アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
翌朝、理香子は三秒を三百二十七回に分解していた。
アクトが起きてきた時には、居間のテーブルから壁際まで、半透明の表示が何層にも浮かんでいる。
時刻。 経路。 待機。 再送。 迂回。 認証要求。 命令語。
その中央で理香子が座っていた。
「寝た?」
「二時間四十一分」
「寝てへんやん」
「寝ました」
「それは仮眠言うねん」
「定義の問題です」
「黒曜」
「私に振らないでください」
黒曜はすでに起きていた。窓際の椅子で茶を飲みながら、理香子の展開した表示を見ている。
アクトは冷蔵庫を開けた。
昨日の豆腐はない。
「食うたからな」
「誰に説明しているんですか」
「なんとなく」
代わりに水を取る。
「で、三百なんぼ?」
「三百二十七件。昨日確認できた経路のうち、解析可能な動作変更です」
「全部三秒?」
「いいえ」
理香子が指を動かす。
表示が三列に分かれた。
「三秒待機は九十四件。経路変更は百十二件。命令語の置換が七十一件。残りは複合です」
「減ったな」
「何がです?」
「三秒」
「そこだけ見ないでください」
「タイトルみたいやったから」
「何のですか」
「知らん」
黒曜が茶を置いた。
「三秒以外にも共通点があるのですね」
「はい」
理香子の返事が少しだけ早くなる。
そこからは彼女の領分だった。
「停止時間そのものには意味がありません。正確には、意味があるのは停止する場所です」
表示の一つが拡大される。
旧物流施設の搬送アーム。
動作A。 待機。 動作B。
「通常なら、AからBへ切り替える場合、制御系は最短の安全手順を選びます。でも昨日の設備は違いました」
「遠回りした?」
「はい。しかも、毎回同じ種類の遠回りです」
別の表示。
自動扉。
警備ドローン。
搬送台。
「右へ避けられる時は右へ。二経路ある場合は古い方を先に確認。命令語は短縮形より完全形。再試行の前には三秒待つ」
アクトは水を飲みながら画面を見る。
「几帳面やな」
理香子の指が止まった。
「……はい」
「知っとる人、そんな感じ?」
「そういう話ではありません」
「ほなどういう話?」
理香子は少し考えた。
「コードは違います」
「うん」
「構造も違います。使っている規格も違う。昨日の施設に残っていた制御系は、私が昔使っていたものとは関係ありません」
「うん」
「でも」
理香子が、経路選択の一覧を重ねた。
別々の年代。 別々のメーカー。 別々の設備。
それなのに、選ばれている順番だけが似ている。
「選び方が同じです」
アクトは画面から理香子へ視線を移した。
「人の癖みたいに?」
「……はい」
黒曜が訊いた。
「昨日言っていた、回線を替える前に三つ数える人ですか」
「似ています」
「同じ?」
「確定していません」
理香子は即座に言った。
アクトは何も言わなかった。
昨日と同じ返答だった。
だが昨日より、理香子の画面には材料が増えている。
「三秒だけなら偶然で処理できます。古い設備の保護待機にもあります。でも、迂回順、確認順、命令語の選び方まで重なる確率は低いです」
「どれくらい?」
「母集団がありません」
「分からん?」
「数字にできません」
「珍し」
「殴りますよ」
「怖」
アクトは笑った。
理香子は笑わない。
画面へ戻る。
「EVOには報告します」
「どこまで?」
黒曜が訊いた。
「旧施設群に共通した異常制御パターンが存在すること。人為的な選択規則の可能性があること。昨日の施設以外にも影響範囲があること」
「《まだ切れていない》は?」
「出しません」
部屋が少し静かになった。
アクトは水のボトルを閉めた。
「理由は?」
「送信元が証明できません。ログもない。現時点では私の端末に文字列が表示された、それだけです」
「せやな」
「それと」
理香子が一度だけ息を吸う。
「個人的な可能性が混じっています」
アクトは頷いた。
「ほな、分けたらええ」
「……はい」
「仕事の材料は仕事で出す。あんたの昔話かもしれん方は、確定してから考える」
