アクトと黒曜   作:矢塚 和哉

13 / 16
CROW SYSTEM / SEPARATION PREDICTION TEST

SUBJECT A PURSUIT PROBABILITY: 94.2%
SUBJECT B VOLUNTARY RETURN PROBABILITY: 18.7%
EXPECTED RESULT: PURSUIT / RECOVERY
OBSERVED RESULT: NO PURSUIT / VOLUNTARY RETURN
RELATIONSHIP MODEL: INSUFFICIENT

CROWシステム/分離予測試験

対象Aの追跡確率:94.2パーセント
対象Bの自発的帰還確率:18.7パーセント
予測結果:追跡/回収
観測結果:追跡なし/自発的帰還
関係性モデル:不十分



観察者のいない部屋

 

端末を壊した翌朝、画面はまだ点いていた。

 

正確には、端末そのものは壊れていなかった。

 

黒曜が引き抜いたのは電源ユニットだけで、内部記憶装置も通信モジュールも残っていた。

 

ただし、電源のない機械が表示を続ける理由はなかった。

 

《ラスティ・コヨーテ》の奥。

 

開店前の店内には、酒と古い木材の匂いが薄く残っている。

 

壊れた自動演奏ピアノは沈黙していた。

 

右半身の欠けた保安官ホログラムだけが、入口付近で時折ちらつく。

 

丸テーブルの中央。

 

黒曜の端末。

 

画面には白い背景と、黒い文字。

 

`RELATIONSHIP STATUS: UNRESOLVED`

`関係性の状態:未解決`

 

アクトは椅子へ浅く座り、端末を眺めていた。

 

赤い帽子の上で、機械式のウサ耳が左右へ小さく動く。

 

「ほんまに電池抜いとるん?」

 

「確認してください」

 

黒曜はテーブルの端へ電源ユニットを置いた。

 

薄い板状の部品。

 

端子に焼損はない。

 

残量表示も消えている。

 

アクトは端末を持ち上げた。

 

軽く振る。

 

中から異音はしない。

 

背面カバーを開ける。

 

電源ユニットの収納部は空だった。

 

「予備電源とか」

 

「搭載されていません」

 

「魔法で光っとるとか」

 

「魔力反応もありません」

 

「ほな気合いやな」

 

「機械に気合いという概念はありません」

 

「今さらそこ否定する?」

 

黒曜は端末の横へ小型の検査器を置いた。

 

通信電波。

 

電磁誘導。

 

微弱な熱反応。

 

記憶装置への読み書き。

 

どれも検出されない。

 

画面だけが点いている。

 

「昨日から、ずっとこれ?」

 

アクトが聞いた。

 

「いいえ」

 

「消えたん?」

 

「午前三時十二分に一度、表示が消失しました」

 

「寝とったんちゃうん」

 

「記録装置を設置していました」

 

「自分、寝た?」

 

「必要な時間は休息しました」

 

「何時間」

 

「二時間四十分」

 

「寝てへんやん」

 

「十分です」

 

「十分ちゃうやろ」

 

黒曜は無視した。

 

「表示は三分四十七秒間消失。その後、別の文面へ変化しました」

 

端末の画面を指で操作する。

 

反応はない。

 

だが黒曜が記録装置を示すと、隣の小型ディスプレイへ映像が出た。

 

午前三時十二分。

 

白い画面が黒くなる。

 

無表示。

 

三分四十七秒後。

 

再点灯。

 

新しい文字。

 

`RELATIONSHIP STATUS: SELF-DEFINING`

`関係性の状態:自己定義中`

 

アクトが眉を寄せる。

 

「変わっとるやん」

 

「はい」

 

「未解決から自己定義中?」

 

「私たちの反応を観測し、分類を更新した可能性があります」

 

「誰が」

 

「不明です」

 

「CROWとかいうやつ?」

 

黒曜の視線が止まる。

 

アクトはその反応を見た。

 

「その顔、何か知っとるな」

 

「名称を知っているわけではありません」

 

「ほな何や」

 

「端末内部に、一度だけ文字列が出現しました」

 

「何で昨日言わんかったん」

 

「確証がありませんでした」

 

「今は?」

 

「依然としてありません」

 

「でも言う気になった」

 

黒曜は少し黙った。

 

「隠す理由が減少しました」

 

「最初から隠すなや」

 

「あなたが不要に介入する可能性がありました」

 

「今さらやな」

 

「事実です」

 

黒曜は別の画像を表示した。

 

一瞬だけ記録された文字列。

 

画面の隅。

 

小さい。

 

ほとんどノイズに埋もれている。

 

`CROW FICTION GENERATION UNIT`

 

その下に、さらに短い断片。

 

`CHARACTER CONTINUITY ACTIVE`

 

アクトは読んだ。

 

「フィクション?」

 

「文字どおりなら、物語生成装置です」

 

「何の」

 

「分かりません」

 

「キャラクターって誰や」

 

黒曜は答えない。

 

アクトは端末を見る。

 

`SUBJECT A: ARCTURUS`

 

`SUBJECT B: KOKUYOU`

 

「……あたしらか」

 

「可能性は高いです」

 

「いやいや」

 

アクトは笑った。

 

乾いた笑いだった。

 

「何やそれ。誰かがあたしら見て、小説でも書いとるって?」

 

