SUBJECT A PURSUIT PROBABILITY: 94.2%
SUBJECT B VOLUNTARY RETURN PROBABILITY: 18.7%
EXPECTED RESULT: PURSUIT / RECOVERY
OBSERVED RESULT: NO PURSUIT / VOLUNTARY RETURN
RELATIONSHIP MODEL: INSUFFICIENT
CROWシステム/分離予測試験
対象Aの追跡確率:94.2パーセント
対象Bの自発的帰還確率:18.7パーセント
予測結果:追跡/回収
観測結果:追跡なし/自発的帰還
関係性モデル:不十分
端末を壊した翌朝、画面はまだ点いていた。
正確には、端末そのものは壊れていなかった。
黒曜が引き抜いたのは電源ユニットだけで、内部記憶装置も通信モジュールも残っていた。
ただし、電源のない機械が表示を続ける理由はなかった。
《ラスティ・コヨーテ》の奥。
開店前の店内には、酒と古い木材の匂いが薄く残っている。
壊れた自動演奏ピアノは沈黙していた。
右半身の欠けた保安官ホログラムだけが、入口付近で時折ちらつく。
丸テーブルの中央。
黒曜の端末。
画面には白い背景と、黒い文字。
`RELATIONSHIP STATUS: UNRESOLVED`
`関係性の状態:未解決`
アクトは椅子へ浅く座り、端末を眺めていた。
赤い帽子の上で、機械式のウサ耳が左右へ小さく動く。
「ほんまに電池抜いとるん?」
「確認してください」
黒曜はテーブルの端へ電源ユニットを置いた。
薄い板状の部品。
端子に焼損はない。
残量表示も消えている。
アクトは端末を持ち上げた。
軽く振る。
中から異音はしない。
背面カバーを開ける。
電源ユニットの収納部は空だった。
「予備電源とか」
「搭載されていません」
「魔法で光っとるとか」
「魔力反応もありません」
「ほな気合いやな」
「機械に気合いという概念はありません」
「今さらそこ否定する?」
黒曜は端末の横へ小型の検査器を置いた。
通信電波。
電磁誘導。
微弱な熱反応。
記憶装置への読み書き。
どれも検出されない。
画面だけが点いている。
「昨日から、ずっとこれ?」
アクトが聞いた。
「いいえ」
「消えたん?」
「午前三時十二分に一度、表示が消失しました」
「寝とったんちゃうん」
「記録装置を設置していました」
「自分、寝た?」
「必要な時間は休息しました」
「何時間」
「二時間四十分」
「寝てへんやん」
「十分です」
「十分ちゃうやろ」
黒曜は無視した。
「表示は三分四十七秒間消失。その後、別の文面へ変化しました」
端末の画面を指で操作する。
反応はない。
だが黒曜が記録装置を示すと、隣の小型ディスプレイへ映像が出た。
午前三時十二分。
白い画面が黒くなる。
無表示。
三分四十七秒後。
再点灯。
新しい文字。
`RELATIONSHIP STATUS: SELF-DEFINING`
`関係性の状態:自己定義中`
アクトが眉を寄せる。
「変わっとるやん」
「はい」
「未解決から自己定義中?」
「私たちの反応を観測し、分類を更新した可能性があります」
「誰が」
「不明です」
「CROWとかいうやつ?」
黒曜の視線が止まる。
アクトはその反応を見た。
「その顔、何か知っとるな」
「名称を知っているわけではありません」
「ほな何や」
「端末内部に、一度だけ文字列が出現しました」
「何で昨日言わんかったん」
「確証がありませんでした」
「今は?」
「依然としてありません」
「でも言う気になった」
黒曜は少し黙った。
「隠す理由が減少しました」
「最初から隠すなや」
「あなたが不要に介入する可能性がありました」
「今さらやな」
「事実です」
黒曜は別の画像を表示した。
一瞬だけ記録された文字列。
画面の隅。
小さい。
ほとんどノイズに埋もれている。
`CROW FICTION GENERATION UNIT`
その下に、さらに短い断片。
`CHARACTER CONTINUITY ACTIVE`
アクトは読んだ。
「フィクション?」
「文字どおりなら、物語生成装置です」
「何の」
「分かりません」
「キャラクターって誰や」
黒曜は答えない。
アクトは端末を見る。