「隠していることになります」
「全部出すんが共有ちゃうやろ」
理香子が顔を上げた。
黒曜もアクトを見る。
アクトは二人の視線を受けて眉を寄せた。
「なんや」
「いえ」
「なんやねん」
「あなたからその言葉が出るとは思いませんでした」
黒曜が言う。
「失礼やな。あたしにも秘密くらいあるで」
「何ですか」
「秘密や言うとるやろ」
理香子が小さく鼻から息を出した。
笑ったのかどうかは分からない。
◆
EVOから返事が来たのは、報告を送って四十七分後だった。
早い。
早すぎる、と理香子は言った。
指定されたのは、前日の物流施設ではなく、EVOが借り上げている小さな会議室だった。
窓はない。
壁面表示が一枚。
机が一つ。
企業側の人間は三人。
昨日の技術者ではない。
設備管理。 情報保全。 契約担当。
それぞれ所属表示だけを出し、名前は出さない。
アクトは席へ座る前に出口を見た。
一つ。
非常用の手動解除あり。
天井に監視機器二つ。
武装警備はいない。
だから安全、とは思わない。
「昨日提出された異常報告について、追加確認を行います」
情報保全担当が言った。
「どうぞ」
理香子が答える。
アクトと黒曜は隣に座っている。
「まず確認します。異常制御は、昨日の物流施設固有の問題ではない?」
「はい。少なくとも百十二経路で関連する応答を確認しています」
「侵入?」
「不明です」
「マルウェア?」
「現時点では断定できません」
「外部オペレータ?」
「可能性はあります」
「テクノマンサー?」
理香子の目が一瞬だけ止まった。
「可能性の一つです」
情報保全担当はその反応を追わなかった。
あるいは、追わないふりをした。
「根拠は?」
「設備間でコードの共通性がありません」
理香子が表示を出す。
「共通しているのは処理結果ではなく、選択規則です。待機位置、迂回優先順位、確認順、命令語の選択。別々の制御系が、同じ癖で判断しています」
「癖」
「便宜上そう呼んでいます」
「識別可能?」
「まだです」
まだ。
理香子はその言葉を選んだ。
嘘ではない。
個人端末の文字列は報告していない。
昔、同じように三つ数えた人間がいたことも。
アクトは横から理香子を見ない。
黒曜も何も言わない。
契約担当が口を開いた。
「今回の調査は、昨日の契約範囲を超えます」
「追加料金?」
アクトが訊く。
「当然、再契約になります」
「ええ会社やな」
「契約外業務を無償で要求する方が問題です」
「もっともや」
設備管理担当が、少しだけ嫌そうな顔をした。
この場で一番どうでもいい会話だと思っているらしい。
「問題はそこではありません」
「せやろな」
「旧施設群への照合要求が、昨夜から増えています」
壁面表示が切り替わる。
理香子の表情が変わった。
「これは?」
「あなた方の報告を受けてこちらが調査した結果です」
「違います」
理香子が身を乗り出す。
「この要求はEVO側から出していない」
「はい」
「施設側から?」
「そう見えます」
アクトが腕を組んだ。
「何を照合しとるん?」
「そこが問題です」
情報保全担当が一つの番号を表示した。
長い英数字。
アクトには意味がない。
理香子にはあった。
彼女の顔から、さっきまで残っていた眠気が消える。
「これ」
「心当たりが?」
理香子は答えず、アクトを見る。
「何?」
「アクトさんの記録番号です」
「何の?」
「実戦記録」
アクトの眉が上がった。
「どれ?」
「封印したものです」
黒曜の視線が鋭くなる。
「封印?」
「第二クール後、EVO側で保管された実戦ログのうち、本人同意なしでは再利用できない区分です」
アクトは壁の番号を見る。
「開けられた?」
「いいえ」
EVOの情報保全担当が即答した。
「保管庫へのアクセスは成立していません。要求だけです」
「誰が?」
「不明」
「昨日の施設?」
「一つではありません。現在確認できているだけで十七施設」
アクトは椅子の背へ体重を預けた。
「人気者やな、あたし」
「笑うところではありません」
