アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
存在しない施設へ入る準備は、存在する施設へ入る時より面倒だった。
「登記上は更地。EVOの資産台帳上は解体済み。MCTの現行施設一覧には該当なし。自治体側のインフラ記録では、電力も上下水も十一年前に切断されています」
理香子が言った。
壁面モニタには、何もないはずの区画が映っている。
地上から見れば、古い物流倉庫が二棟と、ひび割れた舗装路。それだけだ。
だが地下へ潜る保守用シャフトは残っている。電力も生きている。換気も動いている。人間の生体反応が三つある。
動けない一つ。 数センチだけ命令から外れ続ける一つ。
そして、重い一つ。
「ほな、誰の建物なん?」
「現在、その質問に法的な回答はありません」
「便利やなあ」
「便利ではありません。非常に面倒です」
「企業にとっては便利やろ。都合悪なったら建物ごと消せる」
理香子は否定しなかった。
卓上には三枚の承認票が並んでいた。 EVO。 MCT。
そして共同回収班の現場運用票。
同じ施設へ入るための紙なのに、書いてある目的は微妙に違う。
EVOは旧設備と水無瀬凪の生存分離。
MCTは自社由来制御技術と契約対象者の回収。
共同班は生存者の確保と危険設備の停止。
誰も同じものを取りに行くとは書いていない。
「そこ、最後まで揉めそうやな」
「揉めるから、今決める」
小鴉が壁にもたれたまま答えた。
黒い装備は第二クールで見た時と大きく変わらない。必要なものだけを身体へ寄せ、余計なものを見せない格好だった。
アクトは床に開いた装備ケースの前でしゃがみ込んでいる。
白い脚。 白い腕。 白い装甲。 赤い眼鏡。
いつもの身体だ。
右手で通常小銃のボルトを引き、薬室を確認する。 戻す。 次に弾倉。
予備弾倉。 左腕のホルスター。 左脚のホルスター。
順番に触れていく。
触れた場所が、触れたと返してくる。
指を曲げる。 開く。
動かしたいから動く。 止めれば止まる。
それだけのことが、今日は妙に確認事項に見えた。
「アクト」
黒曜が呼んだ。
「ん?」
「三回目です」
「何が?」
「右手を開閉した回数です」
アクトは自分の右手を見た。
「数えとったん?」
「目の前でやっていれば見えます」
「調子悪そうに見える?」
「いいえ」
「ほな問題なし」
「そういう話では――」
「分かっとるよ」
指を握る。
白い拳ができる。
「今日は、あたしの手ぇがあたしの言うこと聞いとるか、確認しときたいだけや」
黒曜は少しだけ黙った。
「……分かりました」
「素直やな」
「今だけです」
「怖」
理香子の指が端末上で止まった。
ほんの一瞬だった。
左手。
すぐに動き出す。
残留身体像はほぼ消えている。 そう本人は言っていた。
アクトは何も言わなかった。
代わりに装備ケースの奥へ手を入れる。
「で」
長いケースの固定具を外した。
「これも持ってく」
黒曜の眉間に皺が寄った。
「持っていくのですか」
「せやから持ってきたんやろ」
「そうではなく」
ケースの中には、通常小銃とは比較にならない長さと重量の兵器が収まっていた。
ガウスライフル。
白い増加装甲と同じ色のカウルに覆われたそれを、アクトは両手で持ち上げる。
持ち上げる、という動作にしては、床が先に鳴った。
脚部が荷重を拾う。 腰が補正する。 背中へ重量が乗る。
アクトの身体が一つの台座になる。
小鴉が一瞥した。
「用途は」
「保険」
「何に対する」
「建物」
「質問を変える。何を撃つ」
「建物」
小鴉が黙った。
黒曜が額へ手を当てた。
理香子だけが端末を見たまま言う。
「施設構造への使用は、現時点では承認されていません」
「せやから保険や」
「承認されていないものを保険とは呼びません」
「必要になってから取りに帰るん?」
「……持ち込みには反対しません」
「ほら」
「使用には別途判断が必要です」
「分かっとるって」