`SUBJECT A: ARCTURUS`
`SUBJECT B: KOKUYOU`
「……あたしらか」
「可能性は高いです」
「いやいや」
アクトは笑った。
乾いた笑いだった。
「何やそれ。誰かがあたしら見て、小説でも書いとるって?」
「現時点では断定できません」
「でも、名前も行動も知っとる」
「はい」
「端末に入った記録もない」
「はい」
「魔法でもない」
「少なくとも、私が検出可能な形式ではありません」
「それで物語生成装置?」
黒曜は赤ワインへ手を伸ばしかけた。
まだ開店前だ。
グラスも出ていない。
手を途中で止める。
「名称が偽装である可能性もあります」
「敵の監視システムとか」
「あり得ます」
「企業?」
「あり得ます」
「MCT?」
黒曜の指が僅かに動いた。
「可能性は否定しません」
「自分を追っとる?」
「それなら、あなたまで対象に含める理由がありません」
「巻き込まれたんちゃう」
「あなたが?」
黒曜はアクトを見る。
「何や」
「あなたは巻き込まれたという認識なのですか」
「違うん?」
「私が原因だと考えているのですか」
アクトは一度、口を閉じた。
「そういう話ちゃう」
「では、どのような話です」
「また自分だけで抱え込もうとしとるんちゃうかって話や」
「調査は私のほうが適しています」
「デッカーには見せた?」
「まだです」
「何で」
「外部へ情報を渡す危険性があります」
「一人で調べて、また消えようとする気ちゃうやろな」
黒曜の顔が硬くなる。
「その必要はありません」
「必要あると思ったらするやろ」
「あなたも同様でしょう」
「せやから、二人で調べるんや」
黒曜はしばらく黙った。
端末の画面に、新しい文字は出ない。
だが、見られている気配だけが残る。
視線のない観察。
姿のない記録者。
アクトはテーブルの下で、右足を小さく揺らした。
銀色の踵が床へ触れる。
硬い音。
「まずデッカーやな」
「反対です」
「何で」
「この情報を第三者へ渡した時点で、観察対象が拡大する可能性があります」
「もう見られとるんやろ」
「だからこそです」
「ほな、どうする」
「行動条件を変えます」
「条件?」
黒曜は立ち上がった。
「観察が特定の端末、通信経路、場所、または私たちの接触頻度に依存しているか確認します」
「実験するん?」
「はい」
「何する」
「一時的に別行動を取ります」
アクトの足が止まった。
「またそれ?」
「今回は目的が異なります」
「向こうが分離時反応まで書いとった直後に?」
「だから確認します」
「分離させたいだけちゃうん」
「その可能性も含めて検証します」
「相手の思うつぼやろ」
「相手の意図を推測するためには、反応を観測する必要があります」
「自分らが観測されとるのに、こっちも観測し返すんか」
「そうです」
「面倒くさ」
「あなたが言い出したのではありませんか」
「二人で調べる言うたんや。離れろとは言うてへん」
黒曜は机上の端末を布で包み始めた。
「距離を取る必要があります」
「どれくらい」
「最低四十八時間」
「長いわ」
「短期間では傾向が得られません」
「一日」
「四十八時間」
「十二時間」
「減りすぎです」
「ほな二十四」
「三十六」
「二十四」
「三十」
「二十四」
黒曜は布を結ぶ手を止めた。
「根拠は」
「一日離れて何も起きんかったら、もう一日延ばしたらええ」
「途中で条件が変化します」
「最初から二日も消えられたら、あたしが嫌や」
黒曜が顔を上げる。
アクトは視線を逸らさなかった。
「……実験上の理由ですか」
「違う」
「では」
「嫌やからや」
黒曜は何も言わなかった。
帽子のつばが僅かに下がる。
「二十四時間です」
「決まりやな」
「ただし、連絡は禁止します」
「緊急時は?」
「一度だけ」
「位置情報は」
「共有しません」
「危ないやろ」
「それでは分離条件になりません」
「無茶すんなよ」
「あなたもです」
「端末は?」
「ここへ置きます」
「店主に預ける?」
「いいえ」
黒曜は店内を見回した。
奥の壁。
壊れたピアノ。
古い酒樽。
天井の監視カメラ。
すべてが急に怪しく見える。
「観察者のいない場所が必要です」
アクトが笑う。
「そんな部屋、シアトルにあるん?」
結局、端末は《ラスティ・コヨーテ》の地下倉庫へ置かれた。
