アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る   作:矢塚 和哉

38 / 38
存在しない施設

 存在しない施設へ入る準備は、存在する施設へ入る時より面倒だった。

 

「登記上は更地。EVOの資産台帳上は解体済み。MCTの現行施設一覧には該当なし。自治体側のインフラ記録では、電力も上下水も十一年前に切断されています」

 

 理香子が言った。

 

 壁面モニタには、何もないはずの区画が映っている。

 

 地上から見れば、古い物流倉庫が二棟と、ひび割れた舗装路。それだけだ。

 だが地下へ潜る保守用シャフトは残っている。電力も生きている。換気も動いている。人間の生体反応が三つある。

 

 動けない一つ。  数センチだけ命令から外れ続ける一つ。

 そして、重い一つ。

 

「ほな、誰の建物なん?」

 

「現在、その質問に法的な回答はありません」

 

「便利やなあ」

 

「便利ではありません。非常に面倒です」

 

「企業にとっては便利やろ。都合悪なったら建物ごと消せる」

 

 理香子は否定しなかった。

 

 卓上には三枚の承認票が並んでいた。  EVO。  MCT。

 そして共同回収班の現場運用票。

 

 同じ施設へ入るための紙なのに、書いてある目的は微妙に違う。

 

 EVOは旧設備と水無瀬凪の生存分離。

 MCTは自社由来制御技術と契約対象者の回収。

 共同班は生存者の確保と危険設備の停止。

 

 誰も同じものを取りに行くとは書いていない。

 

「そこ、最後まで揉めそうやな」

 

「揉めるから、今決める」

 

 小鴉が壁にもたれたまま答えた。

 

 黒い装備は第二クールで見た時と大きく変わらない。必要なものだけを身体へ寄せ、余計なものを見せない格好だった。

 

 アクトは床に開いた装備ケースの前でしゃがみ込んでいる。

 

 白い脚。  白い腕。  白い装甲。  赤い眼鏡。

 

 いつもの身体だ。

 

 右手で通常小銃のボルトを引き、薬室を確認する。  戻す。  次に弾倉。

 予備弾倉。  左腕のホルスター。  左脚のホルスター。

 

 順番に触れていく。

 

 触れた場所が、触れたと返してくる。

 

 指を曲げる。  開く。

 

 動かしたいから動く。  止めれば止まる。

 

 それだけのことが、今日は妙に確認事項に見えた。

 

「アクト」

 

 黒曜が呼んだ。

 

「ん?」

 

「三回目です」

 

「何が?」

 

「右手を開閉した回数です」

 

 アクトは自分の右手を見た。

 

「数えとったん?」

 

「目の前でやっていれば見えます」

 

「調子悪そうに見える?」

 

「いいえ」

 

「ほな問題なし」

 

「そういう話では――」

 

「分かっとるよ」

 

 指を握る。

 

 白い拳ができる。

 

「今日は、あたしの手ぇがあたしの言うこと聞いとるか、確認しときたいだけや」

 

 黒曜は少しだけ黙った。

 

「……分かりました」

 

「素直やな」

 

「今だけです」

 

「怖」

 

 理香子の指が端末上で止まった。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 左手。

 

 すぐに動き出す。

 

 残留身体像はほぼ消えている。  そう本人は言っていた。

 

 アクトは何も言わなかった。

 

 代わりに装備ケースの奥へ手を入れる。

 

「で」

 

 長いケースの固定具を外した。

 

「これも持ってく」

 

 黒曜の眉間に皺が寄った。

 

「持っていくのですか」

 

「せやから持ってきたんやろ」

 

「そうではなく」

 

 ケースの中には、通常小銃とは比較にならない長さと重量の兵器が収まっていた。

 

 ガウスライフル。

 

 白い増加装甲と同じ色のカウルに覆われたそれを、アクトは両手で持ち上げる。

 

 持ち上げる、という動作にしては、床が先に鳴った。

 

 脚部が荷重を拾う。  腰が補正する。  背中へ重量が乗る。

 

 アクトの身体が一つの台座になる。

 

 小鴉が一瞥した。

 

「用途は」

 

「保険」

 

「何に対する」

 

「建物」

 

