SUBJECT B WITHDRAWAL: VOLUNTARY
SUBJECT A PURSUIT: IMMEDIATE
MUTUAL ASSOCIATION TERMINATION: FAILED
RETURN DECISION: SELF-SELECTED
RELATIONSHIP STATUS: SELF-MAINTAINING
CROWシステム/分離事象
対象Bの離脱:自発的
対象Aの追跡:即時
相互関係の終了:失敗
帰還判断:自己選択
関係性の状態:自己維持中
黒曜が退院したのは、銃撃から十二日後だった。
退院といっても、完全に治ったわけではない。
左脇腹には再生促進材と生体接着剤で閉じられた傷が残り、医師からは少なくとも一週間の安静を命じられていた。
重い物を持たない。
激しく動かない。
魔法を行使しない。
特に、強いドレインを伴う術式は絶対に避ける。
ストリートドクは三度念を押した。
黒曜は三度とも、
「理解しています」
と答えた。
その返事を聞くたびに、アクトは信用を失った。
「理解しとる奴は、病室で勝手に荷物まとめへんねん」
「退院許可は出ています」
「今出たとこやろ」
「したがって、荷造りに問題はありません」
「まだ先生が説明しとる途中やったやんけ」
「説明内容は事前に予測可能でした」
「予測で退院すんな」
黒曜は黒い旅行鞄を閉じた。
普段の大きな帽子は鞄の上に載せられている。
ローブも戦闘用ではなく、装飾の少ない薄手のものだった。
病室の白い照明の下では、いつも以上に細く見える。
アクトは壁にもたれ、腕を組んだ。
赤い帽子。
赤い眼鏡。
銀色の四肢。
十二日間、ほぼ毎日そこにいた。
最初の三日は病室の椅子で寝た。
四日目に看護用ドローンから追い出され、廊下のベンチで寝た。
五日目からはストリートドクが諦め、簡易ベッドを置いた。
黒曜は一度も、帰れとは言わなかった。
礼も言わなかった。
ただ毎朝、目を覚ますたびにアクトがいることを確認し、そのあとで、
「まだいたのですか」
と言った。
アクトは毎回、
「今来たとこや」
と答えた。
十二日間、同じやり取りだった。
だが退院当日の黒曜は、朝から妙に静かだった。
傷の状態を確認されても。
処方薬を受け取っても。
会計額を見ても。
アクトが支払い端末へ手を伸ばしても。
「私が支払います」
それだけだった。
「別にええで」
「私の治療費です」
「半分は仕事中の怪我やろ」
「全額、私の責任です」
「何でやねん」
「不合理な攻撃行動を選択したためです」
「撃った奴が悪いやろ」
「被弾を回避できなかったのは私です」
「弾避けられへん奴が悪い理屈なら、世の中の被害者ぜんぶ悪なるぞ」
「一般論の話はしていません」
「ほな、何の話しとんねん」
黒曜は答えなかった。
支払いを済ませ、鞄を持とうとする。
アクトが先に取った。
「返してください」
「重いもん持つな言われたやろ」
「この程度は重くありません」
「基準はお前ちゃう。医者や」
「私の身体です」
「ほんま可愛げないな」
「あなたに評価される理由はありません」
黒曜の声は平坦だった。
いつもの口調。
いつもの言葉。
だが、何かが違う。
言葉が全部、少しずつ遠い。
病院を出る。
雨は降っていなかった。
雲の薄い午後。
道の向こうを広告ドローンが飛び、路面へホログラムを投げている。
アクトは黒曜の鞄を肩に担いだ。
「家まで送る」
「不要です」
「タクシー来るまで」
「不要です」
「ほな荷物返せ言うな」
「返してください」
「嫌や」
黒曜が立ち止まる。
アクトも止まった。
人の流れが二人を避けていく。
「アクト」
「何や」
「治療は完了しました」
「してへん」
「入院治療は完了しました」
「安静一週間」
「自己管理できます」
「信用ない」
「私の生活に、これ以上あなたが関与する必要はありません」
その言い方は、妙に整っていた。
黒曜はきっと、何度も頭の中で繰り返したのだ。
