EVOのデルタクリニックは、病院というより工場に近かった。
ただし、油と金属粉の匂いがする工場ではない。空気は無臭で、床は継ぎ目がなく、壁面へ埋め込まれた診断機器は患者が近づく前から起動する。照明は白すぎず、影を作らない。廊下を走る搬送ドローンは静かで、人間を避けるために減速しているというより、人間が進路を塞がないよう空間そのものを制御しているように見えた。
「ほんまにデルタ設備やん」
アクトは入口で言った。
「先ほどから同じことを三回言っています」
「三回見ても本物やからな」
黒曜はため息をついた。
アクトの赤い帽子から伸びた機械式ウサ耳は、警備センサーの首振りとほぼ同じ頻度で左右へ動いている。本人は平静を装っているつもりらしいが、センサーの挙動が正直すぎた。
「興奮していません」
「何も言ってへんで」
「言おうとしていました」
「読心術か」
「表情と行動の観察です」
「魔法使いのくせに地味やな」
「魔法は不要な場面で使うものではありません」
受付を抜けると、黒宮が待っていた。
今日はスーツではなく、白衣に近い薄灰色の作業コートを着ている。胸元にEVOの認証タグ。髪は後ろでまとめられ、手には端末ではなく紙のチェックリストがあった。
「おはよう、アクト。黒曜」
「おはようさん」
「……おはようございます」
黒曜の返答は遅れた。
黒宮は気づいていても触れなかった。
「契約の最終確認から始める。手術同意はその後。途中で取りやめても構わない」
「取りやめへんけどな」
「それでも確認する」
案内された個室には、契約担当、医療責任者、森田がいた。
森田はアクトを見るなり、挨拶より先に言った。
「右脚見せろ」
「何や急に」
「映像で荷重偏ってた。歩け」
「診察前から命令すんなや」
「壊してから来た奴に礼儀使うか」
アクトは眉を上げたが、言われた通り歩いた。三歩。方向転換。屈伸。片脚立ち。
森田はしゃがみ、右足首の外装を指で叩いた。
「ここ、自己調整したな」
「した」
「メーカー値から八パーセント外れてる」
「その方が踏ん張れる」
「代わりに膝へ負荷が逃げてる」
「膝も調整した」
「だから股関節へ来てるんだよ!」
「ほな股関節も――」
「連鎖させるな!」
黒曜が横から言った。
「以前から説明しています。彼女は自分の身体を局所最適化し、全体の負荷を後回しにします」
「告げ口すんな」
「事実共有です」
森田はアクトの腕、肩、脚、足底を順番に確認した。外装板の細かな傷、丁銀細工の溝へ残った補修剤、非正規のシール材まで見逃さない。
「この腕の傷、昨日だな」
「浅い」
「深さの話じゃねえ。術前に増やすな」
「増やしたくて増やしたわけちゃう」
「結果が増えてる」
森田は怒鳴りながらも、扱いは丁寧だった。外装を外す際、丁銀細工へ工具を当てない。固定爪の摩耗を指で確かめ、アクト本人が気づかなかった小さな歪みを二つ見つけた。
アクトは途中から反論をやめ、森田の手元を見ていた。
「腕ええな」
「今さらか」
「映像だけで脚分かったん、ほんまやったんやな」
「嘘ついてどうする」
「企業の人間はたまに盛るやろ」
「整備屋は盛らねえ。削る」
森田は旧式右脚の診断結果を端末へ投げた。
「WR2だけ換えて終わりじゃねえぞ。今の調整履歴を一度全部ほどく。反応系、四肢制御、姿勢補正、視覚予測。お前が勝手に合わせた癖も含めて、作り直す」
「勝手ちゃう。自分の身体や」
「だから面倒なんだよ」
「できる?」
「できる」
即答だった。
アクトのウサ耳が跳ねた。
契約確認は、その後に始まった。
黒曜が主導した。
「新規WR2の所有権はアクト本人」
「はい」
「摘出する旧WR1も返却」
「本人が希望する場合」
「希望する」
アクトが割り込んだ。
「分解したらあかん?」
「医療廃棄基準に触れない範囲なら。神経接続部は不活性化する」
「飾っとこかな」
「何をするつもりですか」
「記念」
「人体由来機器を居間へ置かないでください」
「あたしの人体や」
「そういう問題ではありません」
黒曜は続けた。
「術中に予定外の追加処置が必要になった場合」
