59階層。
オレたちはついに『氷河の領域』へ足を踏み入れた━━はずだった。
だが、そこに広がっていたのは、記録に残された極寒の氷原ではない。
不気味な密林だった。
視界の先まで、見たこともない植物が生い茂っている。
幹は黒ずみ、表皮は濡れた肉みたいな鈍い光沢を帯び、枝葉は本来の緑ではなく、どこか病んだような赤紫を滲ませていた。
地面を覆う草も、ただの草じゃない。
葉脈が脈打つように浮かび、踏みしめるたびにぬめった感触が靴裏越しに伝わってくる。
空気は重く、湿っていた。
肺に入るたび、腐った花と生肉を混ぜたような甘ったるい臭気が喉に絡みつく。
どうしてこんなことになっているのか、理屈はわからない。
だが、ここにいる全員が理解していた。
この階層は、もはや既知の59階層ではない。
「気持ち悪い場所ね」
ティオネが眉をひそめ、周囲を睨むように見回す。
「気持ち悪いというより、
リヴェリアが低く呟く。
普段は冷静なリヴェリアが、わずかにこめかみを押さえていた。
その反応も無理はない。
この階層には、魔力という魔力が満ちていた。
いや、満ちているというより、蠢いていると言った方が近い。
空間そのものに、見えない何かが粘つくように絡みついている。魔法を使わないオレですら肌でわかるほどだ。
リヴェリアやレフィーヤのような魔導士なら、なおさらだろう。
レフィーヤは顔色を悪くし、無意識に杖を握る手へ力を込めていた。
慎重に先へ進む。
やがて、密林の奥にそれはあった。
最初は、巨木だと思った。
だが違う。
植物のような外見をしていながら、その幹は異様に膨れ上がり、ところどころが脈打つように蠢いている。
高さは三十M《メドル》ほどはあるだろうか。
幹の表面には赤や紫のまだらな色が浮かび、樹皮の裂け目からは肉のような組織が覗いていた。
枝葉は天井を覆うほど広がっているのに、その全体が一本の生き物として呼吸しているように見える。
この階層の異常事態《イレギュラー》は、間違いなくこいつだ。
「……
誰かが、呆然とした声で呟いた。
その言葉が、妙にしっくりきた。
周りには
モンスター同士の共食いと見えればありがたかったのだが、残念ながらそうは見えない。
自らの意思で、魔石を
そう表現した方が、よほど正確だった。
まるで何かへ捧げるように。
『アアアアアアアアアアッッ!!』
怪音が、空間そのものを震わせた。
鼓膜が軋む。
頭蓋の内側を直接掻き回されるような不快な音だった。
そして、
寄生された、
肉と樹皮の中間みたいな殻が、べちゃりと湿った音を立てて割れ、その中から何かが這い出してきた。
艶めかしく、おぞましい、姿だった。
つるりとした薄紫の肌。
人を惑わすような、ぬめる光沢。
肉の詰まった小ぶりな臍。
人の頭ほどもある、豊かすぎる乳房。
紫紺の長髪は小さな滝のように背中を流れ落ち、その一本一本が生きているみたいに揺れている。
女の形をしている。
だが、人間ではない。
美しさに似た輪郭を持ちながら、その実、根本から異質だった。
見ているだけで本能が警鐘を鳴らす。
あれは、この世にあってはいけないものだと。
『アリア━━━』
「そんな、あれは……精霊……?」
アイズが、呆然としたようにその名を漏らした。
アイズの中に流れる精霊の血が、あれを“精霊”だと告げているのだろう。
オレもすぐに理解する。
18階層で見つけた胎児。
アレが寄生しているとオレ達は理解した。
『
まさにそう呼ぶのが適切だろう。
『アリア━━━貴方ヲ食ベサセテ?』
甘えるような、ねだるような声音。
だが、その中身は捕食者のそれだ。
「総員、戦闘準備!」
フィンの一声で、全員の意識が一気に現実へ引き戻される。
剣が抜かれ、槍が構えられ、魔導士たちが詠唱の姿勢に入る。
オレも
想定外のことが起こってるとは思ったが、ここまでとはな。
この場にいる何人かは死ぬかもな。
「フィン!わしも前に出るぞ!」
「やることは変わらねェ、ぶっ殺す!!」
ガレスとベートが吠える。
前衛が前へ出る。
