アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
理香子が一般社会人になって四日目。
「その呼び方をやめてください」
「まだ何も言うてへんやろ」
「顔で分かります」
「便利やなあ」
「あなた限定です」
「なんでや」
朝の食卓。
理香子はパンを片手に、EVOから貸与された端末を見ていた。
昨日まで使っていた古い端末とは別物だ。
薄い。
速い。
何より、画面の端にひびがない。
「ええ端末やな」
「業務用です」
「交換しよか」
「しません」
「古い方と」
「もっとしません」
黒曜が湯呑みを置いた。
「仕事中ですか」
「まだです。昨夜の処理結果を確認しています」
「休め言われてへん?」
「睡眠は六時間二十二分です」
「微妙やな」
「成人として許容範囲です」
「誰基準?」
「複数の医学資料」
「検索すんな」
「もうしました」
アクトがコーヒーを飲む。
理香子は画面を送った。
その指が止まった。
「……何や」
「何でもありません」
「その間は何でもある時の間やろ」
「アクト」
黒曜が低く言う。
理香子は数秒、画面を見たままだった。
「業務端末へのアクセスではありません」
「ほな?」
「古い方です」
床に置かれた、ひびの入った端末。
理香子はそれを拾い上げた。
「昨日、使っていた回線に照会が来ています」
「誰から」
「分かりません」
「企業?」
「たぶん」
「たぶん?」
「照会形式が企業系です。一般の広告収集ではありません」
アクトの顔から笑みが消えた。
「何見られた」
「まだ何も」
「まだ?」
「照会だけです。応答は返していません」
黒曜が身を乗り出す。
「切れますか」
「切るだけなら」
「なら切ってください」
「待って」
理香子が画面を拡大した。
「照会先が一つではない」
「何個」
「過去の端末識別子。旧居住登録。廃通信施設で使っていた回線。昨日更新した業務用の連絡先」
沈黙。
アクトが言った。
「繋がっとる?」
「今、繋げられました」
「誰に」
理香子は答えなかった。
代わりに、照会パケットの一部を切り出す。
企業識別領域。
途中で消されている。
しかし、完全ではない。
「MCT」
黒曜が先に読んだ。
理香子が頷く。
*
EVOへの連絡は、その場で行った。
十五分後。
三人の端末へ同時に回答が来た。
《外部監視の可能性を確認》 《貸与端末への侵入痕跡なし》
《施設入退場情報の照会痕跡あり》 《対象:理香子》
「早いな」
「自社施設への照会ですから」
理香子は淡々と答えた。
黒曜は画面を見たまま動かない。
「MCTが、なぜ理香子さんを」
「知らん」
「私も分かりません」
「心当たり」
「多すぎます」
アクトが理香子を見る。
「多いんかい」
「廃棄回線の利用。残存データの回収。非正規市場への情報販売。企業設備への無断接続――」
「もうええ」
「まだあります」
「聞きたない」
「聞いてください」
「嫌や」
黒曜が額を押さえた。
「今までよく捕まりませんでしたね」
「捕まるほど価値がなかったので」
理香子はそう言って、画面へ戻る。
指が止まる。
「……今までは」
アクトが目を細めた。
EVOとの契約。
ヘカトンケイル研究。
企業施設への出入り。
昨日までなら、雑多な違法アクセスの一つだった。
今は違う。
企業が名前を付けて追うだけの理由ができた。
「EVOからは?」
「施設内での保護は可能。移動時の警護も手配可能」
「それ、外出るたび護衛付き?」
「必要なら」
「一般社会人から遠ざかるなあ」
「その呼び方をやめてください」
いつもの返しだった。
けれど。
理香子の声は少しだけ硬かった。
*
昼前。
EVOから追加の通知が来た。
《面談推奨》 《対象本人の意思確認を優先》
「行く?」
アクトが聞いた。
「行きます」
「即答やな」
「情報が足りません」
「ほな行こ」
「あなたも?」
「あたしの契約絡みやろ」
「まだ確定していません」
「確定してから行ったら遅いやん」
黒曜も立ち上がる。
「私も行きます」
「なんで」
「あなたたち二人だけで企業と話をさせたくありません」
「信用ないなあ」
「実績があります」
「何の」
「四時間の契約交渉」
「あれ慎重やったやろ」
「途中からガウスの仕様書を読んでいました」
「必要な確認や」
「違います」
理香子が端末を鞄へ入れた。
「二人とも、早くしてください」
アクトと黒曜が同時に理香子を見る。
「……馴染んだな」
「馴染んでません」
*
EVOの会議室には、見覚えのある技術担当者と契約担当者。
それに、知らない男が一人いた。
「保安部門です」
短い自己紹介。
名前は名乗ったが、アクトは覚える気がなかった。
保安担当者が壁面へ監視ログを展開した。
「状況を説明します」
壁面に照会記録が並ぶ。
「MCT系の監視網から、理香子さんに対する複数回の照会が確認されました」
「目的は」
