SUBJECT B DESIGNATION: KOKUYOU
OPERATIONAL RECONTACT: VOLUNTARY
SUBJECT A RESPONSE LATENCY: BELOW EXPECTATION
MUTUAL INTEREST: DENIED
RELATIONSHIP STATUS: UNRESOLVED
CROWシステム/連続性観察
対象B呼称:黒曜
作戦上の再接触:自発的
対象Aの応答遅延:予測値以下
相互関心:否認
関係性の状態:未解決
《ラスティ・コヨーテ》の一番奥は、今日も薄暗かった。
赤いネオンは相変わらず壁の途中で力尽き、テーブルの半分だけを照らしている。壊れた自動演奏ピアノは、思い出したように単音を鳴らし、天井の保安官ホログラムは右半身を失ったまま、存在しない客へ警告を続けていた。
ただし、今夜は少しだけ店が騒がしい。
店の中央では、どこかのランナーチームが仕事の成功を祝っていた。安酒の瓶が次々に空き、オークの男が椅子の上へ立って武勇伝を語っている。内容の半分以上は明らかに誇張だったが、誰も気にしていなかった。
アクトトゥルスは、その喧騒を背にしてビールを飲んでいた。
赤い野球帽はいつもどおり目深にかぶられ、その上のウサ耳センサーモジュールが、店内の音を拾うたび微かに向きを変えている。
向かいには、黒衣の魔法使いが座っている。
巨大な三角帽子は、今夜は最初から隣の椅子に置かれていた。
その事実にアクトは気づいていたが、あえて何も言わなかった。
言えば、魔法使いは「店内環境に応じた合理的措置です」と答えるだろう。そして、そのあと無駄に長い説明が始まる。
今夜は仕事帰りではなかった。
依頼もない。
反省会でもない。
集合をかけたのは魔法使いのほうだった。
端末へ届いたメッセージは、たった一行。
『二十一時。《ラスティ・コヨーテ》。時間厳守』
依頼の連絡かと思って来てみれば、魔法使いはすでに席へ座り、ワインを一本注文していた。
それから二十分。
依頼の話はまだ出ていない。
アクトは瓶を置き、向かいの女を見た。
「で」
「何です」
「何の用や」
魔法使いはグラスを口元へ運んだ。
「用件がなければ、呼び出してはいけないのですか」
「あかんとは言うてへん」
「なら問題ありません」
「問題あるやろ。時間厳守いうて呼び出して、二十分黙って酒飲んどるだけやん」
「あなたも飲んでいるでしょう」
「あたしは飲むために来たんちゃう」
「では、帰りますか」
魔法使いは平然と言った。
アクトは少し考え、ビール瓶を持ち直した。
「帰らへんけど」
「なら問題ありません」
「それで押し通す気か」
「何か不都合がありますか」
「気になるやろ」
「あなたは好奇心が強すぎます」
「自分が呼び出したんやろが」
魔法使いは返事をせず、ワインを一口飲んだ。
以前は一杯ごとに品質への不満を述べていたが、最近は何も言わなくなった。
アクトは、それが酒に慣れたのか、店の酒へ期待しなくなったのか、まだ判断できずにいる。
「仕事の話ちゃうんやな」
「違います」
「借金か」
「違います」
「偽造SIN、焼けたんか」
「違います」
「杖折った?」
「折れていません」
「帽子盗られた?」
魔法使いの目が僅かに鋭くなった。
「その程度の不手際を私が犯すと?」
「帽子でかいからな。引っかけて持ってかれそうやん」
「私の帽子は荷物ではありません」
「せやから目立つねん」
「その議論はすでに終了しています」
「自分が勝手に打ち切っただけやろ」
魔法使いはグラスを置いた。
それから、隣の椅子に置かれた帽子へ一瞬だけ視線を向ける。
「本日は、帽子を着用していません」
「店の中ではな」
「改善です」
「自分で言うんや」
「事実です」
アクトは鼻で笑い、ビールを飲んだ。
店の中央で武勇伝を語っていたオークが、椅子ごと後ろへ倒れた。
盛大な音が響く。
