アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
目を開ける前から、右後ろに手があった。
あるはずだった。
指を開く。
何も動かない。
もう一度。
開く。
やはり何もない。
「……ああ」
アクトは目を開けた。
白い天井。
EVOの医療区画。
視界は正面だけだった。
首を動かす。
右。
壁。
左。
端末。
それだけ。
「起きましたか」
黒曜の声がした。
右側。
アクトはそちらを向いた。
「おはよ」
「午後です」
「寝たなあ」
「七時間です」
「寝たなあ」
身体を起こそうとする。
右肩に鈍い痛み。
左膝が遅れてついてくる。
ベッド脇の端末に警告が出た。
《RIGHT SHOULDER:LOAD LIMIT》
《LEFT KNEE:ASSIST REQUIRED》
「起きないでください」
「起きれるか確認しただけや」
「確認できましたね」
「できへんな」
「はい」
黒曜が椅子に座っている。
帽子はない。
杖は壁に立てかけられていた。
目の下に薄く影がある。
「黒いの」
「何ですか」
「右後ろの手、そこにある気ぃすんねん」
「……はい」
「今、ベッドの柵掴んどる」
黒曜は右後ろを見る。
もちろん、何もない。
「掴めていますか」
「感触だけ」
「柵の?」
「ちゃう。掴んどる側の」
アクトは自分の右手を見る。
銀色ではない。
白い装甲に覆われた、今の右手。
開く。
閉じる。
これは動く。
その外側。
三メートルほど離れた場所に。
もう一本。
ない腕がある。
「変な話やな」
「笑えません」
「今朝も言われた」
「今日も言います」
アクトは息を吐いた。
右後ろの指を開こうとした。
開かない。
なのに。
開かなかったことだけは分かる。
「これ、痛いっちゅうより腹立つな」
「痛くないんですか」
「痛いで」
「どちらですか」
「両方や」
*
医療担当者が来た。
端末をアクトの首元へ接続する。
「外部肢運動信号、継続」
「まだ?」
「減衰しています。今朝の切断直後を一〇〇とすると、現在六十二」
「半分以上残っとるやん」
「信号量です。苦痛の強さとは一致しません」
「便利な逃げ方するなあ、数字」
「医学です」
「理香子みたいなこと言う」
端末の波形が跳ねた。
「今、何をしました?」
「右上の目ぇ見ようとした」
「外部視覚系への参照信号です」
「目ぇも残っとるん?」
「接続先はありません」
「知っとる」
「脳側が参照しています」
「それも知っとる」
医療担当者は淡々と画面を操作した。
「意識的に抑制できますか」
「やってみる」
アクトは目を閉じる。
見るな。
右上。
見るな。
後ろ。
見るな。
左奥。
見るな。
――見たい。
そこにあった。
昨日までではない。
今朝だけだ。
たった一度。
数十分。
それでも脳は、そこに目があることを知ってしまった。
「……あかんな」
「参照信号、増えました」
「言われると余計やるわ」
「では別の方法を試します」
医療担当者がアクトの左手を取った。
「この指を見てください」
「見とる」
「一本ずつ動かしてください」
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
「次、右手」
「はいはい」
動く。
自分の手。
二本。
「左足」
動かす。
膝で警告。
「そこまで」
「まだ動くで」
「動くことと、動かしてよいことは別です」
「今朝からそればっかやな」
黒曜が小さく息を吐いた。
「学んでください」
「善処する」
「しない言い方です」
医療担当者が画面を閉じる。
「現在の四肢を順番に再認識させます。外部肢の信号を消すのではなく、現在接続されている身体の優先度を上げます」
「消されへんの?」
「急激な抑制は勧めません」
「なんで」
「今朝、急激に失ったからです」
アクトは黙った。
右後ろの手が。
また柵を掴んだ。
*
「フヒ」
「笑うな」
「笑っていません」
「今言うたやろ」
「生理現象です」
「便利やなそれ」
理香子は病室の隅で端末を三枚開いていた。
来てから十五分。
一度も椅子に座っていない。
「で?」
「で、とは」
「今朝のログ」
「見ますか」
「見る」
「私は反対です」
黒曜が即答した。
「なんで」
「今、自分の身体がどこまでか分からなくなっている人が、増えていた時の感覚ログを見てどうするんです」
「確認」
「何を」
「何が残っとるか」
「残っているから困っているんでしょう」
「黒いの」
「何ですか」
「正論で殴るんやめて」
「今朝あなたを物理的に殴ったのはダンボです」
「せやった」
理香子が端末を一枚閉じた。
「ログそのものは見せません」
「お前もか」
「代わりに切断前後の差分だけ出します」