「質問を変える。何を撃つ」

 

「建物」

 

 小鴉が黙った。

 

 黒曜が額へ手を当てた。

 

 理香子だけが端末を見たまま言う。

 

「施設構造への使用は、現時点では承認されていません」

 

「せやから保険や」

 

「承認されていないものを保険とは呼びません」

 

「必要になってから取りに帰るん?」

 

「……持ち込みには反対しません」

 

「ほら」

 

「使用には別途判断が必要です」

 

「分かっとるって」

 

 アクトはガウスライフルを専用の搬送フレームへ戻した。

 

「建物を建物ごと壊す保険や。使わんで済むなら、それが一番安い」

 

「価格の問題ではありません」

 

「だいたいの問題は価格の問題やで」

 

「あなたが言うと説得力がありません」

 

「なんでや」

 

「装備へ金を使いすぎです」

 

「必要経費や」

 

「ガウスライフルを必要経費に分類する十九歳は多くありません」

 

「第六世界、広いで?」

 

「便利な言葉として使わないでください」

 

 小鴉が卓を指で二度叩いた。

 

「漫才は移動中にしろ」

 

「移動中もやってええん?」

 

「黙っていられるなら黙れ」

 

「厳し」

 

 だが、そこで空気が切り替わった。

 

 理香子が施設図を中央へ出す。

 

 地上部。  地下搬送層。  保守区画。  旧統合試験区画。

 

 存在しない施設が、青白い線で立体化する。

 

「侵入口はここです」

 

 地上倉庫の床下。  廃止済み貨物リフト脇の保守シャフト。

 

「正面搬入口は?」

 

「生きています」

 

「使わん理由は」

 

「向こうも知っているからです」

 

 理香子が表示を重ねる。

 

 第一次進入経路。  第二退避路。  緊急切断点。  通信中継位置。

 

 さらに赤い線が二本。

 

「主退避路。侵入口へ戻る経路です。第二退避路は南側保守坑。こちらは途中に崩落がありますが、人間一人なら通れます」

 

「ダンボは?」

 

「通れません」

 

「やろな」

 

「アクトもガウスライフルを携行した状態では通過困難です」

 

「置いてきゃ通れる?」

 

「はい」

 

「ほなええ」

 

 黒曜が横から見る。

 

「簡単に言いますね」

 

「置いてく判断くらいはするで」

 

「本当ですか」

 

「なんやその目」

 

「記憶しています」

 

「何を」

 

「あなたが装備を捨てる判断をした回数を」

 

「……何回?」

 

「少ないです」

 

「ゼロとは言うてへんやん」

 

「言わせたいのですか」

 

「やめよか」

 

 小鴉が施設図を拡大した。

 

「ここから先、三人を一組として扱わない」

 

 アクトが顔を上げる。

 

 黒曜も小鴉を見る。

 

「どういう意味ですか」

 

「言葉通りだ。施設側はお前たち三人の行動列を持っている。前衛が踏み込む。魔術師が防壁を置く。デッカーが設備を殺す。順番も、間も、互いに何を期待して動くかも読まれている」

 

「せやな」

 

「だから私は接続しない」

 

 小鴉は理香子を見た。

 

「ヘカトンケイルにも入らない。お前の共有視界も最低限しか受けない」

 

「情報量が落ちます」

 

「落とす」

 

「指揮精度も」

 

「落とす」

 

 理香子の眉がわずかに寄った。

 

「非効率です」

 

「その非効率を持ち込むために私がいる」

 

 アクトが口の端を上げた。

 

「嫌な言い方するなあ」

 

「褒め言葉として受け取る」

 

「褒めてへん」

 

「知っている」

 

 小鴉は三人を順番に見た。

 

「施設が知っているのは、お前たちが正しく動く時だ。正しい連携をする。正しい場所を守る。正しい順番で切る。そこを利用される」

 

 黒曜が静かに問う。

 

「では、間違えろと?」

 

「違う」

 

 小鴉は即答した。

 

「私が順番を決める」

 

 一瞬、部屋が静かになった。

 

 アクトは笑わなかった。

 

「それ、あんたの手ぇになるんと何が違うん?」

 

