白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~ 作:ポオツマス亭
二人の外交官の男たちがサロンを去り、重厚な連結扉が閉ざされた後――。
ガタゴトと車輪がレールを叩く駆動音が、重厚なペルシャ風絨毯を通して足元から伝わってくる。
列車はネヴラス駅の構内を抜け、ゆっくりと速度を上げ始めていた。
深紅のベルベットソファの上で、ヴァレリア・エスタリンド二等書記官は、ソーサーの上に置かれた磁器のカップをじっと見つめていた。
その白く細い指先は、膝の上で香油の染み込んだハンカチを、白くなりそうなほど強く握りしめている。
「……何かしら」
氷のように冷たい独白が、静まり返った室内にぽつりと落ちた。
「何か、お気に召さないことでもございましたか? エスタリンド殿」
斜め向かいの席から、シトリン・アルヴェーン大尉が声をかけた。
ハットラックに掛けられた自らの軍帽へと一度視線を向けてから、美しい白銀の髪をふわりと揺らし、
「……いいえ」
エスタリンドは即座に顎を引き、完璧な人形の笑みをその端正な顔に貼りつめ直した。
「ただ、予定外の遠回りが決まり、少々頭が痛むだけですわ」
「そうでしょうか」
私はソファの背に背筋を伸ばして腰掛け直すと、探るような視線を隠そうともせず、言葉を重ねた。
「大佐が『奥歯が寂しい』とおっしゃった時、貴女はまるで恐ろしいものでもご覧になったかのようなお顔をされていましたけれど」
チリン、と小さな音が響いた。
エスタリンドがカップを取ろうとした指先が、わずかに揺れて磁器のふちに触れたのだ。
「失礼ね、大尉」
彼女の声音から、一切の温度が消え去った。
「私が不快に感じたのは、人間の男が無骨な表現で我が国の料理に口を挟んだことに対してですわ。……宮廷の品格を解さぬ無知な言動に、少々腹が立ちましたの」
「なるほど」
私はあからさまに納得していない面持ちで、小首を傾げた。
「ですが、タリンナリー大佐は素晴らしいお方です。我が国の歴史と調和を深く敬い、ファラサール閣下への礼節も欠かさない……
「ふん……おめでたいことですわね、海軍は」
エスタリンドは鼻で小さく笑い、冷ややかに窓外の景色へと視線を移した。
「ただの言葉巧みな
「人間に、骨抜き、ですと?」
私の
「大佐の言葉には偽りなどありません。現に、あの若さで大佐の階級に上り詰め、名門伯爵家の血を引く男が、自ら我が国への愛着を語っておられるのです」
「愛着、ね……」
エスタリンドはハンカチでそっと唇を拭い、薄い唇を酷薄な形に歪めた。
「彼らが求めているのは我が国の『資源』と『利権』だけですわ。……貴女方が夢見ているような『新白銀艦隊』の理想ごときに、あの男たちが無償で手を貸すとでもお思い?」
「……我が海軍の防衛政策を、先代女王陛下の『夢』と切り捨てるのですか、外務省は」
私の声が一段と硬質さを増す。
「海防を蔑ろにし、宮殿の改築、庭園の造成や大詩会の開催ばかりに予算を流し込んでいるのは宮廷の文官どもでしょう。先月戻った装甲艦「
「黙りなさい、大尉!」
エスタリンドは静かに、しかし絶対的な階級と氏族の格の違いを突きつけるように、鋭い視線で大尉を射抜いた。
「文官の『理知』があってこそ、この国の平穏は保たれているのです。鉄くずを海に浮かべることが国家の誇りではありませんわ」
「鉄くず……!」
私の手元で、白手袋の拳がぎゅっと握りしめられた。
サロンの中に、刺すような沈黙が流れる。
二人の白エルフの間に横たわる、決して埋まらない深い亀裂――宮廷と海軍の憎悪が、琥珀色の光の中で生々しく浮き彫りになっていた。
ガタリと列車が揺れ、遠くファスリン峠の山影が窓外を流れていく。
