大佐の心を繋ぎ止めてみせます』
私は直立不動で、偉大な二人の将官に敬礼を捧げたのだった。
◇
伝統を打ち破り、この国に「近代海軍」という新たな盾をもたらした傑物の二人が、そこまで目をかける
エスタリンドのような宮廷の干渉から大佐を守り、我が海軍の熱烈な支持者として、無事に首都ティリアンへとお連れする。それが私の使命だ。
大将閣下たちの期待を裏切るわけにはいかない。
私は軍帽の位置を微かに直し、ガラス扉のノブへと手をかけ、完璧な歩調でデッキへの扉を押し開けた。
「大佐殿、そろそろ、お食事の時間になります」
吹き込む風の中、私の声は朝日にさえずる小鳥のように澄み切って清冽に響いたはずだった。逆光の中で、私の
その刹那、振り返ったタリンナリー大佐の瞳が、奇妙なほど大きく見開かれ、その奥で何かが激しく跳ねるのを、私は確かに捉えていた。
彼の端正な顔立ちがほんの一瞬だけ、劇的に硬直する。
(……おや)
私は軍帽の目庇の下で、薄青の瞳をわずかに細めた。
それは、見慣れた短命しゅ……人間の反応だった。
私たちの比類なき美しさを前にして、言葉を失い、魂を奪われた人間たちが一様に見せる、あの滑稽なほどに純粋な衝撃。
大佐の完璧な紳士の仮面の下で、彼の鼓動が不自然に早まったのを、鋭い私の瞳は見逃さなかった。
(やはり、この男も……人間の男なのだわ)
どれほど軍服を着こなし、名門の血を引いていようとも、私たちの前に立てばただの無防備な少年に戻ってしまう。
ましてや、私の髪は、彼が「海の英雄」と仰ぐファラサール大将と同じ銀髪。
自らを海軍へと駆り立てた憧れの象徴と、目の前で風に揺れる私の姿が、彼の脳裏で重なったのかもしれない。
その可愛らしい動揺が、私の中の白エルフとしての、そして案内役としての自尊心をひどく甘美に満たしていく。
私はあえて気づかないふりをして、小首を傾げ、さらに声を和らげた。
「……大佐?」
大佐はすぐに視線を戻し、いつもの穏やかで余裕に満ちた微笑みをその唇に堪え直した。
「……ええ、今戻りますよ。大尉」
驚くべき自己制御力だった。一瞬の動揺を完全に覆い隠し、彼は短くなった葉巻の吸殻をデッキの端の吸殻入れへと静かに収める。
私は冷涼な微笑を返し、サロンへのガラス扉をそっと手で支えた。
心の中では、勝利を確信していた。
ヴァロワール中将の言った通りだ。この男は
彼が
「お待たせしましたね」
完璧な仮面の笑みを浮かべて私の横を通り過ぎるタリンナリー大佐。
その背中を見送りながら、私は確信していた。
この従順で愛らしい人間の大佐は、間違いなく我がエルフィンド海軍の、最も忠実な『賛美者』になってくれるのだと――。
あとがき(1)
シトリン・アルヴェーン大尉は作中で触れた通り、名門氏族の出身という設定です。しかし、「土よりも海が好き」という少々変わり者の性格をしています。
実は、エスタリンド二等書記官とアルヴェーン大尉の二人は、当初のプロットには存在していませんでした。ただの「随行する白エルフ」として登場させたに過ぎなかったのです。
ですが、タリンナリー大佐と絡んでいくうちに、最新話では大変な事態に巻き込まれるなど、今後の物語にとっても欠かせないキャラクターへと成長していきました。
エスタリンド二等書記官ともども、彼女らの今後の活躍にご期待ください。
『オルクセン王国史』をぜひご一読いただければ幸いです。我が王万歳!