「生命維持に必要な処置は医療責任者の判断。それ以外は事前指定した代理人へ確認」
「代理人は」
「あなたを指定できます」
黒宮が答えた。
黒曜の指が止まった。
「私を?」
「アクトが希望すれば」
「あたしは黒曜でええで」
「待ちなさい」
「何でや。話分かるし」
「私は医療専門家ではありません」
「専門家の説明聞いて決めるだけやろ」
「あなたは簡単に――」
「嫌なん?」
黒曜は黙った。
黒宮は何も言わず、入力欄を開いたまま待った。
「……緊急時に限ります」
「了解」
アクトが承認した。
黒曜は次の項目へ移ったが、耳が少し赤かった。
データ利用範囲。契約解除後の保守。任務拒否。第三者提供。黒曜との契約非連動。緊急時の搬送権限。アクトが意識を失った場合の装備停止。
一項目ずつ確認し、曖昧な表現を二つ修正させた。
黒宮は嫌な顔をしなかった。むしろ、修正点をその場で法務へ送り、契約書を更新した。
「これで最後です」
黒曜が言った。
「本当に?」
アクトが訊く。
「現時点では」
「ほな署名するで」
「どうぞ」
アクトは署名欄へストリートネームを入力した。
黒曜が止めなかったことに、本人が一番驚いた顔をした。
「何です」
「いや。止めへんのやなって」
「確認は終わりました」
「問題ない?」
「問題がないとは言っていません。条件を理解したうえで選ぶ準備が整ったと言っています」
「同じちゃう?」
「違います」
署名が確定した。
画面に契約番号が表示される。
アクトは一度深く息を吐いた。
「これでWR2や」
「まだ手術は終わっていません」
「始まったやろ」
標準プランの説明へ移る。
デルタ規格の強化反射神経2。既存反応力強化との再調整。四肢制御の統合。神経系の負担軽減。術後の段階的リハビリ。
説明を聞きながら、アクトは追加要望欄を開いた。
「四肢、交換式にできる?」
森田が顔を上げた。
「何と交換する」
「戦闘用と隠蔽用。今の銀の外装は残す。上から白い増加装甲。別に人工皮膚つきの四肢も欲しい」
「欲しいで生えると思うな」
「金かかるん?」
「金だけじゃねえ。接続部を規格化する。強度が落ちる。防水、気密、神経校正、全部増える」
「できる?」
「……できる」
「ほなやろ」
「今すぐ全部は無理だ!」
黒曜が額へ手を当てた。
アクトは止まらない。
「白い装甲、厚め。脚の足底も増やして。身長ちょい伸びてもええ」
「重心変わるぞ」
「補正して」
「簡単に言うな!」
「できるん?」
「できる!」
「ほな」
「その会話を繰り返さないでください!」
黒曜の声が珍しく大きくなった。
室内が静まる。
アクトは少しだけ肩をすくめた。
「まだあるんやけど」
「あるでしょうね」
「通常小銃のカウルも白。装甲と同じ材質。あとガウスライフル対応」
森田が黙った。
「重火器技能は?」
「ある。高ないけど」
「反動は」
「四肢で受ける」
「電源」
「外部パックでもええ。将来、背部接続」
「射撃姿勢」
「伏せ撃ちだけやなく、立射も」
「馬鹿か」
「できる?」
「……設計はする」
サコンが途中から部屋へ入ってきた。
「ガウスって聞こえたけど?」
「聞き間違いです」
黒曜が即答した。
「聞こえたで」
「アクトは黙ってください」
サコンは楽しそうに設計卓へ寄った。
「白い装甲に白いライフル? ウサ耳も白?」
「白」
「チンガードは?」
「白」
「かわいいね」
「戦闘装備や」
「両立するよ」
「せやろ」
「同意を得た顔をしないでください」
追加案は増え続けた。
前腕ハードポイント。緊急パージ機構。水中用モジュールを将来接続できる余地。低圧環境への気密拡張。軌道施設で使える姿勢制御補助。脚部の衝撃吸収。外装を外した際も従来の銀色四肢がそのまま使える構造。
見積額が、画面上で跳ね上がった。
「払えません」
黒曜が言った。
「全部今作らんでええ。接続余地だけ」
「接続余地にも費用が発生します」
「将来安くなる」
「今高くなっています」
黒宮が静かに整理した。
「今回の契約内で行うのは、WR2、統合調整、四肢モジュール化の基礎、白い戦闘用増加装甲、白い通常小銃カウル。ガウスライフルは設計と適合試験まで。人工皮膚付き四肢、水中、軌道用は将来オプション」
