アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
午前十一時二十三分。
理香子は栄養バーの包みを開いたまま、三分十二秒触っていなかった。
半分だけ残っている。
味は訊かなかった。
アクトは壁際の椅子に座り、赤眼鏡の向こうから正面卓を見ていた。
黒曜はその隣で杖を膝へ立てている。
会議卓の中央には、MCTから届いた共同調査要求書。
その右に、EVO側の暫定事故区分。
さらに右へ、理香子が第六話の接続記録から切り出した施設図。
三つとも、同じ事件について書かれている。
同じものには見えなかった。
「先方の要求を読み上げます」
榊原が言った。
「一、当社由来の覚醒者制御技術の保全。二、当該技術の影響下にある人物の生存回収。三、強化身体制御系に関する記録の共同監査。四、当社資産に該当するデータへのEVO側単独アクセスの停止」
「生存回収」
牧瀬がその語だけ拾った。
「対象は」
「覚醒者一名、とあります」
「ナギは?」
アクトが訊いた。
「MCTの文書上は対象外です」
「生きとるのに?」
「MCTが責任を主張する対象ではない、という意味です」
「便利な生存やな」
アクトが言う。
黒宮が別の文書を開いた。
「EVO側では、水無瀬凪を旧施設事故の生存者、旧開発資産へ固定された可能性のある要救助者、事故調査上の重要証人として扱います」
「三人おるみたいやな」
「一人です」
「知っとる」
御厨の音声が天井から降りた。
『保全上は、さらに旧施設基盤の現管理権限保持者候補です』
「四人になった」
アクトが言った。
牧瀬が御厨を見る代わりに、天井の通話装置へ顔を向ける。
「患者です」
『否定していません』
「管理権限保持者として処理を先行させれば、本人の状態確認より権限確保が優先されます」
『権限を確保しなければ、状態確認そのものができない可能性があります』
「証人として保全すれば、医療処置に制限が入ります」
榊原が言う。
「事故記録の連続性を維持する必要があります」
「生きたまま出す、いうとこだけ一緒なんやな」
アクトが言った。
「はい」
黒宮が答えた。
「そこから先は、ほぼ一致していません」
理香子の左手が、卓の下で一度だけ動いた。
肘から先を持ち上げるような、小さな動きだった。
すぐ止まる。
アクトは見た。
黒曜も見た。
誰も言わなかった。
理香子は右手で資料を送る。
「MCTが本件を把握した経路を確認しました」
正面画面に、一本の時系列が出た。
昨夜。
EVO旧施設群の一つから、失効済みの共同保守回線へ照会。
照会先は十二年前に廃止された三菱複合素材の技術照合ノード。
通常なら応答しない。
だが、照会文には二つの識別子が含まれていた。
《覚醒者制御系》
《強化身体運動制御系》
「旧共同事業の自動照合です」
理香子が言った。
「MCTがEVO内部から情報を抜いたわけではありません。施設側が、自分からMCTの古い窓口を叩いています」
「何を聞いたん?」
「互換性確認です」
「誰との」
「現時点では不明です」
理香子は次を開く。
「照合ノードは廃止済みでした。ただし、廃止処理後も監査用ミラーが残っていました。MCT側の監査系が異常照会として拾っています」
「死人が昔の電話番号にかけたら、留守電だけ生きとった感じか」
「概ね」
「嫌な留守電やな」
「さらに」
理香子の声が一瞬だけ途切れた。
左手がまた動く。
今度は指先だけ。
何もない空間を掴むように曲がり、すぐ開いた。
理香子はその手を見ない。
「照会には、現在稼働中のMCT強化身体制御IDが含まれていました」
アクトの表情から軽さが消えた。
「でかい奴か」
「同一人物とは確定していません」
「生体信号ある奴」
「はい」
「現行記録は見れる?」
「EVOからは見られません」
「なんで」
「現在の身体制御記録はMCT管理資産です」
