アクトと黒曜   作:矢塚 和哉

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CROW SYSTEM / ENVIRONMENTAL STRESS TEST

JOINT SURVIVAL BEHAVIOR: CONFIRMED
SUBJECT A PROTECTIVE BIAS: ELEVATED
SUBJECT B RELIANCE ON SUBJECT A: UNACKNOWLEDGED
PHYSICAL DISTANCE: DECREASING
RELATIONSHIP MODEL CONFIDENCE: 21.4%

CROWシステム/環境負荷試験

共同生存行動:確認
対象Aの保護傾向:上昇
対象Bの対象Aへの依存:未認識
物理的距離:減少中
関係性モデル信頼度:21.4パーセント



灰色の箱庭

雨は降っていなかった。

 

だが、空から降りてくるものが何もないというだけで、シアトルの夜が乾いているわけではない。

 

港湾地区を覆う霧は、海水と排気ガスと工業廃棄物の臭いを含み、街灯の光を薄黄色く濁らせていた。道路脇に積まれたコンテナは巨大な墓標のように並び、その隙間を走る無人搬送車の警告灯だけが、一定の間隔で暗闇を横切っている。

 

アクトトゥルスは、閉鎖された倉庫の屋根に腹ばいになっていた。

 

赤い野球帽は脱いでいる。

 

帽子の代わりに、金髪を黒い布でまとめ、頭部の輪郭をできるだけ小さく見せていた。機械式のウサ耳センサーモジュールも外し、ジャケットの内側へ収納している。

 

あの耳は便利だったが、潜入任務で目立たないとは言い難い。

 

隣に伏せる魔法使いも、今夜は巨大な三角帽子をかぶっていなかった。

 

代わりに黒いフードを深くかぶり、いつもの儀礼用ローブの上から、濃灰色のレインコートを羽織っている。

 

アクトは双眼機能を拡大し、道路の向こうにある施設を観察した。

 

高さ四メートルほどの灰色の外壁。

 

四隅には監視カメラ。

 

正門には簡易警備棟。

 

塀の内側には三階建ての管理棟と、窓のない低い保管庫がある。

 

看板には《セラフィム環境技術研究所》と書かれていた。

 

表向きは、汚染土壌の浄化技術を研究する民間企業。

 

依頼人の説明によれば、実際には複数の企業から請け負った廃棄物を調査し、再利用可能な軍事技術やバイオ素材を抜き出す施設らしい。

 

今夜の目的は、管理棟三階に保管された研究主任の端末を複製すること。

 

端末そのものを盗む必要はない。

 

内部データを複製し、何事もなかったように戻す。

 

殺人は避ける。

 

破壊も避ける。

 

警報も避ける。

 

依頼人は、三度繰り返した。

 

静かな仕事だ。

 

アクトは、静かな仕事ほど信用していなかった。

 

「正門、二人」

 

通信回線へ小声で送る。

 

「警備棟に一人。外に一人。外周巡回が一人、西側へ移動中」

 

隣の魔法使いは、施設を肉眼で眺めていた。

 

「アストラル上では、建物内部に覚醒者が一名います」

 

「警備の魔法使いか」

 

「おそらく。階級や所属までは確認できません」

 

「精霊は?」

 

「今のところ見えません」

 

「今のところ、な」

 

アクトは小銃の照準を下げた。

 

今夜持ってきたのは、短銃身化したアサルトライフルだった。消音器を装着し、通常弾とゲル弾を詰めた弾倉を分けている。

 

撃たないのが最善。

 

撃つなら、できるだけ殺さない。

 

だが、生き残るためなら弾種を選ぶつもりはなかった。

 

魔法使いがアクトを見る。

 

「何です」

 

「別に」

 

「視線を感じました」

 

「自分、ほんまに帽子置いてきたんやな思て」

 

「任務内容を考慮した結果です」

 

「前は象徴性がどうとか言うてへんかったか」

 

「象徴は形態を固定されるものではありません」

 

「便利な理屈やな」

 

「あなたも、目立つ機械耳を外しているでしょう」

 

「これは装備や」

 

「私の帽子も装備です」

 

「ほな前にそう言うたとき否定すんなや」

 