間違えないように。
声が震えないように。
余計な言葉を出さないように。
「何や、それ」
「説明した通りです」
「何の話や」
「共同任務についても、当面は停止します」
「傷治るまでやろ」
「期限は未定です」
「未定?」
「今後の協力関係そのものを再検討します」
アクトは黒曜を見た。
黒曜は視線を逸らさない。
顔色も悪くない。
姿勢も真っすぐだ。
帽子をかぶっていないせいで、いつもより小さく見える。
いや。
小さく見えるのではない。
逃げ道がないだけだ。
「再検討して、どうすんねん」
「解消する可能性があります」
「何を」
「私たちの共同活動を」
「理由は」
「戦術的相性に問題があります」
アクトは少し黙った。
「今さら?」
「今回、明確になりました」
「あたしら、生きて帰ったやん」
「結果論です」
「戦術としては悪くなかった」
「あなたの判断が乱れました」
「乱したんは敵や」
「私です」
「何でお前やねん」
「私が被弾したため、あなたは撤退計画を変更した」
「そらするやろ」
「冷静さを失った」
「失ってへん」
「手が震えていました」
アクトの口が止まった。
黒曜は続ける。
「本来なら、私を残して離脱する選択肢もありました」
「ない」
「ありました」
「ない言うとるやろ」
「戦術上は存在します」
「選ばん選択肢は、ないのと同じや」
「それが問題です」
黒曜の声が少し低くなる。
「あなたは私を優先する」
「共同任務やからな」
「任務の範囲を超えています」
「ほな、お前はどうや」
「何がです」
「あたしが倒れたら置いてくんか」
「状況によります」
「嘘つけ」
「合理的に判断します」
「嘘や」
「根拠のない断定です」
「前にドレインで立てんようなっても、魔法使おうとしたやろ」
「必要だったためです」
「あたし守るためやった」
「任務遂行のためです」
「そうやって、全部言い換えたら済む思うなよ」
黒曜の目がわずかに揺れた。
アクトは鞄を地面へ置いた。
「お前、あの教官に言われたこと気にしとるんやろ」
「無関係です」
「嘘や」
「虚偽ではありません」
「ほな何で、治った途端あたし切ろうとすんねん」
「治ってはいません」
「そういう細かい話ちゃうわ!」
通行人が振り返る。
アクトは声を抑えた。
「同情されとる思うたんか」
黒曜は答えない。
「かわいそうやから、あたしがおると思うた?」
「その可能性は否定できません」
「否定せえ」
「判断材料が不足しています」
「本人が否定しとるやろ」
「本人の自己認識が事実と一致するとは限りません」
「ほんま、お前は……」
アクトは言葉を切った。
怒鳴りたい。
肩を掴んで揺らしたい。
だが傷がある。
強く触れない。
それが余計に腹立たしい。
「黒曜」
「何です」
「お前、あたしを馬鹿にしとるやろ」
「そのような意図はありません」
「自分の気持ちも分からん馬鹿や思うとる」
「感情認識に不正確な点があることは事実です」
「お前に言われたないわ!」
黒曜がわずかに顔を背けた。
「ともかく」
「終わらすな」
「共同活動の停止は決定です」
「勝手に決めんな」
「私が参加しなければ成立しません」
「ほな、あたしも勝手に決める」
「何をです」
「お前が勝手に消えんよう見張る」
「迷惑です」
「知るか」
「合理的理由がありません」
「嫌やからや」
「何が」
「お前が勝手に消えんのが」
黒曜は黙った。
アクトは鞄を持ち上げる。
「家まで送る」
「不要です」
「送る」
「拒否します」
「ほな、ここで一生立っとくか?」
「タクシーを呼びます」
「一緒に乗る」
「なぜです」
「見張る言うたやろ」
「あなたは本当に……」
黒曜はため息をついた。
その吐息が、少しだけいつもの黒曜に戻っていた。
だが結局、タクシーは別々に乗った。
黒曜が先にドアを閉めたからだ。
アクトは追わなかった。
追えなかった。
窓の向こうで黒曜は一度も振り返らなかった。
◆
三日後。
アクトの端末に、フィクサーから連絡が入った。
