白鳥の国にて ~駐エルフィンド公使館付海軍武官の回想~ 作:ポオツマス亭
――昼を告げる鐘が鳴る。
最後の入国希望者を審査し終えたので、ファルマリア入国審査所の窓口を仕切る重厚な扉が閉められた。
それと同時に、ルチア・セレンディス少尉は、溜まっていた冷たい呼気を深く吐き出した。
石造りの神殿めいた審査所から一歩外へ出ると、ファルマリアの軍港に吹き付ける秋の風は、先ほどよりもいっそう冷たく感じられた。
瑠璃色の海面が、鋭い陽光を反射して硬質な光を放っている。
その光の中に浮かぶ二隻の巨大な艦影。装甲艦「
ルチアは軍帽の位置を微かに直し、白手袋をはめた手で、乱れてもいない白金色の髪を尖り耳の後ろへとなでつけた。
今の彼女の胸の奥には、まるで上質なシルクに付着した煤煙の汚れのように、不快なざらつきが残っていた。
(あの、無礼な
思い出すだけで、美しい眉の間に鋭い皺が寄る。
アーサー・R・タリンナリー。キャメロットの海軍大佐。
彼が去り際に残していった、あの
白エルフである自分を「マイ・レディ」などと気安く呼び、永遠の退屈を憐れむかのような不遜な言葉を紡いだ、あの男の男性的で、かつ冷酷な眼差しが、網膜の裏側に焼き付いて離れない。
「……忌々しい」
ルチアは低く、誰にも聞こえないほどの小さな声で独り言を呟き、足早に港湾部の一角にある士官食堂へと向かった。
エルフィンド海軍港湾部が管轄する士官食堂は、人間たちの食堂のような、安っぽい安息香や獣脂の匂いとは無縁の場所だった。
白大理石の円柱が並び、磨き上げられたガラス張りの窓からはファルマリアの美しい入り江が一望できる。
テーブルに活けられた季節の野花が、清らかな香りを漂わせていた。
ルチアが食堂に足を踏み入れると、数人の同僚の
「あら、ルチア。お疲れ様」
「ええ、お疲れ様。フィリーネ」
ルチアは同僚のフィリーネの隣の席に着くと、すぐに同族の給仕係が食事を運んでくる。
いつも通り、非の打ちどころのない優雅な所作で銀のフォークを手にするルチア。
その皿に美しく盛られていたのは、余分な脂身を徹底的に削ぎ落として極薄に引いたコールド・チキン、ハーブと塩で締められた冷製白身魚の薄切り、新鮮な野菜のサラダ、そしてチーズの小片。それらに、ハチミツを練り込んで焼き上げた白パンが添えられていた。
キャメロット海軍の将校たちが好む「コールド・ランチ」を、エルフの清廉な味覚に合わせ、しつこい獣脂を極限まで排除して魚介と調和させた、エルフィンド海軍士官食堂の定番だった。
だが、その指先がわずかに、いつもより硬くこわばっているのを、同僚たちは見逃さなかった。
「……どうしたの、ルチア?」
フィリーネがフォークを止め、怪訝そうに覗き込んできた。
「いえ、なんでもありません……」
ルチアは視線を落とし、小さく首を振った。
だが、フィリーネの向かいに座る先任のエルヴィーラが、透き通るような白ワインのグラスを傾けながら、面白そうに目を細めた。
「あなたのその美しい『
エルヴィーラはグラスをごく微かに揺らし、爪の先でグラスの縁をチンと鳴らした。
「挨拶の声に、いつもの凍り付くような刺がないわ。まるで、何か熱いものでも無理に飲み込まされたかのよう」
「そんなことはありません、エルヴィーラさま」
ルチアは表情を変えず、銀のナイフで淡々と、だが正確すぎる手つきで冷たい鶏肉を切り分けた。
肉の繊維を断ち切る微かな手応えが、今の彼女には妙に心地よかった。
しかし、その声のトーンは確かに、いつもより数度低い。
「何か不愉快なことでもあったの?」
フィリーネが心配そうに身を乗り出す。
「また、入国審査に無礼な態度をとる
ルチア・セレンディスは、その冷徹極まる態度と、ガラスの鈴を転がすような美しいソプラノから、軍港内では『氷の美声』と称され、一目置かれていた。
彼女が感情を乱すことなど、滅多にないはずだった。
「……いいえ。ただの、取るに足らない
ルチアは冷ややかに言い放ち、ハーブを添えた冷製魚を口に運んだ。
だが、いつもであれば繊細な調和を感じさせるはずの料理の味が、今は全くと言っていいほど喉を通らない。
――ただの数十年で朽ち果てる、哀れな短命種にすぎないはずだ。
だが、あの男が旅券を受け取る際、自らの手袋に微かに触れた瞬間の、あの熱量。
人間特有の、生き急ぐような、しかし狂おしいほどに濃厚な生の気配。
『永遠を生きる貴方たちの退屈な目には、おそらく決して映ることのない輝きが、私たちの刹那にはある』
(……私たちの退屈な目、だと?)