「現時点では断定できません」

 

「でも、名前も行動も知っとる」

 

「はい」

 

「端末に入った記録もない」

 

「はい」

 

「魔法でもない」

 

「少なくとも、私が検出可能な形式ではありません」

 

「それで物語生成装置?」

 

黒曜は赤ワインへ手を伸ばしかけた。

 

まだ開店前だ。

 

グラスも出ていない。

 

手を途中で止める。

 

「名称が偽装である可能性もあります」

 

「敵の監視システムとか」

 

「あり得ます」

 

「企業?」

 

「あり得ます」

 

「MCT?」

 

黒曜の指が僅かに動いた。

 

「可能性は否定しません」

 

「自分を追っとる?」

 

「それなら、あなたまで対象に含める理由がありません」

 

「巻き込まれたんちゃう」

 

「あなたが?」

 

黒曜はアクトを見る。

 

「何や」

 

「あなたは巻き込まれたという認識なのですか」

 

「違うん?」

 

「私が原因だと考えているのですか」

 

アクトは一度、口を閉じた。

 

「そういう話ちゃう」

 

「では、どのような話です」

 

「また自分だけで抱え込もうとしとるんちゃうかって話や」

 

「調査は私のほうが適しています」

 

「デッカーには見せた?」

 

「まだです」

 

「何で」

 

「外部へ情報を渡す危険性があります」

 

「一人で調べて、また消えようとする気ちゃうやろな」

 

黒曜の顔が硬くなる。

 

「その必要はありません」

 

「必要あると思ったらするやろ」

 

「あなたも同様でしょう」

 

「せやから、二人で調べるんや」

 

黒曜はしばらく黙った。

 

端末の画面に、新しい文字は出ない。

 

だが、見られている気配だけが残る。

 

視線のない観察。

 

姿のない記録者。

 

アクトはテーブルの下で、右足を小さく揺らした。

 

銀色の踵が床へ触れる。

 

硬い音。

 

「まずデッカーやな」

 

「反対です」

 

「何で」

 

「この情報を第三者へ渡した時点で、観察対象が拡大する可能性があります」

 

「もう見られとるんやろ」

 

「だからこそです」

 

「ほな、どうする」

 

「行動条件を変えます」

 

「条件?」

 

黒曜は立ち上がった。

 

「観察が特定の端末、通信経路、場所、または私たちの接触頻度に依存しているか確認します」

 

「実験するん?」

 

「はい」

 

「何する」

 

「一時的に別行動を取ります」

 

アクトの足が止まった。

 

「またそれ?」

 

「今回は目的が異なります」

 

「向こうが分離時反応まで書いとった直後に?」

 

「だから確認します」

 

「分離させたいだけちゃうん」

 

「その可能性も含めて検証します」

 

「相手の思うつぼやろ」

 

「相手の意図を推測するためには、反応を観測する必要があります」

 

「自分らが観測されとるのに、こっちも観測し返すんか」

 

「そうです」

 

「面倒くさ」

 

「あなたが言い出したのではありませんか」

 

「二人で調べる言うたんや。離れろとは言うてへん」

 

黒曜は机上の端末を布で包み始めた。

 

「距離を取る必要があります」

 

「どれくらい」

 

「最低四十八時間」

 

「長いわ」

 

「短期間では傾向が得られません」

 

「一日」

 

「四十八時間」

 

「十二時間」

 

「減りすぎです」

 

「ほな二十四」

 

「三十六」

 

「二十四」

 

「三十」

 

「二十四」

 

黒曜は布を結ぶ手を止めた。

 

「根拠は」

 

「一日離れて何も起きんかったら、もう一日延ばしたらええ」

 

「途中で条件が変化します」

 

「最初から二日も消えられたら、あたしが嫌や」

 

黒曜が顔を上げる。

 

アクトは視線を逸らさなかった。

 

「……実験上の理由ですか」

 

「違う」

 

「では」

 

「嫌やからや」

 

黒曜は何も言わなかった。

 

帽子のつばが僅かに下がる。

 

「二十四時間です」

 

「決まりやな」

 

「ただし、連絡は禁止します」

 

「緊急時は?」

 

「一度だけ」

 

「位置情報は」

 

「共有しません」

 

「危ないやろ」

 

「それでは分離条件になりません」

 

「無茶すんなよ」

 

「あなたもです」

 

「端末は?」

 

「ここへ置きます」

 

「店主に預ける?」

 

「いいえ」

 

黒曜は店内を見回した。

 

奥の壁。

 

壊れたピアノ。

 

古い酒樽。

 

天井の監視カメラ。

 

すべてが急に怪しく見える。

 

「観察者のいない場所が必要です」

 

アクトが笑う。

 

「そんな部屋、シアトルにあるん?」

 

結局、端末は《ラスティ・コヨーテ》の地下倉庫へ置かれた。

 

店主は何も聞かなかった。

 

黒曜が「二十四時間、誰も入れないでください」と言うと、店主は料金だけ提示した。

 

高かった。

 

アクトが文句を言うと、店主は地下倉庫の防犯設備、気密性、鼠の少なさを説明した。

 

最後の項目は余計だった。

 

午前十時。

 

二人は店の前で別れた。

 

アクトは西。

 

黒曜は東。

 

振り返らない。

 