オレはサポーターとして後衛の位置を確認し、リヴェリアとレフィーヤが詠唱に入れるよう周囲の動線を頭の中で組み立てる。
『アハッ!』
『
その号令に応じるように、周囲の
地を這い、枝を揺らし、濁流みたいにこちらへ殺到した。
だが、それに臆する連中じゃない。
アイズが最初に飛び出した。
迷いを抱えているはずなのに、剣筋だけは一切鈍らない。
銀光が走り、先頭のモンスターがまとめて両断される。
ベートが吠えながら横合いから突っ込み、ティオナとティオネが左右へ散って群れを切り裂く。
ガレスは正面から押し潰すように前へ出て、重い一撃で食人花ごと地面を砕いた。
第一級冒険者の力は、それだけで戦場の形を変える。
だが、敵はモンスターの群れだけじゃなかった。
精霊の分身《デミ・スピリット》の下半身から、木の根のような触手が何本も生え出した。
一本一本が丸太ほども太く、それでいて鞭のようにしなる。
空気を裂き、何本もの触手が前衛へ襲いかかる。
「重っ!?」
「しかも速い!?」
ティオナとティオネが同時に声を上げる。
受け止めた瞬間、腕ごと持っていかれそうな重量。
弾いても弾いても、次の一撃がすぐに来る。
進行を止めるには、それだけで十分だった。
その中で、アイズだけが迷いなく踏み込む。
レベル6へ至った身体能力で湿った地面を蹴り、迫る触手を次々と斬り伏せていく。
「フィン! 私が焼き払う!! その隙に精霊との距離を───」
「待て、リヴェリア!親指の疼きが止まらない……何かが来る……!!」
フィンの声が鋭く飛ぶ。
その直後だった。
『【地ヨ唸レ━━】』
たった一言。
それだけで、空間に魔法円が浮かび上がった。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
魔導士じゃないオレでもわかる。
これはまずい。
「詠唱!?」
「リヴェリア!結界を張れ!」
フィンが即座に指示を飛ばす。
オレは大鞄《バックパック》に手を突っ込み、持ち込んでいた魔剣を引き抜いた。
そのまま椿へ投げ渡す。
「魔剣……?」
「オレたちで詠唱を止めるぞ。レフィーヤ、詠唱を続けろ」
オレはフィンが指示する前に理解をし、後衛に指示を出す。
レフィーヤはモンスターが詠唱したのに戸惑っていたが、オレの声で我に返り、すぐに杖を握り直す。
「───【ヒュゼレイド・ファラーリカ】!!」
レフィーヤの魔法が完成した。
轟音。爆ぜる炎。
熱風が密林の湿った空気を焼き払い、周囲のモンスターごと『
レフィーヤはレベル3。
だが、遠征メンバーに選ばれた一人だ。
その火力は、リヴェリアのお墨付きでもある。普通の敵なら、今ので終わっていた。
だが。
「……防いだのか」
炎の中から現れたそれは、羽化したばかりの羽根を身体へ巻きつけるようにして、直撃を受け流していた。
そして、何事もなかったみたいに口を開く。
詠唱は、止まっていない。
「アレが効いておらんのか!」
「怯むな!続けろっ!!」
椿の驚きに、フィンが号令を重ねる。
オレも椿も魔剣を放つ。
レフィーヤも続けざまに
だが、まるで効いていない。
前衛もまた、大量のモンスターと触手に阻まれ、精霊本体へ届ききれない。
アイズたちがどれだけ斬り払っても、その隙間を埋めるように次が湧く。
フィンも、もう理解しているはずだ。この詠唱は止められない。
なら、生命線はひとつ。
リヴェリアの結界だ。
精霊本体への妨害ではなく、押し寄せるモンスターの迎撃へ意識を移す。
オレも途中で詠唱妨害を諦め、背後から迫るモンスターの処理へ切り替えた。
今は一秒でも長く、リヴェリアに時間を稼がせる方が重要だ。
「【我が名はアールヴ】」
「総員、リヴェリアの結界まで下がれ!」
フィンの指示で前衛が一斉に後退を始める。
アイズが最後尾で触手を斬り払い、ベートが舌打ちしながら
€
二度にわたる超長文魔法行使。
それは本来、一度でもまともに受ければ壊滅していておかしくない規模の魔法だった。
高位魔導士として積み上げてきた技量と魔力、そのすべてを注ぎ込んだ結界が受け止めた。
だが、二度目はなかった。
『