魔法使いは答えなかった。

 

アクトは小さく笑う。

 

その直後、警告表示が視界の端に浮かんだ。

 

左方向。

 

約二百メートル。

 

接近する車両。

 

二人は同時に身を低くした。

 

黒いバンが一台、倉庫街の道をゆっくり進んでくる。施設の前を通過し、そのまま港の奥へ消えていった。

 

アクトは息を吐いた。

 

「予定どおり、西壁から入る」

 

「外周センサーは?」

 

「デッカーが三分だけ穴開ける。二十三時十四分から十七分まで」

 

現在時刻は二十三時十二分。

 

屋根を降り、西側の排水路を通るには十分だった。

 

アクトは立ち上がる。

 

その際、魔法使いがレインコートの裾を踏み、身体を僅かに傾けた。

 

アクトの銀色の手が、反射的に彼女の腕を掴む。

 

魔法使いはすぐに姿勢を戻した。

 

「不要です」

 

「転ぶ前に言いや」

 

「転倒していません」

 

「転びかけたやろ」

 

「重心移動です」

 

「屋根から落ちる方向への?」

 

「予定された移動ではありませんでした」

 

「それを転びかけた言うねん」

 

アクトは手を離し、屋根の端へ向かった。

 

魔法使いは何も言わず、その後へ続く。

 

倉庫の裏側には、錆びた非常階段があった。

 

アクトが先に降りる。

 

銀色の指で手すりを掴むたび、金属が小さく軋んだ。

 

地上へ下りると、魔法使いも音を立てず着地した。

 

ローブとレインコートという、どう考えても潜入には向かない服装のわりに、動きは軽い。

 

「自分、その服でよう動けるな」

 

「術式行使を妨げないよう設計されています」

 

「雨具の下にローブ着とる時点で大概やけどな」

 

「防護衣を兼ねています」

 

「ほんまか?」

 

「精神的な意味で」

 

「防弾性能ゼロやん」

 

「弾丸に当たらなければ問題ありません」

 

「次それ言うたら前歩かせるぞ」

 

二人はコンテナの陰を移動した。

 

西側の外壁までは百メートル。

 

途中に照明は少ないが、無人搬送車の走行路を横切る必要がある。

 

アクトの視界には、各種センサーが拾った情報が重ねて表示されていた。

 

熱源。

 

移動物体。

 

音源。

 

電波反応。

 

だが、それでも完全ではない。

 

サイバーアイの熱映像は、コンテナ内部までは見通せない。

 

音響センサーは、港全体の機械音に埋もれた人間の足音を見落とす可能性がある。

 

すべてを機械へ置き換えても、世界が完全に見えるようになるわけではない。

 

見える範囲が増えるだけだ。

 

見えないものが、より明確になるだけだ。

 

排水路の手前で、アクトが拳を上げた。

 

魔法使いが止まる。

 

前方の道路を無人搬送車が横切る。

 

車体には巨大な化学薬品タンクが載せられ、側面に腐食警告のホログラムが明滅していた。

 

通過を待ち、二人は走った。

 

アクトは速い。

 

小柄な身体と強化された脚部が、ほとんど音を立てず地面を蹴る。

 

魔法使いも遅れない。

 

西壁へ到達したのは、二十三時十三分五十二秒。

 

予定より八秒早い。

 

壁際には排水溝があり、鉄格子がはめ込まれていた。

 

アクトがしゃがみ込み、工具を取り出す。

 

通信回線に短い電子音が鳴った。

 

デッカーからの合図。

 

監視系統への介入開始。

 

「三分」

 

アクトが言う。

 

「分かっています」

 

鉄格子には電子錠も警報装置もない。

 

ただし、ボルトが完全に錆びついていた。

 

アクトはレンチをかけ、ゆっくり回す。

 

動かない。

 

力を強めると、金属が低く鳴った。

 

「固いな」

 

「切断しますか」

 

「音出る」

 

「腐食させることは可能です」

 

「魔法で?」

 

「物質変成ではありません。局所的な――」

 

「時間かかる?」

 

「四十秒ほど」

 

「長い」

 

アクトは工具を戻した。

 

代わりに、銀色の人差し指をボルトの根元へかける。

 