連絡しない。

 

追跡しない。

 

二十四時間。

 

アクトは五分で振り返った。

 

黒曜の姿はもうなかった。

 

「早ない?」

 

誰に言うでもなく呟く。

 

ウサ耳センサーが、遠くの車両音を拾う。

 

似た足音。

 

黒いローブの布擦れ。

 

違う。

 

黒曜ではない。

 

アクトは歩き出した。

 

デッカーのところへ行く予定だった。

 

ただし、CROWの話はしない。

 

端末の異常動作について、一般論だけを聞く。

 

そのつもりだった。

 

デッカーは古い集合住宅の三階に住んでいた。

 

ドアを開けると、室内は薄暗かった。

 

壁一面にモニター。

 

床にはケーブル。

 

空調は低い音を立てている。

 

「朝から珍しいな」

 

デッカーは椅子を回した。

 

「端末のことで聞きたい」

 

「壊した?」

 

「壊してへん」

 

「壊れた?」

 

「電池抜いても画面つくことある?」

 

デッカーはアクトの顔を見る。

 

「あると思う?」

 

「ないと思うから聞いとる」

 

「残留電荷なら数秒。補助電源なら数分。表示固定なら電子ペーパー」

 

「文字変わる」

 

「電池なしで?」

 

「うん」

 

「外から給電」

 

「検出されへん」

 

「誰が検出した」

 

「魔法使い」

 

「電気の話を魔法使いに任せるな」

 

「普通の計器も使った」

 

デッカーは机へ肘を置いた。

 

「現物は?」

 

「ない」

 

「ログは?」

 

「ない」

 

「映像は?」

 

「あるけど見せられへん」

 

「帰れ」

 

「冷たいな」

 

「材料なしで答えろってほうが無茶だ」

 

アクトは椅子へ座った。

 

「通信履歴も書き込み履歴もなしで、画面の文字だけ変わる」

 

「表示層を外部から直接いじる」

 

「どうやって」

 

「近距離電磁誘導。メーカーの保守機能。ハードウェアのバックドア。偽装端末。脳に見せられてる」

 

「最後の何」

 

「AR表示」

 

「黒曜と二人で同じもん見とる」

 

「二人ともハックされてる」

 

「サイバーアイないやつも?」

 

「コンタクトレンズ。網膜投影。幻覚剤。魔法」

 

「魔法反応なし」

 

「魔法使いが言った?」

 

「うん」

 

「じゃあ知らん」

 

デッカーは投げやりに言った。

 

アクトは少し考える。

 

「記録されとらん情報を知っとるシステムってある?」

 

「ある」

 

「何」

 

「お前の頭の中」

 

「機械で」

 

「予測」

 

「会話まで?」

 

「聞いてたなら」

 

「聞いてへんはずのところも」

 

「聞いてたんだろ」

 

「どうやって」

 

「それを調べるのが仕事だ。現物寄越せ」

 

「今は無理」

 

「じゃあ一般論で言うぞ」

 

デッカーはモニターの一つを消した。

 

「監視システムが一番得意なのは、見つからないことじゃない」

 

「何」

 

「相手に、どこまで見られているか分からなくさせることだ」

 

アクトは黙った。

 

「カメラ一台見つけたら、他にもあると思う。通信を一つ傍受されたら、全部読まれてると思う。そうなると、人間は勝手に行動を変える」

 

「警戒するから?」

 

「警戒して、仲間を疑って、連絡を減らして、判断を遅らせる。監視する側は何もしなくていい」

 

「見られとると思わせるだけでええ」

 

「そういうこと」

 

アクトは立ち上がった。

 

「ありがと」

 

「端末持ってこい」

 

「そのうちな」

 

「料金」

 

「相談だけやん」

 

「相談料だ」

 

「高ない?」

 

「知識は安くない」

 

アクトは文句を言いながら支払った。

 

外へ出る。

 

時計を見る。

 

午前十一時十七分。

 

まだ一時間少ししか経っていない。

 

長い。

 

異常に長い。

 

黒曜は今どこにいる。

 

何を調べている。

 

傷は痛んでいないか。

 

薬は飲んだか。

 

面倒な相手と揉めていないか。

 

連絡は禁止。

 

位置情報も見ない。

 

アクトは端末を開きかけ、閉じた。

 

「一日くらい平気やろ」

 

自分へ言う。

 

返事はない。

 

そのころ黒曜は、郊外の廃教会にいた。

 

かつて地域共同体が使用していた小さな建物。

 

今は誰も住んでいない。

 

電力は止まり、通信設備も撤去されている。

 

窓は割れ、祭壇には埃が積もっていた。

 

黒曜は中央へ簡易結界を張った。

 

物理的な盗聴。

 

魔力的な追跡。

 

霊的な観察。

 

既知の範囲で遮断する。

 

帽子を脱ぎ、杖を床へ置く。

 

一人。

 

完全な静寂。

 

黒曜は椅子へ座った。

 

何も起きない。

 

当然だった。

 

端末は地下倉庫。

 

アクトは別の場所。

 

通信もない。

 

黒曜は目を閉じる。

 

自分のオーラを確認する。

 

異物なし。

 

追跡術式なし。

 

精神操作の痕跡なし。

 

記憶改変なし。

 

では、あれは何か。

 