紫炎と暴風が絡み合った災厄の奔流が、今度は真正面から結界を叩き潰した。
轟音。
世界そのものが裂けたような音だった。
紫の炎が渦を巻き、暴風がそれを押し広げる。
熱と圧力が一体となって押し寄せ、リヴェリアの結界は限界を超えた硝子みたいに砕け散った。
結界が破られる、その瞬間。
入れ替わるように、ガレスが前へ出た。
巨体を軋ませるように踏み込み、大盾を構えた。
凄まじい衝撃が階層全体を揺らした。
空気そのものが殴りつけてくるような衝撃に、身体が浮きかけ、肌を焼く炎が全身を舐めた。
視界が白く染まり、次いで紫に染まる。
耳鳴り。
焦げた臭い。
誰かの呻き声。
何もかもが一瞬で混ざり合い、戦場の輪郭が崩れる。
階層一帯が燃えていた。
密林を覆っていた異形の草木は、紫炎に炙られて黒く縮れ、ところどころで不気味な火を上げている。
まるでこの階層そのものが、敵の魔力に侵されている。
リヴェリアは倒れていた。
細い身体は地面へ投げ出され、長い翠髪が焼けた土の上に広がっている。
ぴくりとも動かない。
その前方では、ガレスもまた沈んでいた。
大盾を地面に突き立てたまま、その巨体ごと崩れ落ちている。
盾の表面は焼け爛れ、腕甲の隙間からは焦げた臭いが立っていた。
あれだけの一撃を真正面から受け止めて、なお立っていられるはずがない。
そして、『
三回目が放たれれば、終わる。
今度こそリヴェリアの結界はない。
この消耗状態で、あの規模の魔法をもう一度受ければ、オレたちは全滅する。
圧倒的絶望。
そう呼ぶのが、いちばん正確だった。
「クソッタレ!またあれが来んのか!」
ベートが吐き捨てるように悪態をつく。
オレは焼けた空気を肺に入れながら、静かに状況を整理する。
取れる選択肢は二つ。
一つは、オレ本来の実力を出すこと。
正直、今からでも本気を出せば、『
だが、オレの実力はまだ隠しておくべきだと考えている。
全滅という二文字が見えている今、出し惜しみしている場合ではないが、最悪何人か犠牲にして撤退するというのも視野に入れておく。
そして、もう一つ。
こっちは正直、博打に近い。
だが、今この場で試す価値がある。
アイズの原点を思い出させること。
視線を向ける。
アイズはまだ立っていた。
もしかしたら、皆が望まない形になるかもしれない。
アイズは復讐に囚われるかもしれない。
せっかく仲間が増え、少しずつ笑うことも増えてきた。
ティオナやティオネ、レフィーヤたちと過ごす時間の中で、昔より柔らかい表情を見せることもあった。
だが───ぬるい。
そんなものでは足りない。
必要なのは強さだ。
圧倒的な強さ。
迷いも、甘さも、躊躇いも、全部焼き切ってなお、前へ進めるだけの力だ。
オレたちは、あの最強と呼ばれた【ゼウス・ファミリア】と【ヘラ・ファミリア】を越えなければならない。
中途半端な覚悟では届かない。
生半可な才能でも届かない。
必要なのは、死地の中でなお折れず、むしろそこから牙を剥ける怪物だ。
なら、アイズにもそうなってもらうしかない。
あいつの中にまだ燻っている根源を、無理やりでも引きずり出す。
あの黒い憎悪を。
あの原初の渇望を。
英雄に憧れるだけでは届かない場所へ進むための、剥き出しの執念を。
だから、オレがアイズを変えなければいけない。
修羅にしなくてはならない。
時間がない。
ベートが舌打ちし、血走った目で敵を睨みつける。
ティオナとティオネも荒い息を吐きながら、それでも無理やり武器を構え直していた。
レフィーヤは倒れたリヴェリアを振り返りかけて、けれど次の瞬間には唇を噛んで前を向いた。
フィンもまた立っている。小柄な背中は焼けた戦場の中でも揺らいでいないが、あの男ですら次の一手を即断できずにいるのがわかった。
当然だ。
普通なら、ここで詰みだ。
三射目が来れば終わる。
誰がどう足掻こうと、今度こそ全滅だ。
その死の気配が、階層全体をじわじわと締め上げていた。
アイズは少し前方、崩れた前衛の位置で剣を握っていた。肩で息をし、頬に
「アイズ」
オレはその名を呼んだ。
€
清隆がアイズの名を呼んだ。
