アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
百万新円と白紙の契約
百万新円。
数字だけなら、見慣れている。
見慣れているというのは、持っているという意味ではない。
アクトトゥルスは端末に表示された残高を見て、赤い眼鏡の位置を直した。
「……足らんな」
「何に使うつもりですか」
向かいのソファから、黒曜が訊いた。
黒い髪。痩せた身体。膝の上には読みかけの本が伏せられている。
アクトは答えず、残高表示を閉じた。
「百万新円あって足りないという感覚が、私にはよく分かりません」
「そら使い道によるやろ。蕎麦食うだけやったら一生分ある」
「一生は無理です」
「例えや」
「例えが雑です」
アクトは椅子の背へ身体を預けた。
右腕を上げる。
銀色の指を開く。
閉じる。
もう一度。
動作に問題はない。
関節応答、正常。
人工筋肉、正常。
神経接続、正常。
それでも。
あの時は、遅れた。
ほんの一瞬。
〇・〇七秒。
数字にすれば、それだけだった。
「まだ気にしてるんですか」
「何を」
「〇・〇七秒」
右手が止まった。
「……覚えとったんか」
「あなたが三回言いました」
「そんな言うた?」
「四回目ですね」
「今のは数に入らんやろ」
「入ります」
黒曜は本を開き直した。
アクトは口を尖らせ、もう一度右手を握った。
〇・〇七秒。
撃たれたわけではない。
誰かを死なせたわけでもない。
任務は終わった。
帰ってきた。
だから失敗ではない。
それでも、身体が命令に追いつかなかった。
そこだけが残った。
「壊れてはいないのでしょう」
「壊れとらんよ」
「では、修理する必要はありません」
「修理やない」
アクトは天井を見た。
「更新や」
黒曜が本から目を上げた。
「同じでは?」
「全然ちゃう」
「どう違うんですか」
「壊れたから直すんが修理。もっと上があるから替えるんが更新」
「使えるものを?」
「使えるで」
「問題なく?」
「問題ない」
「では、なぜ」
アクトは右手を上げた。
人差し指と親指の間を、ほんの少しだけ開く。
「ここに〇・〇七秒ある」
黒曜が、その隙間を見る。
「見えません」
「あたしには見える」
「面倒ですね」
「せやな」
否定しなかった。
黒曜も、それ以上は言わなかった。
端末が鳴った。
アクトは視線だけを落とす。
送信者を確認して、眉を上げた。
「森田さんですか」
「ちゃう」
「仕事?」
「それもちゃうな」
アクトはメッセージを開いた。
短い。
日時。
場所。
それから一行。
《EVOより、身体拡張規格に関する面談要請》
黒曜が横から覗き込む。
「断ってください」
「まだ何も言うてへんやろ」
「EVOです」
「EVOやな」
「嫌な予感しかしません」
「奇遇やな。あたしはええ予感しとる」
「それが嫌なんです」
*
面談場所は、アクトが想像していたより普通だった。
EVO所有の医療施設。
受付を抜け、認証を三つ通り、案内された部屋には白いテーブルと椅子が四脚。
窓はない。
壁に企業ロゴもない。
「こういうとこって、もっと光る壁とかあるんちゃうん」
「何を期待してるんですか」
「未来」
「外してください、その期待」
黒曜が杖を抱えたまま座る。
アクトは隣に腰を下ろした。
正面にはEVOの担当者が二人。
一人は契約担当。
もう一人は技術担当らしい。
「アクトトゥルスさん」
「はいはい」
「本日はありがとうございます」
「まだ何も買わへんで」
「販売のご案内ではありません」
「ほな、もっと怖いやつやな」
契約担当者が薄く笑った。
「共同評価への参加をご提案します」
「評価?」
テーブル中央に資料が展開された。
人体図。
四肢。
神経系。
そして見慣れた単語。
《Wired Reflexes 2》
アクトの目が止まった。
「……ほう」
隣で黒曜が小さく息を吐いた。