「それログやろ」
「加工済みです」
「一般社会人、強なったなあ」
「その呼び方をやめてください」
表示。
《EXTERNAL VISUAL:4 → 0》
《EXTERNAL AUDIO:6 → 0》
《MANIPULATOR:3 → 0》
《FIRE SUPPORT:1 → 0》
《DEFENSE:LOST》
《NEURAL LOAD:91 → 47》
アクトは数字を眺めた。
「一気やな」
「はい」
「そら狭いわ」
黒曜が顔を上げた。
アクトはすぐ続ける。
「分かっとる。今の身体が狭いんやなくて、増えた方が残っとるだけや」
「……ならいいです」
「納得はしてへん顔やな」
「していません」
「素直やな」
理香子が別の波形を出す。
「問題はこれです」
切断後。
接続先がゼロになった後も、運動出力だけが続いている。
外部腕。
視覚。
聴覚。
火力担当腕。
それぞれに、短い信号が何度も飛んでいる。
「これ全部あたし?」
「はい」
「忙しいな」
「あなたが無意識に動かそうとしています」
「火力腕も?」
「はい」
「撃とうとした?」
「発射命令はありません」
「ほなええ」
「よくありません」
黒曜と理香子の声が重なった。
「息合うなあ」
「あなたが雑なんです」
「同意します」
「二対一ずるない?」
誰も答えなかった。
アクトは表示を見た。
外部腕への信号。
短い。
何度も。
右後ろ。
左前。
上。
床。
今朝の自分が、まだそこにいる。
「……これ、いつ消える?」
理香子の指が止まった。
「不明です」
「不明?」
「過去例では数時間から数週間。長期化した例もあります」
「戻らんかったやつ」
「あります」
黒曜が理香子を見る。
理香子は画面から目を逸らさない。
「ただし、アクトの切断は安全系が機能した状態で実施されています。旧試験群とは条件が違います」
「つまり」
「比較不能です」
「安心させる気ないな、お前」
「根拠のないことは言えません」
「知っとる」
アクトは枕へ頭を戻した。
「まあええわ」
「よくありません」
「今すぐどうにもならんもん考えてもしゃあない」
「それで今朝、九十一まで行きました」
「それは反省しとる」
黒曜が眉を上げる。
「本当に?」
「ちょっと」
「反省していませんね」
「五秒欲しかったんは本音や」
理香子が言った。
「切って正解でした」
「知っとる」
「撤回しません」
「せんでええ」
「次も切ります」
アクトは理香子を見た。
理香子は真正面から見返した。
「……おう」
「契約上、私にも停止権限があります」
「知っとる」
「嫌でも切ります」
「知っとるって」
「怒りますか」
アクトは少し考えた。
「その時は怒る」
「はい」
「でも切れ」
「はい」
黒曜が椅子の背へ身体を預けた。
「そこは決まっているんですね」
「決めたからな」
*
午後。
歩行訓練。
「車椅子でええやん」
「歩ける範囲を確認します」
「左膝痛い」
「だから確認します」
「EVO、医療まで体育会系なん?」
「立ってください」
「無視された」
平行棒。
アクトは両手で掴む。
右肩に制限。
左膝に補助。
一歩。
左脚を出す。
床へ。
次。
右。
その瞬間。
右後ろの外部腕で平行棒を掴もうとした。
身体がそちらへ傾く。
「っ」
医療担当者が支える。
黒曜が反対側へ手を出す。
「アクト」
「大丈夫」
「今、何をしました」
「三本目で掴もうとした」
「ありません」
「知っとる!」
声が大きくなった。
病室が静かになる。
アクトは口を閉じた。
「……知っとるんや」
右手。
平行棒。
左手。
平行棒。
二本。
ちゃんとある。
「頭が勝手に使うねん」
医療担当者が言う。
「焦らなくて結構です」
「焦っとらん」
「では、もう一度」
「容赦ないな」
一歩。
二歩。
三歩。
今度は二本だけで。
左膝が軋む。
右肩が熱い。
でも。
立っている。
四歩目。
背後で器具が落ちた。
金属音。
アクトは。
後ろの目で見ようとした。
見えない。
身体が止まる。
首を回す。
遅れて。
見る。
床にトレー。
「……めんどくさ」
「何がですか」
「振り向くん」
「人間は普通そうします」
「今朝までのあたしもそうやったわ」
「今朝までです」
「細かいな」
黒曜が横で言った。
「戻る必要はありません」
「ん?」
「今朝と同じになる必要はない、と言っています」
アクトは黒曜を見る。
「でも、今ある身体は使ってください」
「どっちやねん」
「両方です」
「難しい注文するなあ」
「あなたが難しい身体になったんでしょう」
「それはそう」
アクトはもう一歩進んだ。
*
夕方。
理香子が持ってきた映像に、ダンボがいた。
アクトはベッドの背を起こしたまま見る。
「生きとるな」
「はい」