アイズの肩がわずかに震え、金色の瞳がこちらを向く。
「まだ答えはでないのか?」
「……っ」
アイズの眉が寄る。
こんな状況で何を言い出すのかと、ティオネあたりは怒鳴りつけたかった。
だが、誰も口を挟まなかった。
三射目が来るまでのわずかな時間、その場の空気が不自然なほど張り詰める。
「お前は何を見た」
「何を奪われた」
「誰を失った」
アイズの呼吸が止まる。
金色の瞳が大きく見開かれ、剣を握る手が震える。
両親。
黒竜。
焼けるような熱。
喉を裂くような叫び。
何もできず、ただ奪われるしかなかった幼い日の絶望。
それは、アイズが失ったもの。
アイズが奪われたもの。
「お前は、英雄に憧れて剣を取ったんじゃない」
「……ゃ、めて」
━━━ドクンッ
心臓が跳ねた。
これ以上聞きたくなかった。
「違うだろう、アイズ」
「……やめ、て……」
━━━ドクンッ
心臓がうるさい。
耳を塞げば良かった。
「お前は奪われた」
「……ぁ」
━━━ドクンッ
全身に血が巡る。
アイズの中に何かが湧いてくる。
「だから取り返したかった」
「……っ、あ……!」
アイズの喉から、声にならない音が漏れる。
膝がわずかに折れかけ、それでも倒れない。
目の奥で、長い間押し込められていたものが、濁流みたいに逆流している。
ティオネが息を呑む気配がした。
ティオナの笑顔が消えた。
レフィーヤも、何も言えない。
フィンだけが、オレを止めようとしていた。
だが、止められない。
オレは止まらない。
だから、最後の一線を越える。
「お前の原点は憧れじゃない───復讐だ」
その一言が落ちた瞬間、空気が変わった。
アイズの瞳から、迷いが消える。
代わりに浮かび上がったのは、凍えるほど冷たい殺意だった。
今この瞬間、アイズの中で何かが変わった。
「私は……奪われた……」
「そうだ」
「私は……全部取り返すために……」
「そうだ」
━━━ビキッッ
剣を握る手から、響いた。
風が吹いたわけでもないのに、金の髪がふわりと揺れた。
風が吹いた。
黒き風が。
アイズの周囲の空気が震えていた。
アイズが一歩、前へ出る。
その動きに、さっきまでの迷いは一切なかった。
ただ真っ直ぐ、『
『アリア───?』
敵が、初めて戸惑ったような声を漏らす。
目の前の獲物の変化を、本能的に察したんだろう。
アイズは答えない。
ただ、低く、静かに呟く。
「
黒き風がアイズを包んだ。
暴風みたいに荒れ狂っているのに、妙に静かだった。
音を立てて渦巻いているはずなのに、その中心だけが不気味なほど澄んでいる。
底の見えない憎悪と喪失をそのまま形にしたみたいな、重く、冷たく、禍々しい風。
金の髪がその中で揺れていた。
白い肌に煤がつき、細い身体を黒い風が這うように巡っていく。
その姿は美しいのに、同時にひどく危うい。
まるで、少女の形をした復讐そのものだった。
誰も、すぐには動けなかった。
『
紫の魔力を脈打たせ、三射目の準備を進めていたはずの怪物が、初めて明確な躊躇を見せる。
人の形を模したその顔が、引きつるように歪んだ。
『アリア……? アリア、アリアアアア……!?』
歓喜とも恐怖ともつかない、濁った声。
母なる精霊の気配を感じ取っているのか、それとも目の前の変質を本能で警戒しているのか。
どちらにせよ、もう遅かった。
アイズが、地を蹴った。
爆ぜた。
黒い風が尾を引き、灰と火の粉を巻き上げながら一直線に走る。
『━━━ッ!?』
『
一閃。
銀の軌跡に、黒い風が絡みつく。
次の瞬間、怪物の右腕にあたる部位が肩口から斬り飛んだ。
紫の血飛沫が噴き上がる。
だが、それが宙に散るより早く、二撃目が走る。
返す刃で胴体。
踏み込み直して喉元。
さらに身体を捻って、背後へ回り込みながら下半身を吹き飛ばす。
今のアイズの剣には、迷いを差し挟む余地が一切なかった。
そこに躊躇も、加減も、情もない。
『アアアアアアアアアアアッ!!』
修復が間に合わない。
『
だが、黒き風は止まらない。
アイズは半歩だけ身を沈める。
次の瞬間には、触手の群れのど真ん中へ自分から飛び込んでいた。