黒曜が言う。
「笑てへんで」
「口元が笑っています」
「癖や」
理香子は会話を聞いていなかった。
番号。
要求元。
時刻。
要求されたデータ種別。
その並びを追う。
「待って」
表示を奪うように拡大する。
「もう一件あります」
情報保全担当が頷く。
「こちらでも確認しています」
二つ目の要求。
アクトのものとは形式が違う。
EVOの管理番号ではない。
外部企業由来の制御記録。
アクセス要求は失敗している。
参照先がEVO管理下にないからだ。
「MCT」
黒曜が言った。
理香子は頷いた。
「形式だけなら」
「何の記録ですか」
「強化身体の運動制御」
アクトの笑みが消えた。
第1話の夜に見たものが、理香子の頭の中で重なる。
施設設備ではない。
機械ではなく、身体。
一つの運動要求に対して、別系統から制止が割り込んでいた。
昨日は、見たことがある、としか言えなかった。
今は照合先がある。
理香子は自分の保存領域から、昨夜切り出した署名を呼び出す。
重ねる。
一致箇所が増える。
姿勢補正。 補助肢制御。 上位割り込み。 運動キャンセル。
八十二・一。
九十一・六。
九十八・九。
完全一致ではない。
だが同じ系統だ。
「理香子?」
アクトの声。
理香子は画面を見たまま答えた。
「昨日の記録」
「うん」
「MCT側の運動制御記録と同系統です」
「誰の?」
理香子は一拍置いた。
「ダンボです」
アクトが黙った。
黒曜も壁面表示を見る。
企業側三人のうち、契約担当だけが反応しなかった。
情報保全担当は目を細める。
「個体識別まで可能ですか」
「こちらにある比較記録の範囲では」
「比較記録の出所は?」
「前回案件」
理香子はそれ以上言わない。
EVO側も追及しなかった。
アクトが椅子から少し身を起こす。
「つまり」
赤い眼鏡の奥で、青い目が二つの番号を見比べる。
「あたしと、あいつ?」
「はい」
「なんで?」
「分かりません」
理香子は即答した。
そして自分で、その答えが足りないと思った。
「違います」
アクトが眉を上げる。
「何が?」
「分からないのは、なぜ要求されたかです」
理香子は二つの記録を並べた。
「要求の目的は同じです」
「同じ?」
「運動予測用の差分データを探しています」
情報保全担当が割り込む。
「そこまで断定できますか」
「要求項目が同じです。初動、姿勢変化、外力入力後の補正、運動キャンセル。アクトさんの記録と、MCT由来の記録で、欲しがっている部分が一致しています」
アクトが鼻から息を出す。
「身体の動かし方だけ欲しいんか」
「そう見えます」
「趣味悪いな」
黒曜が訊いた。
「二人に共通点は?」
「強化身体」
理香子。
「他には?」
「実戦経験」
「他には?」
理香子は黙る。
アクトが言った。
「仲悪い」
「データ項目ではありません」
「大事やで」
「除外します」
「ひど」
理香子は二つの要求をさらに掘る。
同時刻ではない。
最初にダンボ側。
三秒後にアクト側。
その順番が三つの施設で繰り返されている。
「……また」
「何です?」
黒曜が訊く。
「順番があります」
理香子が表示する。
「MCT記録。三秒。アクトさんの記録」
「三秒?」
「はい」
アクトが壁にもたれた。
「ほんま好きやな、三秒」
理香子は返事をしない。
その順番にも覚えがあった。
何かを切り替える前に確認する。
一つ目。
三つ数える。
二つ目。
間違えないため。
コードではない。
やはり、選び方だ。
◆
会議は一度中断された。
EVO側が内部照会へ入ったからだ。
三人は別室へ通された。
アクトは自販機の前で腕を組んでいる。
「高ない?」
「何がですか」
「水」
「企業施設ですから」
「無料にせえや」
「契約に含まれていません」
「世知辛」
黒曜は買わなかった。
理香子は端末を見ている。
「理香子」
「はい」
「ダンボ、生きとるん?」
「分かりません」
「MCTの記録、今もあるんやろ?」
「記録が存在することと、本人の現在状態は別です」
「そらそうか」
アクトは水を買った。
高いと言いながら買う。
