白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~   作:ポオツマス亭

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――「次」など、もう二度と訪れないというのに。 ????


星暦八七五年九月(13) 幕間《引き上げられた女》

 

星暦八七三(・・・・・)年某月

 

 夜の静寂が支配する、白エルフ(アールブ)族最大の聖地にあるエレントリ館の奥深く。

 

 月光すら届かない冷涼な回廊の片隅で、微かな衣擦れの音と、押し殺した女たちの声が響いた。

 

「いいか、これを使え」

 

 闇の中から差し出されたのは、豪奢なエレントリ館の装飾にはおよそ不釣り合いな、冷たい金属光沢をもつ小さな遮光瓶だった。

 

「キャメロットから輸入した本物だ」

 

「これを……」

 

 下層氏族出身の、若き白エルフ(アールブ)の女の指先が、恐怖と引き換えに受け取った小瓶の冷たさに震える。

 

「そうだ。お茶とお菓子、両方に入れろ」

 

 影の主は冷酷に命じる。

 

「あの『慈母』は疑いもしないわ」

 

「ですが……」

 

 女がなおも言いかけると、冷徹な念押しが重なる。

 

「だが、どちらか片方だけでは、万が一の奇跡が起きぬとも限らん。確実に、だ」

 

「……そこまで、なさらねばならないのですか」

 

 女の問いに、闇の中の女は不愉快そうに鼻を鳴らした。その双眸に、激しい蔑みが宿る。

 

「陛下は近頃、どうかしておいでだ」

 

 闇の中の女たちの一人は、唇を侮蔑の形に歪めた。

 

「くだらぬ海軍などという金食い虫に血道を上げ、この国の予算を貪らせている。陸の伝統ある防壁を蔑ろにし、宮廷予算まで投じさせて、野蛮な鉄の船でベレリアの海を穢すなど、正気の沙汰ではないわ」

 

 その声には、女王が進める海防政策への、激しい憎悪が燃え盛っていた。

 

「このままではエルフィンドの伝統が、誇り高い白エルフ(アールブ)の血が歪められる。これ以上の迷走は断じて許されん」

 

 切り捨てるような言葉が響く。女は小瓶を胸元へ抱きしめ、息を詰めた。

 

「それで、私は……」

 

 途切れがちな声を絞り出す。

 

「やり遂げた後、私の氏族たちはどうなるのですか」

 

 闇の奥から、冷たい笑みを湛えた顏が近づく。

 

 優しく、しかし呪いのように強い力が、女の怯える肩を掴んだ。

 

「安心しろ」

 

 囁きは、甘い毒のように彼女の尖り耳の耳朶を打つ。

 

「我らは我らのために働いたものを厚遇する。名門氏族の長には話がつけてある。お前はその養子となり、輝かしい地位を得るのだ」

 

 獲物を品定めするような細い指先が、彼女の髪をそっと撫でた。

 

「お前の氏族たちも引き上げて、政府や宮廷の官吏などの地位に取り立ててやる」

 

 約束される輝かしい未来。

 

「そして、お前は、このエレントリ館の主を替える、大いなる功労者となるのだ」

 

 氏族の未来。そのあまりにも重い天秤が、この白エルフ(アールブ)の女の心を決定的に傾けた。

 

 今のような没落した生活から抜け出せるのなら、魂を売ることなど容易かった。

 

「……分かりました」

 

 彼女は小さく息を吐き、頭を垂れた。

 

「すべて、仰せのままに」

 

「ふふっ、賢い女だ」

 

 肩の力がふっと離れる。

 

「さあ行け。女王陛下が、お前の極上の給仕を待っておられるぞ」

 

 女は音もなく翻り、女王の寝室へと続く廊下へ歩き出す。

 

 その瞳からはすでに光が消え、ただ氏族の栄光という妄執だけが、彼女を冷徹に突き動かしていた。

 

 

 月光が、エレントリ館の誇る繊細なレースのカーテンを透かし、女王の寝室へと冷たい絹のような光を落としていた。

 

 部屋を満たすのは、白檀にも似た古い香木と、張り詰めた静寂。

 

 銀のトレイを捧げ持つ近侍部の服を着た女の指先は、手袋ごしでさえ分かるほどに強張っていた。

 

 先ほど、あの回廊の暗闇で手渡された金属の小瓶――その中身はすでに、女王陛下愛用の白磁のカップを満たす琥珀色の紅茶と、美しく焼き上げられた小さい菓子の表へと消えている。

 