右から迫る一本を断つ。
その勢いのまま左へ流れ、二本まとめて切り裂く。
頭上から叩き落とされる一撃を、剣を滑らせるように受け流し、その根元へ刃を食い込ませる。
黒い風が刃にまとわりつき、断面を内側から抉るように裂いていく。
触手が千切れ飛ぶ。
アイズは止まらない。
むしろ、斬るたびに加速していた。
黒い風がその細い身体を押し出しているのか、あるいはアイズ自身の殺意が風を呼んでいるのか。
もう見分けがつかない。
ただひとつ確かなのは、今この場で最も危険なのが、もはや『
目の前で起きているのは、一人の剣姫が怪物を蹂躙している光景だった。
『
あれほど圧倒的だった怪物が、明確に恐れを抱いた。
だが、アイズは逃がさない。
一歩で詰める。
二歩目で横へ回る。
三歩目で死角へ潜る。
剣閃が閃くたび、怪物の身体が削れていく。
そして、アイズの体も悲鳴を上げていた。
この黒き風は、アイズの体を蝕んでいた。
強大の力を授ける代わりに代償が生じるのも道理。
『アリアァァァァァァ!!』
悲鳴じみた叫びとともに、『
崩れかけていた三射目の魔法陣を、無理やり再構築しようとしていた。
「遅い」
アイズの声は、氷みたいに冷たかった。
黒き風が、さらに膨れ上がる。
金の髪が大きくなびき、その瞳の奥で黒い感情が静かに燃えていた。
アイズは剣を引き絞るように構える。
━━━ギリッ
細い腕に力がこもる。
黒い風が刃へ集まり、まるで夜そのものを凝縮したみたいに剣身を染め上げていく。
そして、振り抜いた。
黒い斬撃が、一直線に走る。
それは風というより、もはや災厄だった。
空気を裂き、紫の魔法陣を正面から断ち割り、そのまま『
『ア……アアアアアアアアアアアアアッ!!』
怪物が絶叫する。
その声に、アイズの瞳は一切揺れない。
ただ、前へ出る。
黒い風が断面へ食らいつき、再生のための魔力ごと喰い破っていく。
もはや一方的だった。
圧倒。
蹂躙。
処刑。
この戦場で、今この瞬間、アイズだけが絶対だった。
誰も届かない。
誰も止められない。
『
アイズしか許されない戦場。
━━━もう戻れない。
このままアイズは黒き炎に呑まれ、もう戻ってくることはできない。
復讐にすべてを捧げ、燃え尽きる。
黒竜を殺すためだけの剣となって、他の何もかもを置き去りにしていく。
運命は、そう決まっていた。
━━━ほんとうに?
アイズの剣が、ほんのわずかに鈍る。
黒き風の中心で、アイズの意識が一瞬だけ別の場所へ触れた。
脳裏に過ったのは、黒竜ではなかった。
血に濡れた過去でもない。
もっと別のもの。
冷たい目。
突き放すような声。
何を考えているのか分からない、遠い横顔。
それでも、ずっと追いかけてきた背中。
届きたかった。
認められたかった。
あの人にだけは、私を見て欲しかった。
清隆。
その名が、復讐の熱の底から浮かび上がる。
その願いが、ほんの一瞬だけアイズの意識を戦場から逸らした。
その一瞬が、命取りになる。
地の底から、何かが弾けるような音がした。
直後、地面の裂け目から59階層のさらに下から緑の触手の束が一斉に噴き上がった。
アイズは『
回避不能、迎撃不可能。
詰んでいた。
『アハッ!』
怪物は微笑んだ。
これでやっと一つになれると、歓喜した。
だが、その触手は届かなかった。
爆散した。
轟音とともに、緑の肉塊が四方へ弾け飛ぶ。
焼けた空気を裂いて飛来した何かが、触手の束をまとめて吹き飛ばしたのだ。
魔剣だった。
清隆が
本来なら遠距離から放つべき代物。
清隆は、そんな定石すら切り捨てた。
一回きりの使い潰しとして、三本すべてを投擲し、着弾と同時に強引に起爆させた。
「ぼさっとしてんじゃねぇ!」
銀灰の影が横合いから飛び込んだ。
その怒鳴り声とほぼ同時に、別方向から迫っていた触手の束が断ち切られた。
「何やってんのよ、アンタ!!」
ティオネが吠える。
双刃が閃き、アイズの死角へ回り込んでいた触手をまとめて斬り飛ばす。
「アイズは前行って!」
ティオナの大剣が、轟音とともに地面ごと敵を押し潰した。
