退院から八日目、アクトは森田に「走るな」と言われた。
九日目、「跳ぶな」が追加された。
十日目には、「重火器を持つな」「高所へ登るな」「実戦テストをするな」「勝手に調整値を変えるな」が増えた。
十一日目、森田はとうとう書面を寄越した。
『術後調整期間中の禁止事項』
一、走行。
二、跳躍。
三、重火器運用。
四、高所作業。
五、対人戦闘。
六、自己判断による出力上限変更。
七、装甲パージ試験。
八、ガウスライフルに関する質問。
「八番だけおかしない?」
アクトが言った。
「必要です」
黒曜は書面を読み、端末へ保存した。
「質問くらいええやろ」
「質問の後に実行するから禁止されたのです」
「まだ一回も撃ってへん」
「撃とうとしました」
「試射場空いとるか聞いただけや」
「その直後、弾薬価格を調べていました」
「買うとは言うてへん」
「購入画面まで進んでいました」
アクトは不満そうに白いウサ耳を伏せた。
新しい装甲は、日常生活には少し大きい。
椅子へ座ると腿の外装が机へ当たり、狭い廊下では肩の白い装甲が壁へ触れる。本人は三日で慣れたが、家具の方は慣れていない。自宅の壁にはすでに白い擦過痕が二本ついていた。
「外装外したらええやろ」
黒曜が言った。
「慣らし中」
「家具を破壊してまで?」
「あたしの家や」
「修繕費もあなたが払うのです」
「払える」
「百万新円は半分になりました」
「まだ半分ある」
「その発想で減るのです」
その日、EVOから術後点検の通知が来た。
同時に、サコンから個人的な連絡が入る。
『ちょっと妙なログがある。暇なら来る?』
アクトは即座に返信した。
『行く』
黒曜が横から見た。
「術後点検でしょう」
「ついでや」
「『妙なログ』という言葉だけで向かうのですか」
「サコンが言うなら、何かあるんやろ」
「森田の禁止事項には、未知の侵入痕を追跡するな、がありません」
「ほな問題ないな」
「次回追加されます」
EVOの整備区画で、森田はアクトの歩行ログを確認し、最初に眉をひそめた。
「走ったな」
「走ってへん」
「最大出力八十二パーセント」
「信号変わりそうやったから、ちょい急いだ」
「それを走ったと言う」
「三歩だけ」
「歩数の問題じゃねえ!」
白い脚部装甲を外し、内部の銀色四肢を点検する。新しい接続部は安定していた。神経応答も良好。問題は本人の使い方だけだった。
「右脚、もう補正値いじったか?」
「一パーセントだけ」
「六番!」
「一パーやで」
「数字が小さけりゃ規則違反じゃないと思うな!」
森田の怒鳴り声を背に、サコンは隣室でログを開いた。
「医療ネットワークの裏側に、変な通り道ができてる」
「攻撃?」
「攻撃なら分かりやすい。これは……住んでる」
画面には、正規の管理系統から外れた通信経路が表示されていた。誰かが古い中継設備を利用し、EVO周辺の医療ネットワークへ断続的に接触している。
データを盗んだ形跡は薄い。
破壊もしていない。
ただ、空いている処理資源を使い、捨てられた回線を渡り歩き、時々医療データの匿名統計を覗いている。
「何のために?」
黒曜が訊いた。
「分からない。暇つぶしか、生活インフラか」
「生活?」
「このトラフィック、動画、食品注文、仮想空間、ジャンク掲示板、全部混ざってる」
「ほんまに住んどるやん」
アクトは面白そうに見た。
「追える?」
「途中までは。ただ、普通のデッカーじゃない」
「何が違う」
「機材の癖がない」
サコンは拡大した。
「デッキ固有の遅延も、コムリンクの経路もない。なのにペルソナはある。接続が生き物みたいに形を変える」
黒曜の表情が変わった。
「テクノマンサー」
「可能性は高い」
「企業へ報告するのですか」
「もう僕が見つけた時点で、最低限のインシデント記録は残る。でも正体不明の侵入者として追い立てる前に、現実側を見たい」
サコンは地図を出した。
信号は、湾岸の旧通信中継施設へ収束している。
建物は廃止済み。所有権は複数の会社を経て宙に浮き、現在は実質的に放置されている。
「見に行こ」
「あなたは術後調整中です」
「見るだけ」
