アクトの意識が落ちてから、黒曜は三度、時計を見た。
最初は手術開始から十二分後。
二度目は二十八分後。
三度目は三十一分後だった。
「三分しか経っていません」
黒宮が言った。
「確認しただけです」
「何を」
「時刻を」
「見れば分かるわ」
「だから見ました」
黒宮はそれ以上言わなかった。
待機室は手術区画の一つ上にあり、壁面の半分が観察用ディスプレイになっていた。患者の生命維持情報、手術工程、担当者の認証、予定時刻との差分。映像そのものは表示されない。黒曜が望んだとしても、医療上の理由なく術野を見る権限はなかった。
表示は安定している。
心拍、血圧、酸素飽和度、脳波。いずれも許容範囲。
それでも黒曜は、三十二分後にもう一度時計を見た。
「進捗は予定どおりです」
黒宮が言った。
「あなたは医師ではありません」
「管理者として情報を受けている」
「ならば、旧WR1の停止工程が予定より四分長い理由を説明してください」
「自己調整履歴の照合」
「事前に解析済みだったはずです」
「解析と実機は違う。森田が現物を見て調整している」
「問題が発生したのですか」
「問題ではなく、差分」
「同じです」
「違うわ」
黒宮は机上へ、手術工程の詳細を開いた。
旧式強化反射神経の停止。神経接続の切り離し。瘢痕組織の処理。新型WR2の受容部形成。反応力強化との干渉調整。四肢制御系との同期。
アクトは長年、自分の身体を自分の手で調整してきた。
公式の規格から外れた数値。本人にしか分からない癖。戦闘中に生じる遅延を補うため、別の系統へ先読みを持たせる処置。四肢の関節角度に合わせて反応系を偏らせた記録。
どれも、動くためには合理的だった。
だが新しい系へ置き換える際には、すべてが障害になる。
「彼女は、自分を直し続けてきたのね」
黒宮が言った。
「壊し続けてきたとも言えます」
「そう思う?」
黒曜は答えなかった。
観察画面の工程が進む。
旧WR1摘出完了。
新規接続開始。
森田から短い報告が入った。
『右側の予測入力、旧設定が深い。視覚系まで巻いてる。標準値へ戻すと本人の感覚と合わねえ』
「どうするのです」
黒曜が即座に応じた。
『本人の癖を残して、新型側で吸収する』
「安全性は」
『標準値へ押し込むよりましだ』
「定量的な根拠を」
『うるせえな、手術中だぞ!』
通信が切れた。
黒宮がわずかに笑った。
「何がおかしいのです」
「あなた、森田に怒鳴られても質問を続けるのね」
「必要な確認です」
「そう」
黒曜は再び時計を見た。
手術室では、アクトの身体から時間が切り離されていた。
生身の胴体は固定され、銀色の四肢は支持架へ保持されている。摘出された旧WR1は透明な保管容器へ移され、識別タグが付けられた。
新しい装置は小さい。
旧式より高性能であるにもかかわらず、神経束へ沿う形状は洗練され、接続部は薄い。だが取り付ければ終わりではない。脳が受け取る時間と、身体が動く時間を一致させなければならない。
「右脚、応答過多!」
「抑制二パーセント」
「下げすぎると本人が遅いと感じる!」
「本人の主観は起きてから調整する!」
医療スタッフと森田の声が飛ぶ。
森田は医師ではない。だがアクトの四肢制御と装備運用については、術者より詳しい。医療側が神経を守り、森田が動きを守る。
「左腕の入力が先走る」
「旧式の投げ動作補正だ。消すな」
「何の補正だ」
「相手の重心を取った瞬間、手首と肩が先に入る。本人が作った癖だ」
「そんなものまで残すのか」
「残さなきゃ別人になる」
森田は言い切った。
手術は予定より一時間十八分延びた。
黒曜は途中で一度も眠らなかった。
黒宮が食事を取るよう勧めても断り、栄養飲料だけを受け取った。飲み終えた容器を机へ置く位置まで、毎回同じだった。
「静」
「その名で呼ばないでください」
「黒曜。少し休んだ方がいい」
「必要ありません」
「手術が成功しても、あなたが倒れていたら意味がないでしょう」
「私は倒れません」
「昔からそう言うわね」
黒曜は黒宮を見た。
「昔の話をするために来たのではありません」