「アイズ、下がるな!!僕たちも一緒だ…」
フィンの声が鋭く届いた。
小柄な身体が最前へ滑り込み、槍の一撃で残った触手の軌道を逸らす。
アイズの退路を作るのではなく、アイズが前へ出るための一瞬を作っている。
四人が、一瞬でアイズを囲うように動いた。
遅れた一拍を、仲間が埋めた。
アイズの瞳が見開かれる。
自分が今、確かにやられかけたこと。
その原因が、復讐の揺らぎではなく、清隆へ向いた意識だったこと。
そして、その致命的な隙を仲間に救われたこと。
全部を理解したのだろう。
「……っ」
唇が震える。
悔しさか、情けなさか、それとも別の何かか。
黒き風はなおアイズの周囲で唸っている。
だが、その中心にあった冷え切った殺意に、ほんのわずかに別の熱が混じった。
「面倒かけるんじゃねぇ!!俺が道を作ってやる!!お前が仕留めやがれ!!」
ベートが吐き捨てる。
「一人で全部やろうとしてんじゃないわよ!」
ティオネが鼻を鳴らす。
「私たちが必ず道を作るから、だからアイズ一緒に頑張ろ!」
ティオナが荒い息のまま笑う。
「行け、アイズ。今度は独りで戦うな」
━━━みんながいるよ?
幼いアイズが、胸の奥でそう呟いた気がした。
すべてを捨てようと思っていた。
何もかも捨てて、ただ復讐だけに身を投げようと思っていた。
━━━けれど。
手を取ってくれる人がいた。
笑みを返してくれる人がいた。
そして、不器用だけど私のことを信じている彼がいる。
突き放されても、冷酷なことを言われたとしても、アイズの中にあるのは、清隆に届きたいという願いは変わってなかった。
歪んでいる。
(でも、それが今の私)
黒の奥に、金が差す。
夜のように重かった風の中へ、朝焼けみたいな金色が滲んでいく。
憎悪だけではない。
喪失だけでもない。
仲間と、願いと、届きたいという想いが混ざり合い、風の色を塗り替えていく。
黒き風が、金色に輝いた。
金色の風に乗って、金髪金眼の少女は小さく呟く。
「みんな、ありがとう…」
自分一人のためだけじゃない。
それでも核にあるのは、やはりあの背中だった。
もっと。
もっと強く。
誰よりも強く、あの人の目に映る存在になりたい。
その願いが、風をさらに研ぎ澄ませる。
「……行くよ」
低く呟き、アイズが再び地を蹴った。
ベートが走り、裂け目から湧く増援を蹴散らす。
ティオネとティオナが左右から触手を断ち、アイズの進路をこじ開ける。
フィンが『
金色の髪が翻る。
その姿は、さっきまでのような孤独な修羅ではない。
仲間の中を駆け、それでもなお誰よりも鋭い、一振りの剣だった。
『コナイデェェェェェッッ!!』
怪物が悲鳴を上げる。
フィンの槍が、怪物の重心をわずかに崩す。
ベートの蹴撃が、横から伸びた触手を叩き折る。
ティオネの双刃が、再生しかけた腕を切り裂く。
ティオナの大剣が、足元の地を砕いて逃げ場を奪う。
━━━だが、足りない。
裂け目の奥から、さらに大量の食人花の触手が噴き上がった。
まるで最後の悪足掻きみたいに、何十、何百という蔓がうねり、アイズへ殺到する。
前も、横も、上も、埋め尽くすような緑の奔流。
「【レア・ラーヴァテイン】!!」
爆炎。
灼熱の奔流が戦場を薙ぎ払った。
赤金の炎が触手の群れを呑み込み、一瞬で灰へ変える。
焼けた蔓が悲鳴みたいな音を立てて縮れ、崩れ、火の粉となって散っていく。
リヴェリアだった。
傷だらけの身体を無理やり起こし、膝をつきながら、それでも杖を掲げていた。
だが、それでもなお、焼け残った無数の触手がアイズだけを狙って伸びる。
執拗に。
狂ったように。
金色の少女を貫き、引き裂こうと殺到する。
「ぬるいわあああああああっっ!!」
一撃。
轟音とともに、巨大な影が割って入った。
ガレスだった。
満身創痍の巨躯が着地と同時に地を揺らし、そのまま大斧を薙ぎ払う。
倒れていたはずの者たちまで、全員がアイズのために道を繋いでいく。
その光景の中で、アイズは前を向く。
もう迷わない。
もう逸らさない。
復讐も、仲間も、清隆への想いも、全部抱えたまま進む。
金色の風が、その身に収束する。