キャップを開けて一口。
「で」
「はい」
「昨日の時点で気づいとった?」
理香子の指が止まる。
「似ているとは思いました」
「なんで言わんかった?」
「確定していなかったからです」
「うん」
「それと」
理香子は画面を閉じた。
「言うと、そっちへ引っ張られると思ったので」
「そっち?」
「ダンボさんの件だ、と」
アクトは少し考えた。
「まあ、思うな」
「今回は違う可能性があります」
「何が?」
「ダンボさんを探しているのか、記録だけを探しているのか、まだ分かりません」
「なるほど」
「アクトさんも同時に要求されています」
「せやな」
「だから、ダンボさんだけを中心に置くと読み違えます」
アクトは水をもう一口飲んだ。
「ほな、置かんかったらええ」
「簡単に言いますね」
「簡単やろ。分からんもんは分からん」
黒曜が横から言う。
「あなたはそれで済ませすぎです」
「便利やで?」
「知っています」
昨日と同じ返事だった。
アクトが笑う。
理香子は二人を見てから、また端末を開いた。
「もう一つ」
「まだあるん?」
「EVOへ出していない情報があります」
アクトの表情が変わる。
黒曜も理香子を見る。
「《まだ切れていない》?」
「はい」
「今言う?」
「……まだです」
黒曜が訊く。
「なぜですか」
「今の照合要求と直接結びついていません。私の個人的な推測を混ぜると、EVO側が先に人物を決めます」
「誰を?」
理香子は答えない。
アクトも訊かない。
黒曜は数秒待った。
「危険が増えたら話してください」
「はい」
それで終わった。
理香子は少しだけ肩を下げた。
◆
警報が鳴ったのは、その直後だった。
会議室のものではない。
EVO側の端末が一斉に振動した。
廊下を走る足音。
扉が開く。
さっきの設備管理担当が入ってきた。
「移動します」
アクトは水を置いた。
「どこ?」
「監視室」
「何があった?」
「旧施設が一つ起動しました」
「どこの?」
「南東区画。旧精密機器組立棟」
理香子が立ち上がる。
「遠隔起動?」
「違う」
設備管理担当の顔色が悪い。
「起動命令がない」
◆
監視室の壁一面に、別施設の映像が並んでいた。
古い工場。
前日の物流倉庫より狭い。
組立ラインが何列も走り、天井には部品搬送用の細いレール。
人がいる。
EVOの保守技術者四人。
警備員二人。
「退避命令は?」
「送っています」
「扉は?」
「反応しません」
理香子が端末を接続する。
「外から止めます」
「待て」
情報保全担当。
「証拠保全を――」
「人が中にいます」
「停止で閉じ込める可能性がある」
「今も閉じ込められています」
理香子の声が硬くなる。
アクトは映像を見る。
警備員の一人が手動扉へ走る。
開かない。
もう一人が銃を抜いた。
「撃つな」
アクトが言った。
当然、現地には届かない。
警備員が天井の監視機器へ銃を向ける。
その瞬間、照明が落ちた。
「来るで」
非常灯。
赤い光。
組立ラインが動き出す。
誰も操作していない。
搬送台が横へ走る。
警備員二人の間へ入る。
分断。
「殺す気なら」
アクトが呟く。
「今ので潰せた」
黒曜が続ける。
「はい」
理香子の指が止まらない。
「設備側は人を避けています」
映像の中で、搬送アームが一人の技術者の前へ降りる。
掴まない。
進路を塞ぐ。
技術者が右へ逃げる。
右の扉が閉じる。
左へ。
左の搬送台が動く。
「誘導」
黒曜。
「昨日と同じです」
理香子が言う。
ただし、昨日は理香子のために道を空けた。
今は逆だ。
一人だけの道を狭めている。
残りの五人には、別の経路が開いていく。
「分けとる」
アクトの声が低くなる。
警備員二人。 技術者三人。
五人は出口側へ。
一人だけが奥へ。
「なんであいつ?」
「照合します」
理香子が現地の作業者情報を引く。
「設備保守。四十二歳。EVO契約社員。旧制御系の資格あり。現施設への入場権限――」
表示が変わった。
「待って」
「何?」
「施設側が照合をかけています」
理香子の画面へ文字が出る。
《技術資格:一致》