店主は何も聞かなかった。
黒曜が「二十四時間、誰も入れないでください」と言うと、店主は料金だけ提示した。
高かった。
アクトが文句を言うと、店主は地下倉庫の防犯設備、気密性、鼠の少なさを説明した。
最後の項目は余計だった。
午前十時。
二人は店の前で別れた。
アクトは西。
黒曜は東。
振り返らない。
連絡しない。
追跡しない。
二十四時間。
アクトは五分で振り返った。
黒曜の姿はもうなかった。
「早ない?」
誰に言うでもなく呟く。
ウサ耳センサーが、遠くの車両音を拾う。
似た足音。
黒いローブの布擦れ。
違う。
黒曜ではない。
アクトは歩き出した。
デッカーのところへ行く予定だった。
ただし、CROWの話はしない。
端末の異常動作について、一般論だけを聞く。
そのつもりだった。
デッカーは古い集合住宅の三階に住んでいた。
ドアを開けると、室内は薄暗かった。
壁一面にモニター。
床にはケーブル。
空調は低い音を立てている。
「朝から珍しいな」
デッカーは椅子を回した。
「端末のことで聞きたい」
「壊した?」
「壊してへん」
「壊れた?」
「電池抜いても画面つくことある?」
デッカーはアクトの顔を見る。
「あると思う?」
「ないと思うから聞いとる」
「残留電荷なら数秒。補助電源なら数分。表示固定なら電子ペーパー」
「文字変わる」
「電池なしで?」
「うん」
「外から給電」
「検出されへん」
「誰が検出した」
「魔法使い」
「電気の話を魔法使いに任せるな」
「普通の計器も使った」
デッカーは机へ肘を置いた。
「現物は?」
「ない」
「ログは?」
「ない」
「映像は?」
「あるけど見せられへん」
「帰れ」
「冷たいな」
「材料なしで答えろってほうが無茶だ」
アクトは椅子へ座った。
「通信履歴も書き込み履歴もなしで、画面の文字だけ変わる」
「表示層を外部から直接いじる」
「どうやって」
「近距離電磁誘導。メーカーの保守機能。ハードウェアのバックドア。偽装端末。脳に見せられてる」
「最後の何」
「AR表示」
「黒曜と二人で同じもん見とる」
「二人ともハックされてる」
「サイバーアイないやつも?」
「コンタクトレンズ。網膜投影。幻覚剤。魔法」
「魔法反応なし」
「魔法使いが言った?」
「うん」
「じゃあ知らん」
デッカーは投げやりに言った。
アクトは少し考える。
「記録されとらん情報を知っとるシステムってある?」
「ある」
「何」
「お前の頭の中」
「機械で」
「予測」
「会話まで?」
「聞いてたなら」
「聞いてへんはずのところも」
「聞いてたんだろ」
「どうやって」
「それを調べるのが仕事だ。現物寄越せ」
「今は無理」
「じゃあ一般論で言うぞ」
デッカーはモニターの一つを消した。
「監視システムが一番得意なのは、見つからないことじゃない」
「何」
「相手に、どこまで見られているか分からなくさせることだ」
アクトは黙った。
「カメラ一台見つけたら、他にもあると思う。通信を一つ傍受されたら、全部読まれてると思う。そうなると、人間は勝手に行動を変える」
「警戒するから?」
「警戒して、仲間を疑って、連絡を減らして、判断を遅らせる。監視する側は何もしなくていい」
「見られとると思わせるだけでええ」
「そういうこと」
アクトは立ち上がった。
「ありがと」
「端末持ってこい」
「そのうちな」
「料金」
「相談だけやん」
「相談料だ」
「高ない?」
「知識は安くない」
アクトは文句を言いながら支払った。
外へ出る。
時計を見る。
午前十一時十七分。
まだ一時間少ししか経っていない。
長い。
異常に長い。
黒曜は今どこにいる。
何を調べている。
傷は痛んでいないか。
薬は飲んだか。
面倒な相手と揉めていないか。
連絡は禁止。
位置情報も見ない。
アクトは端末を開きかけ、閉じた。
「一日くらい平気やろ」
自分へ言う。
返事はない。
そのころ黒曜は、郊外の廃教会にいた。
かつて地域共同体が使用していた小さな建物。
今は誰も住んでいない。
電力は止まり、通信設備も撤去されている。
窓は割れ、祭壇には埃が積もっていた。
黒曜は中央へ簡易結界を張った。
物理的な盗聴。
魔力的な追跡。
霊的な観察。
既知の範囲で遮断する。
帽子を脱ぎ、杖を床へ置く。
一人。
完全な静寂。
黒曜は椅子へ座った。