剣を構える。
視線の先には、半壊し、なおも脈打つ『
アイズは静かに告げた。
「もう、終わりにしよう」
アイズが懐へ潜り込んだ、怪物の目が見開かれる。
防ごうと身を固めようとする。
━━━だが、遅い。
アイズは低く身を沈め、そのまま地を滑るように踏み込んだ。
金色の風が剣へ集まる。
刃が唸る、空気が裂ける。
「【リル・ラファーガ】!!」
金色の線が闇を裂き、怪物の中心を真っ直ぐ貫いた。
『━━━━』
『
『
紫の肉塊は灰となり、魔力は細かな光の粒となって空中へ散った。
€
ティオネは荒い息を吐きながら双刃を下ろし、ティオナはその場にへたり込みそうになるのを無理やり堪えた。
フィンも槍を支えに一度だけ深く息をつく。
リヴェリアは杖に体重を預け、ガレスは大斧を地面へ突き立てたまま、静かに目を細めていた。
その視線の中心で、アイズはしばらく動かなかった。
戦いが終わった実感が、遅れて身体に流れ込んできているのかもしれない。
張り詰めていた糸が切れかけているのに、それでもまだ倒れられないみたいに、細い身体がかすかに揺れていた。
変わらない顔でこちらを見ている少年。
綾小路清隆。
その姿を見た瞬間、アイズの表情が揺れた。
復讐に染まりかけた冷たさも、戦場で怪物を圧倒していた無機質な殺意も、もうそこにはない。
代わりに浮かんだのは、ひどく幼くて、ひどくまっすぐな感情だった。
認めてほしい。
見ていてほしい。
届きたい。
その全部を抱えたまま、アイズは一歩踏み出す。
ただ、あの人のところへ行きたい。
その想いだけだった。
周囲の視線なんて、もう気にしていなかった。
清隆の前で、アイズは止まる。
ただ、自分がいちばん見てほしい相手に、ようやく辿り着けた少女の笑みだった。
少しだけ不安そうで。
少しだけ照れくさそうで。
それでも、どうしようもなく嬉しそうな笑み。
「……どう?」
けれど、その短い問いの中には、言葉にしきれないほど多くのものが詰まっていた。
見ていてくれたか。
届いただろうか。
少しは、認めてもらえただろうか。
そんな願いが、金色の瞳の奥で静かに揺れている。
彼の答えを待つより先に、アイズの中から言葉が溢れた。
「……私は変わらない」
ぽつりと落ちた声は、静かだった。
アイズは一度だけ目を伏せる。
「黒竜を倒すことも……奪われたものを、取り返すことも……全部、変わらない」
自分自身に、もう一度刻み直すための言葉だった。
その原点は消えない。
消えるはずがない。
あの喪失も、あの絶望も、アイズの中で今もなお生きている。
黒竜を討つという目的は、最初から最後まで変わらない。
「復讐は捨てないのか」
清隆は短く問う。
アイズは顔を上げる。
金色の瞳が揺れずに清隆を見返した。
「捨てない」
覚悟は決まっていた。
「あれは、私の始まりだから」
その声に迷いはなかった。
黒竜に奪われた過去も、喪失も、絶望も、アイズの中から消えることはない。
それをなかったことにはできないし、したくもない。
それが今の彼女を形作っているのだから。
その一言は、吐き出すというより、ようやく認めた告白に近かった。
胸の奥にずっとあったもの。
見ないふりをしてきたもの。
復讐の熱に押し込めても、消えてはくれなかったもの。
「私は、ずっと……あなたを追いかけてた。冷たくされても……突き放されても、何を考えてるのか、わからなくても、それでも、ずっと……あなたに見てほしかった」
清隆は何度もアイズを利用した。
冷酷に、執拗に。
━━━そうだとしても。
アイズには関係なかった。
希望をくれたのは彼だった。
憧れた相手は彼だった。
「オレに利用されてもか?」
清隆は再び問う。
清隆はアイズを利用している、それは紛れもない事実。
「黒竜を倒す、全部、取り返す、そのために、私はこれからも進む」
アイズの声は静かだった。
けれど、その静けさの奥には、もう揺るがないものがあった。
清隆は何も言わなかった。
「でも……今度は、この気持ちも一緒に連れていく。あなたに届きたいって思う気持ちも、見てほしいって願う気持ちも、認められたいって、ずっと思ってきた気持ちも」
