ダンジョンに実力主義を求めるのは間違っているだろうか 作:修羅シュラ
長期遠征に向かう数日前。
オレはレフィーヤを伴い、ダンジョンへ足を運んでいた。
「レフィーヤ、明日からこいつに鍛えてもらえ」
オレがそう言って視線を向けた先で、フィルヴィスが露骨に眉をひそめた。
「おい、清隆勝手なこと言うな!」
「え!?フィルヴィスさんと清隆さんって知り合いだったんですか!?」
現在、オレたちはダンジョン上層にいる。
上層とはいえ、正規ルートから外れた脇道まで来れば人影はほとんどない。時折、遠くでモンスターの唸り声が掠める程度で、修行の場としては悪くない環境だった。
余計な目がないというだけで、指導の質は変わる。教える側も教わる側も、無駄な体裁を気にせずに済むからだ。
そしてオレは、レフィーヤの講師としてフィルヴィス・シャリアを選んだ。
レフィーヤは以前、フィルヴィスと同じクエストをこなしたことがあるらしい。そこで仲良くなったと聞いた時は、正直少し驚いた。
あのフィルヴィスが、主神以外に心を開くことなどないと思っていたからだ。
「まあ、オレとフィルヴィスは腐れ縁ってやつだ」
「レ、レフィーヤ!清隆とは何にもないからな!本当だからな!」
「むぅ、ちょっとフィルヴィスさん羨ましいです、私の知らない清隆さんを知ってるみたいですし」
レフィーヤは頬を膨らませ、フィルヴィスを睨んでいた。
嫉妬という類だろう。
他派閥の人間が、なぜオレを知っているのか。レフィーヤの中には、その疑問もあるはずだ。もっとも、オラリオに長くいれば、そういうこともある。
実際レフィーヤとフィルヴィスの相性はいい。
戦闘
レフィーヤは典型的な後衛型であり、戦場で求められるのは火力そのものより、詠唱に入るまでの判断と、詠唱中に自分を守る位置取りの精度になる。
フィルヴィスはその点において優れている。後衛としての立ち回り、詠唱速度、詠唱の正確さ。そのどれもが高水準でまとまっている。単に魔法が強いのではない。戦場の中で魔法を通す技術が上手い。
無駄に動かず、必要な時だけ最短で位置を変える。
前衛の背中だけでなく、敵の進路、味方の詠唱状況、退路の確保まで同時に見ている。
こういう後衛は、単純な火力以上に厄介だ。
オレがレフィーヤを教えるというのは、あまり良くない。
オレは根っからの前衛だし、魔法に関しては専門外に近い。使えないわけではないが、理論立てて教えるには向いていない。自分でできることと、人に再現させられることは別だ。
「あとは頼むぞ、フィルヴィス。レフィーヤを鍛えてやってくれ」
オレは役目を終え、ダンジョンから去ろうと踵を返した。
「おい!清隆!このことはディオニュソス様も知ってるんだろうな!?」
「知ってる、オレがお願いしたことだからな」
「おい!私が知らないところでデュオニュソス様に会ってるんじゃない!!」
フィルヴィスの叫び声を聞きながらオレはダンジョンを去る。
レフィーヤはレフィーヤで、フィルヴィスのこの反応に目を白黒させている様子だった。普段の落ち着いた印象との落差に戸惑っているのだろう。
だが、オレは見えていないふりをした。余計な説明を加えると、話が長くなる。
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「では、出発する!」
フィンの一言で、大きな歓声が沸いた。
声は一斉に立ち上がり、石造りの広場に反響して広がっていく。見送りに集まった民衆の熱気が、朝の空気を押し上げるようだった。
ゼウスとヘラがいなくなった今、下界の希望はオレたち【ロキ・ファミリア】に託されていると言っていい。少なくとも、民衆はそう信じている。
オレは隊列に歩調を合わせて進む。
近くにはアイズ、リヴェリア、フィンといった第一級冒険者がいた。
一応、オレはサポーターでレベル3ということになっている。普通に考えれば、前線の中心にいるのは不自然だ。だが、アイズの希望でオレが隣にいるという、よくわからない現象が発生していた。
「清隆、じゃが丸君持ってきてくれた?」
歩きながら、アイズがこちらへ顔を向ける。表情はいつも通り薄いが、目だけはわずかに期待していた。
「そんなものはない、遠征帰ってからにしろ」
そう返した瞬間、アイズの
そんなアイズを他所に、【ロキ・ファミリア】の前衛隊は進んでいった。