左手で鉄格子を押さえ、右腕へゆっくり力を込めた。

 

強化された人工筋肉が収縮する。

 

錆びた金属が微かに悲鳴を上げた。

 

「音が出ています」

 

「分かっとる」

 

「警備員が接近した場合は?」

 

「自分が何とかして」

 

「曖昧な指示です」

 

「応援しといて」

 

「非生産的です」

 

ボルトが一本、根元から折れた。

 

アクトは残る三本も順番に折った。

 

鉄格子を外し、地面へ静かに置く。

 

「四十一秒」

 

魔法使いが言う。

 

「自分の魔法と一秒しか変わらんかったな」

 

「私の方法なら無音でした」

 

「先に言えや」

 

「言いました」

 

二人は狭い排水路へ入った。

 

先頭はアクト。

 

幅は一メートルもない。

 

水は足首ほどまで溜まり、油の膜が虹色に光っている。

 

臭気分析機能が警告を表示したため、アクトは嗅覚フィルターを強めた。

 

魔法使いは何も装着していない。

 

「臭ないんか」

 

「不快ですが、耐えられます」

 

「魔法で消せへんの」

 

「幻影で臭いを上書きすることは可能です」

 

「ほなやったらええやん」

 

「嗅覚は危険物質の検知に必要です」

 

「真面目やなあ」

 

「当然です」

 

「酒の味にはうるさいくせに」

 

「関係ありません」

 

排水路は施設の西壁の下を抜け、敷地内の処理槽へ続いている。

 

途中に鉄柵があるはずだった。

 

だが、情報どおり、下部が腐食して外れていた。

 

アクトが隙間を通り抜け、次に魔法使いが身をかがめる。

 

ローブの裾が鉄柵へ引っかかった。

 

「止まって」

 

アクトが囁く。

 

魔法使いが静止した。

 

アクトは戻り、布を金属片から外す。

 

「やっぱその服、潜入向いてへんやろ」

 

「損傷はありません」

 

「そういう問題ちゃう」

 

「任務終了後に検討します」

 

「前向きやん」

 

「改善を約束したわけではありません」

 

「一瞬見直したあたしがアホやった」

 

排水路の出口には、小さな貯水槽があった。

 

二人は梯子を上り、蓋の下で止まる。

 

アクトが音響センサーを最大感度へ上げた。

 

足音はない。

 

機械音。

 

遠くの話し声。

 

建物の空調。

 

無線通信。

 

蓋を数センチだけ持ち上げ、外を見る。

 

薄暗い施設裏。

 

三十メートル先に管理棟。

 

左に保管庫。

 

右に廃棄物処理設備。

 

巡回警備員は見えない。

 

時刻は二十三時十五分三十六秒。

 

監視の穴が閉じるまで、残り一分二十四秒。

 

二人は外へ出た。

 

アクトが蓋を戻す。

 

管理棟の裏口へ走る。

 

ドアの電子錠は、デッカーがすでに解除していた。

 

開ける。

 

中は清掃用具の保管室。

 

二人が入り、扉を閉めた直後、通信回線に電子音が鳴った。

 

監視系統が復旧した。

 

「ぎりぎりやな」

 

「予定内です」

 

「あと十秒遅れてたら映っとったぞ」

 

「遅れていません」

 

「結果だけ見たらな」

 

アクトは保管室の内部を確認した。

 

モップ。

 

洗剤。

 

業務用清掃ドローン。

 

作業服。

 

壁のフックには、職員用の薄灰色のコートが二着掛かっている。

 

アクトは一着を取った。

 

子供用に見えるほど袖が余る。

 

「でかい」

 

「あなたが小さいのです」

 

「知っとるわ」

 

袖を折り、ジャケットとサイバーアームを隠す。

 

左腿のホルスターはコートの内側に収まったが、小銃は隠せない。

 

アクトは折り畳んで背中へ固定し、上からコートを被せた。

 

多少不自然だが、暗い廊下ならごまかせる。

 

魔法使いもレインコートを脱ぎ、灰色の作業服をローブの上へ羽織った。

 

前が閉まらない。

 

「無理あるやろ」

 

「照明条件を考えれば問題ありません」

 

