白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~ 作:ポオツマス亭
純白の磁器のカップから立ち上る、最高級ダージリンの温かな湯気。
ダージリンの甘い香りが、車内のピリついた緊張をそっとときほぐしていく。
時計の針は午後二時を少し回ったところだった。
窓外では列車の速度が徐々に落ち始め、金属と金属が擦れ合う微かな軋みの音が響いていた。
間もなく、首都ティリアンへ直通する本線へと合流する要衝、ネヴラス駅へと滑り込むところだ。
その時だった。
サロンの重厚な引き戸が、静かに開いた。
現れたのは、深青色のエルフィンド国鉄の制服に身を包んだ、白エルフの女性車掌だった。
彼女は恐縮した面持ちで室内を見渡してから、対面に座るエスタリンドの側に近寄った。
「二等書記官殿。少々、トラブルがございまして……」
エスタリンドはカップを置き、形の良い眉をわずかに寄せた。
「トラブル?」
「はい。差し支えなければ、少々お時間を……」
エスタリンドは冷ややかな視線を一瞬車掌に向けた後、洗練された動作で立ち上がった。
「失礼するわ、大佐、一等書記官。すぐに戻ります」
「ええ、どうぞご遠慮なく」
私は穏やかに頷くと、彼女は優雅な仕草で裾を払い、車掌と共に特別車を出て行った。
扉が閉まり、残されたのは私とプレストン、そして斜め向かいのアルヴェーン大尉の三人となった。
「……どうしたのでしょう?」
「さあ?」
私の隣で、プレストンが短く肩をすくめて応じた。
老外交官は手に持った小さなスプーンを置くと、ニヤリと老獪な笑みを浮かべ、私の方へと視線を滑らせてきた。
「それよりも大佐。先ほどのは何かの皮肉ですか?」
「いえ」
私はカップをソーサーへとそっと戻し、至極すました顔で首を振った。
「ただ単に、食事の量が足りないという意味ですよ」
「ふむ……」
プレストンは意味深に片眉を上げたが、それ以上は追及してこなかった。アルヴェーン大尉も不審そうに私達を見比べていたが、言葉を挟む前に、サロンの外から鋭い声が響き渡った。
「なんですって!ありえないわ、そんな予定外など!」
重い扉越しであってもはっきりと聞こえる。エスタリンドのヒステリックな金切声だった。
大尉がビクッと肩を揺らし、プレストンは楽しそうに目を細める。
どうやら、ティリアンへと続く鉄路で予期せぬ事態が生じたらしい。
廊下からはなおも車掌の平身低頭な申し開きと、エスタリンドの苛立ちに満ちた詰問が漏れ聞こえていたが、やがて車掌に文句を言っても始まらないと悟ったのだろう。
深いため息をつく気配がした。
再びドアが開き、エスタリンドが戻ってきた。
「……お待たせしました」
彼女は自分の席へ戻ると、重々しく腰を下ろした。
「タリンナリー大佐、鉄道でトラブルが起きました」
「何か?」
私は心配そうに身を乗り出し、問いかけた。
「ネヴラス駅よりヴィハネスコウを経由して、ティリアン駅へ向かう予定でしたが……」
エスタリンドはそこで言葉を切り、悔しそうに薄い唇を嚙み締めた。
「……途中のトール峠で、落石事故が起きたようです」
「なるほど。それは災難だ」
私が応じると、彼女は苦渋を呑んだ顔のまま、搾り出すように言葉を継いだ。
「ですので――ディアネンを経由するルートに変更する予定です」
「ほう」
声を漏らしたのは、私の隣で楽しげに片眉を上げたプレストンだった。
私はソーサーへカップを置くと、表情を一切崩さず、エスタリンドの硬直した横顔へ問いを重ねた。
「ディアネン駅では、プラットフォームへ降りられるほどの時間はございますか?書記官殿」
エスタリンドは、内面の苛立ちを力ずくで抑え込むように、胸元で指先を強く固めた。
「……機関車の交換と、進路の切り替えの調整で、三十分ほど停車いたしますわ」
「それは素晴らしい」
私は心底から喜ぶように、穏やかな微笑を深めてみせた。
「長旅の徒然に、御国の美しき街をもう一つ拝見できるとは。災難とはいえ、私にとっては思いがけない幸運ですよ」
「お気楽なことですわね、タリンナリー大佐」
エスタリンドは冷ややかに吐き捨て、香油のしみ込んだハンカチで唇をそっと拭った。
「ディアネンは古くからの軍事的要衝。……予定外の停車など、余計な手続きと不快な埃が増えるだけですわ」
「まあまあ、書記官殿」