 理香子の指が止まる。

 

 黒曜の視線が小鴉へ向く。

 

 小鴉は表情を変えなかった。

 

「拒否できる」

 

 短い答えだった。

 

「命令は出す。従うかはお前が決めろ。現場で理由を説明する時間はない。私もお前の判断を保証しない。お前も私の判断を正しいと思う必要はない」

 

「責任は?」

 

「私の命令で動いた分は私が持つ」

 

「外れたら?」

 

「お前が持て」

 

 アクトは数秒、小鴉を見た。

 

「ええやん」

 

「軽いな」

 

「そこ曖昧にされる方が嫌や」

 

 黒曜が小さく息を吐いた。

 

「私は、その条件なら受けます」

 

 理香子も頷く。

 

「記録します」

 

「記録しなくていいことまで記録するな」

 

「指揮権限の境界は最優先記録対象です」

 

「そうか」

 

「はい」

 

 小鴉が諦めた。

 

     *

 

 移動車両は、旧施設から二キロ手前で止まった。

 

 そこから先は徒歩だった。

 

 舗装は割れ、雑草がコンクリートの隙間から伸びている。

 街の灯りは遠い。

 

 企業が捨てた土地には、捨てられた後の時間だけが積もる。

 

 アクトが先頭ではない。

 

 小鴉が十数メートル前。  アクト。  少し離れて黒曜。  理香子。

 

 いつもの距離ではなかった。

 

 近すぎず、遠すぎず。  互いに見える。

 だが、誰かが誰かの次の動きを当然のものとして使えない距離。

 

「気持ち悪いな」

 

 アクトが小声で言った。

 

「何がですか」

 

 黒曜の声がイヤホンへ返る。

 

「並び」

 

「私もです」

 

「お、珍しく意見合うやん」

 

「普段から合っています」

 

「そうやった?」

 

「あなたが気づいていないだけです」

 

「ほーん」

 

『私語を切れ』

 

 小鴉。

 

「はいはい」

 

『一回で返事しろ』

 

「はい」

 

 理香子だけが何も言わない。

 

 アクトは振り返らず、背後の足音を聞いた。

 

 一定。  少し硬い。  左脚の遅れはない。

 

 倉庫が見えた。

 

 古い。

 

 壁面の企業ロゴは剥がされている。  看板もない。

 監視カメラは外されている。

 

 それでもアクトは立ち止まった。

 

「おるな」

 

「何がですか」

 

「建物」

 

 黒曜が黙る。

 

 アクトは赤い眼鏡越しに倉庫を見た。

 

 窓は暗い。  搬入口も閉じている。  風で何かが揺れているわけでもない。

 

 なのに、死んでいる感じがしなかった。

 

 待っている。

 

 そんな言葉が一番近い。

 

 理香子が端末を確認する。

 

「外部電波、微弱。施設内部からの能動走査は確認できません」

 

「見られとらん?」

 

「そうは言っていません」

 

「やろな」

 

 小鴉が手を上げた。

 

 止まる。

 

 そのまま二本指を下へ向ける。

 

 保守シャフト。

 

 地上倉庫へは入らない。

 

 側面の排水溝に見えるコンクリート蓋を、アクトが持ち上げた。

 

 錆びている。

 

 錆びているのは表面だけだった。

 

「……最近開いとる」

 

 蝶番の内側に、新しい擦過痕がある。

 

 小鴉が頷く。

 

「予定通り」

 

「予定通りが一番怖いねんな」

 

「今さら言うな」

 

 シャフトは狭かった。

 

 ガウスライフルは分割せず、専用フレームのまま降ろす。

 アクトが先に下り、下で受ける。

 

 重量が腕へ乗る。  脚が踏ん張る。  油圧が短く鳴る。

 

 白い指がフレームを掴む。

 

 自分の指だ。

 

 その確認を、またしている。

 

 アクトは舌打ちした。

 

「……しつこいな、あたし」

 

「何か?」

 

 上から黒曜。

 

「独り言や。降りてええで」

 

 全員が地下へ入る。

 

 蓋を閉じた。

 

 街の音が消えた。

 

     *

 

 地下の空気は、思ったより新しかった。

 