「腹んとこ、金糸見えとるで」

 

「幻影で補正します」

 

魔法使いが短い言葉を唱えた。

 

彼女の輪郭が僅かに揺らぐ。

 

黒いローブも金糸も消え、地味な作業服姿へ変わった。

 

顔も少し変わっている。

 

頬がふっくらし、年齢が五歳ほど上に見えた。

 

「便利やな」

 

「あなたにも施しますか」

 

「動いたら崩れへん?」

 

「この程度なら問題ありません」

 

「ほな頼む」

 

魔法使いが指を動かす。

 

アクトの視界には何も変化がない。

 

自分自身には術式の外観が見えにくいらしい。

 

魔法使いが小型ミラーを取り出す。

 

そこには、茶色い短髪の若い作業員が映っていた。

 

赤い眼鏡も金髪もない。

 

銀色の腕も、人肌色の作業用義手に見える。

 

「帽子ないと、誰か分からへんな」

 

「それが目的です」

 

「胸、盛ってへん?」

 

「平均的な体格に補正しました」

 

「余計なことすんなや」

 

「あなたの実体そのままでは、未成年と判断される可能性があります」

 

「十九や」

 

「施設の職員には見えません」

 

「そこは否定できへんな」

 

二人は保管室を出た。

 

廊下は白く、無機質だった。

 

壁には環境保全を訴える企業広告が並び、浄化された森や川の映像が流れている。

 

その下を、廃棄物処理施設特有の低い振動が伝わっていた。

 

目的地は三階。

 

エレベーターは使用しない。

 

階段へ向かう。

 

角を曲がる前に、アクトが止まった。

 

足音。

 

二人。

 

接近中。

 

アクトは魔法使いへ視線を送る。

 

彼女は頷いた。

 

二人はそのまま歩いた。

 

向こうから現れたのは、白衣を着た研究員の男女だった。

 

女が端末を見ながら話している。

 

「試料七番の反応値、やっぱりおかしいわ」

 

「主任に上げた?」

 

「今朝。返事なし」

 

「また?」

 

二人はアクトたちへ一瞬視線を向けた。

 

アクトは軽く頭を下げる。

 

「お疲れさまです」

 

魔法使いも続ける。

 

「お疲れさまです」

 

研究員たちはそのまま通り過ぎた。

 

角を曲がり、足音が遠ざかる。

 

アクトが小声で言う。

 

「自分、挨拶できるんやな」

 

「当然です」

 

「もっと不自然になる思た」

 

「あなたは私を何だと思っているのです」

 

「三角帽子で正面玄関入る女」

 

「過去の一件を一般化しないでください」

 

階段を上る。

 

二階。

 

三階。

 

途中、監視カメラが二台。

 

デッカーは映像を消していない。

 

代わりに、侵入者の姿を職員として登録した偽映像へ置き換えている。

 

完全な掌握ではないため、時間をかければ異常を検出される。

 

目的の部屋は、三階東端。

 

研究主任室。

 

廊下の突き当たりには、ガラス張りの休憩スペースがあり、夜勤職員が二人座っていた。

 

主任室へ行くには、その前を通らなければならない。

 

アクトは歩調を緩める。

 

片方の職員が顔を上げた。

 

「清掃、今日だっけ?」

 

アクトは答える前に、魔法使いを見た。

 

彼女は平然としている。

 

「臨時です」

 

「こんな時間に?」

 

「二階で溶媒が漏れたため、空調系統を点検しています」

 

職員は眉を寄せた。

 

「聞いてないけど」

 

「連絡系統に不備があるのでしょう」

 

いつもの魔法使いそのままの口調だった。

 

ただし、職員には単に愛想の悪い作業員として聞こえたらしい。

 

「担当部署は?」

 

「第三設備管理部門です」

 

そんな部署が存在するのか、アクトは知らない。

 

職員が端末へ手を伸ばした。

 

「確認するよ」

 

魔法使いが僅かに指を動かした。

 

休憩スペースの奥で、警告音が鳴った。

 

コーヒーメーカーから白い煙が上がる。

 

「うわ」

 

二人の職員が振り返る。

 

一人が慌てて電源を切り、もう一人が消火器を取る。

 