それは弱さかもしれない。
依存と呼ばれるものかもしれない。
歪んでいるのかもしれない。
「……こんなふうになったのは、清隆のせい」
アイズの頬は赤く染まっていた。
「こんなに、あなたを追いかけるようになったのも」
「こんなに、見てほしいって思うようになったのも」
「……こんなに、依存してしまったのも」
アイズは清隆から目を離さなかった。
話せなかった。
「全部、あなたのせい」
責めるような声音ではなかった。
恨みでもない。
むしろそれは、どうしようもなく受け入れてしまった事実を、ようやく本人に突き返した告白に近かった。
やがて、彼が短く問う。
「責任を取れとでも言うのか」
その言葉に、アイズは一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐにその瞳は細められる。
「……うん」
返事は驚くほど素直だった。
迷いも、照れも、取り繕いもない。
ただ、そうしろという命令だった。
「責任、取って」
その言葉は重かった。
甘えるようでいて、逃がさない響きを持っていた。
「ずっと、見ててほしい」
アイズは続ける。
「私が進むところを、私が強くなるところを、私が……悲願を果たすまで」
そこで一度、言葉を切る。
呼吸はまだ荒い。
それでも、その瞳だけは少しも逸れない。
「……全部、見ててほしい」
それは願いだった。
けれど同時に、ほとんど誓約に近い響きでもあった。
自分をこんなふうにしたのなら、最後まで見届けろ。
途中で目を逸らすことは許さない。
そんな静かな執着が、その短い言葉の奥に潜んでいた。
「私は、もう迷わない」
アイズ・ヴァレンシュタインは、ようやく自分の心に名前を与えた。
奪われた過去も。
黒竜への復讐も。
仲間たちと繋いだ今も。
そして、幼い頃に清隆へ抱いたこの気持ちも。
その全部を抱えて、進んでいくと。
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アイズはオレの想像を超えた。
こんな結末は予想していなかった。
復讐に囚われ、燃え尽きる。
むしろ、そのために誘導してきたと言っていい。
だが、アイズは越えた。
神の思惑すら踏み越えて。
オレはアイズ・ヴァレンシュタインを壊すつもりだった。
復讐姫として完成させ、扱いやすい形に整え、飼い慣らすつもりだった。
あいつの中にある喪失も、怒りも、渇望も、全部ひっくるめて一つの方向へ収束させる。
突き放す言葉も、利用するための距離感も、全部まとめて楔にして、あいつを壊すつもりだった。
一度は確かに復讐へ呑まれかけた。
黒き風を纏い、他の何も見えなくなり、ただ滅ぼすためだけの剣になりかけた。
仲間に支えられることの意味。
そして、俺へ向けていたあの歪んだ執着すら。
アイズは、それを復讐の燃料にしなかった。
アイズ。
オレは、お前に期待してしまっている。
お前に期待してもいいのか?
なら━━━
もう少し、見極めるとしよう。
◇アイズ
清隆に依存してしまった哀れな女の子。
出会わなければきっと幸せ白兎と幸せになれたのに……
ちなみに清隆よりレベル上になったのに、憧れてるのは幼少期のせい。
アイズ以外の人からしたら意味不明。
◇リヴェリア
アイズを復讐姫にしようとした、清隆をぶん殴って階層の壁に叩きつけた。アイズが清隆に執着してる以上、離すわけにもいかないから最近の悩み。
◇レフィーヤ
自分も憧れている清隆にアイズが執着していて、自分も憧れていいのか悩み中。
けど、【ロキ・ファミリア】に入ったきっかけは清隆のおかげだし、憧れは消えなさそうで不憫な女の子第二号。
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本当はこんなはずじゃなかったのに、アイズが壊れちゃった……
今後の話ですが、原作をちょいちょい飛ばしながら進んでいきます。
過去の話も書きたいなとは思ってるので、期待せずに待っててください。