内容は短い。
魔法関連の小口依頼。
違法タリスモンガーの倉庫から、呪物を一つ回収。
警備は少数。
依頼主は品物を壊さないことを希望。
報酬は低い。
アクトは画面を見て眉を寄せた。
「何であたしに」
『お前にじゃない』
「ほな誰や」
『黒い魔女さんだよ』
アクトの声が止まる。
『一人で受けるってさ。お前とは当面組まないとも言ってた』
「いつや」
『今朝』
「場所」
『教える義理は』
「報酬の一割」
『二割』
「一割」
『一割五分』
「急げ」
フィクサーから座標が届く。
市街地外縁部。
旧物流区画。
黒曜の家から車で十五分。
アクトは立ち上がった。
ライフルを掴む。
赤い帽子をかぶる。
玄関を出る直前、少し迷って医療キットも持った。
◆
倉庫は、使われなくなった高架道路の下にあった。
錆びたシャッター。
薄汚れた企業看板。
周囲には違法露店と修理工場が並び、どこからか金属を切る音が聞こえる。
アクトが着いたとき、倉庫の横扉はすでに開いていた。
内側に警備員が一人倒れている。
死んではいない。
眠っている。
黒曜の術式だ。
「安静一週間言われとったよな」
アクトは銃を抜く。
内部へ入る。
積み上げられた木箱。
吊り下げられた古い照明。
空気に、香と薬品が混じった匂いがある。
魔法的な品物が多い場所は、アクトにはいつも息苦しく感じられた。
ウサ耳センサーが音を拾う。
奥。
複数の足音。
低い話し声。
何かが割れる音。
そして、黒曜の声。
「それ以上近づかないでください」
「もう来たんかい!」
アクトは走った。
棚の角を曲がる。
倉庫中央。
黒曜が三人の男に囲まれている。
一人は拳銃。
一人は電撃警棒。
一人は、魔法使いらしい。
袖口に護符。
手には短いワンド。
黒曜はいつものローブを着ていた。
大きな帽子。
杖。
だが立ち方がおかしい。
左側を庇っている。
「お前!」
アクトの声に、全員が振り返る。
黒曜だけが、露骨に嫌そうな顔をした。
「なぜここにいるのです」
「それ、こっちの台詞や!」
「依頼です」
「療養は!」
「終了しました」
「してへん!」
拳銃を持った男がアクトへ照準を向けた。
「増援か!」
「ちゃう!」
アクトは即答した。
「いや、増援や!」
「どちらですか」
「お前は黙っとけ!」
銃声。
アクトは棚の陰へ滑り込む。
弾丸が箱を割る。
中から乾燥した植物片が舞った。
「商品壊すな言われとるんやろ!」
「あなたが敵を刺激したためです」
「囲まれとった奴が言うな!」
黒曜が杖を振る。
拳銃の男の視界が乱れた。
男は誰もいない方向へ三発撃つ。
幻影。
その隙にアクトが飛び出す。
拳銃の男へ接近。
手首を掴む。
銀色の指が骨の手前で止まる。
捻る。
銃が落ちる。
腹へ肘。
男が崩れた。
電撃警棒の男が黒曜へ走る。
黒曜は術式を組む。
紫晶が光る。
「魔法使うな!」
「すでに使用しています!」
「強いやつや!」
「強度は適正です!」
電撃警棒が振り下ろされる。
黒曜は避ける。
だが左脇腹が引きつる。
動きが遅れる。
警棒の先端が肩へ触れた。
放電。
黒曜の身体が跳ねる。
「黒曜!」
アクトが男へ体当たりする。
銀色の肩が胸へ入る。
男は数メートル飛び、木箱へ突っ込んだ。
箱が崩れる。
「商品!」
「知るか!」
「依頼条件違反です!」
「お前の傷開くよりマシや!」
魔法使いがワンドを向ける。
見えない力がアクトを横から打った。
身体が棚へ叩きつけられる。
金属棚が歪む。
アクトのサイバーアイに警告が走る。
損傷軽微。
問題なし。
「一人で受ける相手ちゃうやろ!」
「事前情報では覚醒者はいませんでした」
「またか!」
「今回は情報提供者の過失です」
「前も似たこと言うとったぞ!」
魔法使いが次の術式へ入る。
黒曜も杖を上げた。
紫と青の光がぶつかる。
対呪文。
空気が鳴る。
黒曜の顔が歪んだ。
傷ではない。
ドレイン。
「やめろ!」
「干渉しないでください!」