CROW。

 

物語生成装置。

 

対象A。

 

対象B。

 

関係性。

 

観察。

 

言葉の選択が気に入らなかった。

 

研究記録なら、もっと別の表現がある。

 

戦闘適合性。

 

行動傾向。

 

情動反応。

 

それらは理解できる。

 

だが、関係性の状態。

 

自己定義中。

 

その言葉は、必要以上に近い。

 

黒曜は目を開けた。

 

誰かが、二人を人間として見ている。

 

あるいは、人間に見えるよう記述している。

 

どちらも不快だった。

 

杖の紫水晶が微かに光る。

 

魔力を流していない。

 

黒曜は杖へ触れた。

 

光は消える。

 

「……錯覚です」

 

口に出す。

 

声が教会へ響く。

 

遠くで水滴が落ちた。

 

黒曜は時計を見る。

 

午前十一時二十二分。

 

まだ一時間二十二分。

 

アクトは何をしている。

 

デッカーへ相談したか。

 

余計なことを言っていないか。

 

無謀な調査を始めていないか。

 

端末を壊そうとしていないか。

 

自分の傷を軽視していないか。

 

黒曜は通信画面を開いた。

 

アクトの名前。

 

押さない。

 

緊急時ではない。

 

閉じる。

 

「実験です」

 

誰もいない部屋で言う。

 

その言葉が、急に空虚に聞こえた。

 

午後。

 

アクトは自宅へ戻った。

 

サイバーリムの点検。

 

銃器の清掃。

 

医療キットの補充。

 

やることはある。

 

だが手が止まる。

 

右腕の装甲板を外す。

 

内部の駆動系。

 

油分。

 

細かな傷。

 

磨く。

 

黒曜なら、もう少し手順を細かく分けろと言う。

 

端末へ記録しろと言う。

 

「自分、機械のこと分からんやろ」

 

返事はない。

 

アクトはドライバーを置いた。

 

冷蔵庫を開ける。

 

ビール。

 

一本取る。

 

戻す。

 

昼間だ。

 

代わりに水。

 

蓋を開ける。

 

飲む。

 

味がしない。

 

テレビをつける。

 

企業ニュース。

 

株価。

 

治安情報。

 

スポーツ。

 

全部消す。

 

ウサ耳センサーを外す。

 

部屋が静かになる。

 

静かすぎる。

 

黒曜の杖が床を叩く音。

 

ローブの擦れる音。

 

丁寧語で文句を言う声。

 

何もない。

 

アクトはソファへ横になった。

 

「二十四時間くらいで何やねん」

 

目を閉じる。

 

五分後、開ける。

 

時計。

 

午後一時四分。

 

進んでいない。

 

黒曜は教会の床へ術式陣を描いていた。

 

観察の概念を検出する術式。

 

対象と観察者の因果的接続を可視化する。

 

理論上は可能。

 

実用性は低い。

 

監視カメラに見られているだけでも反応する。

 

誰かが記憶しているだけでも線が出る。

 

都市部で使えば、無数の接続が重なり意味を失う。

 

だから、観察者のいない部屋が必要だった。

 

結界。

 

遮音。

 

遮光。

 

通信遮断。

 

霊的遮蔽。

 

黒曜は術式を発動した。

 

空気が震える。

 

床の線が青白く光る。

 

一本。

 

細い線が現れた。

 

黒曜の胸元から、教会の外へ伸びている。

 

西。

 

アクトのいる方向。

 

「……これは除外対象です」

 

黒曜は術式条件を修正した。

 

既知の個人関係を除外。

 

再発動。

 

線は消える。

 

別の線。

 

上。

 

天井を抜ける。

 

空へ。

 

方向がない。

 

距離もない。

 

黒曜は目を細める。

 

術式を強化する。

 

線が増える。

 

一本。

 

二本。

 

十本。

 

百本。

 

教会全体が細い光で埋まる。

 

黒曜は術式を切った。

 

光が消える。

 

息が乱れる。

 

脇腹が痛む。

 

固定材の下で傷が引きつる。

 

「不正確です」

 

自分へ言う。

 

だが、線の一本は明らかに異質だった。

 

距離が存在しない。

 

方向もない。

 

それでも接続だけがある。

 

黒曜は額へ手を当てた。

 

観察者は、場所にいない。

 

午後三時。

 

アクトは外へ出た。

 

理由はない。

 

家にいると端末へ手が伸びる。

 

歩く。

 

商店街。

 

露店。

 

修理屋。

 

薬局。

 

人が多い場所なら気が紛れる。

 

そう思った。

 

逆だった。

 

黒い髪が見えるたびに目が向く。

 

細い人影。

 

長い上着。

 

大きな帽子。

 

違う。

 

全部違う。

 

アクトは露店の前で止まった。

 

魔除け。

 

安物の護符。

 

合成水晶。

 

黒曜なら粗悪品だと言う。

 

一つ手に取る。

 

「姉ちゃん、それ効くよ」

 

店主が言う。

 

「何に」

 

「悪い視線」

 

アクトの手が止まる。

 

「視線?」

 

「監視、嫉妬、呪い。何でも」

 

「全部一緒にすんなや」

 

「五十新円」

 

「高いわ」

 

「四十」

 

「いらん」

 

アクトは護符を戻した。

 

