白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~   作:ポオツマス亭

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星暦八七五年九月(18) 幕間《扉を閉ざす者》

 重々しいマホガニーの扉を閉め、内側から鍵をかけた瞬間――。

 

 ヴァレリア・エスタリンド二等書記官は、豪華な特別車のランチを終え、逃げるように寝台車の個室へと駆け込んだ。

 

 鍵を閉めるとまるで糸の切れた人形のように扉へ背を預け、ずるずると石畳ならぬ絨毯の上へ膝をついた。

 

 カーテンを固く閉ざした暗がりの中で、彼女の荒い呼吸だけが空しく響いていた。

 

 香油のしみ込んだハンカチを握りしめる指先が、激しく震えている。

 

 どれほど強く爪を立てても、その痛みが脳裏の恐怖を打ち消してはくれなかった。

 

 冷や汗が額を濡らし、胸の奥から押し寄せる強烈な吐き気が彼女の呼吸を乱す。

 

(……忘れていたはずだったのに)

 

三年前。星暦八七三年。

 

あの一夜のすべてを、自分は忘れたはずだった。

 

 没落した下層氏族の惨めな身分を捨て、名氏族の養女となり、洗練された外務省二等書記官兼宮廷付儀典官としての立場を手に入れた。

 

 短命種(にんげん)どもの無知を冷ややかに見下し、気高い白銀(アールブ)の『理知』を体現する優雅な淑女として、何食わぬ顔で完璧な日々を過ごしてきたのだ。

 

 あのような恐ろしい罪など、最初から無かったかのように。

 

 それなのに――。

 

(なぜ……どうして、あの男があの言葉を……!?)

 

 脳裏に焼き付いて離れないのは、サロンの豪華なテーブルで、完璧な微笑を浮かべながらダージリンのカップを置いた嘉国(キャメロット)の子爵海軍大佐――アーサー・リチャード・タリンナリーの姿だった。

 

『……奥歯が寂しいですね』

 

 あの若い海軍大佐が、何の悪意もなく浮かべた無邪気な笑顔。

 

 そして、その唇から零れ落ちた、あの一言。

 

『我が伯爵家に古くから伝わる独自の言い回しなのですが?』

 

 あの男はすました顔で言い放った。

 

 だが、そんな偶然が存在し得るだろうか。

 

 あれは、古代エルフ(エルフィン)語の言葉。そして、あの一夜、絶命する直前の女王陛下が、自分だけに向けて囁いた最後の「呪い」のフレーズ。

 

(あの男は知っているの? 私の罪を……あの夜の出来事を……!?)

 

 頭の中で、雷鳴のような衝撃が幾度も激しく反芻される。

 

(どうにかなってしまう……私が私じゃなくなっちゃう……こわい……こわいよ……)

 

 喉が干からび、指先が氷のように冷たくなっていく。

 

 あの柔らかな微笑みの下に、キャメロットの『猟犬』はどのような真実を隠しているのか。

 

 自分を脅迫するためか。それとも、この国を根底から揺さぶるための罠なのか。

 

 どれほど打ち消そうとしても、封印していた過去の記憶が、濁流となって彼女の理性を飲み込んでいく。

 

 個室の姿鏡に、薄暗い光の中で蒼白に引きつった己の顔が映っていた。

 

 宮廷服で着飾ったその姿の裏側から、あの一夜の血と毒の匂いが這い出してくる。

 

 三年間にわたって目を背け続けてきた「己の魂の深淵」と、ついに真っ向から対峙せざるを得なくなった。

 

 逃げ場はなかった。彼女は今、否応なく「自分自身」と向き合わされていた。

 

 脳裏に響き渡るのは、恐ろしくも美しい、残酷なまでに澄み切った自問自答のリフレインだった。

 

 

<誰が、先代女王を殺したの?>

 

 

――この私、と冷えた心が叫ぶ。

 

 

<誰が、慈愛に満ちたあのお方を裏切ったの?>

 

 

――この私、と汚れた魂が哭く。

 

 

<誰が、お茶とお菓子に毒を持ったの?>

 

 

――この私、と震える指先が強張る。

 

 

<誰が、あの世界で最も気高い微笑みを破滅させたの?>

 

 

――この私。

 

 

――この私。

 

 

――すべて、この私。

 

 

……

 

 

……

 

 

 呪詛のように繰り返される問答の刃が、容赦なく彼女の胸を刺し穿つ。

 

 宮廷の影の脅迫のせいにしようと、氏族のためという大義名分を盾にしようと、あのお方の命の灯火を消したのは、他ならぬ自分自身のこの手なのだから。

 

 彼女は両手を見つめる。

 