「お前まだ治っとらんやろ!」
「勝てます!」
「勝つ必要ない!」
アクトは腰から煙幕弾を抜いた。
床へ転がす。
「また煙ですか!」
「文句言うな!」
白煙が広がる。
視界が塞がる。
魔法使いが咳き込む。
黒曜が何か言う。
聞こえない。
アクトのウサ耳センサーが位置を拾う。
右前方。
足音。
アクトは低く走り、煙の中から魔法使いへ組みついた。
「なっ――」
ワンドを持つ腕を上へ逸らす。
もう片方の手で胸倉を掴む。
足を払う。
床へ倒す。
そのまま腕を極める。
「動くな。折るで」
「撃て!」
誰かが叫ぶ。
倒れていた拳銃の男が起き上がっている。
アクトへ向けて銃を拾う。
銃声。
弾丸がアクトの背中へ当たる。
装甲で止まる。
二発目。
三発目。
火花。
「アクト!」
黒曜の声。
アクトは伏せない。
押さえ込んだ魔法使いを盾にも使わない。
ただ顔を上げる。
「撃たれても平気や!」
「知っています!」
「ほな魔法使うな!」
黒曜の術式が放たれる。
不可視の衝撃が、拳銃の男を正面から打つ。
男は壁へ叩きつけられ、動かなくなった。
同時に、黒曜が膝をつく。
「阿呆!」
「必要でした」
「またそれか!」
「あなたが撃たれていました」
「平気言うたやろ!」
「知っています」
「ほな何で!」
黒曜は返事をしなかった。
アクトは押さえていた魔法使いの首へスタンバトンを当てる。
短い放電。
男が意識を失う。
倉庫が静かになる。
煙。
倒れた敵。
壊れた箱。
その中央で、黒曜は床へ片膝をついていた。
左脇腹を押さえている。
黒い手袋の下から、赤いものが見えた。
アクトの頭が冷たくなる。
「見せろ」
「必要ありません」
「見せろ!」
アクトが黒曜の手を退ける。
ローブの左側。
乾きかけた傷の上に、新しい赤が滲んでいる。
大量ではない。
だが確実に開いている。
「何が治療終了や」
「表層が一部開いただけです」
「医療キット出す」
「任務が先です」
「終わりや」
「回収対象が残っています」
「知らん」
「報酬が」
「知らん!」
アクトは医療キットを開く。
黒曜が手首を掴んだ。
「放してください」
「お前が放せ」
「私は依頼を完了します」
「何でそこまで一人でやりたいねん」
「あなたには関係ありません」
「ある言うたやろ!」
「ありません!」
黒曜が初めて声を荒らげた。
煙が薄れていく。
壊れた照明が明滅する。
アクトは黒曜の顔を見る。
怒っている。
傷が痛いからではない。
見つかったからでもない。
自分自身に追いつめられている顔だった。
「私は、一人で遂行できます」
「できてへんやん」
「あなたが介入したため、計画が乱れました」
「囲まれとったやろ」
「対処可能でした」
「傷開いて、ドレイン食らって、膝ついとる奴が?」
「可能でした!」
「何を証明したいねん!」
黒曜が黙る。
アクトは畳みかける。
「あの教官が間違っとるって?」
「……」
「自分は不適合ちゃうって?」
「黙ってください」
「一人でも完璧にできるって?」
「黙れ」
「お前が誰にも捨てられへん価値あるって?」
「黙れ!」
倉庫の奥で、何かが落ちた。
小さな金属音。
黒曜の呼吸が荒い。
「私は」
「うん」
「私は、あなたの判断を乱します」
「それ、まだ言うか」
「事実です」
「違う」
「私が被弾すれば、あなたは冷静さを失う」
「失ってへん」
「今回も傷を見ただけで、依頼を放棄すると言った」
「そら言うやろ」
「だから問題なのです!」
黒曜は立ち上がろうとする。
傷が痛む。
身体が揺れる。
アクトが支える。
黒曜はその腕を振り払った。
「触らないでください」
「倒れるぞ」
「一人で立てます」
「立ててへん」
「立てます!」
「立てるかどうかの話ちゃう!」
「では何です!」
黒曜の声が倉庫へ響いた。
アクトは一度息を吸った。
何を言えばいい。
どう言えば伝わる。
言葉にするのは苦手だった。
銃撃戦のほうが簡単だ。
敵がいて。
狙って。
