アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
三秒の待機
自動扉が開くより先に、アクトトゥルスは足を止めた。
「ん?」
白い増加装甲に覆われた右足が、床へ下りる寸前で止まる。
扉は開いていた。 正確には、開きかけて止まっていた。
左右へ引き込まれるはずの二枚の扉が、二十センチほど隙間を作ったところで静止している。
その向こうでは、天井から吊られた搬送アームが箱を掴んだまま止まっていた。
通路の先を横切っていた小型警備ドローンも、空中でぴたりと静止している。
照明は点いている。 非常灯への切り替えもない。 警報も鳴らない。
ただ、動くものだけが止まった。
「理香子?」
返事はなかった。
アクトが振り返る。
数歩後ろで、理香子が端末を両手で持ったまま画面を見ていた。
さらに後ろでは、黒曜が杖をわずかに持ち上げている。黒い髪の下の目が、止まった扉と搬送アームを順に追った。
「停電ではありませんね」
「せやな」
アクトは天井を見上げた。
空調は動いている。 低い送風音が途切れていない。
「理香子」
「……待ってください」
ようやく返事が来た。
声がいつもより低い。
「何秒?」
「何がです?」
「止まってから」
理香子は答えなかった。
代わりに端末の表示を切り替える。
一秒。
二秒。
三秒。
開きかけていた自動扉が動いた。
搬送アームが箱を所定位置へ置く。
警備ドローンが何事もなかったように通路を横切った。
施設全体が、三秒だけ息を止めていた。
そして、また動き出した。
「三秒」
理香子が言った。
「ぴったり?」
「二・九九八秒。設備ごとの誤差は〇・〇〇四秒以内です」
「それ、ぴったり言うんちゃう?」
「言いません」
「言うやろ」
「言いません」
アクトは肩をすくめた。
いつもの理香子だ。
少なくとも声だけは。
今日の仕事は軽かった。
EVOが権利関係を整理している旧物流施設で、残存設備の警備と棚卸しに立ち会う。それだけだ。
撃ち合いの予定はない。 魔法使いを殴る予定もない。
企業の秘密研究所へ潜る予定もない。
廃止予定の倉庫を歩き、EVOの技術者が古い設備の型番と稼働状態を確認する間、何も起きないよう見張る。
ランナーへ頼む仕事としては妙に地味だが、企業が正式な警備会社を入れたくない場所というものはある。
古い設備の所有権が複数部署を跨いでいる。 帳簿と現物が合っていない。
廃棄済みのはずの機材が残っている。
逆に、残っているはずのものがない。
そういう場所だ。
「故障ですか?」
黒曜が理香子へ訊いた。
「故障なら、設備ごとに停止時刻がずれます」
「一斉制御?」
「その可能性があります。ただし、停止命令がありません」
理香子の指が端末上を滑る。
「制御系は生きています。搬送系、警備系、扉制御。全部別系統です。三秒間、命令を受けて停止したのではなく……」
言葉が止まった。
「なんや?」
「待っていたように見えます」
アクトは、もう一度開いた扉を見る。
「何を?」
「それを調べています」
黒曜が杖を下ろした。
「魔術的なものは?」
「今のところ、特には感じません」
「ほな理香子の担当やな」
「雑に振らないでください」
「適材適所や」
アクトが扉を抜ける。
白い脚部装甲が古い床材を踏むたび、硬い音が返った。
倉庫は広い。
かつては大型貨物を自動搬送していたらしく、床面には複数の搬送レーンが走り、天井にはレール式のアームが何本も残っている。
大半は休止状態だが、一部はまだ動く。
EVOの技術者二人は、少し離れた区画で棚卸しを続けていた。
異常停止に気づいたらしく、一人がこちらを見る。
「今の、何です?」
「調べとる。そっちは?」
「端末には何も。ローカルログを吸い上げます」
「待った。今は触らんといて。止まった機械の下にも入らんようにな」
「ですが、社内手順では異常停止時にログを――」
「その社内手順にない止まり方したんやろ?」
技術者は一瞬だけ黙った。
「……了解。現状保存を優先します」
技術者が端末から手を離した。
アクトはその返事を確認してから歩き出した。
黒曜が隣へ並ぶ。
「ずいぶん慎重ですね」
「動く機械は信用したらあかん」
「あなたが言いますか」
「なんでや」
「自分の手足には随分と信用を置いているでしょう」
アクトは右腕を上げた。
白い装甲板の下で、人工関節が小さく作動する。
「これはあたしのやもん」
「機械でしょう」
「あたしの手ぇや」
「そうでしたね」
黒曜はそれ以上言わなかった。
アクトも気にしない。
背後で理香子の足が止まった。
「アクト」