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ダンジョン探索は順調と言えた。
前衛隊の役割は明確だ。後続する【ロキ・ファミリア】本隊を安全に進ませること。そのため、前衛には第一級冒険者が配置されている。
だから前衛隊には第一級冒険者が配置されていた。
アイズ、フィン、リヴェリア、ティオナ、ティオネ、ベート。
そしてオレ。
最後の一人だけ、明らかに場違いな肩書きだが、誰もそこを深く突っ込まないあたり、この隊の感覚もだいぶ麻痺している。
実際、オレがやることはほとんどない。
前方から現れるモンスターは、ベートやアイズ、ティオナたちが次々に屠っていく。
ベートは速度で翻弄し、アイズは最短で斬り伏せ、ティオナは勢いのまま押し切る。
戦い方は違っても、処理速度はどれも高い。
前衛として優秀な人間は、強いだけでは足りない。
敵を倒す速度と、味方の進行を止めない処理能力が必要になる。
その点で、この面子は過剰なくらい揃っていた。
「ねぇ、清隆って気になってたけど、いっつも手ぶらだよね、武器とかないの?」
ティオナが身を屈め、下から覗き込むようにして聞いてきた。
「基本オレは戦わないからな、お前たちが倒してくれれば問題ないだろう」
そう答えると、ティオナは納得したようなしないような顔で、今度はオレの
オレもちゃんと武器は持っている。
「え〜でも、そこの
言いながら、ティオナは本当に手を伸ばしてきた。遠慮という概念が薄い。指先が留め具に触れる寸前で――
「清隆は強いから、武器いらないんだよ、ティオナ」
アイズが横からそう言った。
何故アイズが答えるんだ……
別に中身くらい見せてもよかったのだが、アイズの一言でティオナは「そっかー」と妙に納得して手を引っ込めた。
「清隆ってレベル3よね?アイズよりも早く入ったのに抜かれちゃったの?」
「やめとけティオネ、事実を言ったら清隆が可哀想だ、後から入った俺たちにも抜かれてるんだからな」
ベートが鼻で笑うように続ける。
ティオネが気を使っているつもりなのはわかる。だが、その発言には普通に棘があるということを知ってほしい。
ベートはいつも通りだから、今さらどうでもいいが。
「お前達がおかしいんだ。オレは一般人だ」
「ハッ!言ってろ!お前くらいだぜ、深層に行ってなんの表情も変えないレベル3は」
「感情が表情に出ないだけだ、これでも驚いたりしている」
そう返すと、ベートは一瞬だけ眉をひそめた。本気で言っているのか、冗談なのか測りかねたのだろう。
だが、どちらにせよ深掘りする気は失せたらしい。鼻を鳴らすと、それ以上会話を続けることなく前へ向き直った。
しばらく歩いていると、走ってくる冒険者たちの姿が見えた。
足取りは乱れ、呼吸は荒い。何人かは肩で息をしながら、後ろを振り返る余裕すらなくこちらへ向かってくる。鎧には擦り傷が増え、武器を握る手にも力が入りすぎていた。明らかに、ただの撤退ではない。恐怖に駆動された走り方だった。
「どうしたの〜?」
ティオナが片手を振りながら、必死に走っている冒険者へ声をかけた。
「ミノタウロスだっ!上層にミノタウロスが現れたっ!!」
その言葉に、皆の肩がわずかに強張った。
先日、オレたちが逃したミノタウロスの件を思い出したのだろう。だが、あれの生き残りということはないはずだ。オレたちが逃してから、すべて駆除した。
仮に残っていたとしても、今日まで話題にならないわけがない。
オレたちは一度、事情を聞くために逃げてきた冒険者たちへ簡易治療を施すことにした。冒険者たちは【ロキ・ファミリア】に会えた安堵もあるのか、素直に従っていた。
「上層にミノタウロスが現れたんだ、普通のミノタウロスとは何か違う…」
息を切らしながら、ひとりの冒険者が言った。
喉は乾ききっているのか、言葉の端が掠れている。
何か違う、というのは強化種か、それに類する個体だろうか。
断定はできない。だが、少なくとも通常個体ではないのだろう。
「奥で白髪のガキが襲われてた……多分今頃は……」
白髪のガキ。該当する人物はひとりしかいない。ベルが襲われている。
結論が出るまでに、さほど時間はかからなかった。驚きがなかったわけではない。だが、それが思考を乱すことはない。状況を把握し、優先順位を定め、必要な行動へ移る。ただそれだけのことだ。
オレは静かに地を蹴った。
