百万新円と白紙の契約
アクトトゥルスの口座残高が百万新円を越えたのは、火曜日の午前一時十四分だった。
本人はその瞬間、寝ていた。
正確には、黒いタンクトップと短いパンツのまま整備台の脇に座り、左腕の外装板を磨きながら寝落ちしていた。外した銀色の装甲板には細い丁銀細工が走り、その溝に研磨剤が白く残っている。右手には布。膝の上には分解途中の手首カバー。壁際では自動清掃機が、床へ落ちた金属粉を吸うべきか、眠っている家主を回避すべきか、判断に迷っていた。
午前一時十五分。壁面端末が短い通知音を鳴らした。
アクトは起きなかった。
午前一時十七分。もう一度鳴った。
「……うるさ」
青い目が片方だけ開いた。赤いセルフレーム眼鏡はテーブルの上に置かれている。裸眼の視界へ、口座管理アプリの拡大表示が浮かんだ。
残高、一〇〇万三二一〇新円。
アクトはしばらく見た。
それから左腕の装甲板を持ち上げ、反射した数字をもう一度確かめた。
「おお」
感想は、それだけだった。
翌日の夕方、黒曜はアクトのコンドミニアムへ呼び出された。
呼び出し文面は簡潔だった。
『百万いった。酒買うてこい』
黒曜は返信した。
『意味が分かりません』
十秒後に返ってきた。
『祝い』
『何の』
『百万』
『単位がありません』
『新円や』
『あなたの説明能力には重大な欠陥があります』
それでも来た。
黒曜は黒いローブの上から薄手のコートを着ていた。大きな三角帽子はさすがに室内へ持ち込まず、杖も玄関脇へ立てかける。片手には質の悪くない瓶。もう片方には、栄養表示を確認した形跡のある総菜が数品。
「酒だけでよかったのに」
「空腹状態で飲酒する行為は非合理的です」
「ほな自分も食うてくんやろ」
「あなたの摂取状況を監督するためです」
「はいはい、安全確認な」
「その返答をやめてください」
アクトは笑いながら瓶を受け取った。
テーブルには、普段なら置かれている工具や弾倉が片づけられていた。代わりに安いグラスが二つ、乾燥そばを茹でた大皿、薬味、出汁巻き、焼き鳥が並んでいる。豪勢というほどではない。だがアクトにとって、百万新円に到達したという事実は、少なくともコンビニの缶ビール一本で済ませるには少し重かった。
黒曜はグラスへ酒を注ぎながら、端末に表示された口座履歴を見た。
「本当に百万新円あるのですね」
「疑っとったんか」
「あなたは資金管理について、信用に値する実績を積んでいません」
「積んどるわ。せやから百万あるんやろ」
「三日前に高級研磨剤を衝動買いしています」
「あれは必要経費」
「先月は限定色のセンサーキャップ」
「必要経費」
「その前は、実用上ほぼ意味のない彫金用マイクロ工具」
「必要経費」
「便利な言葉ですね」
乾杯した。
黒曜は一口だけ飲み、すぐにグラスを置いた。アクトは半分ほど空けた。
「百万貯まった日に百万使ったらアホやん」
アクトが言った。
「では、なぜ祝うのです」
「節目や。節目には酒を飲むもんや」
「その理論は普遍的ではありません」
「あたしでは普遍や」
黒曜は反論せず、そばを取り分けた。
しばらくは、静かな食事だった。アクトが最近のランで拾った雑な噂を話し、黒曜がその情報源の信頼性を一つずつ否定する。窓の外では、企業広告が雲へ反射し、夜空を薄く赤くしていた。
瓶が三分の一ほど減ったところで、黒曜が訊いた。
「それで、その資金は何に使うのですか」
アクトは即答した。
「WR2」
黒曜の箸が止まった。
「……全額を身体改造へ投入するつもりですか」
「そのために貯めたんやし」
「一〇〇万新円すべてを?」
「全部は使わん。手術代と調整費と、予備部品。それでも足らんかもしれん」
「あなたは先ほど、百万新円に到達したことを祝っていたはずです」
「到達したから次へ行けるんやろ」
「資産形成という発想はありませんか」
「身体に入れた方が減らへん」
「壊します」
「壊れたら直す」
「直す費用が必要です」
「せやから稼ぐ」
黒曜は目を閉じた。
アクトは酒を注ぎ足した。
「前から言うてたやろ。今の強化反射神経、もう限界見えとる。反応力強化との噛み合わせも古い。調整で誤魔化しとるけど、いつか遅れる」
「これまで重大な不具合はありません」