「あなたの『見るだけ』は、現場では接触、侵入、戦闘を意味します」
「今回はほんまに見るだけ」
森田が隣室から顔を出した。
「行くな」
「何も言うてへん」
「顔で分かる」
「みんな顔読みすぎちゃう?」
「お前が分かりやすいんだ!」
結局、行った。
ただし条件がついた。
アクトは通常小銃を持たない。白い増加装甲も最低限。出力制限を維持。サコンの小型ドローンが同行。黒曜も同行。異常があれば即撤退。
「子供の遠足みたいやな」
「あなたが規則を守らないからです」
「十九やで」
「年齢ではなく行動の問題です」
旧通信施設は、海沿いの高架下にあった。
コンクリートの外壁には塩が吹き、入口の認証盤は死んでいる。窓の多くが板で塞がれ、一部だけ青白い光が漏れていた。
アクトは扉へ耳を寄せた。
白いウサ耳がわずかに回転する。
「ファン音。古い。人の声はない」
「生体反応はあります」
黒曜が霊視した。
「一人。状態は……不明瞭です」
「病気?」
「肉体と意識の位置が一致していないように見えます」
「テクノマンサーやから?」
「私はレゾナンスを霊視できません。単に、極端に意識が散っている可能性があります」
「寝不足ちゃう?」
「その可能性もあります」
サコンのドローンが壊れた通気口から入る。
内部映像が共有された。
廊下。倒れたラック。剥き出しのケーブル。空の食品容器。菓子袋。ペットボトル。古い毛布。
そして、中継室の中央。
大量のケーブルに囲まれ、床へ座っている女がいた。
長い黒髪は手入れされず、ところどころ絡まっている。眼鏡はずれ、サイズの合わないシャツを着て、膝には古い毛布。身体はやや太めで、周囲の痩せた機材群の中では妙に生々しく見えた。
目は開いている。
だが、こちらを見ていない。
「生きとる?」
「呼吸あり。心拍、速い」
サコンが答える。
アクトは扉を押した。
開かない。
「電子錠は死んでる」
「物理的に封鎖されています」
黒曜が言った。
「壊すで」
「見るだけでは?」
「中に人おるやろ」
「森田の条件」
「扉はあたしの身体ちゃう」
白い指を隙間へ入れ、蝶番側へ力をかける。
出力制限下でも、腐食した金具は耐えなかった。扉が内側へ倒れ、埃が舞う。
「走ってへん。跳んでへん。戦ってへん」
「侵入しています」
「禁止事項にない」
「次回追加されます」
中継室へ入ると、匂いがひどかった。
汗。古い食品。湿気。熱を持った電子機器。長く換気されていない部屋の空気。
黒曜は即座に浄化の術式を組みかけたが、機器への影響を考えて止めた。
「衛生状態が許容範囲を大幅に下回っています」
「見たら分かる」
床の女が、ようやく顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、アクトを捉える。
最初に白いウサ耳を見る。
次に白い腕。
関節の隙間から覗く銀色。
「……フヒ」
「何や」
「白……外装……中、銀……旧規格残し……交換前提……フヒヒ」
女の口元が歪んだ。
「気持ち悪い笑い方やな」
「褒め言葉ですか」
「ちゃう」
女はアクトの腕を見続けた。
「モジュール接続、まだ新しい。神経応答、揺れてる。右脚、一パーセント弄りました?」
アクトが止まった。
「何で分かる」
「ネットワークに出てます」
「出してへんで」
「出てます。機器は嘘をつきません。人はつきます」
黒曜が杖を少し上げた。
「あなたは誰です」
女は黒曜を見た。
黒いローブ。金糸。大きな帽子。紫水晶の杖。
「フヒ……仕様書のないレガシーシステム」
「何ですって」
「再現性のない高出力処理。保守担当者泣かせ」
「魔術を旧式機器へ例えないでください」
「でも動いてる。怖い」
「名前を答えなさい」
「ハーミット」
「本名です」
「理香子」
「姓は」
「要ります?」
「身元確認に必要です」
「身元、ないです」
理香子はまた視線を逸らした。
周囲の端末へ、同時に複数の表示が走る。本人は触れていない。空中の仮想窓が開き、閉じ、回線が切り替わる。
サコンの声が通信へ入る。
『気をつけて。彼女、僕のドローンへ触ってる』
「触ってません」
理香子が言った。