エスタリンドは視線を外し、窓ガラスに映る自分の影をじっと見つめた。
その蒼白な額には微かな冷や汗が浮かび、膝の上の書類入れの革を、狂おしいほどの力で引っ掻いているのを私は見逃さなかった。
「少々、頭痛がいたしますの……。ディアネン到着まで、私も個室で休ませていただきますわ」
そう言い残すと、ヴァレリア・エスタリンド二等書記官は、まるで何かに追われるかのように早足で
「……お大事になさってください」
私は冷淡に応じると、窓外の景色へと顔を背けた。
重厚なマホガニーの扉が閉まり、サロンに残されたのは、私――シトリン・アルヴェーン大尉ひとりとなった。
つい先ほどまで四人の視線と意地が交錯していたテーブルには、いまや静寂だけが満ちている。
車輪がレールを叩く不規則な駆動音が、心地よい重低音となって足元から響いていた。
「……大尉殿。何かお飲み物はいかがでしょうか」
静かな声がした。
声の主は、エスタリンドのカップを下げに来ていた、サロンカーに控えていたバーテンダーの白エルフの娘だった。
身分の差を弁え、これまでの会話の最中は影のように気配を消していた彼女が、恐縮した面持ちで下げたカップを乗せたトレーを手に歩み寄ってくる。
「ええ……軽く口を潤すものを一杯」
「かしこまりました。白葡萄の冷えた古酒はいかがでしょう」
私はソファーの背にゆったりと身を預け、白銀の髪を優雅に揺らした。
「いえ、炭酸水に、少しだけ檸檬を絞ってちょうだい」
「かしこまりました」
バーテンダーの女は手際よく銀のトレイを下げ、カウンターで透明なグラスに気泡の弾ける冷たい液体を注ぎ込んでいく。
(それにしても……何だったのかしら、あの取り乱し様は)
私の思考は、先ほど立ち去った宮廷文官の背中に向けられていた。
エスタリンド書記官。
名門氏族の誇りを全身に纏い、我々海軍を「鉄くずを集める野蛮人」と見下していたあの傲慢な女が、たった一言で顔色を無くし、スプーンを落とすほどの動揺を見せた。
『奥歯が寂しい』――。
タリンナリー大佐が何気なく口にした、嘉国の伯爵家に伝わるという妙な言い回し。
食事が少し物足りないという意味の、一見すれば他愛もないユーモアに過ぎない。
だが、エスタリンドの瞳に宿ったのは、単なる不快感や呆れではなかった。
あれは――明確な「恐怖」と「激しい拒絶」の色だった。
(宮廷の文官どもは、我らが想像もつかないような権力闘争や、暗い秘密を抱え込んでいるというけれど……)
まあいい。文官どもの腹の探り合いなど、私には関係のないことだ。
「お待たせいたしました、大尉殿」
バーテンダーの女が、音もなく銀のトレイを差し出した。
グラスの縁で弾ける泡が、琥珀色の室内に涼やかな音を立てている。
「ありがとう」
私は細い指先でグラスを受け取り、一口だけ口に含んだ。清涼な酸味が、喉を爽やかに潤していく。
自分と目が合った瞬間、瞳の奥で情熱を爆発させ、完璧な仮面を硬直させた男。
海の英雄ファラサール大将と同じ髪色を持つ自分に、少年の日の憧れと純粋な熱情を重ね合わせ、魂を奪われた愛らしい短命種。
(あの男は……エスタリンドの秘密を知っているのかしら。……それとも、ただ無自覚に彼女の急所を突いただけなのか……)
もし、知っていてあの一言を放ったのだとしたら――あの穏やかな微笑みの下には、底知れぬ危険が潜んでいることになる。
だが、私は小さく唇を歪め、冷涼な笑みを深めた。
(……いいえ。あれはただの無邪気な一言よ。人間の男が、エルフの宮廷の暗部など知るはずもない)
私自身の自尊心と、白エルフ特有の無意識の傲慢さが、冷徹な思考を甘美に塗りつぶしていく。