《保守権限:一致》
《生体識別:一致》
次。
《管理者:不一致》
「管理者?」
アクトが訊く。
「この人、管理者ではありません」
「せやろな」
「でも施設側は、管理者かどうかを確認しています」
映像。
技術者が工具箱を投げる。
搬送アームに当たる。
アームが揺れる。
止まらない。
別のアームが下りる。
技術者の肩を押す。
強くはない。
骨を折らない程度。
だが逃げる方向は選ばせない。
「気持ち悪い」
アクトが言った。
「殺せるのに殺さん」
黒曜の杖を握る手に力が入る。
「必要だからでしょうか」
「何に?」
「それが分からない」
理香子が答える。
現地の警備員が出口へ到達する。
三人の技術者も続く。
扉が開いた。
五人だけを外へ出す。
閉まる。
一人が残る。
「完全に選んどるやん」
アクトが立った。
「現場行く」
「間に合いません」
理香子が即答した。
「距離?」
「最短でも二十二分」
「車なら?」
「十八分。現地設備の移動速度から見て――」
理香子が言葉を切った。
映像の奥で、床が開いた。
整備用リフト。
技術者が後ずさる。
搬送アームが背中へ触れる。
「押すな」
アクトの声。
やはり届かない。
アームは押した。
技術者がリフトへ落ちる。
だが落下ではない。
下で別の搬送台が受け止める。
膝をつく。
生きている。
「搬送してる」
理香子。
「どこへ?」
「地下保守区画」
「出口ある?」
「図面上は」
「図面上は?」
「閉鎖されています」
リフトが下がる。
技術者が見えなくなる。
警備カメラが一つ切れる。
次。
地下通路。
技術者が走る。
扉が閉じる。
別の扉が開く。
右へ。
次は左へ。
逃げているつもりで、進路を作られている。
理香子が息を止めた。
「三秒」
「何?」
黒曜。
「扉の切り替え」
一つ閉じる。
三秒。
次が開く。
また閉じる。
三秒。
次。
「同じやな」
アクトが言った。
理香子は返事をしない。
技術者が最後のカメラ範囲へ入った。
前方に大型の保守扉。
閉じている。
技術者が振り返る。
後ろの扉も閉じる。
挟まれた。
アクトの手が腰の小銃へ伸びかける。
ここから撃てるわけではない。
身体が先に動いただけだ。
大型扉が開く。
暗い。
向こうに照明がない。
「その先は?」
「図面がありません」
「ない?」
「正確には、現行図面から削除されています」
技術者は動かない。
背後の搬送アームが近づく。
触れる。
押す。
技術者が一歩。
もう一歩。
暗闇へ入る。
扉が閉まった。
映像が消える。
監視室が静かになった。
「生体信号」
アクト。
「取れています」
理香子。
「生きとる?」
「はい」
「どこ?」
「追跡不能」
黒曜が訊く。
「他の五人は?」
「施設外。負傷者なし」
誰も死んでいない。
一人だけが消えた。
情報保全担当が低い声で言った。
「誘拐……?」
「違う」
理香子が言った。
全員が彼女を見る。
「少なくとも、施設側の分類では違います」
「何を見ているんです?」
理香子は先ほどの照合結果を拡大した。
《技術資格:一致》
《保守権限:一致》
《生体識別:一致》
《管理者:不一致》
その下に、新しい一行が追加されている。
《管理者探索:継続》
アクトが画面を見る。
「連れてった奴が管理者やないから?」
「はい」
「ほな、なんで連れてった?」
「分かりません」
理香子はそこで止まった。
画面の隅に、さらに小さな要求が出ている。
封印済み実戦記録。
MCT由来運動制御記録。
そして、今連れ去られた技術者の生体識別。
三つが同じ照合列へ並んでいる。
人。
身体の動かし方。
戦闘記録。
管理権限。
同じ表に入れるものではない。
少なくとも、人間が作った普通の資産台帳なら。
「理香子」
アクトの声がした。
「これ、誰探しとるん?」
理香子は答えられなかった。
画面では《管理者不一致》の文字だけが消えない。
その下で、三秒ごとに照合要求が繰り返されている。
三秒。
《不一致》
三秒。
《不一致》
三秒。
《不一致》
何かが、別の誰かを探していた。