「ん?」
「そのまま」
「どのまま?」
「動かないでください」
「はいはい」
アクトは止まった。
理香子は端末を見たまま、アクトの横を通り過ぎる。
一歩。
二歩。
三歩。
理香子が進むたび、先の設備が動いた。
右側の搬送アームが持ち上がる。
床の搬送レーンが停止する。
左の自動扉が開く。
警備ドローンが進路を変える。
偶然にしては、綺麗すぎた。
理香子が止まる。
設備も止まる。
「……おい」
アクトの声から軽さが消えた。
黒曜も杖を持ち直している。
理香子が一歩進む。
通路の先で、荷物を積んだ自動搬送台が横へ退いた。
まるで道を譲ったように。
「理香子」
「分かっています」
「これ、あんた通しとるやろ」
「私ではありません」
「ほな誰や」
理香子は答えない。
端末へ視線を落としたまま、もう一歩だけ進む。
今度は何も動かなかった。
数秒して、理香子が息を吐く。
「ここまでです」
「何が?」
「誘導」
「誘導て」
「私の進行方向を予測して、設備側が経路を空けていました」
黒曜が周囲を見る。
「罠でしょうか」
「罠なら、もう少し効率の良い位置があります」
理香子は即答した。
アクトは天井を見上げる。
搬送アーム。 古いレール。 積み上がったコンテナ。
人間一人を潰すだけなら、材料には困らない。
「せやな」
「納得しないでください」
「いや、あたしでもそうするな思て」
「あなたを基準に罠を評価しないでください」
「便利やで?」
「知っています」
理香子が歩き出そうとして、また止まった。
今度は設備ではない。
彼女の個人端末が振動していた。
「何?」
アクトが訊く。
理香子は画面を見ている。
黒曜が一歩近づいた。
「理香子?」
返事がない。
アクトは理香子の横へ回った。
画面には短い文字列が一つだけ表示されていた。
《まだ切れていない》
アクトの視線だけが動いた。
出口。搬送アーム。天井レール。積載コンテナ。技術者二人。さっきまでただの倉庫だったものを、全部もう一度、敵になり得るものとして数え直す。
「……何やこれ」
「分かりません」
理香子の返事は早かった。
早すぎた。
アクトが横顔を見る。
「知っとる顔やん」
「知りません」
「今の間でそれ言う?」
「知りません」
「理香子」
黒曜の声は静かだった。
「今は、問い詰める場面ではないと思います」
理香子が黒曜を見る。
「ただし、危険に関係するなら話してください」
「……はい」
短い返事。
アクトは赤い眼鏡を指で押し上げた。
「まあええわ。で、送信元は?」
「ありません」
「ない?」
「送信記録がないんです」
理香子が画面を切り替える。
「外部通信でも、施設内メッセージでもありません。私の端末上では、表示された結果だけがあります」
「気色悪いな」
「同意します」
その時、理香子の端末に別の通知が走った。
彼女の指が止まる。
「今度は?」
「施設制御側から照合要求」
「何の?」
「……古い管理系です」
理香子は数秒、画面を見つめた。
それから端末を胸元へ引き寄せる。
「仕事を中断します」
アクトはすぐに頷いた。
「技術屋回収する?」
「はい。設備を停止させます」
「できる?」
「できます」
理香子が操作する。
警備ドローンが床へ降りる。 搬送アームが安全位置へ戻る。
自動搬送台が停止する。
今度は理香子が出した停止命令だった。
さっきとは違う。
何が違うのか、アクトには分からない。
ただ理香子には分かっているらしい。
「黒曜、技術屋頼む」
「分かりました」
黒曜が杖を持って踵を返す。
アクトは残った。
「で?」
「何がです?」
「昔の知り合い?」
理香子の指が一瞬だけ止まる。
「まだ分かりません」
「ほな、分かるまで待つわ」
「聞かないんですか」
「聞いてほしいん?」
「……いいえ」
「ほなええやん」
アクトは近くのコンテナへ背を預けようとして、荷重表示を見てやめた。
代わりにその場でしゃがむ。
「調べ」
「はい」
理香子は端末へ戻った。
数分後、黒曜が技術者二人を連れて戻ってくる。
施設外への退避を指示し、EVO側へ異常を報告する。
報告内容は簡潔だった。
三秒間の同期停止。 複数系統設備の異常挙動。
個人端末への不明メッセージ。
理香子は最後の一つについて、文面までは伝えなかった。
アクトは何も言わない。
施設を出る直前。
理香子が振り返った。
止めたはずの自動扉が、ゆっくり閉じる。
それだけだった。
◆
その夜。
アクトの部屋では、仕事の後とは思えない匂いがしていた。
「腹減った」
「さっき食べたでしょう」
「仕事したら減るねん」
「食事後に仕事はしていません」