「ガウス本体は?」
「別契約」
「高い?」
「非常に」
「稼ぐか」
「術後すぐ重火器案件を探すのはやめなさい」
黒曜が言った。
森田はすでに設計へ没頭していた。
「脚部接続をこの位置へ上げる。足底厚は四センチまで。白外装はセラミック複合。中の銀は残す。パージは三系統。誤作動防止は――」
「楽しそうやな」
「黙れ。お前の注文が雑だから形にしてるだけだ」
「職人やな」
「患者は手術準備へ行け!」
契約確認と設計相談の間に、医療側の適合検査が挟まった。
アクトは透明な診断床の中央へ立たされ、全身を複数方向から走査された。骨格、人工四肢、神経接続、血流、免疫反応。空中へ色分けされた身体モデルが立ち上がる。
生身の胴体は青。人工四肢は銀。反応系は黄色い線。過去の手術痕と自己調整箇所が赤で表示された。
「赤多ない?」
「多いです」
医師が即答した。
「通常、この世代の強化反射神経と四肢制御系をここまで細かく再調整する例はありません」
「合わんかったから合わせただけや」
「合わないたびに、別の箇所へ負担を移しています」
「動いとるで」
「動いていることと、理想的であることは違います」
黒曜が横でうなずいた。
「二対一は卑怯やろ」
「医学的事実に多数決は不要です」
検査では、アクトの免疫系も問題になった。弱い免疫系は術後感染の危険を増やす。医療責任者は抗菌処置、隔離期間、免疫補助薬、退院後の生活制限を説明した。
「何日?」
「最低四日。経過によっては七日」
「長い」
「闇クリニックなら翌日放り出されます」
黒曜が言った。
「そっちの方が早いやん」
「早く死ぬ可能性も上がります」
「死なんわ」
「あなたは病原体へ射撃できません」
「できたら強いな」
「話を逸らさないでください」
黒宮は検査室の外で待っていた。
黒曜が一人で出ると、廊下には二人だけになった。アクトは採血と追加検査へ連れていかれている。
「ずいぶん変わったわね」
黒宮が言った。
「何がです」
「他人の手術に付き添うようになった」
「戦力資源の維持です」
「そう」
それ以上、笑いもしなかった。
黒曜には、その無反応がかえって不快だった。
「あなたは、なぜEVOにいるのです」
「就職したから」
「そういう意味ではありません」
「家を出た理由?」
黒曜は答えなかった。
黒宮は廊下の窓から、手術区画を見下ろした。白い床を搬送機が行き交っている。
「家のやり方が、私には合わなかった。それだけよ」
「黒宮家は、あなたに十分な教育と資源を与えました」
「ええ。だから感謝している」
「ならば、なぜ」
「感謝と服従は同じではないから」
黒曜の表情が固まった。
黒宮は続けなかった。答えを教えるつもりはないらしい。
「MCTを離れて、問題はなかったのですか」
「たくさんあった。信用記録、所属、医療、仕事。家族との関係も切れた」
「それでも?」
「生きている」
黒宮は黒曜を見た。
「それで十分な回答でしょう」
「私に離反を勧めているのですか」
「いいえ」
「では何を」
「私は私の話をしただけ」
検査室の扉が開き、アクトが戻ってきた。首筋に採血パッチを貼り、ひどく不満そうな顔をしている。
「血、取りすぎちゃう?」
「必要量です」
「黒曜、何話しとったん」
「契約と無関係な話です」
黒宮が言った。
「へえ。従姉妹の昔話?」
「詮索しないでください」
アクトは黒宮と黒曜を見比べたが、今は追わなかった。
黒宮は二人のやり取りを一度だけ見て、先に歩き出した。
設計相談が始まる前、サコンはアクトの現行ウサ耳センサーを分解卓へ置いた。
「これ、手作り?」
「既製品三つ組み合わせて、自分で配線変えた」
「感度はいい。でもノイズ処理が荒いね」
「耳で拾う前に頭振ったら切れる」
「それは仕様じゃなくて不具合」
「使い方で避けられる」
「森田さんが怒るやつだ」
「もう怒られとる」
サコンは内部基板を拡大し、興味深そうに唸った。
「新型へ移すなら、白い外装だけじゃなく、左右独立の広帯域センサー、指向性マイク、レーザー警戒、短距離レーダーをまとめられる。頭部だけで情報を抱えると処理が重いから、WR2側の予測系と分担」