何も起きない。
当然だった。
端末は地下倉庫。
アクトは別の場所。
通信もない。
黒曜は目を閉じる。
自分のオーラを確認する。
異物なし。
追跡術式なし。
精神操作の痕跡なし。
記憶改変なし。
では、あれは何か。
CROW。
物語生成装置。
対象A。
対象B。
関係性。
観察。
言葉の選択が気に入らなかった。
研究記録なら、もっと別の表現がある。
戦闘適合性。
行動傾向。
情動反応。
それらは理解できる。
だが、関係性の状態。
自己定義中。
その言葉は、必要以上に近い。
黒曜は目を開けた。
誰かが、二人を人間として見ている。
あるいは、人間に見えるよう記述している。
どちらも不快だった。
杖の紫水晶が微かに光る。
魔力を流していない。
黒曜は杖へ触れた。
光は消える。
「……錯覚です」
口に出す。
声が教会へ響く。
遠くで水滴が落ちた。
黒曜は時計を見る。
午前十一時二十二分。
まだ一時間二十二分。
アクトは何をしている。
デッカーへ相談したか。
余計なことを言っていないか。
無謀な調査を始めていないか。
端末を壊そうとしていないか。
自分の傷を軽視していないか。
黒曜は通信画面を開いた。
アクトの名前。
押さない。
緊急時ではない。
閉じる。
「実験です」
誰もいない部屋で言う。
その言葉が、急に空虚に聞こえた。
午後。
アクトは自宅へ戻った。
サイバーリムの点検。
銃器の清掃。
医療キットの補充。
やることはある。
だが手が止まる。
右腕の装甲板を外す。
内部の駆動系。
油分。
細かな傷。
磨く。
黒曜なら、もう少し手順を細かく分けろと言う。
端末へ記録しろと言う。
「自分、機械のこと分からんやろ」
返事はない。
アクトはドライバーを置いた。
冷蔵庫を開ける。
ビール。
一本取る。
戻す。
昼間だ。
代わりに水。
蓋を開ける。
飲む。
味がしない。
テレビをつける。
企業ニュース。
株価。
治安情報。
スポーツ。
全部消す。
ウサ耳センサーを外す。
部屋が静かになる。
静かすぎる。
黒曜の杖が床を叩く音。
ローブの擦れる音。
丁寧語で文句を言う声。
何もない。
アクトはソファへ横になった。
「二十四時間くらいで何やねん」
目を閉じる。
五分後、開ける。
時計。
午後一時四分。
進んでいない。
黒曜は教会の床へ術式陣を描いていた。
観察の概念を検出する術式。
対象と観察者の因果的接続を可視化する。
理論上は可能。
実用性は低い。
監視カメラに見られているだけでも反応する。
誰かが記憶しているだけでも線が出る。
都市部で使えば、無数の接続が重なり意味を失う。
だから、観察者のいない部屋が必要だった。
結界。
遮音。
遮光。
通信遮断。
霊的遮蔽。
黒曜は術式を発動した。
空気が震える。
床の線が青白く光る。
一本。
細い線が現れた。
黒曜の胸元から、教会の外へ伸びている。
西。
アクトのいる方向。
「……これは除外対象です」
黒曜は術式条件を修正した。
既知の個人関係を除外。
再発動。
線は消える。
別の線。
上。
天井を抜ける。
空へ。
方向がない。
距離もない。
黒曜は目を細める。
術式を強化する。
線が増える。
一本。
二本。
十本。
百本。
教会全体が細い光で埋まる。
黒曜は術式を切った。
光が消える。
息が乱れる。
脇腹が痛む。
固定材の下で傷が引きつる。
「不正確です」
自分へ言う。
だが、線の一本は明らかに異質だった。
距離が存在しない。
方向もない。
それでも接続だけがある。
黒曜は額へ手を当てた。
観察者は、場所にいない。
午後三時。
アクトは外へ出た。
理由はない。
家にいると端末へ手が伸びる。
歩く。
商店街。
露店。
修理屋。
薬局。
人が多い場所なら気が紛れる。
そう思った。
逆だった。
黒い髪が見えるたびに目が向く。
細い人影。
長い上着。
大きな帽子。
違う。
全部違う。
アクトは露店の前で止まった。
魔除け。
安物の護符。
合成水晶。
黒曜なら粗悪品だと言う。
一つ手に取る。
「姉ちゃん、それ効くよ」
店主が言う。
「何に」
「悪い視線」
アクトの手が止まる。
「視線?」
「監視、嫉妬、呪い。何でも」
「全部一緒にすんなや」
「五十新円」
「高いわ」
「四十」
「いらん」
アクトは護符を戻した。
歩き出す。
背後から店主が叫ぶ。