あの男は自分に心を囚われている。自分の美しい髪と、軍人としての佇まいに夢中なのだ。
エスタリンドのような宮廷の愚かな女たちが勝手に動揺し、自滅してくれれば、海軍にとってはむしろ都合が良い。交渉の主導権は、完全に我が海軍の手へと転がり込んでくる。
思考を切り替え、私は先ほどまで私の斜め向かいに座っていた人間の男――アーサー・タリンナリー大佐の姿を脳裏に浮かべた。
完璧に仕立てられたキャメロット海軍の軍服。洗練された立ち振る舞い。
そして、展望デッキで私の白銀の髪を目にした際、彼の瞳の奥で弾けたあの劇的な動揺。
(……ふふ)
思い出すだけで、私の胸の奥に甘美な優越感が込み上げてくる。
どれほど冷徹な
私たちの比類なき美しさと、彼が「海の英雄」と仰ぐファラサール大将の面影が重なったあの瞬間、彼は完全に心を奪われてしまった。
だからこそ、私から「街をご案内しましょうか」と声をかけた際、あれほどわかりやすく自尊心を満足させ、瞳を輝かせたのだ。
(実に扱いやすく、愛らしいお方……)
ヴァロワール中将の仰った通りだった。
彼は我が国の、そして我が海軍の最も忠実で情熱的な『賛美者』になってくれる。
彼がこの国に、そして私という案内に心を繋ぎ止められている限り、二番艦「
グラスの氷が、チリンと小さな音を立てた。
「私たちは、ただ栄光ある我が海軍の誇りにかけて、あの大佐を正しく導いて差し上げればいいのよ。……あの男は、我が国の最も忠実な『賛美者』になるのだから」
私は満足そうに微笑み、流れる車窓の景色から車内に視線を移した。
「……あら?」
ふと視線を入口付近へ向けると、真鍮細工のハットラックに、ひとつの品がぽつんと取り残されているのが目に入った。
濃紺の上質な羅紗地に、金糸の細密な刺繍が施された、キャメロット海軍の白い覆いが被せられた軍帽。
―ーアーサーの帽子だった。
部屋へ下がる際、すっかり忘れて置いていってしまったらしい。
私はグラスをテーブルへ置くと、静かな足取りで立ち上がり、ハットラックからその帽子をそっと手にとった。
ずっしりとした心地よい重み。
そこからは、彼が好んで吸っていた南方の細巻き葉巻の、濃厚で香ばしい薫香が微かに漂っていた。
(うっかり屋さんなところも、人間の男らしくて可愛らしいこと)
私は帽子を抱え、フッと口元を和ませた。
そして、すぐに一つの名案が胸に浮かぶ。
ディアネン到着までまだ時間はある。
わざわざ駅に着いてから渡すよりも、今、彼の個室へ届けてあげたらどうだろうか?
『お帽子をお忘れでしたわよ、大佐』と微笑んで差し出せば、彼はどれほど恐縮し、そして私の細やかな気配りに感激するだろう。
我が海軍への忠誠と、私への親愛をさらに深く植え付けさせるための、完璧な口実だった。
「ねえ」
私は
「タリンナリー大佐のお部屋は、どちらかしら?」
「はい、一等寝台の三号室でございます。プレストン書記官のお隣のお部屋でございます」
「ありがとう」
私は大佐の軍帽を優しく抱え直すと、完璧な姿勢で立ち上がり、乱れのない歩調で連結部のドアを押し開けた。
廊下の静寂の中、白銀の髪を揺らしながら、私は彼の待つ三号室へと歩みを進める。
(大佐……驚くかしら)
彼の驚く顔と、感謝に満ちた穏やかな笑みを思い描きながら、私は三号室の重厚な木製ドアの前で足を止めた。
そして、白い手袋を嵌めた指先で、規則正しく扉を叩いた。
――コン、コン。
(さあ、大佐。私の差し出す親愛に、どのような顔を見せて下さるのかしら)
扉の向こうにいる「従順な賛美者」の慌てる顔と、熱っぽい眼差しを思い浮けべながら、私の中で甘美な優越感と期待が最高潮に跳ね上がっていた。
あとがき(6)
Q.なぜ白エルフはここまで根性が腐っているのか?