「考え事もカロリー使うやろ」
「あなたがどれだけ考えたんですか」
「ひどない?」
黒曜は返事をせず、湯気の立つ茶を口へ運んだ。
理香子はテーブルの端で端末を開いている。
帰宅してからほとんど同じ姿勢だ。
アクトは冷蔵庫を開けた。珍しく本物の豆腐が一丁残っている。
「食う?」
「要りません」
「黒曜」
「結構です」
「ほなあたしの」
「最初からそうでしょう」
豆腐を取り出し、適当に薬味を乗せる。
理香子の端末から小さな電子音が鳴った。
「見つけた?」
アクトが訊く。
「経路は」
「何個?」
「まだ数えています」
「いっぱい?」
「はい」
理香子は施設の制御ログを追っていた。
今日の異常は、あの物流施設の内部だけで完結していなかった。
三秒停止の直前、古い保守回線へ極小の通信が発生している。
データ量はほとんどない。
命令ですらない。
応答確認。
そこから一つ先へ。
さらに一つ先へ。
使われていないはずのEVO旧設備を渡り歩いている。
「これ、いつの設備ですか?」
黒曜が訊く。
「古いものは二十年以上前です。新しいものでも十年以上」
「まだ繋がっているのですか」
「繋がっていないことになっています」
「便利な言葉やな」
アクトが豆腐を食べながら言った。
「繋がってないことになってる回線が繋がっとる」
「企業設備では珍しくありません」
「夢ないなあ」
「現実です」
理香子が経路を一つ展開する。
地図上に点が増えた。
物流施設。 倉庫。 閉鎖済みの研究棟。 売却された工場。
地下設備。 管理会社の変わったビル。
点と点が細い線で繋がる。
十。
二十。
三十。
黒曜が椅子から身を乗り出した。
「まだ増えるのですか」
「はい」
「どこまで?」
「分かりません」
五十。
六十。
七十。
アクトが箸を止めた。
「理香子」
「はい」
「今日の三秒、昔の知り合いの癖なん?」
今度は理香子も、すぐには否定しなかった。
画面の上で点が増えていく。
「昔」
理香子が言う。
「回線を切り替える前に、三つ数える人がいました」
「なんで?」
「本人は『間違えないため』と言っていました」
「普通やな」
「はい」
「誰?」
理香子は画面を見る。
八十七。
八十八。
八十九。
「まだ、確定していません」
アクトはそれ以上聞かなかった。
黒曜も黙っている。
九十六。
九十七。
九十八。
百。
そこで止まらない。
「百超えたで」
「見えています」
百三。
百七。
百十二。
理香子が一つ目の経路へ確認信号を送る。
応答はない。
二つ目。
ない。
三つ目。
ない。
「死んどる?」
「待ってください」
理香子が言った。
三秒後。
一つ目の経路が応答した。
続いて二つ目。
また三秒。
三つ目。
黒曜が顔を上げる。
「同じ間隔……」
「はい」
百を超える経路は、一斉には返さなかった。一つが返り、三秒待って次が返る。さらに三秒。次。まるで誰かが、向こう側で一つずつ確認している。
理香子の顔から表情が消えた。アクトは豆腐の器を置く。
「これ、今日のと同じ?」
「はい」
「故障?」
「違います」
その返答だけは即答だった。
三秒。
次の経路が応答する。
その応答ログの端に、別のデータが混じった。
理香子が拡大する。
古い運動制御署名だった。
施設設備のものではない。規格が違う。制御対象も違う。
機械ではなく、身体。
それも単純な義肢制御ではない。一つの運動要求に対して、別系統から制止が割り込んでいる。
理香子の指が止まった。
見たことがある。
どこで、とはまだ口にしなかった。照合が終わっていない。似ているだけなら、似ているだけだ。
「なんかあった?」
「……別系統の記録が混じっています」
「誰の?」
「まだ照合中です」
理香子は嘘をつかなかった。
確定していない。
その間にも応答は続いた。三秒ごとに一つ。百を超える古い施設が、同じ順番で、同じ間隔を守って返事をしていく。
三秒。
最後の一つが応答した。
理香子の端末が、一度だけ振動する。
新しいメッセージはない。
《まだ切れていない》
昼間に表示された文字だけが、履歴のない画面に残っている。
理香子は指を伸ばした。
消去には触れなかった。
切断にも触れなかった。
ただ、画面を見ていた。
三秒。
何も起きない。
もう三秒。
それでも何も起きない。
「理香子?」
アクトの声。
「はい」
「寝るで」
「……はい」
理香子は端末を閉じた。
百を超える経路の向こう側で何が待っているのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ。
理香子には、その三秒を知っている気がした。