ルチアの胸の内で、再び屈辱と、それを上回る激しい感情が渦巻いた。
永遠の調和こそが至高であり、短命種の生など無意味な瞬きにすぎない。
それがエルフィンドの、白エルフの揺るぎない教義であるはずだった。
今までただの一度も疑ったこともない。
それなのに、あの男は、まるで自分の「永遠」を、価値のない砂屑のように哀れんでみせたのだ。
「ルチア?」
フィリーネが、ルチアの手元を凝視して声をひそめた。
「フォークが……しなっているわよ?」
ハッとして手元に視線を落とすと、ルチアが握りしめていた銀のフォークの柄が、彼女の細く白い指先の力によって、今にも歪みそうなほど強く押し付けられていた。
白エルフとしての高い身体能力が、無意識のうちに指先に込めた苛立ちが、高貴なマナーを裏切ってしまっていた。
「……失礼。少し、手が滑っただけよ」
ルチアは素早くフォークをテーブルに置き、香油のしみ込んだナプキンで唇を拭った。
「ふふ……本当に珍しいわね。あのルチアが、食事中にそこまで心を乱されるなんて」
エルヴィーラは楽しげに喉を鳴らした。
「もしかして、噂の『キャメロットの駐在武官』を通したのって、ルチア、あなた?」
その言葉に、ルチアの
「……ご存じなのですか、エルヴィーラさま」
「ええ、少し話題になっていたわ」
エルヴィーラはグラスをテーブルに置き、窓の外の青い海へと視線を投げた。
「何でも、二十年前に我が国の海軍近代化計画――「
エルヴィーラは、あきれたように肩をすくめてワインに口をつけた。
「明日にも首都ティリアンの海軍最高司令部で、我らがファラサール大将を表敬訪問するみたいよ」
フィリーネが冷笑を浮かべ、グラスをテーブルに戻した。
「人間の分際で、我が国の『調和』を乱すつもりかしら。どうせ、私たちの機嫌を取るための薄っぺらなお世辞を並べ立てる、よくいる
「……ええ。全くその通りよ」
ルチアは、冷徹な声を絞り出すようにして同意した。
「中身の伴わない、口先だけの
そう口にしながらも、ルチアの脳裏には、アーサーのあの「値踏みするような視線」が、生々しく蘇ってきた。
あの大佐の瞳は、決して「眩まされた者」のそれではなかった。
むしろ、エルフィンドの美しさを、その「
「……あんな男、すぐに我が国の気高さに圧倒されて、尻尾を巻いて逃げ帰るわ」
ルチアは、冷たい果実水を一気に飲み干した。
喉を通る冷気が、胸の熱を冷ましてくれることを願ったが、胸のざわつきは、一向に収まらなかった。
(お名前を伺っても?)
あの男は、去り際に私の名前を尋ねてきた。
(なぜ、私は……あのときに、自分の名を……)
自分の声で名前を告げた記憶に苛まれる。
その名が、あの「
彼女の美しい「氷のプライド」に穿たれたその微細な亀裂が、これから始まる激動の時代の中で。
それが自分の運命をどのように狂わせていくのか。
彼女自身はまだ知る由もなかった――。
(続く)