「重大になってから替えたら遅いやろ」
アクトは左腕を持ち上げた。銀色のサイバーリムが室内灯を返した。細い丁銀細工の線が、筋肉の代わりに動くアクチュエータの境目を縁取っている。
「あたしは、今の身体が嫌なわけやない。むしろ気に入っとる。せやから次にするんや」
「矛盾しています」
「してへん。気に入っとる服でも、破れたら直すし、寒かったら上着足すやろ」
「身体を衣服と同列に扱わないでください」
「あたしにとっては似たようなもんや」
黒曜はアクトの顔を見た。
冗談ではない。軽薄でもない。青い目には、戦闘中と同じ種類の計算があった。
アクトにとって、サイバー化は傷の補填ではない。失ったものの代用品でもない。自分を自分で選び直す方法だ。黒曜には、その考え方が理解できない。理解できないからこそ、否定する言葉が以前より減っていた。
「どこで行うつもりです」
「明日、フィクサーに聞く」
「デルタ規格を扱える正規施設など、あなたが通常利用するルートにはありません」
「闇医者でも腕ええ奴はおる」
「設備と術後管理は腕だけでは補えません」
「まず話聞くだけや」
「私も同席します」
「何でや」
「契約と医療条件を確認するためです」
「もう決定事項みたいに言うな」
「あなた一人で行かせる合理的理由がありません」
アクトは何か言い返しかけ、黒曜がすでに自分のコートを用意しているのを見てやめた。
翌日、二人はフィクサーの店へ向かった。
店といっても、看板はない。中華料理店の二階、使われていない宴会場の奥に、防音された小部屋がある。壁には古い野球選手のポスター。机には灰皿。フィクサーは煙草を吸わないが、来客の半分が吸うため置いてある。
彼はアクトの話を聞き、最初に笑わなかった。
「WR2。デルタ。正規記録なし。術後フォロー込み」
「そう」
「注文の仕方が宅配みたいだな」
「金はある」
「百万?」
「ちょい越え」
「足りねえよ」
「知っとる」
フィクサーは黒曜を見た。
「止めないのか」
「止めて成功する人物なら、私はここにいません」
「なるほど」
彼は端末を操作し、複数の名前を伏せたまま条件を並べた。
候補は三つ。
一つは、元企業医のストリートクリニック。術者の腕は良い。ただし設備が古く、デルタ規格の部品は中古か横流し。緊急時の輸血、神経障害への対応、術後の再調整が弱い。
二つ目は、海上を移動する無許可医療船。設備は一つ目より良いが、出自が不明で、摘出した旧式ウェアの扱いが契約上曖昧。料金は安いが、患者データがどこへ売られるか分からない。
三つ目は、まだ交渉中。情報が少ない。
「一つ目なら腕は保証する。俺も二度使った。生きて戻った奴も多い」
「死んだ奴もおる言い方やな」
「手術ってのはそういうもんだ。特に、お前みたいな改造履歴が複雑な奴はな」
黒曜が資料を読み込む。
「術後四十八時間以降の神経再調整について記載がありません」
「そこは患者側で別の医者を探す」
「免疫系への対応は?」
「一般規格」
「アクトには弱い免疫系があります」
「知ってる。だから俺は薦めてない。紹介はできるってだけだ」
アクトは黙っていた。
腕のいい闇医者なら、金さえ出せば何とかなると思っていた。正確には、何とかするつもりだった。術後の調整も、自分で勉強して、古いストリートドクへ頭を下げ、部品は別口で探せばいい。
できる。
できるが、手間と危険を積み上げた先に、ようやく「可能」がある。
「三つ目は?」
フィクサーが少し間を置いた。
「企業だ」
黒曜の目が細くなった。
「どこです」
「EVO」
アクトは椅子の背から身体を起こした。
「何でEVOがあたしに?」
「向こうから来た。お前の戦闘記録を見たらしい」
「どの」
「市場に出てるやつ全部だろ。最近の例の件も含む」
黒曜の表情が硬くなった。
「条件は」
「まだ概要だけ。正規デルタクリニック。WR2換装。術後調整。長期保守。費用の半額を向こうが持つ。残り、およそ五十万」
「やる」
「まだ条件説明の途中です」
黒曜の声が低くなった。
「デルタでWR2、術後調整込み、五十万やろ。やる」
「アクト、待ちなさい」
フィクサーは苦笑した。
「その反応も先方は予測済みだろうな」
「会うだけ会う。今日いける?」
