白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~ 作:ポオツマス亭
ファルマリア港外の錨地。そこに浮かぶ一等装甲艦
一点の塵もなく磨き上げられた司令艦橋の脇にある見張り台に、白銀の飾緒が映える漆黒の軍服をまとった白エルフの海軍士官の姿があった。
遠目にも巨大なキャメロットのアヴァロン・マリーン・ラインの最新鋭蒸気客船『アルガンティック』が、黒い煤煙を冷涼な大気に吐き出しながら港の岸壁に静かに係留されている。
カチ、と小気味よい金属音を立てて、航海長エレオノーラ・メルリンド少佐は愛用している真鍮製望遠鏡を引き伸ばした。
承知していた。大国キャメロットから新たな駐在武官が着任すること。そして、その男が今日の便でファルマリアの地を踏むことも――海軍の公式な書簡によって、彼女の元にはとうに通知されていた。
「……見つけた」
エリーは小さく、誰にも聞こえないほどの吐息を漏らした。
レンズが切り取る円い世界の中心。高級馬車の傍らで海軍仕様の黒い外套の襟を立ててこちらを見つめている、一人の人間の男がいた。
風に揺れる軍帽の隙間。その端正な顔立ちと、目元にあるかすかな笑い皺を捉えた瞬間、望遠鏡を握るエリーの指先が、凍りついたように動かなくなった。
(ああ……本当に、貴方なのね、アーサー)
二十年の歳月が、一瞬にして消し飛ぶ。
エリーの脳裏にフラッシュバックしたのは、かつて自分の細い指先を掴み、ロープの結び方を熱心に学んでいた、華奢で無邪気な十三歳の少年の姿だった。
二人きりになると、大人たちの前での背伸びを解いて「ねえ、エリー」と甘えて袖を引いてきた、愛らしいキャメロットの子爵様。
いつしか、早くに母を亡くしたこの男の子に対して、エルフとしての傲慢さなど忘れ、深い慈愛――母性にも似た甘やかしの情を抱くようになっていた。
人間の子供とは思えぬ速度で知識を吸収していく彼を、愛おしい玩具のように見つめていた。
だが、レンズの向こうにいるのは、そんな面影を置き去りにするほどに精悍な、大帝国の「男」の佇まいだった。幾多の修羅場をくぐり抜けてきたであろうその深い眼差しが、馬車に乗り込む直前、ふと、この遙か遠方にある
偶然か、あるいは必然か、リョースタの艦橋にいる彼女の視線と、真っ直ぐに交錯した――否、それは錯覚などではなかった。
レンズの向こう、陽光を浴びた彼の漆黒の瞳と、彼女の視線が、ファルマリアの海を越えて真っ直ぐに結ばれた――そう確信した刹那、世界のすべての音が消え去った。
心臓が、エルフの長い停滞の日常では決して刻まないような、激しく重い鼓動を打ち始めた。神経が昂り、体温が跳ね上がる。
かつて彼が、命を燃やし尽くすような熱量で放った「愛している、結婚して欲しい」という告白が、二十年の時を超えて、今の彼女の耳元で狂おしいほどに鳴り響いていた。
(私はあの時、あの人間に、あの一言で心を――奪われていたというの。永遠を生きるこの私が)
(それなのに、私は、『人間はすぐに老い、心もまた移ろうもの』という白エルフの偏見から、彼の純粋な愛を一時のはかない熱病だと憐れみ、優しく『立派な海の男になったら、その時は返事をしてあげる』とはぐらかしてしまった……)
「あのキャメロットの坊やが、今でも気になるのかい? エレオノーラ」
背後からかけられた、どこか面白がるような、同時に刃のように冷徹な声音。
「……まさか。そのようなことはありません、カランシア大佐」
エリーは声音から一切の動揺を排し、硬く澄んだ声を返した。
「ただ……人間の時間の進み方の速さに、少々、目眩を覚えただけです。私の記憶にある彼は、まだ胸のあたりまでしか背のない、華奢な子供でしたのに。それがもう、大国の大佐だなんて」
「ふん、短命種の成長など、勢いよく燃え上がるがすぐに消えてしまう、
カランシアは薄い唇の端をわずかに歪め、目の前を通り過ぎる小型船の白い航跡を見つめていた。
「彼らは瞬く間に大きくなり、瞬く間に老い、そして醜く朽ち果てていく。どれほど大帝国の勲章を胸に飾ろうとも、我ら永遠に生きる白エルフの前では、ほんの一瞬のまたたき、消えてなくなる
「ええ……。重々、承知しております。白銀樹の教義の通りに……」
(かつてこの手でロープの結び方などをつぶさに教えた、あの小さく愛らしい指先が――今は我が国の艦隊を狙う冷徹な
エリーは視線を落とし、胸元を締め付ける軍服の襟をそっとなぞった。口では教義を唱えながらも、彼女の胸のざわつきは収まらない。あのアーサーが、大人になったらと自分を射抜いた真剣な瞳が、今も網膜に焼き付いて離れなかった。
カランシアはエリーの横顔をじっと値踏みするように見つめ、それから低く、釘を刺すような声音で言葉を継いだ。
「忘れることだね、エレオノーラ。彼らは一瞬で燃え尽きる。私たちは、次の世紀も、その次の世紀も、艦橋の上で海の守り人として立っていなければならないのだから。交わらぬ時間を生きる者への深入りは、白銀樹の調和を乱す狂気でしかない」
「……はい。私の時間は、この
エリーは毅然と頭を上げた。
しかし、その
『本当に、忘れることなどできるのかしら』とでも言いたげな、カランシアの冷酷で疑り深い眼差しを浴びながらも、エリーは再び、客船の背後へと視線を向けた。
私を置き去りにして、あまりにも速く、あまりにも激しく命を燃やしながら、彼は遠ざかっていく。アーサー・リチャード・タリンナリーという名の輝きとして。
白銀樹の教義という冷たい氷の檻の中で、私の心は――抗うことすら許されないかのように――その「刹那の輝き」へと狂おしいほどに引き寄せられ始めていた。
「艦長、航海長。そろそろ、昼食になります」
艦橋からやってきた副長が二人に声をかけた。
「わかった、すぐに行く」
カランシアは背を向けていたエリーに対して、何か言いたげに口を動かしたが、結局それは言葉にはならなかった。
「先に行くぞ、すぐに来い。エレオノーラ」
と告げると一人で先に行ってしまった。
カチ、と無機質な音を立てて望遠鏡を縮めたエリーの手先は、冷たい海風のせいだけではなく、微かに、だが確かに震えていた。
遠く眼下の港では、彼女の神経と心臓をこれほどまでに昂らせた元凶を乗せた高級馬車が、石畳を硬く打ち鳴らしながら、首都への鉄路が待つファルマリア駅へと向かって、ゆっくりと動き始めていた。
(アーサー……リチャード……タリンナリー……私の小さな子爵様……)