ウサ耳センサーがそちらへ向き、魔法使いも一瞬だけ視線を移した。
オークは立ち上がり、「計算どおりだ」と叫んだ。
店中から笑い声が上がる。
アクトも少し笑った。
「自分と気ぃ合いそうやな」
「誰がです」
「あの計算どおりの兄ちゃん」
「一緒にしないでください」
「似とるで」
「どこが」
「失敗を認めへんとこ」
「彼は酔って転倒しただけです。私は判断根拠を説明しています」
「説明したら失敗やなくなるんか」
「適切な説明は、誤解を訂正します」
「ほな、あの兄ちゃんも転んだんやのうて、床との距離を急速に縮めただけやな」
魔法使いはアクトを睨んだ。
アクトは知らぬ顔で瓶のラベルを剥がした。
しばらくすると、魔法使いが小さく息を吐いた。
「あなたは、最近仕事を入れすぎています」
アクトの指が止まった。
剥がしかけたラベルが、瓶の途中で千切れる。
「急になんや」
「先週、三件。今週はすでに二件。さらに明日の仕事にも参加する予定でしょう」
「誰から聞いた」
「聞くまでもありません」
「何で分かるねん」
「左肩の駆動音が以前より大きい。右脚の応答も僅かに遅れています。睡眠不足の兆候もあります」
アクトは無意識に左肩を回した。
確かに、動かすとごく小さな作動音がする。
店の雑音に埋もれる程度の音だ。
「よう聞いとるな」
「観察です」
「人の身体、じろじろ見る趣味あったんか」
「あなたの装備状態は、チーム全体の生存率に影響します」
「今日は仕事ちゃうんやろ」
「仕事ではありません」
「ほな、何でそない気にするんや」
魔法使いは答えなかった。
代わりにワインへ手を伸ばす。
しかし、グラスはすでに空だった。
彼女は空のグラスを見つめ、それから瓶へ手を伸ばした。
瓶も空だった。
アクトは黙って店員を呼び、同じワインを頼んだ。
魔法使いが眉を寄せる。
「私は追加を頼んでいません」
「飲むんやろ」
「まだ決めていません」
「空の瓶三回見たやん」
「確認しただけです」
「何を」
「内容量を」
「空や」
「知っています」
「ほな飲みたいんやん」
「その断定は論理的ではありません」
「はいはい」
「その返答をやめてください」
「それも前に聞いたわ」
新しいボトルが運ばれてきた。
アクトは栓を開け、魔法使いのグラスへ注ぐ。
赤い液体が細く落ちる。
魔法使いは止めなかった。
「明日の仕事は断りません」
アクトが言った。
「そうでしょうね」
「金いるし」
「あなたは直近の報酬をほとんど使っていません」
「何で知っとる」
「新しい装備を購入していない。サイバーウェアの更新もない。住居も変わっていない」
「貯めとるだけかもしれへんやろ」
「あなたは貯蓄を趣味にするタイプではありません」
「失礼やな」
「否定できますか」
「できへんけど」
魔法使いは新しいワインを飲んだ。
「理由を聞いても?」
「何の」
「仕事を増やしている理由です」
アクトは椅子へ深く座り直した。
銀色の指で瓶を回す。
「暇やから」
「虚偽です」
「何でや」
「暇を嫌う人間なら、もっと以前から仕事を増やしています」
「最近、暇になったんや」
「虚偽です」
「決めつけんなや」
「では、別の理由を述べてください」
「嫌や」
「なぜです」
「言いたないから」
「非合理的です」
「言いたないことを言わんのは、普通やろ」
「問題を言語化しなければ、解決は困難です」
「解決してほしい言うてへん」
「解決を望まないのですか」
アクトは答えず、ビールを飲んだ。
今度は魔法使いも黙っていた。
店の中央では、先ほどのオークが今度は歌い始めていた。音程は壊滅的だったが、本人だけは満足そうだった。
自動演奏ピアノが、偶然にも歌へ一音だけ合った。
それが妙に可笑しくて、アクトはまた少し笑った。
「眠られへんだけや」
しばらくして、アクトは言った。
魔法使いは表情を変えなかった。
「睡眠障害ですか」
「そんな大層なもんちゃう」
「夜間に覚醒する?」