「換気、生きています」

 

 理香子が言う。

 

「二酸化炭素濃度、正常範囲。温度二十一・八度。湿度四十八」

 

「快適やな」

 

「十一年間、無人のはずの地下施設としては異常です」

 

「家賃取れそう」

 

「住みませんよ」

 

「誰も住む言うてへん」

 

「あなたは時々、冗談のまま変なことを実行します」

 

「信用ないなあ」

 

 通路には非常灯だけが点いている。

 

 三十メートル先。  次の灯り。  その先。  また次。

 

 暗闇が区切られている。

 

 小鴉が停止を指示した。

 

 理香子が壁面端子へケーブルを伸ばす。

 

「触るな」

 

 小鴉。

 

「まだ触っていません」

 

「目が触る顔をしていた」

 

「どういう顔ですか」

 

「お前の顔だ」

 

 アクトが吹き出しかけ、黒曜に睨まれた。

 

「何もしてへんやん」

 

「する前の顔でした」

 

「黒曜まで」

 

 理香子は無言でケーブルを戻した。

 

「接続しません。受動観測のみ」

 

「そうしろ」

 

 数秒。

 

「……内部通信があります」

 

「内容」

 

「通常の保守信号。空調、電力、排水、温度管理」

 

「こっちは?」

 

「認識されていません」

 

 アクトが壁を見る。

 

「ほんまに?」

 

「少なくとも、通信上は」

 

「通信上は、な」

 

 アクトは天井を見る。

 

 照明。  ダクト。  ケーブルラック。  火災報知器。  古いスピーカー。

 

 全部、目になれる。  耳になれる。  手にもなれる。

 

 第五話で見た。

 

 施設は設備の集合ではない。  姿勢を取る。

 

 アクトは小銃のストックを肩へ当てた。

 

 黒曜がそれを見て、防壁を張らない。

 

 張りかけもしない。

 

 いつもなら、アクトが一歩前へ出るだけで、黒曜はその先に薄い防壁を置く。

 

 今日はない。

 

 背中が妙に寒かった。

 

「……気持ち悪」

 

「二回目です」

 

「数えんでええ」

 

「私もです」

 

 黒曜は前を見たまま言った。

 

「あなたが前へ出たのに、何も置かないのは」

 

「置きたくなる?」

 

「非常に」

 

「我慢して」

 

「しています」

 

 小鴉が振り返らずに言う。

 

「それでいい」

 

「褒められても嬉しくありません」

 

「安心しろ。褒めてない」

 

「似た者同士やなあ」

 

「誰と誰がですか」

 

「言わんとこ」

 

 第一隔壁まで二十メートル。

 

 閉じている。

 

 理香子が受動スキャンを続ける。

 

「隔壁駆動系、待機」

 

「開けられる?」

 

「こちらからなら」

 

「待て」

 

 小鴉が止める。

 

「三秒」

 

 全員が黙った。

 

 一秒。

 

 二秒。

 

 三秒。

 

 隔壁は動かなかった。

 

「……嫌な確認やな」

 

 アクトが言う。

 

 理香子は返事をしない。

 

 その左手が、端末の縁を掴んでいた。

 

「理香子」

 

「正常です」

 

「まだ何も聞いてへん」

 

「正常です」

 

「そか」

 

 アクトはそれ以上言わない。

 

 小鴉が指示する。

 

「開けろ」

 

「了解」

 

 理香子が最小権限で隔壁へ信号を送る。

 

 一秒。

 

 二秒。

 

 駆動音。

 

 隔壁が左右へ開いた。

 

 三秒ではない。

 

 二・四秒。

 

 理香子の眉が動く。

 

「癖を変えた?」

 

 黒曜が問う。

 

「分かりません」

 

「気づいていると気づかれたから?」

 

「分かりません」

 

「ナギなら?」

 

 理香子は答えなかった。

 

 隔壁の向こうは暗い。

 

 非常灯すらない。

 

 小鴉が照明を使わず、暗視へ切り替える。

 

 アクトも続く。

 

 赤い眼鏡の内側で表示が変わった。

 

 輪郭。  距離。  温度。

 

 通路の奥まで、人影はない。

 

「行くぞ」

 