 胸の奥で早鐘を打つ心臓の音を抑えながら、女は静かに歩みを進め、寝台の傍らで深く頭を垂れた。

 

「――女王陛下、寝つけのお茶とお菓子を」

 

 声が震えていなかったのは、奇跡というほかなかった。

 

 豪奢な天蓋の奥から、衣擦れの柔らかな音とともに、この国の頂点に立つ女性が姿を現した。

 

 夜着を纏ってなお衰えぬ、その凛とした気高さと、すべてを包み込むような静謐な佇まい。

 

 女王は女の差し出したトレイへ優美に視線を落とすと、まるで春の陽だまりのような微笑を浮かべた。

 

「あら、ありがとう。……あなたは、見かけない顔ね。新しい娘かしら」

 

「はい。氏族の許しをいただき、今日から近侍部に上がりました」

 

 女は床を見つめたまま、消え入りそうな声で答えた。

 

 罪悪感が喉を焼き、その場に平服してすべてを告白してしまいたい衝動に駆られる。

 

 しかし、背後にいるこの国(エルフィンド)の暗闇が、彼女の自由を奪っていた。

 

 女王は何も疑うことなく、白く細い指先でカップを取り、静かにその唇を潤した。

 

 そして、添えられた菓子を小さく割り、口へと運ぶ。

 

 陶器と銀器が触れ合う幽かな音だけが、広い寝室に響いていた。

 

「そう……美味しいわね、このお菓子。とても優しい味がするわ」

 

 女王は満足そうに目を細め、再び女へとその眼差しを向けた。

 

 そこにあったのは、冷徹な君主の瞳ではない。

 

 自分を裏切るはずのない我が子を見守るような、あまりにも無垢で、慈愛に満ちた「慈母の微笑み」だった。

 

 その気高くも温かい光に射すくめられた瞬間、女の胸の奥で、何かが決定的に壊れ、そして永遠に囚われた。

 

 自分が今、この世界で最も美しく気高い存在の命を、その手で摘み取ろうとしている恐怖と、その美しさに魂の全てを奪われていく狂おしいほどの神経の昂りが、彼女の全身を支配していった。

 

「ただ、残念ね。奥歯に少し寂しいわ」

 

 女王は小さく空になった皿を見つめ、悪戯っぽく、それでいて酷く愛らしそうに唇をすごめた。

 

「奥歯に……寂しい、ですか……」

 

「ええ、エルフの王族だけに伝わる古い言葉よ。知っているのは私だけ……あと、あなたね」

 

 食卓の量がほんの少し物足りないことを示す、あまりにも雅な古代エルフ語の[[rb:諺 > ことわざ]]だと、その高貴な唇から零れ落ちる。それゆえに女の脳髄へ一生消えない呪いの言葉として刻まれた。

 

「そのような言い回しが……」

 

 女の喉から、かすれた声が辛うじて漏れた。

 

 びくりと強張った指先が、トレイの端を握りしめていた。

 

 冷や汗が背中を伝う。

 

 だが、目の前の女王は、ただ優しく、まるで我が子の小さな悪戯を許すかのような瞳で彼女を見つめている。

 

 キャメロット製の恐ろしい秘薬が含まれていることなど、微塵も疑っていない。

 

 ただ純粋に、目の前の「新しい娘」が運んできてくれた心づくしのお菓子を喜び、もっと食べたいと微笑んでいるのだ。

 

 その瞬間、女の視界から、頼み込んできた影たちの顔も、氏族の栄光という大義名分も、すべてが吹き飛んだ。

 

(ああ、このお方は……なんて美しいのだろう)

 

 心を奪われた。これまでこの国で下層氏族の娘として生きてきて、これほどまでに全き「愛」に満ちた眼差しを向けられたことなど、ただの一度もなかった。

 

 世界で最も気高く、最も尊い存在の命の灯火を、自らの手で消そうとしている――その圧倒的な現実が、女の脳髄を、神経のすべてを、最高潮の昂ぶりで満たしていく。

 

「……申し訳、ございません。次は……次はもっと、お口に合うように、たくさん、たくさん、ご用意いたしますから……」

 

 女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちそうになる。

 

 それを必死に堪え、彼女は深く頭を垂れた。

 

――「次」など、もう二度と訪れないというのに。

 

 女王は寝台の贅沢なクッションへと身を沈め、天蓋の影へとその顔をうずめた。

 

「少し眠くなったわ、あとで下げに来てちょうだい」

 

 その言葉が、この地上における気高き女王の最後の命令となった。

 

「はい、陛下。失礼します」

 