アクトはガウスライフルを専用の搬送フレームへ戻した。
「建物を建物ごと壊す保険や。使わんで済むなら、それが一番安い」
「価格の問題ではありません」
「だいたいの問題は価格の問題やで」
「あなたが言うと説得力がありません」
「なんでや」
「装備へ金を使いすぎです」
「必要経費や」
「ガウスライフルを必要経費に分類する十九歳は多くありません」
「第六世界、広いで?」
「便利な言葉として使わないでください」
小鴉が卓を指で二度叩いた。
「漫才は移動中にしろ」
「移動中もやってええん?」
「黙っていられるなら黙れ」
「厳し」
だが、そこで空気が切り替わった。
理香子が施設図を中央へ出す。
地上部。 地下搬送層。 保守区画。 旧統合試験区画。
存在しない施設が、青白い線で立体化する。
「侵入口はここです」
地上倉庫の床下。 廃止済み貨物リフト脇の保守シャフト。
「正面搬入口は?」
「生きています」
「使わん理由は」
「向こうも知っているからです」
理香子が表示を重ねる。
第一次進入経路。 第二退避路。 緊急切断点。 通信中継位置。
さらに赤い線が二本。
「主退避路。侵入口へ戻る経路です。第二退避路は南側保守坑。こちらは途中に崩落がありますが、人間一人なら通れます」
「ダンボは?」
「通れません」
「やろな」
「アクトもガウスライフルを携行した状態では通過困難です」
「置いてきゃ通れる?」
「はい」
「ほなええ」
黒曜が横から見る。
「簡単に言いますね」
「置いてく判断くらいはするで」
「本当ですか」
「なんやその目」
「記憶しています」
「何を」
「あなたが装備を捨てる判断をした回数を」
「……何回?」
「少ないです」
「ゼロとは言うてへんやん」
「言わせたいのですか」
「やめよか」
小鴉が施設図を拡大した。
「ここから先、三人を一組として扱わない」
アクトが顔を上げる。
黒曜も小鴉を見る。
「どういう意味ですか」
「言葉通りだ。施設側はお前たち三人の行動列を持っている。前衛が踏み込む。魔術師が防壁を置く。デッカーが設備を殺す。順番も、間も、互いに何を期待して動くかも読まれている」
「せやな」
「だから私は接続しない」
小鴉は理香子を見た。
「ヘカトンケイルにも入らない。お前の共有視界も最低限しか受けない」
「情報量が落ちます」
「落とす」
「指揮精度も」
「落とす」
理香子の眉がわずかに寄った。
「非効率です」
「その非効率を持ち込むために私がいる」
アクトが口の端を上げた。
「嫌な言い方するなあ」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてへん」
「知っている」
小鴉は三人を順番に見た。
「施設が知っているのは、お前たちが正しく動く時だ。正しい連携をする。正しい場所を守る。正しい順番で切る。そこを利用される」
黒曜が静かに問う。
「では、間違えろと?」
「違う」
小鴉は即答した。
「私が順番を決める」
一瞬、部屋が静かになった。
アクトは笑わなかった。
「それ、あんたの手ぇになるんと何が違うん?」
理香子の指が止まる。
黒曜の視線が小鴉へ向く。
小鴉は表情を変えなかった。
「拒否できる」
短い答えだった。
「命令は出す。従うかはお前が決めろ。現場で理由を説明する時間はない。私もお前の判断を保証しない。お前も私の判断を正しいと思う必要はない」
「責任は?」
「私の命令で動いた分は私が持つ」
「外れたら?」
「お前が持て」
アクトは数秒、小鴉を見た。
「ええやん」
「軽いな」
「そこ曖昧にされる方が嫌や」
黒曜が小さく息を吐いた。
「私は、その条件なら受けます」
理香子も頷く。
「記録します」
「記録しなくていいことまで記録するな」
「指揮権限の境界は最優先記録対象です」
「そうか」
「はい」
小鴉が諦めた。
*
移動車両は、旧施設から二キロ手前で止まった。
そこから先は徒歩だった。
舗装は割れ、雑草がコンクリートの隙間から伸びている。