撃つ。
それで終わる。
目の前の魔法使いには、どこを撃てば止まるのか分からない。
「お前が勝手に決めんな」
アクトは言った。
「何をです」
「あたしの判断が乱れたとか、迷惑やとか」
「実際に」
「乱れたんは、あたしの勝手や」
「意味が分かりません」
「お前が決めることちゃう」
「原因は私です」
「原因でも決める権利ない」
「では誰にあるのです」
「あたしや」
黒曜が眉を寄せる。
「あなたが?」
「せや」
「非合理的です」
「知るか」
「あなたは、自分を危険にさらします」
「いつものことや」
「私のために」
「それが嫌なんか」
「嫌です」
即答だった。
アクトは少し傷ついた。
顔には出さなかった。
「何で」
「あなたが損なわれる可能性がある」
「お前も同じやろ」
「私は」
「自分はええ言うなよ」
「私は、もともと」
黒曜の言葉が止まる。
「もともと何や」
「……評価の保留された人材です」
「人材ちゃう。人間や」
「言葉の問題ではありません」
「言葉の問題や」
「私は、あなたほど生存性が高くありません」
「知っとる」
「実戦経験も不足しています」
「知っとる」
「判断を誤ります」
「それも知っとる」
「なら、なぜ」
「それでもや」
「説明になっていません」
「お前、面倒やし」
黒曜が瞬く。
「何を」
「偉そうやし、言うこと聞かんし、無駄に目立つ帽子かぶるし」
「帽子は関係ありません」
「すぐ強い魔法使うし、怪我隠すし、一人で勝手に依頼受けるし」
「あなたにだけは言われたくありません」
「ほんま腹立つ」
「では、離れればよいでしょう」
「それでも」
アクトは黒曜を見る。
「おらんようになるよりマシや」
黒曜の表情が止まった。
アクトは続ける。
「かわいそうやから一緒におるんちゃう」
「……」
「教官に捨てられたからでもない」
「……」
「役に立つからだけでもない」
「では、なぜです」
「分からん」
「分からない?」
「分からんもんは分からん」
「説明を放棄しないでください」
「でも、お前がおらんようになるんは嫌や」
倉庫のどこかで、換気装置が動き始めた。
煙がゆっくり吸い出されていく。
黒曜は何も言わない。
アクトは視線を逸らした。
言いすぎた。
耳のあたりが熱い。
サイバーイヤーだから温度など関係ないはずなのに、妙に熱い。
「何とか言えや」
「処理しています」
「何を」
「あなたの発言を」
「機械みたいに言うな」
「内容に矛盾が多すぎます」
「知っとる」
「理由が分からないのに、私が不在になることを嫌う」
「せや」
「私の欠点を複数認識している」
「いっぱいある」
「それでも共同活動を継続する」
「せや」
「合理性がありません」
「ないな」
「なのに、撤回しない」
「せえへん」
黒曜は目を伏せた。
「理解できません」
「せやろな」
「あなた自身は理解しているのですか」
「してへん」
「では、私にどうしろと」
「勝手に消えんな」
「命令ですか」
アクトは少し迷った。
いつもなら、命令や、と言う。
だが今回は違う気がした。
「お願いや」
黒曜が顔を上げる。
紫色の目。
驚いている。
「もう一度、言ってください」
「嫌や」
「聞き取れませんでした」
「嘘つけ」
「確認です」
「お願いや言うたんや!」
「声が大きいです」
「お前が言わせたんやろ!」
黒曜の口元がわずかに緩む。
笑った。
ほんの少し。
アクトはそれを見て、さらに腹が立った。
「何笑っとんねん」
「笑っていません」
「笑っとる」
「筋肉の一時的な収縮です」
「ほな、その筋肉しばくぞ」
「暴力は不適切です」
「誰のせいや」
黒曜は黙った。
それから、ゆっくり息を吐く。
「私は」
「うん」
「あなたに同情されていると考えていました」
「ちゃう」
「教官の記録を知ったことで、あなたの評価が変化したと」
「変わったで」
黒曜の顔が固まる。
「どのように」
「思ったより阿呆やった」
「……」