「寝つきが悪い。寝ても、二時間くらいで起きる」
「夢を見ますか」
アクトのウサ耳センサーが僅かに伏せた。
「たまに」
「どのような」
「そこまで言わなあかんか」
「必要なら」
「必要ない」
「分かりました」
意外にも、魔法使いはそれ以上聞かなかった。
アクトは相手を見る。
「聞かへんのか」
「言いたくないのでしょう」
「珍しいな」
「私は常に他者の意思を尊重しています」
「それは嘘や」
「訂正します。必要な範囲では尊重します」
「範囲、狭そうやな」
「あなたよりは広いでしょう」
「あたし、そんな強引か?」
魔法使いは無言で、自分のグラスを指差した。
勝手に注がれた二杯目のワイン。
アクトは少し考えた。
「飲んどるやん」
「論点はそこではありません」
「嫌なら飲まんかったらええやろ」
「せっかく注がれたものを廃棄するのは非効率です」
「自分も大概やで」
魔法使いは反論しなかった。
少しして、アクトが口を開く。
「で、今日はそれ言うために呼んだんか」
「何をです」
「仕事入れすぎや、いう話」
「それもあります」
「それも?」
魔法使いはローブの内側へ手を入れた。
アクトのウサ耳センサーが反応し、僅かに起き上がる。
取り出されたのは、小さな紙箱だった。
装飾はない。
企業ロゴもない。
ただの白い箱だ。
魔法使いはそれをテーブルの上へ置き、アクトのほうへ押した。
「何やこれ」
「開けてください」
「爆発せえへんやろな」
「その程度では、あなたに有効な損傷を与えられません」
「そういう意味ちゃうわ」
アクトは箱を持ち上げた。
軽い。
振ると、中で小さな金属音がした。
蓋を開ける。
中には、赤い野球帽用の小さな留め具が入っていた。
一見すると、ただの銀色のクリップだ。
だが内側には細い術式記号が刻まれ、淡い青色の光が流れている。
アクトは眼鏡の奥で目を細めた。
「何や、これ」
「護符です」
「見たら分かる」
「正確には、低出力の危険感知補助具です。周囲のマナ変動を検知し、異常があれば振動します」
「帽子につけるんか」
「あなたは帽子を常用していますから」
「ウサ耳あるで」
「それは物理センサーでしょう。魔法的脅威には対応できません」
アクトは護符をつまみ上げた。
クロームの指先で触れると、青い光が僅かに強くなる。
「高かったんちゃうん」
「材料費は軽微です」
「自分で作ったんか」
「当然です」
「いつ」
「昨夜です」
「寝てへんやん」
「私はあなたほど睡眠を必要としません」
「顔色、いつも以上に悪いぞ」
「照明の影響です」
「その言い訳まだ使うんか」
魔法使いは視線を逸らした。
アクトは護符を眺める。
小さく、実用的で、妙な装飾はない。
魔法使いが作るものにしては、随分と控えめだった。
「何で急に」
「先日の仕事で、あなたは精霊の接近に気づくのが遅れました」
「自分が教えたから間に合ったやろ」
「次も私が近くにいるとは限りません」
「そら、そうやけど」
「装備してください」
命令口調だった。
だが、声はいつもより少しだけ低かった。
アクトは護符を帽子のつばへ挟んだ。
赤い布地に、銀色の小さな留め具が加わる。
機械式のウサ耳が左右に動き、その片側へ青い光が反射した。
「どうや」
「もう少し右です」
アクトが位置をずらす。
「そこです」
「似合う?」
「機能に関係ありません」
「ええから」
魔法使いはしばらく見つめた。
「違和感はありません」
「褒めるん下手やなあ」
「事実を述べています」
「せやったな」
アクトは帽子のつばを指で弾いた。
護符が小さく揺れ、微かな振動を返す。
「ありがとな」
魔法使いはグラスを持ち上げた。
「礼は不要です」
「ほな返そか」
「不要とは言いましたが、返却を許可したわけではありません」
「ややこしいな、自分」
「あなたの解釈が極端なのです」
アクトは笑い、ビール瓶を持ち上げた。
魔法使いは少し遅れてグラスを上げる。