「見られてからじゃ遅いぞ!」
アクトは振り返らなかった。
午後五時。
黒曜は教会を出た。
調査結果は不十分。
結界内でも接続は消えなかった。
物理的な監視ではない。
通常の魔力的観察でもない。
対象の認識に依存する可能性。
つまり、CROWを意識した時点で接続が成立する。
そう考えれば、距離を取る意味はない。
実験は中止すべき。
だが、まだ二十四時間経っていない。
黒曜は端末を開く。
アクトへ連絡。
指が止まる。
緊急ではない。
約束を破る理由がない。
代わりに、黒曜は街へ向かった。
人目を避ける。
監視カメラを避ける。
通信塔から距離を取る。
行動パターンを不規則化する。
路地を曲がる。
地下通路。
廃駅。
市場。
再び路地。
どこへ向かっているのか、自分でも分からないようにする。
追跡者がいれば、振り切れる。
だが、誰もいない。
それでも黒曜は歩き続けた。
午後七時。
アクトは《ラスティ・コヨーテ》にいた。
実験中は地下倉庫へ入らない約束。
だから、いつもの席へ座っている。
ビール瓶。
一本目。
店主がタオルを畳んでいる。
「地下、何か音せえへん?」
店主は首を横へ振る。
「光ったり」
首を横へ振る。
「誰か入った?」
首を横へ振る。
「自分、ちゃんと見とる?」
店主は料金表を指した。
追加監視料金。
アクトは顔をしかめる。
「金取るんかい」
店主は頷く。
「ええわ」
アクトはビールを飲む。
時計を見る。
午後七時十二分。
あと十四時間四十八分。
長すぎる。
入口が開くたび、アクトは見る。
黒曜ではない。
客が増える。
笑い声。
カードゲーム。
酒瓶。
壊れたピアノ。
いつもの店。
黒曜がいないだけで、配置が違って見える。
午後九時。
黒曜は河川沿いの廃工場にいた。
雨が降り始めている。
屋根の穴から水が落ちる。
通信端末は切ってある。
位置情報も無効。
アストラル空間に追跡者はいない。
それでも、見られている感覚が消えない。
理性的根拠はない。
錯覚。
自己暗示。
観察されていると知った者が陥る過剰警戒。
黒曜は理解している。
理解していても消えない。
壁際へ座る。
杖を横へ置く。
傷が痛む。
鎮痛剤を飲む。
水が少ない。
アクトなら、薬を飲む前に何か食べろと言う。
「不要です」
誰もいない場所で言う。
声が小さい。
黒曜は目を閉じる。
アクトは今、どこにいる。
自宅。
デッカー。
酒場。
おそらく酒場。
待っている可能性が高い。
いや。
追跡するかもしれない。
アクトは追う。
前回も追った。
黒曜が関係を解消しようとしたときも、倉庫まで追ってきた。
今回も来る。
足音。
雨音に混じった気がした。
黒曜は立ち上がる。
杖を構える。
誰もいない。
別の方向。
金属音。
アクトのサイバーリム。
違う。
落下した配管。
黒曜は息を吐く。
「予測可能です」
自分へ言う。
アクトは必ず追う。
そういう人物。
だからこそ、CROWも予測できる。
黒曜が離れれば、アクトは追う。
アクトが危険なら、黒曜は戻る。
単純な反応。
相互依存。
保護偏向。
分離時反応不安定。
観察記録の分類。
間違っている。
だが完全には否定できない。
黒曜は端末を見た。
電源は切れている。
画面は暗い。
それでも、自分の行動がどこかへ記録されている気がした。
`SUBJECT B AWAITING PURSUIT`
そんな文字が浮かぶ。
黒曜は端末を壁へ投げそうになった。
直前で止める。
「私は待っていません」
誰に言うのか。
CROWへ。
アクトへ。
自分へ。
分からない。
午後十一時。
アクトはまだ酒場にいた。
ビールは二本。
三本目は頼んでいない。
酔うと追いかけたくなる。
だから飲まない。
店主が閉店準備を始める。
「まだおるで」
店主は地下を指す。
「端末?」
頷く。
「人は?」
首を横へ振る。
「そらそうやな」
店主が照明を落とす。
アクトは立ち上がった。
帰るべき。
だが帰らない。
「ここ座っとってええ?」
店主は追加料金表を出す。
「ほんま金取るな」
アクトは支払った。
店内が静かになる。
保安官ホログラムも消える。
赤いネオンだけが窓から差す。
アクトは椅子を二つ並べ、片方へ足を乗せた。
黒曜のいつもの席は空いている。
端末を開く。
連絡先。
黒曜。
押さない。