「本人の身体やろ」
「身体の制御記録です」
「もっと嫌やな」
理香子は答えず、アクセス要求の結果を表示した。
《拒否》
《理由:契約資産》
「名前は?」
「開示されていません」
「小田切さんでもない」
「違います」
「ほな、まあ」
アクトは椅子へ深く座り直した。
「来た奴に聞こか」
◇
午後一時四分。
MCT側の遠隔参加枠が開いた。
法務。
技術監査。
医療管理。
三つとも映像はない。
音声波形と所属だけ。
会議室の扉が開いたのは、その二分後だった。
小柄な少女が一人、黒い外套の裾を揺らして入ってきた。
黒曜の手が杖へ触れる。
少女はそれを見る。
止まらない。
「小鴉」
アクトが言った。
「久しぶり」
「元気そうやな」
「あなたも」
「今日はそっち?」
「MCT側現場要員」
「分かりやすいな」
「仕事だから」
小鴉はアクトたちの隣へ座らなかった。
MCT側の遠隔枠の下でもない。
会議卓の短辺。
出口と全員の手元が見える位置へ椅子を引いた。
黒曜が杖から手を離す。
「術者確認要員と聞いています」
「それもする」
「他には」
「現場判断」
「指揮官ですか」
「まだ違う」
小鴉は正面画面を見る。
「成立すれば、候補」
「成立せんかったら?」
アクトが訊いた。
「帰る」
「潔いな」
「契約がないから」
MCT法務の音声が入る。
『本件は、当社保有技術の不正利用、および当社関係者に対する継続的な身体制御介入が疑われる案件です。共同対応を要求します』
黒宮が答えた。
「共同対応の目的を確認します。EVOは旧施設基盤の停止、事故原因の保全、水無瀬凪の生存回収を優先します」
『当社は覚醒者一名の生存回収、当社由来制御技術の封鎖、現行強化身体制御記録の保護を優先します』
「同じ生存回収でも、対象が違う」
牧瀬が言った。
『対象だけではありません』
MCT医療管理が答える。
『覚醒者は当社管理下で解除処置を行います』
「解除後の身柄は」
『契約確認後に決定します』
「つまり患者として回収し、契約者として保持する可能性がある」
『契約が有効なら』
「ナギは?」
『当社との契約関係を確認できません』
「なら、患者ではない?」
『当社の患者ではありません』
アクトが鼻から息を出した。
「言葉って便利やなあ」
『何か』
「いや。生きとる人間でも、契約なかったらそっちの患者やないんやな思て」
『EVO側の医療責任を否定していません』
「誰が助けるかの話しとる時に、誰の責任か先に決めるんやな」
「アクト」
黒宮が名前を呼んだ。
「はいはい」
アクトは黙る。
榊原が紙へ一行書いた。
「MCT側へ確認。水無瀬凪について、回収妨害を行わないことを条件化できますか」
『当社資産の保全と競合しない限り』
「競合した場合は」
『現場判断です』
小鴉が口を開いた。
「それでは指揮できない」
MCT法務の波形が止まった。
『理由を』
「誰を捨てて何を持ち帰るか、現場に着いてから資産区分を確認していたら遅い」
『資産放棄を事前承認することはできません』
「なら、私は指揮を受けない」
『あなたは当社側要員です』
「だから言っている」
小鴉は表情を変えない。
「撤退条件と生存者の優先順位を先に決めて」
アクトが小さく笑った。
「そっちも大変やな」
「あなたよりは」
「なんでや」
「今から分かる」
◇
共同案件の条件は、最初の二十分で十三項目になった。
そのうち四項目が消えた。
二項目が分割された。
三項目が保留になった。
残った八項目のうち、同じ文章をEVOとMCTが別の意味で読んでいた。
《生存回収を最優先とする》
牧瀬は医療処置を意味した。
御厨は対象を破壊せず確保することを意味した。
MCTは契約対象者を生きたまま管理下へ戻すことを意味した。
榊原は証言能力と事故記録の連続性を維持することを意味した。
アクトは三回目で手を挙げた。