「食いつきました」
「まだや」
「声が違います」
「黙っとき」
技術担当者が資料を送る。
「現在の反射強化系を第二段階へ更新します」
「グレードは?」
「デルタ」
アクトの指が止まった。
今度は黒曜も黙った。
「……デルタ?」
「はい」
「WR2を?」
「はい」
「なんぼ?」
「今回、通常の販売契約ではありません」
「タダほど高いもんはないで」
「その認識で結構です」
「そこ肯定すんのかい」
次の資料。
両腕。
両脚。
接続部に見慣れない構造が追加されている。
アクトが身を起こした。
「モジュラー?」
「四肢すべてです」
「全部?」
「はい」
拡大。
接続規格。
電力。
神経信号。
荷重限界。
アクトの表情から、軽口が少しずつ消えていく。
「今のリムは?」
「更新対象です」
「装甲は」
「再設計します」
「強度落ちるんやったら要らんで」
「上がります」
「重量」
「増えます」
「そらそうやろな」
資料を送る指が速くなる。
白い増加装甲。
新しい脚部。
ハードポイント。
交換可能な四肢。
そして。
次の画像が開いた。
アクトの指が止まる。
「……これ何」
長い。
銃、と呼ぶには太い。
白い外装の内側を、巨大な加速器が一直線に走っている。
「試験用電磁加速式長射程火器です」
「ガウス?」
技術担当者が肯いた。
アクトは黙った。
三秒。
五秒。
黒曜が横を見る。
「アクト」
「ちょっと待って」
「駄目です」
「まだ何も言うてへんやろ」
「顔で分かります」
アクトは画面を拡大した。
「これ、あたし用?」
「あなたの新規四肢規格に適合させます」
「反動は」
「姿勢制御を含めて四肢側で受けます」
「携行?」
「常時携行は推奨しません」
「せやろな」
「発射時に接続、固定。展開開始から射撃可能まで約三十秒」
「三十秒」
「短縮は?」
「現状では推奨しません」
「撃った後は?」
「解除できます」
アクトの口元が上がった。
「ええやん」
「よくありません」
黒曜だった。
「まだ撃ってもいません」
「撃たなくていいです」
「何のための銃やねん」
「持たなくていいです」
「話進まへんやろ」
「進めなくていいんです」
契約担当者は二人の応酬が止まるのを待ってから、次の資料を表示した。
「以上が、第一段階です」
アクトが顔を上げた。
「第一?」
「はい」
「まだあるん?」
「あります」
技術担当者が操作する。
画面が切り替わった。
今度は人体図ではなかった。
中央に人間。
その周囲に複数の機器。
視覚センサー。
集音器。
マニピュレータ。
防護ユニット。
武装用らしい外部肢。
それぞれから伸びる線が、中央の人体へ集中している。
アクトの眉が寄った。
「リガー?」
「違います」
技術担当者の返答は早かった。
「車両やドローンへの没入制御ではありません。操縦者自身の身体認識を維持したまま、外部機器からの感覚入力と運動出力を追加する研究です」
「……追加?」
「はい」
「目ぇ増やすん?」
「概念的には」
「手ぇも?」
「概念的には」
「何本?」
「それを調べています」
アクトが笑った。
「決まってへんのか」
「決められないのです」
技術担当者は笑わなかった。
「現在の問題は機器側ではありません」
人体図の頭部が赤く表示される。
「人間側です」
複数の視界。
複数の音源。
複数の運動肢。
それらを同時に入力すると、被験者は正常な身体像を維持できない。
混乱。
酩酊。
嘔吐。
運動失調。
自己位置の喪失。
ひどい場合は接続解除後も感覚異常が残る。
アクトの笑みが消えた。
「そらそうやろ」
「はい」
「目ぇ二つで生きとる奴に、いきなり四つ見せるんやろ」
「その通りです」
「ほな、なんであたし」
「まだ、あなたに適合すると判断したわけではありません」
「候補?」
「将来的な候補です」
黒曜が口を挟んだ。
「断ります」
「おい」