「明後日だ」
「遅い」
「企業の役員面談だぞ。ラーメン屋じゃねえ」
その二日前、EVO支社の地下評価室では、アクト本人の知らないところで、彼女が六回撃たれ、三回倒れ、四回立ち上がっていた。
もちろん映像の中での話だった。
壁面いっぱいに展開された記録は、複数の監視カメラ、民間ドローン、戦術共有映像、違法配信の切り抜きを合成したものだ。画質も角度もばらばらだったが、中央の小柄な金髪だけは、どの映像でも判別できた。赤い帽子。機械式のウサ耳。銀色の四肢。
映像の中でアクトは、味方の撤退路を塞ぐ敵へ制圧射撃を行い、自分だけ遮蔽から半身を出した。敵の火線が集中する。着弾。姿勢が崩れる。だが倒れず、次の瞬間には前へ出ている。
「普通は避ける」
森田が言った。
「避けてるよ。致命傷だけ」
サコンが再生速度を落とす。アクトの上体が数センチずれ、徹甲弾が胸部ではなく肩の装甲を削っていた。
「残りは受ける前提だ。あの細い身体で、荷重を全部四肢へ逃がしてる」
「四肢だけじゃない。骨格補綴とオルソスキンも使っている。全身で受けているわ」
黒宮が資料をめくった。
「自己調整履歴が異常ね。メーカー推奨値から外れている箇所が多い」
「異常じゃねえ。現場で合わせたんだ」
森田は不機嫌そうに言った。
「誰が?」
「本人だろ。こいつ、自分の身体を工具みたいに扱ってやがる」
「褒めてる?」
「半分はな。残り半分は、今すぐ連れてきて全部開けたい」
次の映像では、アクトが大柄な相手の懐へ入り、片脚を刈りながら上体を回していた。相手が宙に浮き、背中から床へ落ちる。アクトは追撃せず、銃口だけを向け、降伏を促した。
モンブスマンは映像を止めた。
「戦闘能力だけなら、代替候補はいる」
「耐久だけでも、射撃だけでも、近接だけでもな」
黒宮が応じる。
「ただし、本人が自分の身体を理解し、改造を肯定し、そのうえで実戦データを継続的に返せる。そこまで揃う候補は少ない」
「本人の希望は?」
「強化反射神経の更新。WR2を希望しているという情報があります」
「資金は?」
「間もなく百万新円」
サコンが笑った。
「貯めてるのか。かわいいね」
「百万をかわいいと言うな」
森田が睨む。
モンブスマンは紙の資料を閉じた。
「本人が望んでいるなら、提案はできる」
「半額補助で?」
「事業として成立する範囲で。人を助けるのは支持する。赤字は支持しない」
「データ価値を見れば黒字です」
黒宮の返答に、モンブスマンはうなずいた。
「なら、急がせるな。良い条件ほど、本人が自分で選んだことを確認する必要がある」
最後の映像が再生された。
瓦礫の中から、銀色の腕が出る。アクトが起き上がる。カメラの外へ向かって、何かを怒鳴っている。音声は壊れていた。
森田が小さく舌打ちした。
「この右脚、もう限界近いぞ」
「映像だけで分かるの?」
「分からなきゃ整備屋やってねえ」
黒宮は、フィクサーへ送る提案書を開いた。
明後日、二人はEVOの支社施設へ入った。
玄関からして、アクトが普段使う場所とは違った。
空気が匂わない。床に傷がない。警備ドローンの軌道が正確で、受付の笑顔には疲労が見えない。身体スキャナはアクトの四肢を一度で分類し、偽造SINに登録された許可情報との整合性まで数秒で確認した。
「ええ設備やな」
「入口です」
「入口がええ設備なんや」
「興奮しないでください」
「してへん」
「先ほどからウサ耳が三度動いています」
「センサーや」
「あなたの感情と連動しているように見えます」
「気のせいや」
案内された会議室には四人いた。
黒宮。黒曜より少し年上の女。黒髪を整然とまとめ、無駄のないスーツを着ている。目元に黒曜と似た線があった。
モンブスマン。年齢の読みにくいエルフの男。穏やかな顔で、机上に端末を置かず、紙の資料を一冊だけ持っている。
森田。作業服姿の整備員。会議室へ来る格好ではないが、本人は気にしていない。
サコン。黒髪を上で束ねた黒人男性。椅子に浅く座り、アクトのサイバーリムを露骨に見ていた。
黒曜が、黒宮を見たまま止まった。
「……久しぶりね、静」
「その名で呼ばないでください」
「分かった。黒曜」
黒宮の返事は平坦だった。再会を喜ぶでも、責めるでもない。