 小鴉が入る。

 

 アクトは一拍遅れて続いた。

 

 いつもの半歩ではない。

 

 黒曜はさらに遅れる。

 

 理香子も。

 

 ばらばらだ。

 

 気持ちが悪い。

 

 それでも進む。

 

 五メートル。

 

 十メートル。

 

 右に搬送路。  左に保守扉。

 

 床には古いレール。

 

 天井には停止した搬送クレーン。

 

 アクトの視線が一つずつ拾う。

 

 クレーン。  扉。  床。  ダクト。

 

 全部、まだ動いていない。

 

「静かすぎるな」

 

 小鴉が言った。

 

「待っとるんやろ」

 

「誰を」

 

「知らん」

 

 理香子の端末が震えた。

 

 全員が止まる。

 

「何」

 

 アクト。

 

「通信ではありません」

 

「ほな?」

 

「私の端末内です」

 

 理香子が画面を開く。

 

 共有回線の帯域表。

 

 アクト。  黒曜。  理香子。  小鴉。

 

 それぞれに割り当てた通信枠が並んでいる。

 

 その横。

 

 未使用領域。

 

 本来なら動的に圧縮されるはずの空き帯域が、一人分だけ、きれいに残されていた。

 

 誰も使っていない。

 

 誰にも割り当てられていない。

 

 それなのに、周囲の通信がそこを避けている。

 

「……何やこれ」

 

 アクトが覗く。

 

 理香子の喉が動いた。

 

「空席です」

 

「誰の?」

 

「分かりません」

 

 小鴉が画面を見る。

 

「外部から予約された形跡は」

 

「ありません。私のルータが、自分で空けています」

 

「マルウェア」

 

「検出なし」

 

「設定」

 

「していません」

 

 黒曜が理香子を見る。

 

「ナギですか」

 

 長い沈黙。

 

「分かりません」

 

 理香子はそう言った。

 

 だが、消さなかった。

 

 小鴉が問う。

 

「塞げるか」

 

「はい」

 

「塞げ」

 

 理香子の指が動く。

 

 一瞬だけ止まる。

 

 左手ではない。

 

 右手だった。

 

「理香子」

 

 アクトが呼ぶ。

 

「……塞ぎます」

 

 空席が消える。

 

 帯域が再配分される。

 

 何も起きない。

 

 警報もない。  文字も出ない。  三秒の待機もない。

 

「進む」

 

 小鴉が言った。

 

 アクトは理香子を見た。

 

 理香子はもう端末を見ている。

 

 顔はいつものままだった。

 

     *

 

 第一退避分岐。

 

 主退避路は後方。  第二退避路は左手の保守坑へ続く。

 

 理香子が実測値を更新する。

 

「第二退避路、事前図面より狭いです。崩落が進行しています」

 

「通れる?」

 

「黒曜、小鴉、私。問題ありません。アクトは通常装備なら可能。ガウス搬送時は不可」

 

「置けばええ」

 

 アクトはまた言った。

 

 黒曜が見た。

 

「何」

 

「覚えておきます」

 

「信用せえよ」

 

「行動で示してください」

 

「今日使わんかったら?」

 

「評価します」

 

「上からやなあ」

 

「当然です」

 

 小鴉がガウスの搬送フレームを見る。

 

「固定展開に何秒」

 

「射点決めてから三十」

 

「解除」

 

「十秒ちょい」

 

「ちょいを消せ」

 

「十秒」

 

「緊急放棄」

 

「二秒」

 

「なら、退避命令が出たら固定解除を待つな」

 

 アクトはガウスを見る。

 

「状況による」

 

「今決めろ」

 

「状況による」

 

 二人の視線がぶつかった。

 

 小鴉は数秒黙った。

 

「……分かった。放棄判断はお前に残す。ただし十秒を使うなら、その十秒で死ぬ可能性もお前が持て」

 

「最初からそのつもりや」

 

 黒曜が低く言う。

 

「私は納得していません」

 

「黒曜」

 

「何ですか」

 

「まだ撃つとも決まってへん」

 

「だから今言っています」

 

「はい」

 

「返事だけは良いですね」

 

「怒っとる?」

 