「おい!清隆!!」
ベートの叫び声が聞こえるが、関係ない。
冒険者たちが逃げてきた方向へ、最短の経路を選んで駆ける。
『ブモオオオオオオオオッ!!』
ミノタウロスの咆哮が、ダンジョンを震わせるように響いた。
やはりダンジョンは広い。分かれ道も多い。音は壁に反響し、位置の特定を曖昧にする。耳だけでは足りない。反響の遅れ、空気の揺れ、微かな振動まで拾って進路を絞る必要がある。
「冒険者様……」
不意に、か細い声が横合いから届いた。
視線を向けると、血だらけになりながらもこちらへ走ってくる
オレは駆け寄り、膝から崩れ落ちるその身体を支えた。
「どうした?」
問いかけると、小人族は荒い呼吸の合間に、途切れ途切れの声を絞り出した。
「この奥に……襲われている冒険者がいます……ベル様を……ベル様を助けてください……」
それだけ告げると、小人族は糸が切れたように力を失った。瞼が閉じ、全身から緊張が抜ける、気絶したのだろう。
オレはその身体を壁際へ寄りかからせた。
呼吸はある。出血は多いが、即死の状態ではない。
後続には、オレを追ってくるリヴェリアたちがいる。治療は任せればいい。
先へ急ごうとした、その矢先だった。
オレの前に、ひとりの武人が立ち塞がっていた。
いや、立っていたという表現は正確ではない。立ち塞がっていた、という方が近い。そこにいるだけで道そのものが閉じたように見える。人間ひとりの存在感ではない。
「清隆……手合わせ願おう」
【
オラリオ唯一のレベル7。
空気が変わる。
大剣を構えた姿には、誇張抜きで壁のような威圧感がある。
視線は真っ直ぐこちらを捉え、揺るがない。相手を見ているというより、すでに斬る位置を測っている目だった。
正直、オッタルとやり合う気はない。
勝てる勝てない以前に、ここで時間を使う理由がない。
オレはその意思を示すため、ゆっくりと両手を上げた。敵意がないことを見せる動作だが、同時に、いつでも動けるだけの余白は残しておく。
「向かってこないのか?」
挑発ではない。ただ事実確認をしているだけの声音だった。
「レベル3のオレがお前に敵うわけないだろ」
「……お前の事情は知らん、本来であれば俺もお前とやり合いたいと思うが、今は女神の意思を優先する」
オッタルは大剣を構えるのをやめた。だが、道だけは塞いだままだ。
女神の意思。フレイヤのことだ。
オレが思考を巡らせていると、背後から複数の足音が追いついてきた。
アイズたちだ。
何かを察したフィンは、オレより一歩前へ出た。小柄な背中だが、その立ち方には団長としての重みがある。
「オッタルそこを通してくれないか?僕たちは遠征中なんだ。……それとも僕たちと交戦する意思ありと判断してもいいのかい?」
「……」
オッタルは答えない。
だが、その沈黙は拒絶ではなかった。ここで【ロキ・ファミリア】と正面から衝突した場合の損失と、女神の意向をどこまで優先すべきか。その両方を天秤にかけているのだろう。
やがて、オッタルは観念したようにわずかに身を引いた。
それ以上何も言わず、巨体は静かに通路の脇へ退いた。最初から全面衝突を望んでいたわけではないのだろう。役目として立ち塞がっていただけだ。
オレたちは急いで前へ進んだ。
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通路の先、血の匂いが濃く淀んだ空間の中で、ベルは膝をついていた。
左腕はミノタウロスの角に深く抉られ、そこから流れた血が腕を伝い、指先を濡らし、石床に赤い染みを広げている。
ここまでよく生き延びたものだとは思う。
まともに打ち合えば終わっていた。力量差は最初から明白だった。
だからベルは逃げた。逃げ続けた。
生き残るための判断としては間違っていない。むしろ正しい。
だが、正しい判断を積み重ねたところで、覆せない差というものはある。現実はそういうふうにできている。
アイズが前へ出る気配がした。
目の前に傷ついた人間がいて、自分には助けられる力がある。なら助ける。
あいつにとってそれは、迷うようなことじゃない。考えるより先に身体が動く種類のものだ。善意というより、もっと根源的な反応に近い。
そして、ベルもそれを感じ取ったのだろう。
助かった。
そう思った顔だった。
その顔を見た瞬間、確信した。
――今、助けられれば、こいつは楽になる。