「私もしていない」
「今、しました」
「一文だけ」
「十分です」
黒宮は肩をすくめた。
「あなたは、家にいた頃より表情が増えた」
「増えていません」
「そう」
否定も肯定もしない返事が、黒曜には一番腹立たしかった。
手術開始から五時間四十二分。
工程表示が、接続調整から覚醒準備へ変わった。
黒曜は椅子から立ち上がった。
「まだです」
「分かっています」
「では座って」
「立って待つ方が合理的です」
「どう合理的なの」
「すぐ移動できます」
「どこへ」
「必要な場所へ」
「まだ場所は決まっていない」
「決まった時点で移動できます」
黒宮は諦めた。
アクトが最初に取り戻したのは、音だった。
遠くで誰かが話している。
森田の声。医師の声。機械の警告音。
次に、身体の輪郭。
指がある。腕がある。脚がある。
だが、以前とは違う。
入力へ身体が追いつくのではない。考えるより少し前に、動きの候補が並ぶ。目を開ける前から、首をどちらへ向けるかが分かる。
「アクト。聞こえますか」
医師の声。
「……聞こえとる」
「目を開けてください」
視界が白く開いた。
焦点が合う。
天井。照明。医師の顔。右上の診断表示。
その全部が、以前より早く位置を持った。
「気分は」
「速い」
「吐き気は?」
「ない」
「痛み」
「ある」
「どこに」
「全部」
医師はうなずいた。
「正常範囲です」
「全部痛いんが?」
「大規模な換装直後です」
「正常って便利な言葉やな」
森田が横から覗き込んだ。
「余計な口が動くなら大丈夫だ」
「脚、動かしてええ?」
「まだだ」
「指」
「ゆっくり」
アクトは右手を握った。
速すぎた。
指が一瞬で閉じ、関節へ衝撃が返る。
「うわ」
「だからゆっくりと言った!」
「今のがゆっくりや!」
「新しいゆっくりを覚えろ!」
アクトは笑った。
その笑いで、医療スタッフの緊張が少し解けた。
覚醒から二時間後、黒曜は病室へ入る許可を得た。
アクトはベッドを半分起こし、白い病衣の中で不満そうにしていた。帽子も眼鏡もない。金髪は簡単にまとめられ、顔色は少し悪い。
「遅い」
「覚醒直後の面会は禁止されています」
「もう二時間やで」
「術後二時間は短時間です」
「待っとった?」
「必要な情報を確認していました」
「何回?」
「何がです」
「時刻」
黒曜は答えなかった。
アクトは笑う。
「顔見たら分かるわ」
「分かりません」
「分かる」
「錯覚です」
アクトはそれ以上追及しなかった。黒曜の目の下に残った薄い影だけ見て、診断表示へ視線を移した。
黒曜はベッド脇の診断表示を見た。
「神経応答は安定。感染兆候なし。右側予測系に微調整が必要」
「森田が言うてた」
「痛みは」
「ある」
「鎮痛剤は」
「効いとる」
「吐き気」
「ない」
「視界の遅延」
「ない」
「聴覚」
「ええ感じ」
「具体的に」
「お前が廊下で医者に四回質問したん聞こえた」
「……聴覚過敏の可能性があります」
「都合悪いこと全部症状にすんな」
三日間、アクトは歩けなかった。
正確には、歩くことを許されなかった。
新しい反応系は、四肢を動かすだけなら問題ない。問題は、本人が旧式の感覚で命令を出すことだった。歩幅が大きくなりすぎる。足を下ろす速度が速すぎる。姿勢補正が先に入り、身体が追いつかない。
リハビリ室で、アクトは平行棒を握った。
「立つだけ」
森田が言う。
「歩いたらあかん?」
「立てたらな」
「立てるわ」
身体を起こす。
白い増加装甲は、まだ装着されていない。従来の銀色四肢がむき出しで、その内側だけが新しい制御へ置き換わっている。
立った瞬間、重心が前へ出た。
平行棒が軋む。
「力入れすぎ!」
「入れてへん!」
「旧感覚の三割で動け!」
「三割って分かりにくい!」
「繊細にやれ!」
「注文雑やな!」
「お前が言うな!」
黒曜はリハビリ室の外から見ていた。
アクトが一度、膝をつく。
立ち上がる。
もう一度、前へ傾く。
修正する。
三度目には、真っ直ぐ立った。
「どうや」
「立っているだけです」
「褒めてもええで」
「予定された工程です」