 女は深く頭を垂れたまま、一歩、また一歩と、女王のベッドから遠ざかっていく。

 

 彼女の視界には、すでにシーツの白さも、豪奢な天蓋も映っていなかった。

 

 ただ、脳裏に焼き付いて離れないのは、先ほど自分に向けられた「慈母のような微笑み」と、優しく響いた「奥歯に寂しい」という言葉だけ。

 

 ギィ……と、重厚な木製の扉が、信じられないほど静かに閉まる。

 

 廊下へ出た瞬間、張り詰めていた緊張の糸が激しくはじけ飛び、女の膝はガタガタと崩れ落ちた。

 

 冷たい石畳みに手をつき、荒い呼吸を繰り返す。

 

 胸の奥が、これまでに味わったことのないほどの熱さと、狂おしいほどの自己嫌悪で焼き尽くされそうだった。

 

 自分が犯した罪の重さに、神経のすべてが悲鳴を上げている。

 

 だが同時に、彼女の魂は、あの暗闇のベッドサイドで女王に心を奪われたあの瞬間に、完全に固定されてしまっていた。

 

 部屋の奥からは、もう何も聞こえない。

 

 衣服の擦れる音も、寝返りを打つ気配すらも。

 

 キャメロットから密輸された未知の秘薬は、女王の望み通り、苦痛のない「少し眠い」だけの穏やかな眠りを与え、そしてそのまま、彼女の呼吸を音もなく、確実に止めていく。

 

 

 

 

 コンコン、と規律正しいノックの音が、朝の光が満ち始めたエレントリ館の静けさを揺らした。

 

「陛下、おはようございます。お下げに参りました」

 

 入室の許可を待つわずかな沈黙の後、重厚な木製の扉が静かに開かれる。

 

 現れたのは、長年宮廷の秩序を守り続けてきた老練な白エルフ(アールブ)の女近侍部長だった。

 

 彼女の佇まいには、何があっても取り乱すことのない矜持と、洗練された宮廷人の作法が染み付いている。

 

 カーテンの隙間から差し込む純白の陽光が、豪華な天蓋付きの寝台を厳かに照らし出していた。

 

 そこには、前夜の温かな余韻をそのまま残したかのように、穏やかな微笑を湛えて横たわる女王の姿があった。

 

 苦しんだ様子など微塵もない。

 

 まるで、あまりにも心地よい夢の続きを見ているかのような、全き平穏がそこには満ちていた。

 

 近侍部長は息を潜め、枕元の小机に置かれた白磁のカップと皿へと静かに手を伸ばした。

 

「陛下……」

 

 いつものように、朝の覚醒を促すために低く通る声で、呼びかける。

 

 だが、帰ってくるはずの慈愛に満ちた声はない。

 

 [[rb:白金 > プラチナブロンド]]の髪はシーツの上に美しく広がっているが、その胸元は、呼吸による静かな上下すら止まっていた。

 

 ただ深く眠っていらっしゃるだけではないか――そう思わせるほどに、その姿は気高く、神聖でさえあった。

 

 しかし、異変を察した近侍部長の指先が、恐る恐るその手首へと触れた瞬間、痛烈な現実が彼女の全身を貫いた。

 

 朝の光とは裏腹に、その肌はすでに、言い訳のしようのないほど冷たく凍り付いていたのだ。

 

「陛下……!?」

 

 その絶対的な拒絶の冷たさに、近侍部長の脳髄は白く染まった。

 

 長年培ってきた宮廷人としての誇りも、優雅な身のこなしも、その一瞬で木端微塵に吹き飛んだ。

 

 指先から力が失われ、捧げ持とうとした受け皿とカップが床へと滑り落ちる。

 

 ガシャン、と、かつてないほど鋭く硬質な破裂音が静謐な寝室に響き渡り、最高級の女王陛下御愛用のカップが割れ、白磁の破片が、飛び散った琥珀色の水滴とともに床一面へ派手に弾け飛んだ。

 

 近侍部長は自身の足元を見ることなく、ただ本能的な恐怖と絶望に突き動かされるようにして、回廊へと走り出した。

 

 足元をもつれさせながら、なりふり構わず扉を押し開ける。

 

「だれか!だれかぁぁぁぁ!!」

 

 水を打ったように静まり返ったエレントリ館の回廊に、絹を引き裂くような絶叫が木霊した。

 

 それは、古い王国の終わりを告げる、あまりにも悲痛な号砲のようでもあった。

 