街の灯りは遠い。
企業が捨てた土地には、捨てられた後の時間だけが積もる。
アクトが先頭ではない。
小鴉が十数メートル前。 アクト。 少し離れて黒曜。 理香子。
いつもの距離ではなかった。
近すぎず、遠すぎず。 互いに見える。
だが、誰かが誰かの次の動きを当然のものとして使えない距離。
「気持ち悪いな」
アクトが小声で言った。
「何がですか」
黒曜の声がイヤホンへ返る。
「並び」
「私もです」
「お、珍しく意見合うやん」
「普段から合っています」
「そうやった?」
「あなたが気づいていないだけです」
「ほーん」
『私語を切れ』
小鴉。
「はいはい」
『一回で返事しろ』
「はい」
理香子だけが何も言わない。
アクトは振り返らず、背後の足音を聞いた。
一定。 少し硬い。 左脚の遅れはない。
倉庫が見えた。
古い。
壁面の企業ロゴは剥がされている。 看板もない。
監視カメラは外されている。
それでもアクトは立ち止まった。
「おるな」
「何がですか」
「建物」
黒曜が黙る。
アクトは赤い眼鏡越しに倉庫を見た。
窓は暗い。 搬入口も閉じている。 風で何かが揺れているわけでもない。
なのに、死んでいる感じがしなかった。
待っている。
そんな言葉が一番近い。
理香子が端末を確認する。
「外部電波、微弱。施設内部からの能動走査は確認できません」
「見られとらん?」
「そうは言っていません」
「やろな」
小鴉が手を上げた。
止まる。
そのまま二本指を下へ向ける。
保守シャフト。
地上倉庫へは入らない。
側面の排水溝に見えるコンクリート蓋を、アクトが持ち上げた。
錆びている。
錆びているのは表面だけだった。
「……最近開いとる」
蝶番の内側に、新しい擦過痕がある。
小鴉が頷く。
「予定通り」
「予定通りが一番怖いねんな」
「今さら言うな」
シャフトは狭かった。
ガウスライフルは分割せず、専用フレームのまま降ろす。
アクトが先に下り、下で受ける。
重量が腕へ乗る。 脚が踏ん張る。 油圧が短く鳴る。
白い指がフレームを掴む。
自分の指だ。
その確認を、またしている。
アクトは舌打ちした。
「……しつこいな、あたし」
「何か?」
上から黒曜。
「独り言や。降りてええで」
全員が地下へ入る。
蓋を閉じた。
街の音が消えた。
*
地下の空気は、思ったより新しかった。
「換気、生きています」
理香子が言う。
「二酸化炭素濃度、正常範囲。温度二十一・八度。湿度四十八」
「快適やな」
「十一年間、無人のはずの地下施設としては異常です」
「家賃取れそう」
「住みませんよ」
「誰も住む言うてへん」
「あなたは時々、冗談のまま変なことを実行します」
「信用ないなあ」
通路には非常灯だけが点いている。
三十メートル先。 次の灯り。 その先。 また次。
暗闇が区切られている。
小鴉が停止を指示した。
理香子が壁面端子へケーブルを伸ばす。
「触るな」
小鴉。
「まだ触っていません」
「目が触る顔をしていた」
「どういう顔ですか」
「お前の顔だ」
アクトが吹き出しかけ、黒曜に睨まれた。
「何もしてへんやん」
「する前の顔でした」
「黒曜まで」
理香子は無言でケーブルを戻した。
「接続しません。受動観測のみ」
「そうしろ」
数秒。
「……内部通信があります」
「内容」
「通常の保守信号。空調、電力、排水、温度管理」
「こっちは?」
「認識されていません」
アクトが壁を見る。
「ほんまに?」
「少なくとも、通信上は」
「通信上は、な」
アクトは天井を見る。
照明。 ダクト。 ケーブルラック。 火災報知器。 古いスピーカー。
全部、目になれる。 耳になれる。 手にもなれる。
第五話で見た。
施設は設備の集合ではない。 姿勢を取る。
アクトは小銃のストックを肩へ当てた。
黒曜がそれを見て、防壁を張らない。
張りかけもしない。
いつもなら、アクトが一歩前へ出るだけで、黒曜はその先に薄い防壁を置く。
今日はない。
