白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~ 作:ポオツマス亭
――コン、コン。
低く抑えた声で問いかけると同時に、私の指先はコンマ数秒の狂いもなく動いていた。
斜めから差し込む午後の光に透かしていた極薄の紙片――キャメロット外務省と海軍情報部からの極秘暗号――は、音もなく上着の袖口の裏地へ滑り込み、シガーケースはポケットの奥へと消える。
わずか一息乱れた呼吸を整え、胸を張り、瞳に宿った「猟犬」の殺気を
私は身を起こし、鍵を外して重厚なマホガニーの扉を静かに開いた。
「……誰だ」
「私です、タリンナリー大佐。アルヴェーン大尉です」
ドアの向こうから返ってきたのは、鈴の鳴るような、しかし甘く期待を含んだ白銀のエルフの声だった。
「これは、アルヴェーン大尉」
扉の前に立っていた
彼女は、小脇に私の軍帽と白手袋を抱え、薄青の瞳を潤ませるようにしてこちらを見上げていた。
「お忘れ物でしたわ、大佐。サロンのハットラックにぽつんと取り残されていて……うっかり屋さんなのですね」
彼女はクスリと小さく笑うと、抱えていた軍帽を両手で丁寧に差し出してきた。その仕草には、自分の細やかな気配りによって私がどれほど感激し、動揺するかを確かめようとする、隠しきれない優越感が透けて見えていた。
「おや……これは失礼いたしました。わざわざ届けてくださるとは、何とお礼を申し上げたらよいか。大尉」
私は穏やかな微笑を浮かべ、帽子を受け取ろうと手を伸ばした。
だが、彼女は帽子を渡そうとはせず、むしろ一歩、個室の内側へと足を踏み入れてきた。
重厚なマホガニーの扉が、彼女の背中で静かに狭まる。
「いいえ。……
大尉は帽子を胸元に抱いたまま、その縁にそっと指先を滑らせた。
「それに……この帽子から、貴方の吸っていらした葉巻の香りがして……」
彼女は白銀の髪をふわりと揺らし、鼻先を帽子の目庇へとわずかに近づけてみせた。
瞳の奥に宿るのは、自分に魅了された人間を自らの手のひらで転がしているという、甘美なまでの優越感と熱っぽい期待。
「なんだか、とても……大佐を近くに感じてしまいました」
「大尉……」
私は困ったような、しかしどこか胸を打たれたような完璧な表情を作り、彼女の至近距離へと視線を落とした。
「美しい貴女にそこまで言っていただけるとは。紳士として、光栄の極みですよ」
「ふふ、口がお上手なのは
大尉は微かに頬を染め、ようやく軍帽を私の手へと委ねた。
指先と指先が、白手袋越しに触れ合う。
彼女は離れようとせず、吐息が届くほどの距離で、上目遣いに私を見つめてきた。
大尉は確信しているのだ。
展望デッキで私の
自分がこの短命種の男の心を完全に捉え、手懐けているという、白エルフ特有の肥大化した自尊心と優越感。それが、彼女の態度に隠しきれない色気と甘い挑発を与えていた。
目の前にいる白エルフの女士官の誘惑など、キャメロット社交界のデビュタントが最初に覚えるような、あまりにも拙く、無防備で、無邪気な戯れに過ぎなかった。
「ですが、本当に助かりました。この帽子がなければ、次の目的地であるディアネン駅のプラットフォームへ降りることもできませんでしたから」
私は帽子を手に取ると、さも思いついたように、ごく自然な動作で微笑みを深めた。
「ディアネン駅のプラットフォーム……ですか?」
大尉は少し意外そうに
「ええ。先ほど貴女が『理知と秩序の美しさ』とおっしゃっていた、あの広大なターミナル駅を、ぜひこの目で確かめてみたくてね」
私は帽子を傍らの台に置くと、彼女の華奢な手元へと静かに視線を滑らせた。
「ですが、見知らぬ土地のホームを一人で歩くのは些か心細い……もしお時間が許すなら、ディアネン駅での停車時間、私と一緒にプラットフォームを歩いてはいただけませんか? 大尉」
私の言葉に、大尉の胸元が大きく上下した。