痛みからも、恐怖からも、この状況からも解放される。
アイズが前に立てば、ベルは守られる側に戻れる。
誰もこいつを責めないだろう。
むしろよく頑張ったとさえ言うかもしれない。
だが――それで終わるなら。
それで「仕方なかった」で終われるなら、こいつの憧れはそこまでだ。
英雄になりたい。
そう願っていたはずの人間が、ここで「助けられてよかった」で終わるなら、その願いは現実に触れた瞬間に形を失う程度のものだったことになる。
少なくとも、そうであってほしくはなかった。
それはオレの勝手な願望だ。
他人に背負わせるには身勝手で、傲慢ですらある願いだとわかっている。
ベルの力の根にあるものは、技術でも経験でもない。もっと曖昧で、もっと脆いものだ。英雄への憧れ。理想への希求。
言ってしまえば、現実の前では簡単に砕ける種類の熱だ。
だが、だからこそ、その熱が本物かどうかは、この瞬間にしかわからない。
その熱が、ただの夢想なのか。
それとも、砕かれてなお残る本物なのか。
ミノタウロスが低く唸る。獲物を横取りされることへの苛立ちか、それとも新しい相手への警戒か。
どちらでもいい。
時間は長く取れない。
それでも、今ここでやるべきことは一つだった。
ベルの前で足を止める。
俺を見上げた。痛みと恐怖で焦点の定まらない目だった。
その奥に、助けを求める色がある。
情けないとは思わない。極限まで追い詰められた人間なら当然の反応だ。
だが、今その手を取ってやるつもりはなかった。
「お前は、英雄がどういうものだと思っていた」
言葉を落とした瞬間、ベルの呼吸が止まった。
背後で空気が張るのがわかった。
アイズが止まった。おそらく理解できないんだろう。
なぜ今そんなことを言うのか。なぜ助ける前に、こんな残酷な言葉を投げるのか。
「強くて、正しくて、誰かを救う人間か。困っている相手に手を差し伸べて、悪いものを倒して、最後には感謝される。そういう都合のいい存在を想像していたのか」
ベルの喉が動く。何か言い返したいんだろう。
だが、言葉にならない。
「なら教えてやる。英雄っていうのは、綺麗なものじゃない」
英雄っていうのは、救われる側の幻想じゃない。
現実の泥を踏んで、それでも進む側の在り方だ。
「誰かを救いたいなんて願いだけでなれるものでもない。正しさだけで立っていられるものでもない。そんなものは、現実の前じゃ何の支えにもならない」
ベルの顔が歪む。
痛みのせいだけじゃない。
自分の中で大事にしてきたものが、今まさに壊されている顔だった。
だが、壊れるならその程度だ。
「英雄は、守れない現実を知ってる」
「手を伸ばしても届かない相手がいることを知ってる。助けたいと思っても助けられないことがあると知ってる。正しいことをしても、何も報われないことがあると知ってる」
ベルは今まで、英雄を眩しいものとして見てきたのだろう。
強くて、優しくて、最後には誰かを救える存在。
苦しみがあったとしても、それはきっと意味のある苦しみで、最後には報われるものだと、どこかで信じていたはずだ。
だが、現実はそんなふうにできていない。
頑張れば届くとは限らない。
諦めなければ救えるとも限らない。
願いの強さが、そのまま結果に変わるほど世界は甘くない。
誰もかれも救えるそんな
「だが、それでも進む人間だけが英雄と呼ばれる」
「無様でも、怖くても、自分の弱さを嫌というほど思い知らされても、それでも足を止めない。英雄っていうのは、選ばれた人間のことじゃない。最初から強い人間のことでもない。何も失わずに済む人間のことでもない。何度負けても、自分の弱さに吐き気がしても、それでも理想を捨てない人間だ」
「だが、誰もを救う英雄なんていない」
そこは、ベルの理想の中心だった。
誰かを救う英雄。
困っている人に手を差し伸べる存在。
自分が憧れ、自分もなりたいと願ってきたもの。
その核を、オレは今、真正面から否定した。
「誰かを救うことはできても、誰もを救うことはできない、取りこぼしは必ず出る。届かない相手は必ずいる。全部を守るなんて幻想だ。そんなものを信じて進んでも、いずれわかる時がくる」
言い切ったあと、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちた。
ミノタウロスの荒い鼻息と、ベルの乱れた呼吸だけが、その場に残る。