約束。
緊急時ではない。
たぶん。
「ほんまに大丈夫やろな」
誰も答えない。
午前零時。
黒曜は廃工場を出た。
理由は、寒さ。
傷。
雨。
合理的に考えれば、休息環境を変えるべき。
宿泊施設を取ることもできる。
だが偽造SINの使用記録が残る。
ネットワーク接続も生じる。
実験条件が崩れる。
黒曜は歩く。
足が自然に西へ向く。
《ラスティ・コヨーテ》の方向。
気づいて止まる。
「違います」
別の道へ曲がる。
十分後。
また西へ向いている。
黒曜は立ち止まった。
街灯の下。
雨粒。
濡れたローブ。
帽子のつばから水が落ちる。
アクトは追ってくる。
そう考えていた。
だが来ない。
位置情報を切っているから。
追跡手段を使っていないから。
約束を守っているから。
当然。
それでも、胸の奥に不快な空白がある。
追ってほしかったわけではない。
確認したかっただけ。
CROWの予測どおりになるかを。
アクトが追えば、予測どおり。
追わなければ、予測外。
実験としては後者が望ましい。
では、なぜ不快なのか。
黒曜は答えを出さない。
午前二時。
アクトは机へ突っ伏していた。
眠ってはいない。
目を閉じているだけ。
ウサ耳センサーは最大感度。
店の外の足音。
車。
風。
雨。
遠くのサイレン。
黒曜の足音はない。
追うべきか。
デッカーなら、監視側の狙いは行動を変えさせることだと言った。
追えば、変えられたことになる。
追わなくても、変えられている。
何もしないことも、CROWに選ばされた行動かもしれない。
「うっとうしいな」
アクトは顔を上げた。
地下倉庫の扉を見る。
端末はそこ。
何か表示されているかもしれない。
入らない約束。
だが、相手は約束を知っている。
それを利用しているかもしれない。
アクトは立つ。
地下へ続く扉まで行く。
鍵へ手を伸ばす。
止める。
戻る。
椅子へ座る。
「見いひん」
声に出す。
「追わへん」
誰かへ宣言する。
「自分で戻ってくるまで待つ」
それがCROWの予測かどうかは知らない。
合理的かどうかも知らない。
ただ、前回とは違う。
前回は黒曜が消えようとした。
だから追った。
今回は戻ると約束した。
だから待つ。
同じ相手。
違う選択。
それでいい。
午前四時。
黒曜は公園の屋根付き休憩所へ座っていた。
雨は弱くなっている。
眠れない。
傷が痛む。
体温が下がっている。
実験継続は非合理的。
二十四時間まで、あと六時間。
中止条件には該当する。
連絡すべき。
黒曜は端末を出す。
アクトへ送る文面。
『実験を中止します』
打つ。
消す。
『安全上の理由により、集合地点へ戻ります』
打つ。
消す。
『戻ります』
短い。
送信しようとする。
止める。
連絡は禁止。
緊急時のみ。
これは緊急ではない。
自力で戻れる。
黒曜は立ち上がった。
《ラスティ・コヨーテ》へ向かう。
追われていないか確認する。
遠回り。
路地。
高架下。
地下道。
だが、目的地は変えない。
午前五時四十一分。
酒場の入口が開いた。
アクトのウサ耳が跳ねる。
黒曜が立っていた。
濡れている。
顔色が悪い。
ローブの裾は泥で汚れている。
帽子から水が落ちる。
アクトは立ち上がった。
すぐ駆け寄ろうとして、止まる。
黒曜が自分の足で入ってくる。
「遅かったな」
アクトが言った。
「まだ二十四時間経過していません」
「知っとる」
「実験を中止します」
「せやな」
黒曜は店内を見回した。
「追跡しなかったのですか」
「せえへんかった」
「位置情報を取得する方法はあったはずです」
「せやな」
「デッカーへ依頼することも」
「できたやろな」
「なぜ」
アクトは椅子を引いた。
「追ったら、向こうの思うつぼやろ」
「それだけですか」
「違う」
黒曜は待つ。
アクトは黒曜の濡れた帽子を見た。
ローブ。
青白い顔。
脇腹へ庇うように添えられた手。
「戻る言うたから」
「私が戻らなかった場合は」
「戻るまで待った」
黒曜の表情が僅かに崩れた。
怒りでも驚きでもない。
何かを言おうとして、言葉が見つからない顔。
アクトはタオルを投げた。
黒曜が受け取る。
「拭き」
「店の備品ですか」
「勘定につくやろな」
店主は奥から無言で料金表を掲げた。
アクトが舌打ちする。
黒曜はタオルで髪を拭いた。