「……まあ」
大尉の頬が、ポッと朱に染まった。自分が男の理性を脅かす「恐ろしい誘惑」になっているのだと信じ込み、甘美な自尊心を満たされた彼女は、口元に密やかな笑みを浮かべた。
「私と二人で、デートのような散策をご所望ですか?」
「貴女のような美しい案内役と歩けるなら、どのような散歩も最高のデートになりますよ」
私が即座にささやくと、大尉は満足そうに瞳を細め、そっと私の腕に白手袋の手を添えてきた。
「ふふ……いいですよ、大佐。ディアネンに着きましたら、短い時間になりますでしょうが、私が貴方を『ご案内』して差し上げます」
「感謝します、アルヴェーン大尉。素晴らしい楽しみができました」
プラットフォームへ降り立ち、その風を肌で感じ、人と鉄路と物資の動きをこの目に焼き付けること――それこそが私の真の目的であり、この甘い白エルフの女はそのための「最も扱いやすい案内人」に過ぎないのだから。
「ええ……では、到着まで、少しお休みになってください」
大尉は名残惜しそうに指先を私の腕から滑り落とすと、艶やかな微笑を残して、静かに個室の扉を開けた。
「ディアネンに着きましたら、お迎えに上がります、タリンナリー大佐」
「ええ、のちほど」
大尉は心底満足したような華やぐ笑みを残し、優雅な足取りで廊下の奥へと去っていった。
カツ、カツ、と響く彼女の洗練された靴音が角を曲がり、完全に消え去るまで――。
私は完璧な紳士の礼を尽くし、彼女を見送った。
バタン、と静かに扉を閉め、内側から重い鍵をかけ、再び訪れる静寂。
暗闇の中で、軍帽と白手袋を室内のハットラックへ置く。
私は即座に笑みを消し、無表情のまま袖口から極薄の密書を取り出した。
(白エルフの『美』か……可愛いものだ)
「だが……愚かな女だ」
自らを絶対の「捕獲者」と信じ込み、己の美しさで男を支配していると思い込んでいる、愚かな白エルフの小娘。
脳裏をよぎるのは、20年前に私を抱きしめ、そして冷たく突き放したあの人――エレオノーラの底知れない瞳。
目の前の女たちが誇る美しさなど、20年前に私の心を完璧に粉砕し、永遠に立ち去っていったあの冷酷な女――
「さて……作業を再開するとしよう」
袖口から、再び例の極薄の紙片を取り出す。
(踊るがいいさ、白エルフの女ども。……お前たちの創り上げた美しい箱庭が、内側から腐ち果てるその瞬間まで)
私は冷酷な計算を瞳に宿し、再び暗号解読へとその意識を沈めていった。
窓外では、列車が悲鳴のような汽笛を上げ、要衝ディアネンへと向かって速度を上げていく。
あとがき(7)
アルヴェーン大尉は後にとんでもない勘違いを起こし、とある行動に出ることになりますが……まあ、それも最初から私が考えていたプロットではありません。
この白エルフの女性海軍大尉というキャラクターについては、当初全く予定していなかったのは前にもお話しした通りです。彼女の立ち回りに関しても、最初は連絡将校なのだから「お目付け役くらいでちょうどいいか」と思っていました。
しかし、大きな転機が訪れたのは、特別列車に乗ってすぐ、喫煙していたアーサーを呼びに行ったその一瞬でした。
私は常々、男女が恋に落ちる瞬間とは、まさに一瞬の出来事だと思っています。
エルフィンドは白エルフの女性しか存在しない社会です。
女性同士で愛し合う関係も確かにありますが、基本的に男性がいないため、男女間の恋愛感情や機微には疎い設定にしています。
本編におけるディネルース・アンダリエルの様子を見る限り、男性という存在や、彼らと愛し合うことについての知識自体は持ち合わせており、全く無知というわけではありません。
それでは、アルヴェーンがどのようにしてその感情にとらわれ、徐々にその気持ちを深めていくのか――その過程もぜひ味わっていただければと思います。
物語はまだまだ続きます。どうか最後までお付き合いいただければ幸いです。