プレストンが楽しげに口を挟み、手元で金細工の嗅ぎ煙草入れを弄んでいる。
「天候や自然の気まぐればかりは、宮廷の完璧な『理知』をもってしても御しきれぬものでしょう。……それで、首都への到着はどれほど遅れますのかな?」
「……予定より二時間ほど、遅れる見込みです」
彼女は苦々しげに声を漏らした。
そこへ、斜め向かいのアルヴェーン大尉が、姿勢を正して凛とした声を上げた。
「海軍最高司令部へは、予定の変更をネヴラス駅の電信所からすぐに状況を打電させます」
大尉はシニヨンにしてまとめた白銀の髪を撫でると、私へ向けて頼もしげに[[rb:薄青 > アイスブルー]]の瞳を輝かせた。
「大佐、ご安心ください。ディアネン経由となりましても、大将閣下との謁見は明日の午後ですので問題はありません」
「予定通りでなによりです、大尉」
私は静かに頷き、手元に残った温かなダージリンのカップに視線を落とした。
(トール峠の落石……ただのアクシデントか、それとも――)
窓外ではキィキィと甲高い金属音が響き、ネヴラス駅の、ファルマリアよりもさらに立派なプラットフォームへと列車が滑り込んでいった。
「ここ、ネヴラスでの停車時間は? 書記官殿」
私の問いに、エスタリンドは手元の書類入れを細い指先で苛立ちまぎれに叩きながら、冷ややかな声を落とした。
「……一般客の乗り降りと線路の切り替え、進路の再確認などで十五分ほどですわ。外へ降りるほどの時間はございません」
「なるほど、理解しました」
私は穏やかに頷き、ダージリンのカップをソーサーに収めた。そのままテーブルを離れ、サロンに置かれた豪華なソファーへと腰を下ろした。
――十五分後。
プラットフォームへ降りて足を延ばすには短すぎるか。
エスタリンド書記官とアルヴェーン大尉は、特別車のドア付近でネヴラス駅の白エルフの駅員と何やらやり取りをしている。
おそらく、外務省と海軍最高司令部への電信依頼なのだろう。
(ネヴラスでの電信……か)
私の思考は、特別車の温かな琥珀色の光を離れ、冷酷な盤面の上を滑り出していた。
予定外のルート変更。
ネヴラスはただの田舎町ではない。ファルマリアと首都ティリアンを結ぶ鉄路の要衝であり、広大な機関区と操車場、そして巨大な倉庫群が並び立つ、エルフィンドの物流の心臓部の一つだ。
(トール峠の落石が本当に自然の気まぐれか、あるいは『誰か』が私の足をすくうために仕掛けた舞台装置か……)
「大佐、何か気になる事でも?」
電信の依頼を終えて、先に戻ってきたアルヴェーン大尉が、私の横顔を覗き込むようにして、気遣うような声をかけてきた。
白銀の髪が、窓からの秋の光を浴びて眩しく輝く。
「いいえ。ただ、ネヴラスという街の響きに、少し旅情を誘われただけですよ、大尉」
私は瞬時に「
「なにしろ、思わぬ遠回りは、旅の最高の醍醐味ですからね」
「まあ……大佐はどこまでも前向きでいらっしゃるのね」
大尉は小さく噴き出すと、瞳を細めて私を愛おしむように見つめた。自尊心を甘美にくすぐられた彼女の頬に、柔らかな赤みが差す。
「ネヴラスは
彼女は自分の軍帽が置かれたハットラックへ一度視線を送り、誇らしげに胸を張ってみせた。
「広大な機関区と操車場の整然とした佇まいは、我が国の『理知と秩序』の美しさそのもの。決して貴方を退屈させはいたしませんわ」
大尉は少しだけ身を乗り出し、白手袋の指先をソファーの縁に添えて、秘密を共有するかのように声を低めた。
「……公務の間に機会があれば、いえ、よろしければ私がご案内して差し上げますわ。大佐」
「それは光栄だ。大尉のご案内となれば、最高の思い出になりますよ」
「コホン……」
反対側の窓辺にあるソファーに座っていたプレストンが、金細工の煙草入れをパチンと音を立てて閉じ、老獪な目を細めてこちらを眺めていた。
窓の外では、黒いマントを羽織ったエルフィンド国鉄の駅員たちが、合図旗を手にして慌ただしく走り回るのが見えた。
私はそっと胸ポケットに触れ、シガーケースの二重底に眠る、あの極薄の紙片がなんであるのかを考えていた。
ガタッと重い揺れが走り、甲高い汽笛の音がネヴラス駅のプラットフォームに木霊した。
進路の切り替えを終え、列車がゆったりと走り出すのとほぼ同時に、エスタリンド二等書記官が[[rb:特別車 > サロンカー]]へと戻ってきた。