そして、最後の問いを投げる。
「それでも───お前は英雄になりたい、と願うのか?」
€
英雄に憧れている。
その気持ちだけは、ずっと変わらなかった。
でも、現実は甘くない。
今の僕は立ち上がることすらできない。
怖い。痛い。苦しい。
もうやめてしまいたい。ここで諦めてしまった方が楽なんじゃないかって、心のどこかで思ってしまう。
もう十分だって。
ここまでやったんだから仕方ないって。
誰かに助けてもらって終わっても、責められないはずだって。
そんな弱い考えが、確かに僕の中にあった。
英雄に憧れていた。
そのはずだった。
綾小路さんは言う。
僕が思い描いているような英雄はいないのだと。
どんな怪物にも打ち勝ち、悲劇のヒロインなんておらず、すべてを救う存在はどこにもいないのだと。
理想は理想のまま終わる、現実はそんなふうにはできていない。
手を伸ばしても届かないものがあり、守ろうとしても守れないものがある。そういう限界を抱えたまま進むしかないのだと、綾小路さんの言葉は冷酷だった。
なら、自分が追いかけてきたものは何だったのだろう。
間違っていたのだろうか。
僕が夢見た英雄は、最初から存在しない幻だったのだろうか。
憧れること自体が、子どもじみた勘違いだったのだろうか。
胸の奥が軋む。
否定したい。
違うと言いたい。
そんなはずはないと叫びたい。
だが、今の自分には、その言葉を支えるだけの力がない。
膝をつき、血に濡れ、怪物を前に立ち尽くすことすらできない自分が、何を根拠に理想を語れるのか。
そう思った瞬間、喉の奥で言葉が詰まった。
それでも。
それでも、なお消えないものがあった。
それでも僕は────
今も英雄に憧れている。
「英雄に、なりたい」
このまま倒れて、助けられて終わるんだと、どこかで諦めかけていた。
なのに、身体が勝手に起き上がろうとする。
膝が震える。
足元は頼りない。
少しでも力を抜けば、そのまま崩れ落ちそうだった。
左腕の傷が激しく痛んで、全身が悲鳴を上げている。
もう立つな、これ以上動けば壊れると、身体の全部が警告していた。
それでも、止まれなかった。
「お前が目指している英雄は存在しない、誰もを救える英雄なんて存在しない」
綾小路さんは冷酷に告げる。
慰めも、励ましも、期待もない。ただ現実だけを突きつけるような冷たさだった。
たぶん綾小路さんは知っているんだ。
現実には救いきれないものがあることを。
誰もを救う英雄なんていないことを。
理想だけでは届かない場所があることを。
だから、その言葉は重い。
夢を見たままの人の言葉じゃない。
現実を知った上で、切り捨てる人の言葉だ。
でも。
だからこそ、認めたくなかった。
そんなのは違う。
それで終わってしまうのは違う。
届かないかもしれないからって、最初から手を伸ばさないのは違う。
救えないかもしれないからって、諦めるのは違う。
僕が憧れた英雄は、そんなものじゃない。
「────それでも、僕は英雄になりたい」
「僕がなってみせる、誰をも救う英雄に」
そんなこと、できないのかもしれない。
不可能なのかもしれない。
現実は綾小路さんの言う通りで、いつか必ず取りこぼすものが出るのかもしれない。
それでも、今ここでその理想を捨てることだけはできなかった。
できないから無理だと諦めるんじゃなくて、無理かもしれなくても手を伸ばしたい。
届かないかもしれなくても、最初から届かないと決めつけたくはない。
その願いだけは、どうしても譲れなかった。
「子どもだな」
「そうかもしれません」
そんなことできないのかもしれない。
そんなことは不可能なのかもしれない。
手足に力が入る。
まだ戦える、手も足も動く。
なら――進むしかない。
ゆっくりと息を吸う。
肺が軋む。胸が痛む。視界もまだ安定しない。
理想を理想のまま終わらせないために、前へ出る。
誰もを救う英雄なんていないと、現実がそう告げるのなら。
それでもなお、そこへ手を伸ばす者でありたい。
不可能だと笑われても、届かないと切り捨てられても、それでも理想を追う者でありたい。
師匠に見せつけてやりたい、と思った。
憧れは憧れのまま終わらないのだと。
理想は、ただ夢見るだけのものじゃないのだと。
たとえ無様でも、たとえ傷だらけでも、そこへ向かって進むことはできるのだと。
だから――
今日僕は初めて冒険をする。