背中が妙に寒かった。
「……気持ち悪」
「二回目です」
「数えんでええ」
「私もです」
黒曜は前を見たまま言った。
「あなたが前へ出たのに、何も置かないのは」
「置きたくなる?」
「非常に」
「我慢して」
「しています」
小鴉が振り返らずに言う。
「それでいい」
「褒められても嬉しくありません」
「安心しろ。褒めてない」
「似た者同士やなあ」
「誰と誰がですか」
「言わんとこ」
第一隔壁まで二十メートル。
閉じている。
理香子が受動スキャンを続ける。
「隔壁駆動系、待機」
「開けられる?」
「こちらからなら」
「待て」
小鴉が止める。
「三秒」
全員が黙った。
一秒。
二秒。
三秒。
隔壁は動かなかった。
「……嫌な確認やな」
アクトが言う。
理香子は返事をしない。
その左手が、端末の縁を掴んでいた。
「理香子」
「正常です」
「まだ何も聞いてへん」
「正常です」
「そか」
アクトはそれ以上言わない。
小鴉が指示する。
「開けろ」
「了解」
理香子が最小権限で隔壁へ信号を送る。
一秒。
二秒。
駆動音。
隔壁が左右へ開いた。
三秒ではない。
二・四秒。
理香子の眉が動く。
「癖を変えた?」
黒曜が問う。
「分かりません」
「気づいていると気づかれたから?」
「分かりません」
「ナギなら?」
理香子は答えなかった。
隔壁の向こうは暗い。
非常灯すらない。
小鴉が照明を使わず、暗視へ切り替える。
アクトも続く。
赤い眼鏡の内側で表示が変わった。
輪郭。 距離。 温度。
通路の奥まで、人影はない。
「行くぞ」
小鴉が入る。
アクトは一拍遅れて続いた。
いつもの半歩ではない。
黒曜はさらに遅れる。
理香子も。
ばらばらだ。
気持ちが悪い。
それでも進む。
五メートル。
十メートル。
右に搬送路。 左に保守扉。
床には古いレール。
天井には停止した搬送クレーン。
アクトの視線が一つずつ拾う。
クレーン。 扉。 床。 ダクト。
全部、まだ動いていない。
「静かすぎるな」
小鴉が言った。
「待っとるんやろ」
「誰を」
「知らん」
理香子の端末が震えた。
全員が止まる。
「何」
アクト。
「通信ではありません」
「ほな?」
「私の端末内です」
理香子が画面を開く。
共有回線の帯域表。
アクト。 黒曜。 理香子。 小鴉。
それぞれに割り当てた通信枠が並んでいる。
その横。
未使用領域。
本来なら動的に圧縮されるはずの空き帯域が、一人分だけ、きれいに残されていた。
誰も使っていない。
誰にも割り当てられていない。
それなのに、周囲の通信がそこを避けている。
「……何やこれ」
アクトが覗く。
理香子の喉が動いた。
「空席です」
「誰の?」
「分かりません」
小鴉が画面を見る。
「外部から予約された形跡は」
「ありません。私のルータが、自分で空けています」
「マルウェア」
「検出なし」
「設定」
「していません」
黒曜が理香子を見る。
「ナギですか」
長い沈黙。
「分かりません」
理香子はそう言った。
だが、消さなかった。
小鴉が問う。
「塞げるか」
「はい」
「塞げ」
理香子の指が動く。
一瞬だけ止まる。
左手ではない。
右手だった。
「理香子」
アクトが呼ぶ。
「……塞ぎます」
空席が消える。
帯域が再配分される。
何も起きない。
警報もない。 文字も出ない。 三秒の待機もない。
「進む」
小鴉が言った。
アクトは理香子を見た。
理香子はもう端末を見ている。
顔はいつものままだった。
*
第一退避分岐。
主退避路は後方。 第二退避路は左手の保守坑へ続く。
理香子が実測値を更新する。
「第二退避路、事前図面より狭いです。崩落が進行しています」
「通れる?」
「黒曜、小鴉、私。問題ありません。アクトは通常装備なら可能。ガウス搬送時は不可」
「置けばええ」
アクトはまた言った。
黒曜が見た。
「何」
「覚えておきます」
「信用せえよ」
「行動で示してください」
「今日使わんかったら?」