「今の説明を聞いて、なぜ受けようと思えるんですか」
「まだ受ける言うてへん」
「目が言っています」
「眼鏡越しやぞ」
「分かります」
アクトは赤い眼鏡を押し上げた。
もう一度、画面を見る。
中央の人間。
周囲の機械。
百本にはほど遠い。
それでも。
人間の身体の外に、手足がある。
「名前は?」
「研究上の呼称ですか」
「これ」
アクトが画面を指した。
技術担当者は一拍置いた。
「《ヘカトンケイル》」
「……百の手ぇか」
「正確には百の腕を持つ巨人ですが」
「似たようなもんや」
黒曜が嫌そうな顔をした。
「名前からして嫌です」
「かっこええやん」
「嫌です」
「まだ何も付けへんて」
「その言葉を信用できません」
資料が閉じた。
最後に残ったのは、一枚の契約書だった。
アクトはそれを見る。
「で?」
「以上を含む身体拡張規格の共同評価契約です」
「報酬は」
「百万新円」
アクトが瞬いた。
「……百万?」
「はい」
「こっちが払うんやなく?」
「EVOからあなたへ支払います」
「WR2デルタ」
「評価対象として提供します」
「四肢更新」
「同様です」
「ガウス」
「試験参加を条件に使用可能です」
「ヘカトンケイル」
「現段階では将来的な評価候補です。接続を義務付ける条項はありません」
アクトは黙った。
黒曜が契約書を睨む。
「条件が良すぎます」
「せやな」
「罠です」
「せやろな」
「では断ってください」
「それとこれとは別や」
「別ではありません」
契約担当者が口を開いた。
「本日、署名していただく必要はありません」
「期限は?」
「七日間」
「持って帰ってええ?」
「もちろんです」
アクトは契約書を自分の端末へ転送した。
画面の隅に表示された。
《署名:未入力》
空欄。
百万新円。
WR2。
デルタ。
新しい四肢。
ガウスライフル。
その向こうに、まだ形にもなっていない百の手。
「帰るで」
アクトが立った。
黒曜が少し意外そうな顔をした。
「署名しないんですか」
「せえへんよ」
「珍しい」
「お前あたしを何やと思っとんねん」
「新しいサイバーウェアを見せると判断力が低下する人」
「失礼やな」
「違いますか」
アクトは答えなかった。
*
帰宅してから、アクトはもう一度契約書を開いた。
黒曜は向かいで本を読んでいる。
署名欄は白いまま。
アクトは右手を開いた。
閉じた。
速い。
十分に速い。
普通なら。
〇・〇七秒。
まだそこにある。
端末には、別の数字が表示されている。
百万新円。
アクトはしばらく二つを見比べた。
「黒曜」
「何ですか」
「蕎麦食いに行かへん?」
「今ですか」
「今」
「契約は?」
「腹減っとる時に百万新円の話したら判断狂うやろ」
黒曜が本を閉じた。
「珍しく正しいことを言いました」
「珍しくは余計や」
アクトは端末を閉じた。
契約書は白紙のまま残った。
少なくとも、今夜は。
◆ 作中用語ミニ解説新
・新円(Nuyen): 作中世界で広く流通している電子的国際通貨。
・WR(ワイヤード・リフレックス): 神経系に直接埋め込み、反応速度と行動速度を爆発的に引き上げるサイバーウェア(人工生体機器)。1・2・3とグレードがある。 入れるほどに素早く動ける。
・EVO(エヴォ): 世界を牛耳る超巨大複合企業(メガコーポ)の一角。バイオ技術や身体改修、多様な種族・変異体の受け入れに寛容な社風を持つ。
・デルタクリニック: 最高峰の医療設備と技術を備えたクリニック。サイバーウェアの最高級グレード「デルタ級」の施術が可能で、肉体・精神への拒絶反応や負荷(エッセンス消費)を極限まで抑えられる。 大変お高い。
・フィクサー: 裏社会で仕事の仲介や情報売買、物資の調達を行う顔役・斡旋人。
・シアトル: 物語の舞台となる巨大過密都市(メトロプレックス)。企業主権とストリートの裏社会が隣り合わせで存在する。