歩き出す。

 

背後から店主が叫ぶ。

 

「見られてからじゃ遅いぞ!」

 

アクトは振り返らなかった。

 

午後五時。

 

黒曜は教会を出た。

 

調査結果は不十分。

 

結界内でも接続は消えなかった。

 

物理的な監視ではない。

 

通常の魔力的観察でもない。

 

対象の認識に依存する可能性。

 

つまり、CROWを意識した時点で接続が成立する。

 

そう考えれば、距離を取る意味はない。

 

実験は中止すべき。

 

だが、まだ二十四時間経っていない。

 

黒曜は端末を開く。

 

アクトへ連絡。

 

指が止まる。

 

緊急ではない。

 

約束を破る理由がない。

 

代わりに、黒曜は街へ向かった。

 

人目を避ける。

 

監視カメラを避ける。

 

通信塔から距離を取る。

 

行動パターンを不規則化する。

 

路地を曲がる。

 

地下通路。

 

廃駅。

 

市場。

 

再び路地。

 

どこへ向かっているのか、自分でも分からないようにする。

 

追跡者がいれば、振り切れる。

 

だが、誰もいない。

 

それでも黒曜は歩き続けた。

 

午後七時。

 

アクトは《ラスティ・コヨーテ》にいた。

 

実験中は地下倉庫へ入らない約束。

 

だから、いつもの席へ座っている。

 

ビール瓶。

 

一本目。

 

店主がタオルを畳んでいる。

 

「地下、何か音せえへん?」

 

店主は首を横へ振る。

 

「光ったり」

 

首を横へ振る。

 

「誰か入った?」

 

首を横へ振る。

 

「自分、ちゃんと見とる?」

 

店主は料金表を指した。

 

追加監視料金。

 

アクトは顔をしかめる。

 

「金取るんかい」

 

店主は頷く。

 

「ええわ」

 

アクトはビールを飲む。

 

時計を見る。

 

午後七時十二分。

 

あと十四時間四十八分。

 

長すぎる。

 

入口が開くたび、アクトは見る。

 

黒曜ではない。

 

客が増える。

 

笑い声。

 

カードゲーム。

 

酒瓶。

 

壊れたピアノ。

 

いつもの店。

 

黒曜がいないだけで、配置が違って見える。

 

午後九時。

 

黒曜は河川沿いの廃工場にいた。

 

雨が降り始めている。

 

屋根の穴から水が落ちる。

 

通信端末は切ってある。

 

位置情報も無効。

 

アストラル空間に追跡者はいない。

 

それでも、見られている感覚が消えない。

 

理性的根拠はない。

 

錯覚。

 

自己暗示。

 

観察されていると知った者が陥る過剰警戒。

 

黒曜は理解している。

 

理解していても消えない。

 

壁際へ座る。

 

杖を横へ置く。

 

傷が痛む。

 

鎮痛剤を飲む。

 

水が少ない。

 

アクトなら、薬を飲む前に何か食べろと言う。

 

「不要です」

 

誰もいない場所で言う。

 

声が小さい。

 

黒曜は目を閉じる。

 

アクトは今、どこにいる。

 

自宅。

 

デッカー。

 

酒場。

 

おそらく酒場。

 

待っている可能性が高い。

 

いや。

 

追跡するかもしれない。

 

アクトは追う。

 

前回も追った。

 

黒曜が関係を解消しようとしたときも、倉庫まで追ってきた。

 

今回も来る。

 

足音。

 

雨音に混じった気がした。

 

黒曜は立ち上がる。

 

杖を構える。

 

誰もいない。

 

別の方向。

 

金属音。

 

アクトのサイバーリム。

 

違う。

 

落下した配管。

 

黒曜は息を吐く。

 

「予測可能です」

 

自分へ言う。

 

アクトは必ず追う。

 

そういう人物。

 

だからこそ、CROWも予測できる。

 

黒曜が離れれば、アクトは追う。

 

アクトが危険なら、黒曜は戻る。

 

単純な反応。

 

相互依存。

 

保護偏向。

 

分離時反応不安定。

 

観察記録の分類。

 

間違っている。

 

だが完全には否定できない。

 

黒曜は端末を見た。

 

電源は切れている。

 

画面は暗い。

 

それでも、自分の行動がどこかへ記録されている気がした。

 

`SUBJECT B AWAITING PURSUIT`

 

そんな文字が浮かぶ。

 

黒曜は端末を壁へ投げそうになった。

 

直前で止める。

 

「私は待っていません」

 

誰に言うのか。

 

CROWへ。

 

アクトへ。

 

自分へ。

 

分からない。

 

午後十一時。

 

アクトはまだ酒場にいた。

 

ビールは二本。

 

三本目は頼んでいない。

 

酔うと追いかけたくなる。

 

だから飲まない。

 

店主が閉店準備を始める。

 

「まだおるで」

 

店主は地下を指す。

 

「端末?」

 

頷く。

 

「人は?」

 

首を横へ振る。

 

「そらそうやな」

 

店主が照明を落とす。

 

アクトは立ち上がった。

 

帰るべき。

 

だが帰らない。

 

「ここ座っとってええ?」

 

店主は追加料金表を出す。

 

「ほんま金取るな」

 

アクトは支払った。

 

店内が静かになる。

 