「これ、消した方がええんちゃう?」
「なぜです」
黒宮が訊いた。
「全員ちゃう意味で使っとるやん」
室内が止まった。
理香子が八項目を見直す。
「定義を分離します」
「そうして」
黒宮が言った。
文言が変わった。
《生命維持可能な対象者について、故意の殺害を回収手段として選択しない》
「長なったな」
「意味は一つです」
理香子が言う。
「それでええ」
アクトは栄養バーの残りへ視線を落とした。
「それ、食わんの?」
「食べています」
「減ってへんで」
理香子が手元を見る。
三秒。
包みを持ち上げる。
一口食べる。
咀嚼する。
「味する?」
「栄養補給に味覚評価は不要です」
「してへんな」
「しています」
「何味?」
理香子が止まった。
包装を見る。
「ココアです」
「書いてあるやつやなくて」
「アクト」
黒曜が低く呼ぶ。
「分かっとる」
アクトはそれ以上聞かなかった。
理香子は残りをもう一口食べる。
左手は使わない。
MCT技術監査が新しい項目を出した。
『アクトトゥルスの封印済み実戦記録について、差分照合を要求します』
「嫌や」
即答だった。
『理由を確認します』
「嫌やから」
『施設側があなたの動作を学習している場合、共同部隊全体の危険度に影響します』
「今ある記録で見たらええ」
『現行身体との一致率は七一・八パーセントです。残差二八・二パーセントの由来を確定できません』
「確定せんでええ」
『危険度が』
「危ないんはもう分かっとる」
『あなた一人の危険ではありません』
アクトの目が細くなる。
黒宮が先に言った。
「本人が拒否しています。封印解除は共同案件の成立条件に含めません」
『MCT側は留保します』
「留保してください」
小鴉がアクトを見る。
「現場で、読まれている前提で動ける?」
「やるしかないやろ」
「いつもの動きは捨てられる?」
「必要なら」
「黒曜との連携も」
アクトは少しだけ間を置いた。
「必要なら」
黒曜が横から言う。
「私にも訊いてください」
「捨てられる?」
「必要なら」
「理香子は」
「同期率を落とせます」
「怖い?」
理香子の指が止まった。
アクトが小鴉を見る。
黒曜も見る。
小鴉は視線を逸らさない。
「接続の話」
理香子は左手を卓上へ置いた。
「はい」
「もう一度、同じ深度で入れる?」
「技術的には」
「訊いてない」
理香子は数秒黙った。
「現行条件では、入りません」
「分かった」
小鴉はそれ以上訊かなかった。
「なら、入らない手順で組む」
理香子の肩が、ごくわずかに下がった。
◇
午後三時二十七分。
会議は中断された。
理由は、資料不足ではなかった。
小鴉が立ったからだった。
「現物を見る」
「どこを?」
黒宮が訊く。
「術式痕」
「遠隔記録では不足ですか」
「不足」
黒曜も立つ。
「私も行きます」
「黒いの行くなら、あたしも」
「あなたは術式を見られません」
「術者は撃てる」
「撃たないでください」
「撃たれたら?」
「その時は別です」
「ほな要るやん」
理香子が端末を閉じた。
「私も行きます」
アクトが見る。
「大丈夫?」
「移動に問題はありません」
「聞き方変えよか」
「必要です」
「それは答えちゃうで」
「現場ログとの照合が必要です」
理香子は立った。
左脚が一歩だけ遅れた。
実際には遅れていない。
足底は同時に床を離れた。
だが理香子自身が、左脚を一度見た。
アクトは何も言わず、その左側を歩いた。
◇
EVO旧施設の外周保全区画。
前回、調査ドローンが切断を行った場所とは別の棟だった。
内部へは入らない。
施設側の反応域へ踏み込まず、外壁近くに残った魔術戦闘記録だけを確認する。
空は低い。
古い物流棟の壁面には企業標章を外した跡が四角く残っている。
アクトは白装甲の脚で濡れた路面を踏み、先に退路を二本見る。
正門。
搬入口。
上には非常階段。
右の建物には割れた窓。
動く設備はない。