「やろ」
「軽いね、決断が」
「できるんやろ?」
「できる」
「ほな」
森田が設計卓の向こうから怒鳴った。
「サコンまで同じ返事するな! 予算を見ろ!」
「未来への投資です」
「本人みたいなこと言うな!」
白い外装の初期モデルが空中へ投影された。
従来の銀色四肢を完全に覆うのではなく、肩、前腕、腿、脛、足部へ厚い装甲を重ねる。関節部には銀が残る。白い兎耳と、顎を守る小さなチンガード。脚部は足底が厚くなり、全高が約四センチ伸びる。
アクトは投影像の周囲を一周した。
「ええやん」
「視認性が高すぎます」
黒曜が言った。
「白、好きやねん」
「隠密性は」
「隠れるときは外す」
「外せることを前提に装甲を選ぶ人物は初めて見ました」
「せやから交換式やろ」
白い通常小銃のカウルも表示された。丸みのある厚い外装が、装甲と同じ意匠で銃本体を包む。
サコンが、さらに長大な影を横へ置いた。
「ガウス対応案。まだ仮」
銃というより、白い梁だった。アクトの身長に対して明らかに長い。
黒曜が無言になった。
「何?」
「人間が携行する寸法ではありません」
「あたし人間やで」
「知っています。だから言っています」
「対物用や。普通の仕事では使わへん」
「あなたの『普通』を信用していません」
森田が設計像を閉じた。
「それは後だ。まず生きて手術を終えろ」
「終えるで」
「終えてから言え」
アクトは手術前の同意欄へ最後の承認を入れた。
その指が、ほんの少しだけ遅れた。
本人は何も言わなかったが、黒曜は見ていた。
手術前処置室で、アクトは装備を一つずつ外した。
白衣の職員が受け取り、識別タグを付ける。
小銃。拳銃。ナイフ。赤い帽子。機械式ウサ耳。赤い眼鏡。ジャケット。ブーツ。
最後に、銀色の四肢へ診断ケーブルが接続された。
「強化反射神経を一時停止します」
医師が言った。
「停止後、反応低下、身体重量感、軽い吐き気が出る可能性があります」
「分かった」
「転倒しないよう、立たないでください」
「分かっとる」
停止信号が送られた。
世界が遅くなった。
正確には、世界は変わっていない。アクトの側が、急に重くなった。
音が先に届き、身体が後からついてくる。視線を動かしてから焦点が合うまでが長い。指を握るだけで、筋肉ではない制御系の層が一枚剥がれたような感覚がした。
アクトは無意識に立とうとした。
膝が揺れた。
黒曜が肩を支えた。
「立つなと言われたはずです」
「確認しただけや」
「何を」
「ほんまに重くなるんやなって」
「自分で確認する必要はありません」
アクトは椅子へ戻った。
帽子も眼鏡もない。金髪だけが肩から腰へ流れている。銀の四肢はまだ同じなのに、動きだけが別人のように鈍い。
「怖いですか」
黒曜が訊いた。
アクトはすぐに笑おうとした。
「何が」
「失敗する可能性です」
「低いやろ」
「ゼロではありません」
「せやな」
少し間があった。
「……まあ、ちょっとは」
黒曜は慰めなかった。
「術者はデルタ規格の換装を百二十七件担当しています。直近五年間の重大事故は二件。いずれも既往症に起因し、今回の条件とは異なります。感染管理は最高規格。森田はあなたの自己調整履歴をすべて解析済みです」
「数字で殴ってくるなあ」
「事実です」
「でも、ありがと」
黒曜の手が一瞬止まった。
「礼を言うほどのことではありません」
アクトは笑わなかった。ただ、黒曜の腕へ預けた重さを、ほんの少しだけ増やした。
手術室の扉が開いた。
アクトはゆっくり立ち上がった。今度は黒曜の腕を借りた。
「ほな、ちょっと速うなってくるわ」
「必ず戻りなさい」
「契約書に書いてあった?」
「私が言っています」
アクトは笑った。
白い扉が閉じた。黒曜は、扉の継ぎ目が完全に消えるまで、その場から、しばらく動かなかった。自分でも理由は説明しなかった。
【黒曜の日記】
アクトトゥルスは、手術直前に不安を認めた。
術者の実績、事故率、感染管理、整備担当者の能力を再確認した。
手術室へ入る直前、彼女は私の腕へ体重を預けた。
私は、必ず戻るよう指示した。
契約条項ではない。