保安官ホログラムも消える。

 

赤いネオンだけが窓から差す。

 

アクトは椅子を二つ並べ、片方へ足を乗せた。

 

黒曜のいつもの席は空いている。

 

端末を開く。

 

連絡先。

 

黒曜。

 

押さない。

 

約束。

 

緊急時ではない。

 

たぶん。

 

「ほんまに大丈夫やろな」

 

誰も答えない。

 

午前零時。

 

黒曜は廃工場を出た。

 

理由は、寒さ。

 

傷。

 

雨。

 

合理的に考えれば、休息環境を変えるべき。

 

宿泊施設を取ることもできる。

 

だが偽造SINの使用記録が残る。

 

ネットワーク接続も生じる。

 

実験条件が崩れる。

 

黒曜は歩く。

 

足が自然に西へ向く。

 

《ラスティ・コヨーテ》の方向。

 

気づいて止まる。

 

「違います」

 

別の道へ曲がる。

 

十分後。

 

また西へ向いている。

 

黒曜は立ち止まった。

 

街灯の下。

 

雨粒。

 

濡れたローブ。

 

帽子のつばから水が落ちる。

 

アクトは追ってくる。

 

そう考えていた。

 

だが来ない。

 

位置情報を切っているから。

 

追跡手段を使っていないから。

 

約束を守っているから。

 

当然。

 

それでも、胸の奥に不快な空白がある。

 

追ってほしかったわけではない。

 

確認したかっただけ。

 

CROWの予測どおりになるかを。

 

アクトが追えば、予測どおり。

 

追わなければ、予測外。

 

実験としては後者が望ましい。

 

では、なぜ不快なのか。

 

黒曜は答えを出さない。

 

午前二時。

 

アクトは机へ突っ伏していた。

 

眠ってはいない。

 

目を閉じているだけ。

 

ウサ耳センサーは最大感度。

 

店の外の足音。

 

車。

 

風。

 

雨。

 

遠くのサイレン。

 

黒曜の足音はない。

 

追うべきか。

 

デッカーなら、監視側の狙いは行動を変えさせることだと言った。

 

追えば、変えられたことになる。

 

追わなくても、変えられている。

 

何もしないことも、CROWに選ばされた行動かもしれない。

 

「うっとうしいな」

 

アクトは顔を上げた。

 

地下倉庫の扉を見る。

 

端末はそこ。

 

何か表示されているかもしれない。

 

入らない約束。

 

だが、相手は約束を知っている。

 

それを利用しているかもしれない。

 

アクトは立つ。

 

地下へ続く扉まで行く。

 

鍵へ手を伸ばす。

 

止める。

 

戻る。

 

椅子へ座る。

 

「見いひん」

 

声に出す。

 

「追わへん」

 

誰かへ宣言する。

 

「自分で戻ってくるまで待つ」

 

それがCROWの予測かどうかは知らない。

 

合理的かどうかも知らない。

 

ただ、前回とは違う。

 

前回は黒曜が消えようとした。

 

だから追った。

 

今回は戻ると約束した。

 

だから待つ。

 

同じ相手。

 

違う選択。

 

それでいい。

 

午前四時。

 

黒曜は公園の屋根付き休憩所へ座っていた。

 

雨は弱くなっている。

 

眠れない。

 

傷が痛む。

 

体温が下がっている。

 

実験継続は非合理的。

 

二十四時間まで、あと六時間。

 

中止条件には該当する。

 

連絡すべき。

 

黒曜は端末を出す。

 

アクトへ送る文面。

 

『実験を中止します』

 

打つ。

 

消す。

 

『安全上の理由により、集合地点へ戻ります』

 

打つ。

 

消す。

 

『戻ります』

 

短い。

 

送信しようとする。

 

止める。

 

連絡は禁止。

 

緊急時のみ。

 

これは緊急ではない。

 

自力で戻れる。

 

黒曜は立ち上がった。

 

《ラスティ・コヨーテ》へ向かう。

 

追われていないか確認する。

 

遠回り。

 

路地。

 

高架下。

 

地下道。

 

だが、目的地は変えない。

 

午前五時四十一分。

 

酒場の入口が開いた。

 

アクトのウサ耳が跳ねる。

 

黒曜が立っていた。

 

濡れている。

 

顔色が悪い。

 

ローブの裾は泥で汚れている。

 

帽子から水が落ちる。

 

アクトは立ち上がった。

 

すぐ駆け寄ろうとして、止まる。

 

黒曜が自分の足で入ってくる。

 

「遅かったな」

 

アクトが言った。

 

「まだ二十四時間経過していません」

 

「知っとる」

 

「実験を中止します」

 

「せやな」

 

黒曜は店内を見回した。

 

「追跡しなかったのですか」

 

「せえへんかった」

 

「位置情報を取得する方法はあったはずです」

 

「せやな」

 

「デッカーへ依頼することも」

 

「できたやろな」

 

「なぜ」

 

アクトは椅子を引いた。

 

「追ったら、向こうの思うつぼやろ」

 

「それだけですか」

 

「違う」

 

黒曜は待つ。

 

アクトは黒曜の濡れた帽子を見た。

 

ローブ。

 

青白い顔。

 

脇腹へ庇うように添えられた手。

 

「戻る言うたから」

 