アクトは二人を見比べた。
「知り合い?」
「従姉です」
「へえ」
「それだけです」
「それ以上は契約と無関係だから、今日は扱わない」
黒宮が言った。
黒曜は一瞬だけ言葉を失った。だがすぐ、机上の契約書へ視線を落とした。
説明は簡潔だった。
EVOはアクトの戦闘映像を評価した。高い耐久性、人工四肢への適応、自己整備能力、危険環境での継続行動。今後のモジュラー戦闘義肢や複合制御技術の実証対象として価値がある。
提供内容は、正規デルタクリニックでのWR2換装、神経系再調整、術後リハビリ、一定期間の保守、将来の追加改修相談。
アクトの負担は約五十万新円。
代わりに、EVOは一定範囲の稼働データを取得する。アクトは年数回の検査と、合意した範囲での実証任務へ参加する。
「任務拒否は?」
黒曜が訊いた。
「可能です」
「拒否による違約金」
「ありません。ただし、実証回数が一定を下回れば保守補助率が下がります」
「身体と摘出ウェアの所有権」
「新規ウェアはアクト本人。摘出したWR1も本人へ返却します。廃棄を希望するなら別途同意」
「契約解除」
「三十日前通知。緊急時を除き、解除後のデータ取得は停止。既取得データの研究利用範囲は契約書記載の通り」
「私との契約は」
「連動しません」
「黒曜の行動データは?」
「アクトの生体・装備データに不可避に含まれる範囲を除き、独立収集しません」
「不可避の定義が広すぎます」
「別紙で限定できます」
アクトは説明の半分で、すでに署名欄を見ていた。
黒曜がその手を押さえた。
「まだです」
「ええやん」
「よくありません」
「条件悪ないやろ」
「悪くないことと、理解したことは同じではありません」
黒宮が二人を見ていた。
森田は途中から腕を組み、アクトの右脚を睨んでいる。サコンは契約説明より、ウサ耳センサーの挙動を観察していた。モンブスマンだけが、口を挟まず待っていた。
「持ち帰って構わない」
黒宮が言った。
「今日署名しても条件は変わらない。明日でも、一週間後でも同じ」
「枠埋まらへん?」
「あなた用に確保してある」
「それ余計怖いやろ」
黒曜が言った。
「その感覚は正しい」
黒宮は否定しなかった。
会議が終わり、二人は契約書を持って施設を出た。
夜風は少し冷たかった。
アクトは歩きながら、端末に表示した契約書をスクロールしている。黒曜は隣で、同じ文書へ注釈を付けていた。
「やるで」
「まだ読んでいません」
「あたしは読んだ」
「署名欄しか見ていませんでした」
「説明は聞いとった」
「あなたの身体だからこそです」
黒曜が立ち止まった。
「他人に条件を決めさせる前に、確認しなさい」
アクトも止まる。
黒曜の声には、いつもの侮蔑も苛立ちもなかった。ただ硬い。
「これは、あなたが望んだ改造です。だからこそ、望んだという事実だけで、すべてを正当化しないでください」
アクトは少し考えた。
「ほな、家で読むか」
「最初からそう言っています」
「酒残っとったな」
「飲みながら契約書を読むつもりですか」
「祝いの続きや」
「何も決まっていません」
「決まりそうやから祝い」
「あなたは節目を増やしすぎです」
二人は歩き出した。
契約書は、まだ白紙だった。
ただし、アクトの歩幅は来たときより明らかに速かった。黒曜は二度、速度を落とすよう注意した。アクトは一度も従わず、三度目にようやく立ち止まった。
「そんな急いでも、WR2にはならへんで」
「分かっています」
「ほんまに?」
「……少しだけ、早く帰って読みたい」
黒曜はため息をついた。
「それを最初から言いなさい」
アクトは笑った。赤い帽子のウサ耳が、本人の返事より正直に二度跳ねた。黒曜は見なかったことにした。
帰宅後、契約書を開くまでに、アクトは残っていた酒を二杯飲み、黒曜に一杯取り上げられた。
【黒曜の日記】
アクトトゥルスは、WR2換装契約へ即時署名しようとした。
提供条件は現時点で良好である。拒否権、所有権、解除条項も存在する。危険性を誇張する根拠はない。
それでも確認は必要である。
彼女の身体は彼女の所有物であり、彼女が決定すべきである。
したがって、私が契約書を持ち帰らせた行為は干渉ではない。
安全確認である。