 そうだ、この手で……奪ったんだ、奪ってしまったんだ……私は裏切り者だ……。

 

 しかし――激しい狂乱と絶望の波が引き波のように去った後、彼女の胸の中に残されたのは、凍てつくような静けさと、あまりにも明確な「一つの確信」だった。

 

 なぜ、運命はこれほど酷い戯れをするのか。

 

 なぜ、自分が毒を盛った女王と、あの男の家伝の癖が結びついているのか。

 

 なぜ、あの男はあのお方と同じ、無垢で気高き「奥歯に寂しい」という微笑みを浮かべるのか。

 

 

(……ああ、そうか。そうだったのね……)

 

 あの男は、かつて我が国の歴史の闇から海を渡った、古代エルフ王族の血を引く者。

 

 あのお方と同じ至高のルーツを持ち、その面影を宿した生きた残照なのだ。

 

 あの男は、自分が殺してしまった「あのお方」の生きた残照なのだ。

 

 エルフの影がどれほど血を流して隠蔽しようとも、歴史の暗闇から零れ落ち、海を越えて遺された「至上の愛の証」そのものなのだ。

 

 そして、彼女の中で、最後の問いが投げかけられる。

 

<では――誰が、あのお方と同じ唯一の光を守るの?>

 

 暗闇の中で、彼女の瞳に狂おしいほどに透き通った、誓いの火が灯る。

 

「――この私」

 

 それが、彼女の到達した『結論』だった。

 

 殺したのが自分であるならば。

 

 あのお方の全き愛に魂を奪われ、その命を奪ってしまった罪深き毒婦が自分であるならば――。

 

 あの男が自分が奪った愛の継承者であることを見抜き、彼を宮廷の影の醜い暗殺の手から、歴史の暗闇から守り抜くことができるのも、世界でただ一人、自分しかいない。

 

「二度も、失ってたまるものですか……!」

 

 彼女はそっと胸に手を当て、深く呼吸を整えた。

 

 気分の悪さは、いつしか消えていた。

 

 代りに彼女の全身を満たしたのは、自らの命の使い道を見つけた者の、静謐で気高き決意だった。

 

(大佐……あなたは何も知らなくていい。ただ、その無垢な笑顔のまま、キャメロットへ帰して差し上げます)

 

(あなたを追う刺客も、宮廷の醜い陰謀も、すべて、すべて私が引き受ける。あなたに届く前に、私がすべてを飲み込んで、墓場まで持っていってみせる)

 

 彼女は大佐を守るための「盾」となり、そして最後には自らの命をもってあのお方へ罪を償う――その過酷で悲壮な、しかしこの上なく甘美な運命を完全に受け入れた。

 

(たとえ、それで私が破滅しても……)

 

 個室の鏡に映る自分を見つめ直し、彼女は乱れた衣装を優雅に整える。

 

「……くっ、ふふ……あはは、あはははははは……!」

 

 暗がりの中で、かすれた笑い声が漏れた。

 

 狂気と歓喜の境界線で、彼女は震える手で顔を覆い、そのまま深呼吸を一つ落とす。

 

 手を開いた時、そこにはもう怯えるだけの女はいなかった。

 

 むき出しの狂気を完璧な社交の仮面の下へと押し込め、彼女はゆっくりと鍵を外す。

 

 列車が悲鳴のような汽笛を上げ、要衝ディアネンへと向かって暗闇の鉄路を突き進んでいく中で――ただ一人の男の血筋を守り抜き、至上の愛のために死へと赴く、冷徹で美しき「庇護者」がそこに立っていた。

 

(――さあ、行きましょう。……ヴァレリア……ヴァレリア・エスタリンド……亡き女王陛下のために)

 




あとがき(8)

ヴァレリア・エスタリンド二等書記官の逃れられない過去の亡霊と、唐突に突きつけられた残酷な因果。

最も愛すべき人を自らの手で失った悲しみの海で、彼女は今もなお、胸を締め付ける罪の重さに沈み続けています。

逃げることも許されず、絶望の底で窒息しかけながら、それでも彼女が見出したのは、その人の面影を宿す微かな「光」でした。

罪の重さに押し潰されながら、自ら進んで十字架を背負い、彼の盾となることでしか愛を証明できない不器用さ。

救いのない闇の中にあって、必死に手を伸ばし、光にしがみつく彼女の姿は、決して狂気などではありません。

本作『白鳥の国にて』のテーマは、狂った愛でも、歪んだ愛でもありません。

それは、真実の愛に至る道なのです。

――あなたには、このあまりにも切なく、過酷な道が、どのように映るでしょうか。
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