「評価します」
「上からやなあ」
「当然です」
小鴉がガウスの搬送フレームを見る。
「固定展開に何秒」
「射点決めてから三十」
「解除」
「十秒ちょい」
「ちょいを消せ」
「十秒」
「緊急放棄」
「二秒」
「なら、退避命令が出たら固定解除を待つな」
アクトはガウスを見る。
「状況による」
「今決めろ」
「状況による」
二人の視線がぶつかった。
小鴉は数秒黙った。
「……分かった。放棄判断はお前に残す。ただし十秒を使うなら、その十秒で死ぬ可能性もお前が持て」
「最初からそのつもりや」
黒曜が低く言う。
「私は納得していません」
「黒曜」
「何ですか」
「まだ撃つとも決まってへん」
「だから今言っています」
「はい」
「返事だけは良いですね」
「怒っとる?」
「まだです」
「まだなんや」
「まだです」
理香子が割り込んだ。
「固定射撃を行う場合、主退避路までの移動時間は現状で四十一秒。第二退避路は使用不可。施設側が扉を一枚閉鎖した場合、最大十九秒増加します」
「了解」
「床搬送が逆転した場合、さらに――」
「理香子」
「はい」
「全部覚えた。必要な時に更新して」
「……了解」
アクトは白い脚で床を一度踏んだ。
硬い。
返ってくる。
自分の足裏へ。
「帰るで」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
黒曜が答える。
「当然です」
理香子も。
「退避計画に含まれています」
小鴉は少し遅れて言った。
「なら予定通り動け」
「はいはい」
「一回」
「はい」
*
旧統合試験区画まで、残り百八十メートル。
そこで施設の様子が変わった。
音が消えた。
空調。
換気。
遠くで回っていたポンプ。
全部。
一斉停止ではない。
手前から奥へ。
順番に。
アクトたちのいる場所へ向かって、静寂が走ってくる。
「来る」
理香子が言った。
十メートル先の換気音が止まる。
五メートル。
頭上。
止まった。
完全な無音。
アクトは小銃を上げる。
黒曜は防壁を張らない。
張らないまま、指だけがわずかに動いた。
小鴉が左へ散開を指示。
三人はいつもの方向へ動きかけた。
アクトが止まる。
黒曜も。
理香子も。
一瞬だけ、身体が知っている並びへ戻ろうとした。
「……これか」
アクトが呟く。
「何ですか」
「癖」
小鴉の声。
『アクト、右。黒曜、その場。理香子は下がれ』
従う。
気持ちが悪い。
アクトだけが右へ出る。
背中に防壁はない。
黒曜は動かない。
理香子は後ろへ下がる。
何も起きない。
五秒。
十秒。
「読まれてる?」
黒曜。
「確認できません」
理香子。
「でも」
「でも?」
「今、設備側の予測処理が一度走りました」
アクトが笑わずに言う。
「外した?」
「可能性があります」
小鴉が前を向く。
「なら続ける」
その瞬間だった。
施設全体の照明が落ちた。
非常灯も。 誘導灯も。 端末の壁面表示も。
全部。
暗視表示だけが残る。
「理香子」
「こちらではありません」
「電源断?」
「違います。照明系統だけです」
「向こうから?」
「はい」
暗闇が、完成した。
誰も動かない。
アクトの耳が拾う。
自分たちの呼吸。 装備の微かな駆動音。 理香子の端末ファン。
黒曜の衣擦れ。
それ以外。
何もない。
十秒。
二十秒。
小鴉が手を上げたまま動かない。
アクトは小銃の照準を通路奥へ置く。
暗視には何も映らない。
だが、床が。
ほんの少しだけ。
震えた。
どん。
一度。
遠い。
重い。
機械の落下音ではない。
規則正しく回る設備音でもない。
足音だった。
理香子の端末に振動値が出る。
アクトは見なくても分かった。
あの質量。
第二クールで、一度知っている。
次の足音は来なかった。
一度だけ。
暗闇の奥で、立ち止まったように。
アクトは銃口を下げない。
「……おるやん」
誰も返事をしない。
存在しない施設の、存在しない通路の奥で。
巨大な何かが、こちらを待っていた。