「冷たいなあ」
だが黒曜の肩は、わずかに下がっていた。
四日目、白い装甲が運び込まれた。
増加装甲は、従来の銀色四肢へ外側から接続される。肩、前腕、腿、脛、足部。白いセラミック複合材は厚く、角を丸めてある。頭部には白いウサ耳センサーモジュール。顎を守る白いチンガード。
アクトは装着台の上で、目を輝かせた。
「ええやん」
「まだ調整前だ」
森田が言う。
「似合う?」
「俺に聞くな」
「黒曜」
黒曜は白い外装を見た。
銀の関節部がところどころ残り、白い装甲の隙間から丁銀細工が覗いている。完全に別の身体ではない。古いアクトの上へ、新しい形が重なっている。
「どうや。速そうやろ」
「見た目では速度は判断できません」
「似合うか聞いとるんや」
「……視認性は高いです」
「それ褒めてへんな」
「白色は汚れが目立ちます」
「戦ったら汚れるもんや」
「だから黒の方が合理的です」
「お前と被るやろ」
「被りません」
白い通常小銃も用意されていた。
従来の銃本体へ、装甲と同材質の白いカウルが被せられている。やや厚みが増し、アクトの新しい腕部装甲と一体に見える。
「ガウスは?」
「後だ」
森田が即答した。
「設計できた?」
「後だ」
「試射は?」
「歩けるようになってから言え!」
足底装甲の厚みで、アクトの身長は約四センチ伸びた。
立位調整台から降りると、黒曜との目線差がほんの少しだけ縮まる。
「でかくなったやろ」
「誤差です」
「四センチは誤差ちゃう」
「私より低いことに変わりありません」
「いつか抜いたる」
「身体を延長して競うものではありません」
「脚もう一段足すか」
「森田、止めてください」
「俺に振るな!」
覚醒前、手術には一度だけ警告表示が出た。
新しいWR2と視覚予測系の同期中、アクトの脳波に短い乱れが生じたのだ。危険域ではない。だが観察画面の色が一瞬だけ黄色へ変わった。
黒曜は立ち上がった。
「説明してください」
「同期時の一過性反応です」
黒宮が答える。
「一過性である根拠は」
「三秒で基準値へ戻った」
「原因は」
「旧式側に残った補正記憶。新型が同時に別の予測を出し、競合した」
「再発は」
「現在、森田と医療班が片方ずつ入力して調整している」
「片方ずつ?」
「視覚を先に合わせ、その後に四肢。全部を同時に動かさない」
黒曜は表示を見た。
黄色は消えている。
それでも立ったままだった。
「座りなさい」
「必要ありません」
「今、あなたにできることはない」
「分かっています」
「なら」
「できることがないから座る、という論理は成立しません」
黒宮は一瞬考え、言い換えた。
「立ち続けると疲れる」
「問題ありません」
「アクトが目を覚ましたとき、疲れた顔で会うの?」
黒曜はようやく座った。
「誘導的な言い方です」
「有効だったでしょう」
「不快です」
「そう」
黒曜は栄養飲料の蓋を開けた。
その頃、手術室では森田が旧WR1のログを新型へ移していた。
「全部は入らない」
医療技師が言う。
「入れる必要はない。本人の癖だけ抽出する」
「どれが癖で、どれが不具合だ」
「本人が使って生き残ったのが癖。本人が困ってたのが不具合」
「雑だな」
「現場はそういうもんだ」
森田は投げ動作、射撃姿勢、被弾時の荷重逃がし、左脚を軸にした方向転換の記録を選んだ。
被弾ログが多い。
「こいつ、本当に避けないな」
「回避成功ログもあります」
「致命弾だけだ。残りは装甲と姿勢で受けてる」
「合理的ですか」
「本人にとってはな。だがWR2で余裕が増えた分、さらに無茶をする可能性がある」
「なら制限を」
「入れたら外すぞ」
森田は断言した。
「制限じゃなく、警告を増やす。決めるのは本人だ」
白い装甲の最終調整では、さらに別の問題が出た。
外装を厚くしたことで、肩と腿の可動域がわずかに狭まる。一般的な射撃姿勢なら問題ない。しかしアクトは近接で相手の懐へ潜り、四肢を極端な角度へ入れる。
「ここ削る」
森田が肩装甲の内側を指した。
「防御面積が落ちます」
設計技師が言う。
「投げられなくなる方が本人は嫌がる」