「まだです」

 

「まだなんや」

 

「まだです」

 

 理香子が割り込んだ。

 

「固定射撃を行う場合、主退避路までの移動時間は現状で四十一秒。第二退避路は使用不可。施設側が扉を一枚閉鎖した場合、最大十九秒増加します」

 

「了解」

 

「床搬送が逆転した場合、さらに――」

 

「理香子」

 

「はい」

 

「全部覚えた。必要な時に更新して」

 

「……了解」

 

 アクトは白い脚で床を一度踏んだ。

 

 硬い。

 

 返ってくる。

 

 自分の足裏へ。

 

「帰るで」

 

 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 黒曜が答える。

 

「当然です」

 

 理香子も。

 

「退避計画に含まれています」

 

 小鴉は少し遅れて言った。

 

「なら予定通り動け」

 

「はいはい」

 

「一回」

 

「はい」

 

     *

 

 旧統合試験区画まで、残り百八十メートル。

 

 そこで施設の様子が変わった。

 

 音が消えた。

 

 空調。

 

 換気。

 

 遠くで回っていたポンプ。

 

 全部。

 

 一斉停止ではない。

 

 手前から奥へ。

 

 順番に。

 

 アクトたちのいる場所へ向かって、静寂が走ってくる。

 

「来る」

 

 理香子が言った。

 

 十メートル先の換気音が止まる。

 

 五メートル。

 

 頭上。

 

 止まった。

 

 完全な無音。

 

 アクトは小銃を上げる。

 

 黒曜は防壁を張らない。

 

 張らないまま、指だけがわずかに動いた。

 

 小鴉が左へ散開を指示。

 

 三人はいつもの方向へ動きかけた。

 

 アクトが止まる。

 

 黒曜も。

 

 理香子も。

 

 一瞬だけ、身体が知っている並びへ戻ろうとした。

 

「……これか」

 

 アクトが呟く。

 

「何ですか」

 

「癖」

 

 小鴉の声。

 

『アクト、右。黒曜、その場。理香子は下がれ』

 

 従う。

 

 気持ちが悪い。

 

 アクトだけが右へ出る。

 

 背中に防壁はない。

 

 黒曜は動かない。

 

 理香子は後ろへ下がる。

 

 何も起きない。

 

 五秒。

 

 十秒。

 

「読まれてる?」

 

 黒曜。

 

「確認できません」

 

 理香子。

 

「でも」

 

「でも?」

 

「今、設備側の予測処理が一度走りました」

 

 アクトが笑わずに言う。

 

「外した?」

 

「可能性があります」

 

 小鴉が前を向く。

 

「なら続ける」

 

 その瞬間だった。

 

 施設全体の照明が落ちた。

 

 非常灯も。  誘導灯も。  端末の壁面表示も。

 

 全部。

 

 暗視表示だけが残る。

 

「理香子」

 

「こちらではありません」

 

「電源断?」

 

「違います。照明系統だけです」

 

「向こうから?」

 

「はい」

 

 暗闇が、完成した。

 

 誰も動かない。

 

 アクトの耳が拾う。

 

 自分たちの呼吸。  装備の微かな駆動音。  理香子の端末ファン。

 黒曜の衣擦れ。

 

 それ以外。

 

 何もない。

 

 十秒。

 

 二十秒。

 

 小鴉が手を上げたまま動かない。

 

 アクトは小銃の照準を通路奥へ置く。

 

 暗視には何も映らない。

 

 だが、床が。

 

 ほんの少しだけ。

 

 震えた。

 

 どん。

 

 一度。

 

 遠い。

 

 重い。

 

 機械の落下音ではない。

 

 規則正しく回る設備音でもない。

 

 足音だった。

 

 理香子の端末に振動値が出る。

 

 アクトは見なくても分かった。

 

 あの質量。

 

 第二クールで、一度知っている。

 

 次の足音は来なかった。

 

 一度だけ。

 

 暗闇の奥で、立ち止まったように。

 

 アクトは銃口を下げない。

 

「……おるやん」

 

 誰も返事をしない。

 

 存在しない施設の、存在しない通路の奥で。

 

 巨大な何かが、こちらを待っていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。