「女王陛下が崩御された!陛下がお亡くなりに!!ああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 狂乱に満ちたその叫び声は、朝霧の立ち込める宮殿の隅々にまで波及し、眠っていた廷臣たちを呼び覚ました。

 

 

 

 

 女王の死の翌日。

 

 エレントリ館の最奥に位置する、重厚な拒絶の扉に閉ざされた秘密会議の広間。

 

 磨き抜かれた大理石の床に、跪かされているのは、長年宮廷に尽くしてきたあの近侍部長だった。

 

 かつての威厳は見る影もなく、涙と寝不足で塗れた顔を震わせながら、彼女は円卓に居並ぶエルフィンドの重鎮たる女たちを必死に見上げる。

 

「お待ちください……!私は毎朝の決まった時刻に、寸分の狂いもなく陛下のお部屋に上がったのです!遅れてなど、決して……!それに、あの夜、陛下のお側には見慣れぬ娘が確かに――」

 

「黙りなさい」

 

 その必死の告発を、銀の髪を厳格に結い上げた議長が、氷の刃のような声で遮った。その冷ややかな双眸には、一筋の同情も宿っていない。

 

「見慣れぬ娘など、最初から宮廷の登録簿には存在しない。お前は悲しみのあまり狂乱し、ありもしない幻を見たのだ、近侍部長」

 

「そんな……そんなはずはございません!あの割れた白磁の破片を運んだのは――」

 

 近侍部長がなおも真実を叫ぼうとした瞬間、円卓の中央に座る宮廷会議の議長が、感情の一切を削ぎ落した、絶対的な権威の声で宣告を重ねた。

 

「エルフィンドの至高であり、我らの大いなる母たる女王陛下を、孤独のまま崩御させた罪は万死に値する。これらすべては、お前自身の傲慢と不手際が招いた結果だ。……だが、光栄に思うがよい。陛下があの世で寂しがらぬよう、すぐにお側へ行かせてやるのだからな」

 

 その言葉の本質――口封じのための即決処刑を理解した瞬間、近侍部長の顔から血の気が完全に引いた。

 

「そんな……理不尽な……!私はただ、忠義を!お慈悲を!!」

 

 左右から音もなく現れた胸甲の近衛騎兵たちによって、両腕を掴まれ、引きずられいく。近侍部長が床を搔きむしる爪の音と、悲痛な絶叫が冷たい石造りの廊下に響き渡るが、無情にも重い扉が閉められた。

 

パンッ――!

 

 乾いた鋭い銃声が激しく響き渡り、引き裂かれるような悲鳴はぷつりと途切れた。

 

 広間に冷酷な静寂が戻る。

 

「これで、黄金樹の『次の果実』を迎える準備は整いましたね」

 

 議長が満足げに呟き、広間の入り口へと視線を向けた。

 

 重々しい扉が再び微かに開き、影の中から、一人の新たな衣服を纏った元近侍部の女が、音もなく滑り込むように姿を現した。

 

 その指先はまだ微かに震えていたが、その瞳には、あの夜の女王の微笑が消えぬ呪縛として焼き付いている。

 

 深く頭を垂れ、次の命令をまつ――沈黙の共犯者となったその白エルフ(アールブ)の女。

 

 議長は極めて甘美な、しかし底知れぬ支配の笑みを向けながら、名門氏族の長たちとの約束通り、養子縁組によって新たな地位と名を与えられた女の名を呼んだ。

 

「――さあ、前へ出なさい。……ヴァレリア……ヴァレリア・エスタリンド」

 

 

(第14話へ続く)




あとがき(3)

原作でも、先代女王の死因については言及されていません。

そのため今回は、歴史的な事件をいくつか繋ぎ合わせる形で、先代女王の死について表現しました。

実行犯はエルフィンド外務省の二等書記官ヴァレリア・エスタリンドですが、これは彼女の本名ではありません。彼女はこの功績によって名門氏族の養子となった際、名前を改めているのです。

物語が進めば、いずれ彼女の本名が明かされる時が来るかもしれません。

「奥歯が寂しい」、あるいは「奥歯が可哀そう」————この言葉こそが、アーサーと彼女の間を繋ぐ鍵となります。

この出来事をきっかけに、あれほど毛嫌いしていた短命種に対する嫌悪感を完全に忘れ去る彼女。

これから彼女は歴史を揺るがす大事件に巻き込まれていくわけですが……それは<開戦編>の序盤で描かれることになるでしょう。まだまだ先のお話です。

なにせ、オルクセンと開戦するのは約400日後なのですから……。
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