だから信用する理由もない。
「ここ」
理香子が足を止めた。
地面へ三本の線が投影される。
一つ目は施設側が記録した命令座標。
二つ目は実際に観測された防壁面。
三つ目は、侵入者の推定軌跡。
黒曜がしゃがむ。
杖の先を地面へ近づける。
「残留は薄いです」
「分かる?」
アクトが訊く。
「術式の癖までは無理です。ただ、展開方向は記録と一致しています」
小鴉は少し離れた場所から見る。
「命令は」
理香子が表示する。
《中枢区画への侵入を阻止》
「防壁指定座標は通路中央」
「はい」
「実際は」
「右へ四・二センチ」
アクトが線を見る。
「誤差ちゃうん?」
「一件なら」
理香子が次を出す。
二件目。
《搬送路への接近を阻止》
指定座標。
実測。
右へ三・八センチ。
三件目。
《管理扉を防護》
右へ四・一センチ。
「全部右」
アクトが言う。
「はい」
「術者から見て?」
黒曜が訊いた。
「はい」
黒曜が立つ。
「偶然ではありません」
小鴉が言った。
「まだ断定できない」
「三件です」
「三件だから」
黒曜は三つの術式記録を重ねた。
「術者の立ち位置が同じではありません。通路幅も違う。右へずれること自体が目的なら、基準は命令座標ではない」
「何を基準にしている?」
「まだ分かりません」
アクトが非常階段を見る。
「誰か通したんちゃう?」
理香子が三件目の結果ログを開く。
《侵入阻止:達成》
二件目。
《侵入阻止:達成》
一件目。
《侵入阻止:一部未達》
「一件だけ抜けています」
「何が?」
「小型保守ドローンです」
軌跡が表示される。
防壁の端。
四・二センチの隙間。
機体幅三・六センチ。
通過。
「たまたま小さいのが来た?」
アクトが言う。
「可能性はあります」
理香子が答えた。
「防壁を四センチずらして、四センチ以下のものだけ通した?」
「可能性はあります」
「どっちや」
「現時点では両方です」
小鴉が地面の線を踏まないように歩く。
「次の記録」
理香子が四件目を出した。
今度は防壁ではない。
攻撃呪文。
《対象:侵入者一》
《要求:行動不能化》
《推定出力:基準値下限》
《実測出力:基準値下限-二・一%》
「弱い?」
アクトが訊く。
「誤差範囲です」
黒曜が答える。
「ただし、弱い側へ外れています」
「次」
五件目。
《精霊命令:侵入者を排除》
命令文の下に、術者が付加した補助句。
《可能な限り当該区画外へ》
黒曜の目が細くなる。
「排除の方法を限定していない」
「殺せ、とは言ってないな」
「命令自体がそうなっています」
小鴉が言う。
「ただし術者側の補助句で、区画外へ押し出す解釈が成立する」
「逃がせる?」
「精霊がそう解釈すれば」
「した?」
理香子が結果を開く。
《侵入者:区画外へ移動》
《生命反応:継続》
アクトが口笛を吹きかけ、黒曜に見られてやめた。
「器用やな」
「器用ではありません」
黒曜は地面に残る三本の線を見る。
「ぎりぎりです」
「何が」
「命令違反にならない範囲で、結果だけを変えている」
小鴉が黒曜を見る。
「抵抗している、と?」
「まだ断定しません」
「さっき偶然ではないと言った」
「偶然でないことと、意図が分かることは別です」
黒曜は一件目の防壁を再表示した。
「この四センチでは、人は通れません」
「せやな」
「ですが」
黒曜は別の記録を理香子へ要求した。
「防壁展開時の周辺位置。侵入者だけではなく、施設側要員も」
理香子が開く。
赤い点。
侵入者。
青い点。
施設側。
一つだけ、防壁の内側ぎりぎりにいる。
「この人」
黒曜が指す。
「防壁が指定座標どおりなら、展開面に重なっています」
理香子が計算する。
「はい。胸部位置と干渉します」
「実際は」
「四・二センチずれたため、干渉していません」
アクトが線と青い点を見比べる。
「四センチで?」
「この位置なら」
黒曜が答えた。