「私が戻らなかった場合は」

 

「戻るまで待った」

 

黒曜の表情が僅かに崩れた。

 

怒りでも驚きでもない。

 

何かを言おうとして、言葉が見つからない顔。

 

アクトはタオルを投げた。

 

黒曜が受け取る。

 

「拭き」

 

「店の備品ですか」

 

「勘定につくやろな」

 

店主は奥から無言で料金表を掲げた。

 

アクトが舌打ちする。

 

黒曜はタオルで髪を拭いた。

 

「あなたは、一晩ここにいたのですか」

 

「まあな」

 

「非効率です」

 

「帰ったら追いかけそうやったから」

 

「では、やはり追跡する意図が」

 

「せえへんために、ここおった」

 

黒曜は椅子へ座った。

 

アクトも向かいへ座る。

 

「調査結果は」

 

黒曜が聞く。

 

「デッカーに一般論だけ聞いた」

 

「情報を渡したのですか」

 

「具体的には言うてへん」

 

「何と言っていました」

 

「監視で一番怖いんは、どこまで見られとるか分からんようにすることやって」

 

黒曜は黙る。

 

「人間が勝手に動き変えるから、監視する側は何もせんでええ」

 

「妥当です」

 

「自分は?」

 

「観察者との接続を検出しました」

 

「見つけた?」

 

「いいえ」

 

「どこにおる」

 

「場所という概念が適用できません」

 

「何やそれ」

 

「方向も距離も存在しない接続です」

 

「魔法?」

 

「不明です」

 

「また不明か」

 

「現時点では、それが正確です」

 

アクトは地下倉庫への扉を見る。

 

「端末、見に行く?」

 

黒曜も見る。

 

「実験条件はすでに中止されています」

 

「ほな行こか」

 

店主から鍵を受け取る。

 

追加料金。

 

アクトが文句を言う。

 

地下倉庫は狭かった。

 

酒樽。

 

空き瓶。

 

古い椅子。

 

鼠は見当たらない。

 

店主の説明どおりだった。

 

中央に、小さな机。

 

その上に端末。

 

電源ユニットは外されたまま。

 

画面は点いている。

 

黒曜とアクトが近づく。

 

表示は変わっていた。

 

`SEPARATION EXPERIMENT: COMPLETE`

`分離実験:完了`

 

アクトが顔をしかめる。

 

「自分らの実験やのに、向こうが完了言うん?」

 

黒曜は画面を読む。

 

次の行。

 

`SUBJECT A PURSUIT PROBABILITY: 94.2%`

`対象Aの追跡確率:94.2パーセント`

 

`OBSERVED RESULT: NO PURSUIT`

`観測結果:追跡なし`

 

アクトが小さく笑う。

 

「外したな」

 

さらに表示。

 

`SUBJECT B RETURN PROBABILITY WITHOUT PURSUIT: 18.7%`

`追跡がない場合に対象Bが帰還する確率:18.7パーセント`

 

`OBSERVED RESULT: VOLUNTARY RETURN`

`観測結果:自発的帰還`

 

黒曜の目が細くなる。

 

「確率評価の根拠が不明です」

 

「負け惜しみ?」

 

「検証です」

 

画面が一度ちらつく。

 

`PREDICTION ERROR`

`予測誤差`

 

その文字だけが、他より大きく表示された。

 

アクトは腕を組む。

 

「ざまあみろ」

 

「挑発しないでください」

 

「聞こえとるならええやろ」

 

「相手の能力が不明です」

 

「でも外した」

 

「一度だけです」

 

「一回目が大事や」

 

「根拠は」

 

「なんとなく」

 

黒曜は反論しようとした。

 

画面が変わる。

 

`BEHAVIORAL MODEL UPDATE FAILED`

`行動モデルの更新に失敗`

 

`RELATIONSHIP MODEL: INSUFFICIENT`

`関係性モデル:不十分`

 

二人は黙った。

 

端末の文字が点滅する。

 

不十分。

 

アクトが鼻で笑う。

 

「不十分やって」

 

黒曜は画面を一度だけ見て、視線を外した。

 

「当然です」

 

「何で」

 

「私たちの関係を、私たち以外が定義できるはずがありません」

 

アクトは少し笑った。

 

「ほな、自分には分かっとるん?」

 

「いいえ」

 

「あかんやん」

 

「不明であることと、不十分であることは異なります」

 

「どう違うん」

 

「不明とは、まだ決定していない状態です。不十分とは、外部のモデルが対象を説明できていない状態です」

 

「同じちゃう?」

 

「違います」

 

「また始まった」

 

黒曜は端末へ手を伸ばす。

 

触れる直前、画面に新しい文字が出た。

 

`SELF-DEFINITION REQUESTED`

`自己定義を要求`

 

その下に、入力欄。

 

`DEFINE RELATIONSHIP:`

`関係性を定義してください:`

 

アクトと黒曜は同時に止まった。

 

「入れろって?」

 

アクトが聞く。

 

「要求形式です」

 

「何て書く」

 

「入力する必要はありません」

 

「でも、気になるやん」

 

「相手の誘導に従うべきではありません」

 

「相棒?」

 

「不正確です」

 

「仕事仲間」

 

「不十分です」

 

「友達」

 

黒曜の顔が僅かに動く。

 