「自分が捨てられたんちゃうか言われて、証明するため一人で撃たれに行くくらい阿呆や」
「撃たれる予定はありませんでした」
「そこちゃうわ」
「では、どこです」
「一人で何でもできる証明せんでええ」
「しかし」
「お前一人やったら無理なことある。あたし一人でもある」
「あなたは相当数の状況に単独で対応できます」
「魔法は無理や」
「魔法使いに対しても一定の」
「六人で詰んだやろ」
黒曜が言葉を止める。
「お前がおらんかったら、あの研究所から出られへんかった」
「私がいなければ、そもそも罠へ入っていません」
「細かい!」
「因果関係です」
「今回も、お前が相手の魔法止めたから撃たれながら突っ込めた」
「あなたは撃たれすぎです」
「平気や」
「装甲の損耗は蓄積します」
「ほら」
「何です」
「お前もあたし心配しとるやん」
「戦力資源の維持です」
「まだ言うか」
「事実です」
「ほな、あたしも同じでええ」
「同じ?」
「お前は戦力資源や。失ったら困る」
「その表現は適切では」
「お前が先に言うたんやろ」
「私は、もう少し正確に」
「じゃあ仲間」
黒曜が黙る。
「それでも嫌なら、相棒」
「定義が曖昧です」
「面倒やな!」
「共同契約者で十分です」
「それでええわ!」
「ただし」
「何や」
「共同契約者には、互いの判断へ一定の尊重が必要です」
「今回のお前が言う?」
「あなたも病院に十二日間居座りました」
「あれは必要やった」
「六日目以降は不要でした」
「お前、夜中に三回起きとったやろ」
「把握していたのですか」
「ウサ耳なめんな」
「プライバシーの侵害です」
「病院で勝手に立とうとするからや」
「あれは水を」
「呼べ言うたやろ」
「あなたは寝ていました」
「起こせ」
「非効率です」
「傷開くほうが非効率や!」
黒曜は少しだけ視線を泳がせた。
「……善処します」
「そこは分かった言え」
「検討します」
「戻っとるやんけ」
「何がです」
「いつものお前に」
「私は常に通常通りです」
「はいはい」
アクトは医療キットを取り出し直した。
「座れ」
「依頼対象が」
「先に傷や」
「出血は軽微です」
「座れ」
「命令ですか」
「お願いや」
黒曜がアクトを見る。
「その言い方を多用しないでください」
「何で」
「判断が難しくなります」
「ほな座れ、阿呆」
「そのほうが明確です」
黒曜は木箱へ腰を下ろした。
アクトがローブの裂け目を広げる。
新しい出血。
傷そのものは大きく開いていない。
再消毒と接着が必要な程度。
アクトの銀色の指が慎重に動く。
普段、銃を分解するときより遅い。
「痛かったら言え」
「痛くありません」
「嘘つけ」
「許容範囲です」
「それ痛い言うんや」
「定義が」
「黙っとけ」
消毒剤。
止血材。
生体接着テープ。
黒曜が一度だけ息を詰めた。
アクトの手が止まる。
「痛いやん」
「一時的な刺激です」
「ほんま可愛げない」
「必要ありません」
「少しはあってもええぞ」
「あなたが担当してください」
「何を」
「可愛げを」
「何であたしやねん」
「役割分担です」
「誰が可愛げ担当や!」
黒曜の口元がまた少し動く。
今度は、アクトも指摘しなかった。
処置を終える。
黒曜がローブを整える。
「歩けるか」
「問題ありません」
「ゆっくりな」
「依頼対象を回収します」
「まだやるんか」
「ここまで来て放棄する理由はありません」
「敵増えたら逃げるで」
「状況によります」
「絶対や」
「検討します」
「黒曜」
「……理解しました」
倉庫の奥。
封印された小型ケース。
中身は黒ずんだ銀製の指輪だった。
魔法的価値はアクトには分からない。
黒曜はアストラルで確認し、偽物ではないと判断した。
ケースを閉じる。
「終わりか」
「ええ」
「ほな帰るで」
「待ってください」
黒曜が倒れた男たちを見る。
「記憶処理を」
「強い魔法ちゃうやろな」
「簡易的な混乱を残すだけです」
「ドレインは」
「軽微です」
「やめとけ」
「追跡されます」