「人一人分だけ、生き残っています」
風が物流棟の壁を撫でた。
誰もすぐには喋らなかった。
理香子が三件の記録をもう一度重ねる。
一件目。
右へ四・二。
二件目。
右へ三・八。
三件目。
右へ四・一。
その内側に、それぞれ一つずつ人間の位置を重ねる。
命令どおりなら、巻き込まれる位置。
実際の防壁なら、残る位置。
理香子の右手が止まった。
左手は、卓のない空中で一度だけ曲がった。
今度は自分で気づいた。
拳を開く。
「三件とも」
理香子が言う。
「一人分です」
小鴉は何も言わない。
黒曜が防壁の線を見る。
「術者は、守る相手を選んでいます」
「洗脳されながら?」
アクトが訊いた。
「命令には従っています」
黒曜は杖を握り直した。
「その上で、数センチだけ自分で決めている」
小鴉が初めて、ほんの少し視線を落とした。
「回収対象に追加する」
「MCTは最初から回収対象やろ」
アクトが言う。
「意味が違う」
「どう違うん」
「資産じゃない」
小鴉はそれ以上説明しなかった。
◇
午後七時三十九分。
会議室へ戻ると、共同案件の条件は十一項目に減っていた。
EVOは旧施設基盤と旧開発班記録を、MCTは覚醒者の生存回収と制御解除を担当する。事故記録と実戦学習ログの扱い、MCT管理下にある現行強化身体制御記録の開示範囲についても、それぞれ境界が引かれた。
その中で、何度も書き直された条項だけが正面画面に残っている。
《水無瀬凪を共同保護対象とする》
《現場で確認された生存者は、企業帰属の確定より先に生命保護を行う》
《アクトトゥルスの封印記録は解除しない》
《撤退条件は現場指揮者が事前設定し、両社は現場での再承認を要求しない》
そして最後。
《現場判断の責任を、単独の実働要員へ帰属させない》
「最後、大事なん?」
アクトが訊いた。
「大事です」
小鴉が答えた。
「なんで」
「指揮した人間だけ切って終わらせる会社があるから」
「どっち?」
「両方」
黒宮は否定しなかった。
MCT法務も否定しなかった。
「嫌な一致やな」
アクトが言う。
榊原が紙の契約書へ時刻を書く。
午後七時四十七分。
黒宮が電子署名を入れる。
MCT側の署名が続く。
最後に、小鴉の現場権限枠が有効になる。
《共同案件:成立》
理香子は表示を見た。
左手が動かないことを確認するように、指を一本ずつ曲げる。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
全部、自分の指だった。
「理香子」
アクトが呼ぶ。
「はい」
「帰ったら飯な」
「予定に入っています」
「何食う?」
理香子は一秒考える。
「まだ決めていません」
「よし」
「何がですか」
「何でもない」
その時、御厨の枠へ新しい通知が出た。
『旧施設群より共同照会経路への応答』
全員が正面画面を見る。
「内容は」
黒宮が訊く。
『術式運用記録です』
理香子が開く。
先ほど現地で確認したものとは別だった。
防壁展開。
四件。
五件。
六件。
命令座標と実測座標。
ずれ。
三・九センチ。
四・三センチ。
四・〇センチ。
全部、同じ側。
黒曜が一件ずつ見る。
最後の記録で止まる。
防壁の指定位置。
その内側。
人間の生命反応が一つ。
命令どおりなら、防壁に呑まれる位置。
実際の防壁では、残る。
黒曜が静かに言った。
「またです」
「一人分?」
アクトが訊く。
「はい」
理香子が全記録を重ねた。
数センチのずれが、一本の細い帯になる。
その帯の内側にだけ、人間の輪郭が残る。
「偶然確率を出します」
「要りません」
黒曜が言った。
理香子が見る。
黒曜は画面から目を離さない。
「この人は、外しているのではありません」
杖を握る指が、わずかに強くなる。
「残しています」
画面の中で、防壁は命令座標から四センチだけ外れていた。
その四センチが、人一人を殺さないために残された幅だった。