先ほどの取り乱した様子を力ずくで圧殺し、過剰なまでに冷たく平然を装った声音だった。
「少々、予定外の時間がかかることになりましたので……寝台車のほうでディアネン到着までお休みになられてはいかがですか。係の者がご案内いたします」
彼女は細く白い指先で宮廷服の裾をそっと撫で、私の視線を避けるようにして、サロンに控えていた給仕の白エルフの娘へと顎をしゃくってみせた。
私と言う「恐怖」から距離を置き、疲弊した精神を休めたいという、彼女のむき出しの自衛本能が透けて見えるようだった。
「お気遣い感謝いたします、エスタリンド書記官」
私は優雅に立ち上がり、胸元に手を当てて深く一礼してみせた。
「思いがけぬ長旅となりましたが、お蔭様で最高級の料理と、御国の深い『英知』に触れる素晴らしい時間となることでしょう。では、お言葉に甘えさせていただくとしましょう」
「ええ……ゆっくりとお休みになって」
エスタリンドは人形めいた薄い笑みを張りつかせたまま、短く応じた。
「大佐、ディアネンに到着いたしましたら、お声がけいたしますね」
「ええ、よろしく頼みます、大尉」
私は穏やかに微笑む。横で立ち上がったプレストン一等書記官が、老獪な目を和ませて大尉に一礼した。
「大尉殿、大佐があまりに熱心に街の魅力について語るものだから、少々やきもちを焼いてしまいそうですな」
「まあ……プレストン書記官、冗談をおっしゃらないで」
アルヴェーン大尉は頬を薄く染め、困ったように微笑む。私は「やれやれ」と肩をすくめ、その光景を完璧な紳士の仮面で受け流した。
(……良いアシストだ、プレストン。これなら我らが個室へ向かうことにも、誰も疑念を抱くまい)
「失礼します、大尉」
私はプレストンと二人、
連結部の重厚な防音扉が閉まり、廊下の静寂が私たちを包み込む。
案内役の白エルフの女が一等個室の前で立ち止め、銀色の鍵でドアを開けた
「3号室と4号室が、お二人のお部屋でございます。何かご用がございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
「感謝します。素晴らしい手際だ」
私が鷹揚に微笑んでチップを渡すと、彼女は深々と一礼し、静かな足取りで廊下の奥へと立ち去っていった。
その華奢な背中が完全に角を曲がり、靴音が廊下の奥へ消えるのを待ってから――。
私はプレストンと無言で頷き合い、同時に個室のドアを押し開けた。
重厚なマホガニーの扉を閉め、内側から重い鍵をかける。カチャリという硬質な音が、二人だけの密室を作り上げた。
「……大佐。まずは首尾よくいきましたな」
プレストンは個室の窓際に立ち、カーテンの隙間から廊下の気配を探りながら、老獪な笑みを浮かべた。
「あの白銀の髪の美しい大尉殿……すっかり大佐に熱を上げているご様子だ。ですが、少々、火遊びが過ぎませんか?……彼女を手懐けておられるおつもりか、それとも逆に、あの甘い微笑みに毒されているのですかな?」
「まさか、プレストン殿」
「彼女は海軍の真面目な将校ですよ。……それに、互いに『好意』を演じる方が、仕事がやりやすいというものだ」
「くく……相変わらずお見事なことだ」
私は二重の防音扉となっている寝台個室の堅牢さを確認する。
「ここは壁も分厚い。ここなら、たとえ通路に誰が立っていようとも、我らの囁きまでは漏れまい」
「それは頼もしい」
プレストンは満足そうに喉を鳴らし、それから一転して鋭い眼光をこちらへ向けた。
「もう一度だけ、お聞きしますが……あのアラバスターの如き高慢な宮廷の小娘、エスタリンドが顔色を変えたあの一言だ。一体どんな呪文を吹き込んだのです?」
「だから、ただの我が家の口癖ですよ、プレストン殿」
私は視線だけで廊下の静寂を再確認し、言葉を継ぐ。
「ですが――」
一拍置き、プレストンの目を見据える。
「あの一言で、あの女の仮面の下にある『歪み』がどれほど深いか、よく分かりましたろう?」
「違いありません」
プレストンは満足げに笑みを浮かべ、ドアの方へ歩み寄る。
「実に結構。あのような危うい自尊心を抱えた相手ほど、扱いやすいものはありませんからな。ティリアンでの化かし合いが、俄然楽しみになってまいりました」
老紳士は満足げに笑みを浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。