アクトたちは、その横を自然な歩調で通り過ぎた。

 

主任室の前へ到着する。

 

「今の何や」

 

「小規模な幻影です」

 

「煙だけ?」

 

「警告音も含みます」

 

「機械壊したんちゃうんやな」

 

「破壊は依頼条件に反します」

 

「律儀やな」

 

主任室の扉には、生体認証とカードリーダーがある。

 

デッカーから受け取った偽造キーを接続する。

 

認証ランプが黄色く点滅した。

 

五秒。

 

十秒。

 

赤。

 

失敗。

 

「一回目あかん」

 

通信回線でデッカーへ報告する。

 

返事は雑音混じりだった。

 

『待て。認証方式が変わってる』

 

「聞いてへんで」

 

『俺もだよ。二分くれ』

 

アクトは廊下を見る。

 

休憩スペースでは、まだコーヒーメーカー騒ぎが続いている。

 

「二分は長い」

 

『知ってる。文句は管理者に言え』

 

「警備側が反応する可能性は?」

 

『ある』

 

「どのくらい」

 

『五分以内なら三割。十分快適とは言えない』

 

「快適さ求めてへんわ」

 

通信を切る。

 

魔法使いが扉を見る。

 

「物理的に侵入しますか」

 

「痕跡残る」

 

「記憶操作で主任本人を呼ぶ方法もあります」

 

「どこにおるか分からんやろ」

 

「アストラル上で探索できます」

 

「時間かかる?」

 

「建物内なら数分」

 

「却下」

 

アクトは扉の横に立った。

 

二分待つ。

 

ただ待つだけの時間は、銃撃戦より長く感じる。

 

廊下の照明。

 

空調音。

 

遠くの声。

 

自分の人工心肺ではない、生身の心臓が胸の奥で脈打つ。

 

アクトは視界の表示を切り替えた。

 

熱源検知。

 

電波解析。

 

音響。

 

床の振動。

 

情報が増える。

 

だが、安心は増えない。

 

魔法使いが小声で言った。

 

「緊張していますか」

 

「しとらん」

 

「心拍数が上昇しています」

 

「自分、そんなん分かるんか」

 

「呼吸音で」

 

「聞くなや」

 

「聞こえるだけです」

 

「自分は緊張せえへんの」

 

「必要ありません」

 

「撃たれたら?」

 

「障壁を展開します」

 

「間に合わんかったら?」

 

「あなたが撃つでしょう」

 

アクトは魔法使いを見る。

 

彼女は主任室の扉を見たままだった。

 

「信用しとるんか」

 

「役割分担です」

 

「便利な言葉やな」

 

「事実です」

 

認証ランプが緑へ変わった。

 

扉が開く。

 

『開けた。三分でコピーしろ』

 

「了解」

 

二人は室内へ入った。

 

主任室は広くなかった。

 

机。

 

本棚。

 

壁面ディスプレイ。

 

窓の外には、保管庫の屋根と海が見える。

 

机の端末はスリープ状態だった。

 

アクトが扉を閉め、魔法使いが窓側を確認する。

 

端末へ複製装置を接続。

 

進行率が表示される。

 

一パーセント。

 

二パーセント。

 

遅い。

 

「三分で終わるんか、これ」

 

『データ量が想定の四倍ある』

 

「必要分だけ抜けへんの」

 

『暗号化されてる。丸ごと持って帰って後で選別する』

 

「警報は?」

 

『まだなし』

 

魔法使いが本棚の前で立ち止まっていた。

 

「何しとる」

 

「これを」

 

彼女が一冊の紙の本を引き出す。

 

今どき珍しい、物理媒体だ。

 

表紙にはタイトルがない。

 

開くと、手書きの記録が並んでいる。

 

「研究日誌か?」

 

「術式記号があります」

 

「魔法研究?」

 

「それだけではありません」

 

魔法使いの顔から、いつもの僅かな尊大さが消えていた。

 

ページには円形の図形と、人体を模した線画。

 

脊髄。

 

神経。

 

脳。

 

その周囲に記されたマナの流れ。

 

アクトには詳しい意味までは分からない。

 

だが、普通の環境技術研究ではないことだけは分かった。

 

「依頼の対象に入っとる?」

 