「顔見られたんはあたしや。いつものことや」
「私も見られています」
「帽子で覚えられとるやろな」
「認知度の向上です」
「悪目立ちや」
「戦略的特徴です」
「その帽子捨てたら追跡されへんぞ」
「共同活動を解消します」
「今仲直りしたとこやろ!」
「仲直りという認識はありません」
「何やねん!」
「意見の調整です」
「はいはい、ほな調整済みや。帰るで」
アクトが先に歩く。
数歩進み、振り返る。
黒曜はまだ立っていた。
「何しとんねん」
「確認しています」
「何を」
「あなたが本当に待つかどうか」
アクトは眉を寄せた。
「待つに決まっとるやろ」
「以前なら、先に進んでいました」
「傷あるからや」
「同情では」
「ちゃう言うたやろ」
「では、共同契約者として?」
「何でもええ。はよ来い」
黒曜が歩き出す。
アクトの隣まで来る。
二人は並んで倉庫を出た。
外は夕方だった。
高架の隙間から、橙色の光が落ちている。
アクトのバイクが路肩に止まっていた。
黒曜はそれを見る。
「二人乗りですか」
「送る」
「傷に振動が響きます」
「ゆっくり走る」
「あなたに可能ですか」
「失礼やな」
「事実確認です」
「ほなタクシー呼ぶか」
「それでは、あなたが一人になります」
「別にええやろ」
「次の襲撃に対処できません」
「誰が襲ってくんねん」
「可能性は否定できません」
「何や。心配しとるんか」
「戦力資源の維持です」
「はいはい」
アクトはバイクへ跨がる。
黒曜へ予備のヘルメットを投げる。
黒曜は受け取り、少し考えた。
「帽子はどうすれば」
「ケースに入れろ」
「変形する可能性があります」
「頭に帽子、その上からヘルメットは無理やぞ」
「術式で固定を」
「魔法使うな!」
「冗談です」
アクトが振り返る。
「お前、冗談言えたんか」
「言っていません」
「今言うたやろ」
「仮定です」
「何でもええわ」
黒曜は帽子を専用ケースへ入れ、ヘルメットをかぶった。
それから後部座席へ乗る。
アクトの腰へ手を回そうとして、途中で止めた。
「何や」
「接触が必要ですか」
「落ちるぞ」
「安定性は確保できます」
「傷あるんやから掴まれ」
黒曜の手が、アクトのジャケットへ触れる。
弱い。
「もっとしっかり」
「傷に響きます」
「ほな、あたしに寄りかかれ」
「姿勢として不適切です」
「落ちるほうが不適切や」
少し間を置いて。
黒曜の身体が、アクトの背中へ触れた。
温度。
重さ。
呼吸。
生きている。
アクトは前を向く。
「行くで」
「ええ」
「勝手に消えんなよ」
「努力します」
「分かった言え」
「……分かりました」
エンジンが動く。
バイクがゆっくり走り出す。
高架下を抜ける。
後ろから、黒曜の声がした。
「アクト」
「何や」
「先ほどの発言について」
「どれや」
「私が不在になることを嫌う、という」
「忘れろ」
「忘れません」
「忘れろ!」
「記憶力には自信があります」
「最悪や!」
「私も」
黒曜の声が少し近くなる。
「あなたが不在になることは、好ましくありません」
アクトの手が、ハンドルの上で一瞬止まりかけた。
バイクが少し揺れる。
「危な!」
「運転に集中してください」
「誰のせいや!」
「あなたの感情制御の問題です」
「お前ほんま……!」
「ただし」
「まだ何かあるんか」
「理由は明確です」
「言うてみ」
「戦力資源の維持です」
アクトは何も言わなかった。
しばらく走ってから、低く答えた。
「それでええわ」
黒曜の手が、少しだけ強くジャケットを掴んだ。
二人を乗せたバイクは、夕方の道路へ合流する。
仲直りをしたわけではない。
少なくとも、二人はそう主張するだろう。
契約を更新したわけでもない。
明確な約束を交わしたわけでもない。
ただ黒曜は、アクトの隣へ戻った。
アクトは、それを待っていた。
それだけで十分だった。
共通修正:全話の行頭字下げを削除し、ハーメルン向けの字下げなしに統一。
(7.31.2026)