「何や」

 

「その語は範囲が広すぎます」

 

「ほな恋人」

 

「却下します」

 

即答だった。

 

「早いな」

 

「冗談を入力しないでください」

 

「入力してへんやん」

 

「検討も不要です」

 

「顔赤ない?」

 

「照明です」

 

地下倉庫の照明は青白かった。

 

アクトは笑う。

 

黒曜は入力欄を睨む。

 

「依存」

 

黒曜が言った。

 

アクトの笑いが止まる。

 

「それは嫌やな」

 

「私もです」

 

「相互補完」

 

「機能面では適切です」

 

「機能面だけ?」

 

「それ以上の分類は不要です」

 

「でも向こうは欲しがっとる」

 

「だから与えません」

 

黒曜は端末を閉じようとする。

 

画面は閉じない。

 

代わりに、文字が追加される。

 

`NON-RESPONSE RECORDED`

`無回答を記録`

 

`AVOIDANCE RESPONSE DETECTED`

`回避反応を検出`

 

アクトが舌打ちした。

 

「腹立つな、こいつ」

 

「反応しないでください」

 

「自分も腹立っとるやろ」

 

「分類方法に問題があります」

 

「そこ?」

 

「重要です」

 

アクトは端末を持ち上げた。

 

電源のない機械。

 

消せない画面。

 

勝手に二人を分類する装置。

 

「壊す?」

 

黒曜はすぐには答えなかった。

 

杖の紫水晶が淡く光る。

 

「現時点では、情報源としての価値があります」

 

「最終的には?」

 

黒曜は画面を見る。

 

`DEFINE RELATIONSHIP:`

`関係性を定義してください:`

 

入力欄のカーソルが点滅している。

 

「必要なら破壊します」

 

「必要になるやろな」

 

「断定はできません」

 

「自分、壊したそうな顔しとるで」

 

「表情から推測しないでください」

 

「観察や」

 

黒曜はアクトを見る。

 

「その言葉を使わないでください」

 

アクトは少し黙った。

 

「……悪かった」

 

黒曜は視線を戻した。

 

画面に、また一行。

 

`EMOTIONAL ADJUSTMENT OBSERVED`

`感情調整を確認`

 

アクトの眉間に皺が寄る。

 

「やっぱ壊そか」

 

「待ってください」

 

「何で」

 

「試したいことがあります」

 

黒曜は入力欄へ指を置いた。

 

画面が反応する。

 

文字入力可能。

 

「何書くん」

 

「定義しません」

 

黒曜は一文字ずつ入力した。

 

`NOT YOUR DECISION`

 

その下に、自動翻訳が出る。

 

`あなたが決めることではない`

 

アクトが笑う。

 

「ええやん」

 

送信。

 

画面が停止した。

 

数秒。

 

十秒。

 

変化なし。

 

一分。

 

何も起きない。

 

アクトが覗き込む。

 

「固まった?」

 

「処理中の可能性があります」

 

二分後。

 

画面が黒くなった。

 

完全な暗闇。

 

アクトが端末を振る。

 

「消えた」

 

黒曜は魔力を確認する。

 

反応なし。

 

検査器。

 

通信なし。

 

電源なし。

 

今度こそ、ただの端末だった。

 

「勝った?」

 

アクトが聞く。

 

「判断するには早すぎます」

 

「でも黙ったで」

 

「一時的な停止かもしれません」

 

「自分、ほんま素直に喜ばんな」

 

「喜ぶ根拠がありません」

 

「ほな、あたしだけ喜んどくわ」

 

アクトは端末を机へ戻した。

 

地下倉庫を出る。

 

階段を上がる。

 

店内には朝の光が入り始めていた。

 

赤いネオンは消えている。

 

壊れたピアノ。

 

黒ずんだ木壁。

 

いつもの丸テーブル。

 

黒曜が椅子へ座る。

 

アクトは向かいではなく、隣へ座った。

 

「なぜ隣なのです」

 

「別に」

 

「席は空いています」

 

「ここがええ」

 

「観察者への対抗行動ですか」

 

「違う」

 

「では」

 

「座りたいから」

 

黒曜は何も言わない。

 

アクトは店主へ二本指を上げた。

 

ビールと赤ワイン。

 

店主が出す。

 

朝から酒。

 

合理的ではない。

 

黒曜はグラスを受け取った。

 

アクトが瓶を持ち上げる。

 

「予測外れに」

 

「祝うことではありません」

 

「ええやん」

 

黒曜は少し考えた。

 

グラスを持ち上げる。

 

瓶とグラスが軽く触れる。

 

小さな音。

 

「モデルの不十分性に」

 

「言い方かた」

 

二人は飲んだ。

 

地下倉庫では、電源のない端末が沈黙している。

 

画面は暗い。

 

通信もない。

 

光もない。

 

それでも、内部のどこか。

 

記録できない領域で、一行だけが更新された。

 

`RELATIONSHIP MODEL: RESISTING DEFINITION`

`関係性モデル:定義へ抵抗中`

 

その文字を、二人は見なかった。

 

見なくてもよかった。

 

定義されないことを選んだ時点で、それはもう観察者のものではなかった。

 




共通修正:全話の行頭字下げを削除し、ハーメルン向けの字下げなしに統一。
(7.31.2026)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。