「ですが、気を引き締めねばなりません。トール峠の落石……ただの事故なら良いのですが」
「ええ。ですが、どちらに転んでも
私は白手袋を脱ぎ、寝台の端に腰を下ろしながら応じた。
「なにせ、ディアネンというこの国の心臓部を、この目で観察できる絶好の機会ですからね」
「違いありません。では、ゆっくりとお休みを。大佐」
プレストンは満足げに笑みを浮かべ、ドアの方へ歩み寄る。
「では、私は自室へ。ディアネンでの『不測の事態』に備えておきましょう」
プレストンは軽く帽子に手を当てると、素早く自室へと消え、静かに鍵をかける音が響いた。
再び施錠された個室の中。
老紳士が退出し、私は一人、静寂の中に取り残された。
午後二時半を回り、昼下がりの柔らかな陽光が重厚なベルベットのカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
客室の明かりを落とすと、琥珀色の光は消え、カーテンの隙間から差し込む午後の秋の日差しと、流れる車窓の影だけが部屋を支配する。
私は室内灯を点けず、薄暗い部屋の静寂の中で上着の内ポケットからシガーケースを取り出した。
二重底から、あの極薄の紙片を引き出す。
ファルマリア駅の蒸気の中で、領事エンジャートンが私の手に握らせた極秘の密書。
斜めから差し込む午後の光にかざすと、そこにはキャメロット外務省および海軍情報部からの連絡だった。首都ティリアンにおけるエルフィンド内部の最新の動向が、微小な暗号文字でびっしりと記されていた。
私の脳裏では、かつてこの国の海で私を抱きしめ、突き放したあの
(……誰も知らない。私の心の中に住まうあの人の深淵を。誰も、この国の崩壊を待つ私の狂気を知らない)
紙片を指先でじっくりとなぞりながら、私の脳裏では冷酷な計算が目まぐるしく回転する。
この個室は防音壁に囲まれている。だが、廊下を歩く誰かの靴音が、不意に我が個室の前で途切れた。
――コン、コン。
静まり返った個室の木製ドアを、硬質なノックの音が叩いた。
その響きには、先ほどの客室乗務員のような遠慮は微塵もなかった。
「……誰だ」
私は密書を即座に袖の中に隠し、部屋の明かりを点ける素振りも見せず、低く問いかけた。
あとがき(5)
この落石事故は、本当に偶然起きたものでした。
ですが、この結果によってアーサーたちは要衝ディアネン駅へと途中停車することになります。その先で何が起こるのかは……どうぞお楽しみに!
さて、今回のあとがきは、私と『オルクセン王国史』との出会いについてです。
2026年6月末のころ、本屋でたまたま漫画版を見かけ、「『オルクセン王国史』? 何処かで聞いたことがあるような……」と思って手に取りました。
そうしたら、なんと野上武志先生が作画を担当されているではありませんか!
私は『萌えよ!戦車学校』や『MC☆あくしず』などで先生のお名前を存じ上げていたので、「試しに読んでみよう」とさっそく買ってみたのです。
「そのあとでなら 私を 喰べてもらおうと 牝として扱ってもらおうと 構わない」
いやー、痺れましたね! 物語の序盤からこの強烈なインパクトです。
そこからはもう、あれよあれよという間にどっぷりとハマり込み、小説、漫画、Web原作を一気に読み漁りました。
中でも特に私の目を引いたのが、『キーファ岬沖海戦』における装甲艦リョースタの活躍でした。まさに私好みのドンピシャな展開で「なんて凄いんだ!」と圧倒されたのはもちろん、何より戦艦に『白鳥=リョースタ』『黒鳥=スヴァルタ』と名付けるネーミングセンスの素晴らしさ! ここに完全に惚れ込んでしまったのです。
そのため、実は一番最初のプロットは「装甲艦リョースタに乗り込んだ一人のキャメロット軍観戦武官」という設定で書き始めました。
しかし前述の通り、「……そもそも何でこいつがここにいるんだ?」という根本的な疑問が湧いてしまい、思考を重ねるうちにこれまたあれよあれよと展開し、最終的には彼がキャメロットからエルフィンドへ入国するところから物語が始まることになりました。
振り返ってみれば、すべての始まりはあの日、本屋で奇跡的に本を手にした瞬間からだったのです。
みなさんも、ぜひ本屋へ足を運んでみてください!
もしかすると、人生を変えてしまうような素晴らしい出会いが待っているかもしれません。