理香子が聞く。
「不明です」
「確度は」
「MCT由来であることについては九十四パーセント」
「高いですね」
「はい」
別のログ。
理香子の旧端末。
廃通信施設。
EVO施設への入退場。
業務委託契約の存在。
「契約内容まで見られた?」
アクトが聞く。
「いいえ。契約の存在のみです」
「ヘカトンケイルは」
「現時点では漏洩を確認していません」
黒曜が息を吐く。
「なら、まだ――」
「ただし」
保安担当者が表示を切り替えた。
「MCT側の照会優先度が上がっています」
《対象分類:未確定》 《継続観測:承認》 《接触履歴:収集中》
理香子が読む。
「私を見ている」
「はい」
「アクトではなく?」
「現時点では、主対象はあなたです」
アクトが椅子の背へ体重を預けた。
「気に入らんな」
「何がですか」
「人んちの居候を勝手に観察すんなや」
「そこですか」
「そこやろ」
理香子は少しだけアクトを見た。
すぐ画面へ戻る。
「対応案は」
EVO側が三つ表示した。
一つ。
施設内居住区への一時移動。
二つ。
別名義・別回線による生活基盤の再構築。
三つ。
現状維持。ただし監視対策を強化。
「おすすめは」
「一です」
「嫌です」
理香子は即答した。
保安担当者が止まる。
「理由を伺っても?」
「仕事場に住みたくありません」
アクトが吹き出した。
「そこ?」
「重要です」
「重要やな」
黒曜は笑わない。
「二つ目は?」
「生活基盤をもう一度捨てることになります」
「はい」
「それも嫌です」
「では三つ目になります」
「はい」
「待ってください」
黒曜だった。
理香子を見る。
「追われているんですよ」
「はい」
「MCTに」
「はい」
「怖くないんですか」
理香子は少し黙った。
「怖いです」
短かった。
アクトは口を挟まない。
「でも」
理香子は続けた。
「昨日、仕事を始めました」
「……はい」
「住む場所もあります」
「はい」
「端末も新しくなりました」
「それは業務用です」
「今は関係ありません」
「そうですか」
「食事代も返しました」
「奢ってもろたな」
「黙っていてください」
「はい」
理香子は黒曜を見る。
「それを、相手が見つけたからという理由で全部捨てるのは嫌です」
黒曜は何も言わなかった。
「逃げる必要があるなら逃げます」
「なら」
「必要になったらです」
理香子は壁面の三つ目を指した。
「今は、ここに残ります」
*
面談が終わったのは午後三時過ぎだった。
EVOは理香子の選択を受理した。
貸与端末の監視強化。
移動経路のランダム化。
緊急時の退避先。
連絡不能時の手順。
最低限の対策だけを決めた。
施設の廊下を歩きながら、アクトが言う。
「ええん?」
「何がですか」
「残るん」
「さっき言いました」
「いや、あたしん家」
「嫌なら出ます」
「そういう意味ちゃう」
「では何ですか」
アクトは少し考えた。
「……まあええわ」
「質問を途中で放棄しないでください」
「答え出とるし」
「何が」
「おるんやろ?」
「はい」
「ほなええ」
理香子は一度だけ瞬いた。
「雑です」
「知っとる」
前を歩く黒曜が振り返る。
「二人とも、置いていきますよ」
「待てや」
「歩いてください」
*
同じ頃。
別の場所。
窓のない部屋。
複数の監視記録が、一枚の画面へ集められていた。
《対象:理香子》 《EVO外部契約者》 《アクトトゥルスとの居住接点:確認》
《黒宮静との継続接触:確認》
最後の項目だけ。
画面の前に立つ小柄な少女の指が止まった。
黒い髪。
整った姿勢。
感情の薄い横顔。
「……静」
呼び方だけが、記録の表記と違った。
少女――小鴉は、表示を一段送る。
《接触許可:未承認》 《観測継続》
通信欄に、新しい記録が届く。
《報告先:RUSHER》 《状態:受領》
返信は短い。
《継続》
小鴉は何も返さなかった。
画面の中。
EVO施設を出る三人。
先を歩く黒曜。
その後ろで何か言い合っているアクトと理香子。
小鴉は数秒だけ見た。
それから画面を閉じる。
*
翌朝。
「今日、EVO行くんやろ」
「はい」
「試験?」
「準備です」
「何の」
「外部視覚入力」
アクトの手が止まった。
「もうそこまで行ったん?」
「まだ接続しません。今日は基準値測定と説明です」
「つまらんな」
「安全確認をつまらないと言わないでください」
「見るだけ?」
「見るだけです」
「外の目で?」
「今日はあなたの目で」
「ほんまにつまらんな」
黒曜が言った。
「私は安心しました」
「二対一や」
「多数決です」
「いつから民主制になったん」
理香子が端末を閉じる。
「行きますよ」
「はいはい」
玄関。
靴が三足。
理香子は自分の靴を履く。
一瞬だけ、外を見る。
昨日までと同じ街。
昨日から、自分を探している企業が一つ増えた。
それでも。
扉を閉める側には回らなかった。
「理香子?」
「今行きます」
三人で外へ出た。