『マトリックス上でだよ』
「挨拶です」
『ファイアウォールの内側に入る挨拶は初めてだな』
「文化差です」
アクトは部屋を見回した。
「ここ住んどるん?」
「住んではいません。長期滞在です」
「何日」
「日付の定義によります」
「普通の定義で」
「……三十七」
黒曜が露骨に顔をしかめた。
「入浴は」
「ネットワーク上では毎日」
「現実の話です」
「フヒ」
「答えなさい」
アクトは空の食品容器を一つ拾った。賞味期限は二週間前。
「飯は?」
「食べてます」
「何を」
「栄養バー。菓子。たまに麺」
「今日」
「……まだ」
「昨日」
「たぶん」
「いつ最後にまともなん食うた」
「まともの定義が」
「もうええ」
理香子は追われていた。
詳しく訊いても、説明は断片的だった。企業系の小さな研究会社へ侵入し、内部の監視用スプライトに追跡された。目的は金ではない。自分に似たアクセス記録が売買されているのを見つけ、覗いただけだと言う。
逃げる途中で複数の回線を焼き、この旧施設へ潜った。
現実側の脱出手段は考えていなかった。
「何で?」
アクトが訊く。
「マトリックスでは逃げられます」
「身体は?」
「ここにあります」
「それは見たら分かる」
「身体まで追いつくと思ってませんでした」
「アホやろ」
「フヒ。正論が痛い」
黒曜は冷たく言った。
「警察または公的保護機関へ引き渡すべきです」
「未登録テクノマンサーを?」
サコンが通信越しに言う。
『安全とは言いにくいね』
「EVOの保護下へ」
『本人の同意がいる』
理香子は毛布を握った。
「企業は、ちょっと」
「では、ここへ置いていくのですか」
黒曜がアクトを見る。
アクトは理香子を見た。
汚れている。挙動不審。話は通じるが、生活能力は怪しい。能力は本物らしい。追手がいる。食べていない。
置いていけば、たぶんまたマトリックスへ潜る。
身体が壊れるまで。
「立てる?」
「現実で?」
「他に何があんねん」
理香子は立とうとした。
膝が震え、ケーブルへ足を取られた。
アクトが腕を掴む。
「軽……くはないな」
「女性に対する評価として最低です」
「支えた感想や」
「フヒ。重量データ取得されました」
「黙れ」
黒曜が言った。
「どこへ連れていくつもりです」
「あたし」
「なぜ」
「置いてけへんやろ」
「EVOへ連絡を」
「企業嫌や言うとる」
「あなたの家は保護施設ではありません」
「一晩くらい寝られる」
「一晩で済むと思いますか」
アクトは理香子を支えたまま答えた。
「立てるまでや」
「何を基準に」
「自分で飯食うて、風呂入って、逃げ道考えられるまで」
「基準が低すぎます」
「今それ以下やろ」
理香子が小さく手を上げた。
「風呂は、交渉可能です」
「交渉ちゃう。入れ」
「回線は?」
「後」
「端末」
「後」
「食事」
「先」
「優先順位が独裁的です」
「嫌ならここ残る?」
理香子は黙った。
「……残りません」
帰宅までが、最初の難関だった。
理香子は歩けるが遅い。階段で息を切らし、車へ乗るとすぐに目を閉じた。眠ったのかと思えば、周囲の端末へ勝手に接続しようとする。
「車のシステム触るな」
「自動的に見えるんです」
「見ても触るな」
「見えるボタンを押さないの、難しくないです?」
「普通は押さん」
「普通への要求が高い」
黒曜は助手席から振り返った。
「あなたはまず、現実の身体を維持しなさい」
「魔法使いに現実を説かれるとは」
「今すぐ降ろしますよ」
「フヒ。怒った」
「怒っていません」
「黒曜、今のは怒っとる」
「運転へ集中してください」
アクト宅へ着くと、理香子は玄関で止まった。
自動照明。清掃された床。温度管理。壁面端末。整備台。白い装甲用のスタンド。
「……家」
「見たら分かる」
「人が住む家」
「お前は何に住んどったんや」
「回線」
「答えになってへん」
最初に風呂へ入れた。
理香子は抵抗した。
「いまマトリックスで追跡処理が」
「切れ」
「あと三分」
「一分」
「通信が」
「服脱げ」
「急に犯罪的な文脈」
「自分で脱げ言うとる!」