「聞いてみますか」
「寝てる」
「では標準を優先すべきでは」
「起きたら勝手に削るぞ。だったら最初から正しく削る」
森田はアクト本人の過去映像を呼び出した。長い腕を取り、肩を落とし、相手の重心を崩す。装甲の角がどこへ当たるかを確認する。
肩の内側を三ミリ。
腿の後方を五ミリ。
白い外装は、見栄えよりアクトの癖に合わせて不均一に削られた。
四日目の装着前、アクトは摘出された旧WR1を見せてもらった。
透明なケースの中に、小さな装置がある。長く自分の神経へ接続され、世界の速度を変えていたもの。外見だけなら、故障した精密部品にしか見えない。
「こんなちっさかったんやな」
「身体の中に入っていたのですから、当然です」
黒曜が横で言う。
「世話になったわ」
「機械へ礼を言うのですか」
「お前、杖に話しかけるやろ」
「確認です」
「同じやん」
「違います」
アクトはケースを両手で持ち上げた。
「捨てへんで」
「契約上、あなたの所有物です」
「家置いとく」
「居間には置かないでください」
「寝室?」
「そういう問題ではありません」
森田がケースを取り戻した。
「まだ消毒と不活性化が終わってねえ。持ち帰るのは退院時だ」
「磨いてええ?」
「内部を開けるな」
「外だけ」
「丁銀細工は入れるなよ」
「何で分かったん」
「顔だ」
白装甲の装着後、歩行試験だけでなく、反応試験も行われた。
壁面から複数の光点が出る。色によって触れる、避ける、無視するを判断する。
最初の試行で、アクトは速すぎた。
触れるべき青点へ手を出し、その直後に出た赤点へも反応しかける。身体が判断より前へ出る。
「停止!」
森田が叫ぶ。
「分かっとる!」
「分かってねえから二つ触った!」
「二つ目は寸止めした!」
「反応試験で寸止めを自慢するな!」
二回目、アクトは意識的に待った。
遅く感じる。
だが実際には、旧式より速い。
三回目には、青だけを正確に取った。
四回目、背後から出た点へ、白いウサ耳が先に反応した。アクトは振り返らず、左手だけを伸ばして触れる。
サコンが観察窓の向こうで手を叩いた。
「新しい耳、いいね」
「本人より先に反応してへん?」
「予測支援。最終決定は本人」
「気持ち悪いな」
「気に入った?」
「めっちゃ」
黒曜は試験ログを見ていた。
「誤反応が一件」
「最初のやろ」
「記録上は一件です」
「成功は?」
「二十七件」
「ほな褒めて」
「成功率九十六・四パーセント」
「数字やなくて」
「良好です」
「それでええわ」
退院はまだ先だった。
だがその日の夜、病室へ戻る途中、アクトは廊下の窓へ映った自分を見た。
白い四肢。白い兎耳。白い顎当て。関節の隙間に残る銀。
新しい。
それでも、鏡の中にいたのは知らない誰かではなかった。
「何を見ているのです」
後ろから黒曜が訊いた。
「あたし」
「見れば分かります」
「ちゃんとあたしやなって」
黒曜は鏡像を見た。
「当然です」
「そやな」
アクトは歩き出した。
最初の一歩は、ぎこちなかった。
白い足部が床へ触れ、予測補正が早く入りすぎる。上体が少し揺れる。
二歩目で、アクトは出力を落とした。
三歩目。
銀の関節と白い装甲が、同時に滑らかに動いた。
アクトは笑った。
速さではない。
自分の身体が、自分へ戻ってきた顔だった。
「おかえりなさい」
黒曜が言った。
小さな声だった。
アクトは聞き返さなかった。
「ただいま」
それだけ返した。
森田は離れた場所で診断値を確認しながら、聞こえなかったふりをした。サコンは聞こえていたが、笑うだけに留めた。黒宮は観察窓の向こうで一度だけ目を伏せた。
誰も、その言葉を記録項目には入れなかった。少なくとも、公式の医療記録には。黒曜の私記には、別の言葉で、しつこく、何度も、消せないまま残ることになる。
【黒曜の日記】
手術は成功した。
新規反応系は安定。四肢制御も予定範囲へ収束。
白い増加装甲は視認性が高く、隠密任務には不適切。
三歩目で、彼女の歩容は旧来のものへ戻った。
私は「おかえりなさい」と発言した。
白は、まだ汚れていなかった。