「あなたは、一晩ここにいたのですか」
「まあな」
「非効率です」
「帰ったら追いかけそうやったから」
「では、やはり追跡する意図が」
「せえへんために、ここおった」
黒曜は椅子へ座った。
アクトも向かいへ座る。
「調査結果は」
黒曜が聞く。
「デッカーに一般論だけ聞いた」
「情報を渡したのですか」
「具体的には言うてへん」
「何と言っていました」
「監視で一番怖いんは、どこまで見られとるか分からんようにすることやって」
黒曜は黙る。
「人間が勝手に動き変えるから、監視する側は何もせんでええ」
「妥当です」
「自分は?」
「観察者との接続を検出しました」
「見つけた?」
「いいえ」
「どこにおる」
「場所という概念が適用できません」
「何やそれ」
「方向も距離も存在しない接続です」
「魔法?」
「不明です」
「また不明か」
「現時点では、それが正確です」
アクトは地下倉庫への扉を見る。
「端末、見に行く?」
黒曜も見る。
「実験条件はすでに中止されています」
「ほな行こか」
店主から鍵を受け取る。
追加料金。
アクトが文句を言う。
地下倉庫は狭かった。
酒樽。
空き瓶。
古い椅子。
鼠は見当たらない。
店主の説明どおりだった。
中央に、小さな机。
その上に端末。
電源ユニットは外されたまま。
画面は点いている。
黒曜とアクトが近づく。
表示は変わっていた。
`SEPARATION EXPERIMENT: COMPLETE`
`分離実験:完了`
アクトが顔をしかめる。
「自分らの実験やのに、向こうが完了言うん?」
黒曜は画面を読む。
次の行。
`SUBJECT A PURSUIT PROBABILITY: 94.2%`
`対象Aの追跡確率:94.2パーセント`
`OBSERVED RESULT: NO PURSUIT`
`観測結果:追跡なし`
アクトが小さく笑う。
「外したな」
さらに表示。
`SUBJECT B RETURN PROBABILITY WITHOUT PURSUIT: 18.7%`
`追跡がない場合に対象Bが帰還する確率:18.7パーセント`
`OBSERVED RESULT: VOLUNTARY RETURN`
`観測結果:自発的帰還`
黒曜の目が細くなる。
「確率評価の根拠が不明です」
「負け惜しみ?」
「検証です」
画面が一度ちらつく。
`PREDICTION ERROR`
`予測誤差`
その文字だけが、他より大きく表示された。
アクトは腕を組む。
「ざまあみろ」
「挑発しないでください」
「聞こえとるならええやろ」
「相手の能力が不明です」
「でも外した」
「一度だけです」
「一回目が大事や」
「根拠は」
「なんとなく」
黒曜は反論しようとした。
画面が変わる。
`BEHAVIORAL MODEL UPDATE FAILED`
`行動モデルの更新に失敗`
`RELATIONSHIP MODEL: INSUFFICIENT`
`関係性モデル:不十分`
二人は黙った。
端末の文字が点滅する。
不十分。
アクトが鼻で笑う。
「不十分やって」
黒曜は画面を一度だけ見て、視線を外した。
「当然です」
「何で」
「私たちの関係を、私たち以外が定義できるはずがありません」
アクトは少し笑った。
「ほな、自分には分かっとるん?」
「いいえ」
「あかんやん」
「不明であることと、不十分であることは異なります」
「どう違うん」
「不明とは、まだ決定していない状態です。不十分とは、外部のモデルが対象を説明できていない状態です」
「同じちゃう?」
「違います」
「また始まった」
黒曜は端末へ手を伸ばす。
触れる直前、画面に新しい文字が出た。
`SELF-DEFINITION REQUESTED`
`自己定義を要求`
その下に、入力欄。
`DEFINE RELATIONSHIP:`
`関係性を定義してください:`
アクトと黒曜は同時に止まった。
「入れろって?」
アクトが聞く。
「要求形式です」
「何て書く」
「入力する必要はありません」
「でも、気になるやん」
「相手の誘導に従うべきではありません」
「相棒?」
「不正確です」
「仕事仲間」
「不十分です」
「友達」
黒曜の顔が僅かに動く。
「何や」
「その語は範囲が広すぎます」
「ほな恋人」
「却下します」