黒曜は予備の衣類を用意した。アクトのシャツでは小さく、黒曜のものでは丈が合わない。結局、近所の無人店舗から簡易衣類を注文した。
理香子が浴室へ入ると、黒曜は部屋中へ浄化魔法をかけた。
「本人おるときやったら失礼やから待っとったん?」
「機器への影響を避けただけです」
「優しいな」
「衛生管理です」
食事は、そばと卵、鶏肉、野菜。
アクトは大盛りを出した。
理香子は椅子へ座ったまま、空中へ視線をさまよわせている。
「食え」
「いまマトリックスで忙しくて」
「切れ」
「あと三分」
「一分」
「さっきも同じ会話を」
「ほな学習せえ」
アクトは理香子の前から端末を取り上げた。
「それ普通のコムリンクですけど」
「見とるだけやろ」
「雰囲気が大事です」
「飯の雰囲気優先せえ」
理香子は箸を取った。
一口食べる。
止まる。
「何や。まずい?」
「温かい」
「そら今作ったからな」
「久しぶりです」
声が少しだけ変わった。
アクトは何も言わず、自分の皿へ視線を戻した。
黒曜も追及しなかった。
理香子は最初ゆっくり食べ、途中から速度が上がった。二杯目を要求し、三杯目は黒曜に止められた。
「急激な摂取は身体へ負担です」
「フヒ。管理されています」
「当然です」
「囲われていますね」
「保護です」
「企業も最初はそう言いますよ」
黒曜の箸が止まった。
アクトが言った。
「ほな出てく?」
「出ません」
「即答やな」
「選択の自由を行使しました」
食後、理香子は白い装甲スタンドの周囲を回った。
「この外装、面白いです。中の銀を捨てずに、上から別の形を選べる。制御ログも二層。旧癖を新型側が吸収してる」
「森田とサコンがやった」
「本人の癖が多すぎます。普通、もっと標準化します」
「あたしの身体やし」
「フヒ。規格へ合わせるんじゃなくて、規格を本人へ曲げた」
理香子はうっとりしたように言った。
「気持ち悪い感想やな」
「最大級の賛辞です」
「いらん」
黒曜が背後から言った。
「なぜ、この人物があなたの家にいるのです」
「拾った」
「元の場所へ戻しなさい」
「猫ちゃうぞ」
「猫の方が衛生的です」
「風呂入ったやろ」
「一度で過去三十七日分が帳消しになると思わないでください」
理香子が手を上げた。
「フヒ。飼育条件の確認を」
「飼育ちゃう」
「最低一日二食。風呂。着替え。安全な回線。寝床」
「生活費は後で返せ」
「借金による拘束」
「ほな出てく?」
「出ません」
アクトはため息をついた。
「端末と回線は明日。今日は寝ろ」
「マトリックスへ」
「寝ろ」
「追跡が」
「サコンに任せる」
「他人に自分の仕事を」
「倒れたら仕事できへんやろ」
理香子はしばらく抵抗したが、ソファへ横になると五分で眠った。
眼鏡をかけたままだったため、黒曜が外した。
毛布をかけたのはアクトだった。
「一晩ですよ」
黒曜が言う。
「何が」
「滞在です」
「立てるまで」
「基準が曖昧です」
「ほな明日決めよ」
「先送りです」
「今日はもうええやろ」
部屋が静かになった。
理香子の寝息。空調。白い装甲スタンドの低い充電音。
黒曜は眠る理香子を見た。
「あなたは、こうして何人拾うつもりです」
「困っとる奴おったら、その時考える」
「責任を持てる範囲を超えます」
「一生背負う言うてへん」
「では、なぜ」
アクトは少し考えた。
「今、置いて帰ったら寝覚め悪いやろ」
「それだけですか」
「それで十分や」
黒曜には、その答えが理解しにくかった。
正義でも、契約でも、長期計画でもない。
ただ目の前にいたから。
普通の人間の、普通の善意。
それがこの街では、妙に危険だった。
【黒曜の日記】
理香子という未登録テクノマンサーが、アクト宅へ一時滞在することになった。
衛生状態、生活能力、身元、追跡リスクの全てに問題がある。
アクトは、彼女を「立てるまで」保護すると述べた。
基準は曖昧であり、合理的ではない。
ただし、あの場所へ残せば理香子の身体が衰弱した可能性は高い。
したがって、今回の判断は暫定的には妥当である。
猫の方が衛生的であるという評価は撤回しない。なお、理香子は睡眠中も二度、無意識に周辺機器へ接続しようとした。監視は必要である。