映像はMCT側から直接取ったものではない。
周辺監視網。
断片。
回収車両へ乗せられる巨体。
外部腕の一本が損傷。
盾も割れている。
それでも。
アクトよりは多い。
「負けた感じするなあ」
「勝敗を決める状況ではありませんでした」
「分かっとる」
黒曜が映像を見る。
「追ってきませんでしたね」
「はい。EVO回収線を越えた時点で停止しています」
「命令?」
「不明です」
理香子が映像を止めた。
「ただ、別のログが一つあります」
「どこから拾った」
「言うと怒られる経路です」
「もう怒っとる」
「では省略します」
「おい」
画面。
文字だけ。
《POST-COMBAT ADJUSTMENT》
《EXTERNAL CONTROL ASSIST:EXPAND》
《VOLUNTARY DECISION LOAD:REDUCE》
《RECOMMENDED CONFIGURATION:APPLY》
アクトの表情が消える。
「本人は」
理香子が次を出す。
《CONSENT REQUIRED》
その下。
《YES》
《NO》
「……」
カーソル。
動く。
YES。
停止。
〇・二秒。
押下。
《CONSENT:YES》
アクトの右手が。
無意識にシーツを掴んだ。
「早いな」
「はい」
「読んどる?」
「表示から押下まで〇・二秒です」
「読んでへんな」
「少なくとも全文は不可能です」
黒曜が言う。
「自分で押しています」
「せやな」
「誰かに腕を掴まれているわけでもない」
「せや」
「だから」
黒曜はそこで止めた。
アクトが画面を見る。
YES。
本人同意。
今朝までなら。
それを見て腹が立った。
今は。
右後ろにない腕が疼いた。
「なあ理香子」
「はい」
「こいつ、外せ言うたら外せるん?」
「何をですか」
「全部」
「技術的には、段階的に」
「本人が嫌言うたら?」
「外せません」
「MCTが外せ言うても?」
「本人の契約状態次第です」
「本人が残す言うたら?」
「残ります」
アクトは少し笑った。
「ややこしいな」
「はい」
「全部機械のせいなら楽やのに」
黒曜がアクトを見る。
「そうですね」
「全部本人のせいでも楽や」
「はい」
画面のダンボは動かない。
ログだけが残る。
《CONSENT:YES》
「……あいつ、自分で選んどるんやな」
「形式上は」
「形式の話ちゃう」
アクトは右後ろへ手を伸ばそうとした。
ない。
また。
信号だけが出た。
「自分で選んで」
声が少し低くなる。
「選ぶとこまで減らしとる」
理香子は何も言わない。
「変やな」
アクトは自分の右手を開いた。
閉じた。
「今朝のあたしは、増やして」
もう一度。
開く。
「こいつは、減らしとる」
黒曜が言う。
「何をですか」
「知らん」
アクトは首を振った。
「そこまで言葉にしたら、たぶん間違う」
画面を閉じる。
「明日、会える?」
「接触経路を探します」
「戦うんですか」
黒曜。
「この膝で?」
「あなたなら言いかねません」
「信用ないなあ」
「実績があります」
「話すだけや」
「何を」
アクトは少し考えた。
「聞く」
「何をですか」
「今のそれ」
閉じた画面を顎で示す。
「ほんまに欲しいんかって」
*
夜。
照明が落ちた。
黒曜は帰らなかった。
椅子で本を読んでいる。
「黒いの」
「何ですか」
「寝えへんの」
「寝ます」
「そこで?」
「あなたが寝たら」
「監視?」
「見張りです」
「同じやろ」
「違います」
「定義して」
「理香子の真似をしないでください」
アクトは笑った。
少しだけ。
右後ろ。
手。
まだある。
左上。
目。
まだある。
耳。
壁の向こうを聞こうとする。
聞こえない。
でも。
さっきより。
少し遠い。
「黒いの」
「何ですか」
「右後ろの手な」
「はい」
「さっきまで柵掴んどったんやけど」
「今は?」
「離れた」
黒曜が本を閉じる。
「消えましたか」
「いや」
「では」
「そこにある」
アクトは目を閉じた。
「でも、掴んでへん」
「……そうですか」
「進歩やろ」
「たぶん」
「そこは断言せえや」
「根拠のないことは言えません」
「理香子に染まっとるで」
「寝てください」
「はいはい」
静かになる。
アクトは眠ろうとした。
右後ろの手。
動かさない。
左上の目。
見ない。
壁の向こうの耳。
聞かない。
消そうとはしない。
そこにあるまま。
今ある二本の手を、シーツの上に置く。
右。
左。
二つ。
それで。
今夜は眠る。
その直前。
閉じた瞼の裏に。
《CONSENT:YES》
が浮かんだ。
アクトは眉を寄せた。
「……明日、聞いたる」
「何をですか」
まだ起きていた黒曜が聞く。
「本人にや」
「そうですか」
「うん」
右後ろの手は。
今度は動かなかった。