即答だった。
「早いな」
「冗談を入力しないでください」
「入力してへんやん」
「検討も不要です」
「顔赤ない?」
「照明です」
地下倉庫の照明は青白かった。
アクトは笑う。
黒曜は入力欄を睨む。
「依存」
黒曜が言った。
アクトの笑いが止まる。
「それは嫌やな」
「私もです」
「相互補完」
「機能面では適切です」
「機能面だけ?」
「それ以上の分類は不要です」
「でも向こうは欲しがっとる」
「だから与えません」
黒曜は端末を閉じようとする。
画面は閉じない。
代わりに、文字が追加される。
`NON-RESPONSE RECORDED`
`無回答を記録`
`AVOIDANCE RESPONSE DETECTED`
`回避反応を検出`
アクトが舌打ちした。
「腹立つな、こいつ」
「反応しないでください」
「自分も腹立っとるやろ」
「分類方法に問題があります」
「そこ?」
「重要です」
アクトは端末を持ち上げた。
電源のない機械。
消せない画面。
勝手に二人を分類する装置。
「壊す?」
黒曜はすぐには答えなかった。
杖の紫水晶が淡く光る。
「現時点では、情報源としての価値があります」
「最終的には?」
黒曜は画面を見る。
`DEFINE RELATIONSHIP:`
`関係性を定義してください:`
入力欄のカーソルが点滅している。
「必要なら破壊します」
「必要になるやろな」
「断定はできません」
「自分、壊したそうな顔しとるで」
「表情から推測しないでください」
「観察や」
黒曜はアクトを見る。
「その言葉を使わないでください」
アクトは少し黙った。
「……悪かった」
黒曜は視線を戻した。
画面に、また一行。
`EMOTIONAL ADJUSTMENT OBSERVED`
`感情調整を確認`
アクトの眉間に皺が寄る。
「やっぱ壊そか」
「待ってください」
「何で」
「試したいことがあります」
黒曜は入力欄へ指を置いた。
画面が反応する。
文字入力可能。
「何書くん」
「定義しません」
黒曜は一文字ずつ入力した。
`NOT YOUR DECISION`
その下に、自動翻訳が出る。
`あなたが決めることではない`
アクトが笑う。
「ええやん」
送信。
画面が停止した。
数秒。
十秒。
変化なし。
一分。
何も起きない。
アクトが覗き込む。
「固まった?」
「処理中の可能性があります」
二分後。
画面が黒くなった。
完全な暗闇。
アクトが端末を振る。
「消えた」
黒曜は魔力を確認する。
反応なし。
検査器。
通信なし。
電源なし。
今度こそ、ただの端末だった。
「勝った?」
アクトが聞く。
「判断するには早すぎます」
「でも黙ったで」
「一時的な停止かもしれません」
「自分、ほんま素直に喜ばんな」
「喜ぶ根拠がありません」
「ほな、あたしだけ喜んどくわ」
アクトは端末を机へ戻した。
地下倉庫を出る。
階段を上がる。
店内には朝の光が入り始めていた。
赤いネオンは消えている。
壊れたピアノ。
黒ずんだ木壁。
いつもの丸テーブル。
黒曜が椅子へ座る。
アクトは向かいではなく、隣へ座った。
「なぜ隣なのです」
「別に」
「席は空いています」
「ここがええ」
「観察者への対抗行動ですか」
「違う」
「では」
「座りたいから」
黒曜は何も言わない。
アクトは店主へ二本指を上げた。
ビールと赤ワイン。
店主が出す。
朝から酒。
合理的ではない。
黒曜はグラスを受け取った。
アクトが瓶を持ち上げる。
「予測外れに」
「祝うことではありません」
「ええやん」
黒曜は少し考えた。
グラスを持ち上げる。
瓶とグラスが軽く触れる。
小さな音。
「モデルの不十分性に」
「言い方かた」
二人は飲んだ。
地下倉庫では、電源のない端末が沈黙している。
画面は暗い。
通信もない。
光もない。
それでも、内部のどこか。
記録できない領域で、一行だけが更新された。
`RELATIONSHIP MODEL: RESISTING DEFINITION`
`関係性モデル:定義へ抵抗中`
その文字を、二人は見なかった。
見なくてもよかった。
定義されないことを選んだ時点で、それはもう観察者のものではなかった。
共通修正:全話の行頭字下げを削除し、ハーメルン向けの字下げなしに統一。
(7.31.2026)