A.本日も最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
さて、まだまだ続く物語をお届けするにあたり、読者の皆様から間違いなく聞こえてきそうな悲鳴……いえ、呆れ混じりの一言があります。
「白エルフども、いくらなんでも根性が腐りすぎてはいないか?」
……おっしゃる通りです。ご安心ください、書いている作者本人も、キーボードを叩きながら「こいつら、美しく咲いた毒花どころの騒ぎじゃないな……」「ちょっとは庇える要素ないのかな……」とドン引きしております(笑)。
では、「なぜ白エルフという種族は、ここまで救いようがなく歪んでしまっていると私が理解しているのか?」
今回はあとがきとして、作中では語りきれない白エルフたちの「絶対的な胸糞悪さの構造」について、いくつかの切り口から少し深掘りして開示・考察してみようと思います。
1. 「完璧主義」という名の精神構造 ── 美意識の暴走
彼らにとって「美しさ」や「清廉さ」とは、道徳的な善悪ではなく、己の存在価値そのものを決定づける絶対的なアイデンティティです。
白磁の美しき街並みに一滴の泥が落ちるのを決して許せないように、彼らは自分たちの落ち度や敗北、醜聞を生理的に受け入れることができません。だからこそ、政治的な失敗や醜悪な内輪揉めは「最初から無かったこと」にするか、あるいは同族の地位の低い者のせいにするか、すべてダークエルフや人間といった他種族へ巧妙に擦り付けます。
彼らにとって、闇討ちや毒殺、冤罪の捏造は「悪事」ではありません。美しい庭園を完璧に保つための「雑草抜き(お掃除)」感覚なのです。一番タチが悪いのは、彼女らが腹の底で舌を出しながら悪事を働いているのではなく、「自分たちは常に清廉潔白な正義であり、害虫に脅かされている悲劇の被害者だ」と本気で信じ込んでいる点にあります。
2. 「長寿×メンツ文化」が煮詰めた陰湿な処世術
白エルフは数百年を生きる長命種です。この「寿命の長さ」が、彼らの社会を決定的に歪ませました。
数百年同じ顔ぶれで生きていく社会において、正面衝突による決闘やあからさまな不和は、数世代(下手をすれば数百年)にわたって人間関係を致命的にこじらせる大リスクとなります。そのため、彼らの世界では面と向かって争うことを「野蛮」と嫌い、「エレガントに、誰にも気づかれずに裏で消す」ことこそが、最高度の知性であり洗練されたマナーとして定着してしまいました。
武勇を誇る剣術よりも、裏で他者を陥れる根回し術の方が遥かに高く評価される社交界。数百年かけてそんな暗闘術ばかりを洗練させてきたのですから、種族全体の根性が歪みきってしまうのも当然と言えるかもしれません。
3. 短命種族=「一瞬で死ぬ虫ケラ」という共感性の欠落
長命種特有のサイコパス的な選民思想も、彼らの残酷さに拍車をかけています。
数百年を生きる白エルフたちにとって、数十年の寿命しか持たない人間やダークエルフは、人間でいうところの「セミ」や「ハムスター」くらいの感覚でしかありません。
どれほど優秀な実績を挙げようと、彼らの内心には「可愛がってやったのに生意気だ」「虫ケラの分際で調子に乗るな」という、無意識かつ絶対的な傲慢さが横たわっています。
相手を「自分と同じ痛みを覚える対等な生命」として認識していないため、罪悪感のスイッチが最初から存在しないのです。だからこそ、どれほど凄惨な粛清であっても、顔色一つ変えずに実行できてしまいます。
結び ── 今後の展望
長々と考察してまいりましたが、一言でまとめるならばこうなります。
白エルフの恐ろしいところは、悪意ではなく『絶対的な善意と自尊心』で人を踏みにじるところである。
美しい容器(白エルフ)の中に、何百年もドロドロの排外主義を煮詰めた結果、完成したのがエルフィンドという極上の蟲毒社会なのです。
ですが──だからこそ、物語はここから面白くなります。
主人公であるアーサー・リチャード・タリンナリーは、自分を虐げ続けてきた実家や白エルフへの苛烈な憎悪を、完璧な気品と冷徹な知性の下に隠し持つ「猟犬」です。
どれほど白エルフたちが優雅な微笑みの裏に毒を忍ばせようとも、それを内側から冷酷に解体し、白磁の街並みを丸ごと灰へと変えていく彼ら「共犯者」の苛烈な進撃が、いよいよ本格化いたします。
読者の皆様もぜひ、アーサーが仕掛ける復讐劇と、白銀の王国がどのように破滅へと向かうのかを、どうぞ楽しみにお待ちください!
次回更新も、何卒よろしくお願いいたします。