瓶とグラスが軽く触れ合った。
「で、あたしが仕事入れすぎとるから、酒飲ませて止めよう思ったんか」
「飲酒は睡眠の質を低下させます。推奨しません」
「ここ酒場やぞ」
「あなたを呼び出す場所として、成功率が最も高かっただけです」
「最初から言えや」
「言えば来なかったでしょう」
「来えへんな」
「だから言いませんでした」
「人の意思尊重するいう話、もう破綻しとるで」
「必要な範囲です」
「ほんま範囲狭いな」
魔法使いはワインを飲んだ。
「明日の仕事を断れとは言いません」
「言うても断らへんしな」
「ですが、明後日は空けてください」
「何で」
「整備です。あなたの左肩と右脚を点検します」
「自分、サイバーの整備できへんやろ」
「技術者を手配しました」
「勝手に?」
「はい」
「支払いは」
「済ませています」
アクトは黙った。
魔法使いも黙っている。
「自分なあ」
「何です」
「こういうん、先に相談するもんやで」
「相談すれば断るでしょう」
「断るな」
「だから相談しませんでした」
アクトは深く息を吐いた。
怒るべきか、呆れるべきか迷い、結局ビールを飲む。
「それ、あかんことやからな」
「理解しています」
「理解しとんのかい」
「しかし、必要でした」
「反省は」
「今後、可能な限り事前に通告します」
「相談やのうて通告になっとるやん」
「譲歩です」
アクトは額を押さえた。
だが、帽子のつばにつけられた護符は外さなかった。
しばらくして、中央のオークたちが会計を始めた。
酔いつぶれた一人を両脇から抱え、店の出口へ運んでいく。
店内が少し静かになる。
雨は降っていなかった。
窓の外では、赤いネオンが濡れていない路面へぼんやりと落ちている。
「もう一杯飲むか」
アクトが言った。
「あなたは飲みすぎです」
「自分の話や」
魔法使いはグラスを見る。
残りは少ない。
「……一杯だけなら」
「素直になったな」
「合理的判断です」
「はいはい」
「その返答を――」
「やめへんで」
魔法使いは不満そうにアクトを見た。
アクトは店員へ手を上げる。
赤い帽子の端で、小さな青い護符が揺れていた。
二人とも、今夜が飲み会だったとは最後まで認めなかった。
魔法使いにとっては、健康状態の確認と装備の引き渡し。
アクトにとっては、用件の分からない呼び出しへ付き合わされただけ。
それでも二本目のワインが空になるまで、二人は席を立たなかった。
仕事の話をし、装備の話をし、店の酒が不味いという話をした。
途中、魔法使いが明らかに酔っているにもかかわらず、「魔術師は精神制御能力に優れるため、酩酊の影響を受けにくい」と主張した。
その直後に帽子を左右逆へかぶり、アクトに指摘されて十分ほど口を利かなくなった。
帰り道。
魔法使いは杖を片手に、普段より慎重な足取りで歩いていた。
アクトは少し後ろからついていく。
「自分、酔うてるやろ」
「酔っていません」
「道、そっちちゃうで」
魔法使いは立ち止まった。
正面には閉鎖された路地がある。
「周辺状況を確認していただけです」
「はいはい」
「その返答をやめなさい」
「転ぶなよ」
「あなたに心配される理由はありません」
そう言った直後、魔法使いは路面の段差へ杖を引っかけた。
身体が僅かに傾く。
アクトの銀色の手が、すぐにローブの肩を掴んだ。
転倒する前に引き戻す。
魔法使いは何事もなかったように姿勢を整えた。
「今のは」
「周辺状況の確認やろ」
「……そうです」
「せやな」
アクトは手を離した。
二人は正しい道へ戻り、並んで歩き始める。
赤い帽子の護符が、歩くたび小さく揺れた。
危険を知らせる振動はない。
ただ、魔法使いが時折そちらを確認していることに、アクトは気づいていた。
気づいていたが、何も言わなかった。
そのほうが、たぶん互いに都合がよかった。
共通修正:全話の行頭字下げを削除し、ハーメルン向けの字下げなしに統一。
( 7.31 2026)