「不明です」

 

「持ってく?」

 

魔法使いは一瞬迷った。

 

「複製します」

 

彼女は端末を取り出し、ページを撮影し始めた。

 

進行率、三十五パーセント。

 

廊下から足音が聞こえた。

 

一人。

 

こちらへ向かっている。

 

「来るで」

 

魔法使いが本を戻す。

 

アクトは扉の横へ移動し、拳銃へ手を添えた。

 

足音が止まる。

 

ドアノブが動いた。

 

鍵がかかっている。

 

外から男の声。

 

「主任?」

 

返事はしない。

 

「主任、いますか」

 

端末の進行率は四十二パーセント。

 

男がカードをかざす音。

 

電子錠が反応する。

 

アクトが魔法使いを見る。

 

魔法使いは指を唇へ当て、静かに呪文を唱えた。

 

扉の外で、別の声がした。

 

「主任なら一階へ下りたよ」

 

「え?」

 

「さっきエレベーターで」

 

「そうか。ありがとう」

 

足音が遠ざかる。

 

アクトは拳銃から手を離した。

 

「今の、誰の声や」

 

「先ほど休憩スペースにいた職員です」

 

「声まで覚えたんか」

 

「音声模倣は基礎です」

 

「こわ」

 

「あなたの銃より平和的です」

 

「それはそう」

 

進行率、六十パーセント。

 

アクトは窓へ近づいた。

 

外周巡回の警備員が一人、管理棟の方向へ歩いている。

 

通常の巡回か。

 

何かに気づいたのか。

 

「外の警備、こっち来る」

 

『予定ルートだ。問題ない』

 

「ほんまやろな」

 

『今度は正しい』

 

「今度は、言うな」

 

七十パーセント。

 

魔法使いが再び本棚を見る。

 

「気になりますか」

 

アクトが聞く。

 

「何がです」

 

「さっきの本」

 

「興味深い内容でした」

 

「どういう研究や」

 

「生体の神経系と、アストラル知覚を人工的に接続する試みです」

 

「それ、できるんか?」

 

「通常は不可能です。覚醒していない者へ、単純な処置で魔法知覚を与えることはできません」

 

「通常は?」

 

「彼らは、例外を作ろうとしている」

 

魔法使いの声が低くなる。

 

「成功しとると思う?」

 

「不明です」

 

「してたら?」

 

「危険です」

 

「便利そうやけどな」

 

「見るべきでないものを見ることになります」

 

「アストラル界を?」

 

「それだけではありません」

 

魔法使いは窓の外を見た。

 

「知覚とは、単に情報を受け取ることではありません。何を現実と判断するかを決める行為です。生身の脳へ、処理できない情報を強制的に流し込めば、人格そのものが崩壊する可能性があります」

 

アクトは自分の右手を見た。

 

銀色の指。

 

人工触覚。

 

圧力。

 

温度。

 

振動。

 

生身ではない感覚が、神経を通じて脳へ送られている。

 

「サイバーウェアと何が違うんや」

 

「あなたの感覚器は、物理世界の情報を機械的に変換しています」

 

「魔法は違う?」

 

「アストラル知覚は、物理世界の延長ではありません」

 

「よう分からんな」

 

「分からないままでよいこともあります」

 

「自分らしない言い方やな」

 

魔法使いは答えなかった。

 

進行率、九十一パーセント。

 

そのとき、通信回線に鋭い警告音が鳴った。

 

『まずい。管理系統に逆探知が入った』

 

「警報?」

 

『まだだ。だが、三十秒で接続を切れ』

 

進行率、九十三。

 

「間に合わん」

 

『九十八まで行けば復元できる。待て』

 

廊下の照明が一度消えた。

 

すぐ復旧する。

 

魔法使いが顔を上げた。

 

「アストラル反応」

 

「どこ」

 

「下です。接近しています」

 

施設内の覚醒者。

 

警備魔法使い。

 

進行率、九十五。

 

扉の外から、足音。

 

今度は複数。

 

走っている。

 

「ばれたな」

 

『接続切れ!』

 

九十六。

 

「まだや」

 

『切れ!』

 

九十七。

 

扉の向こうで声がする。

 

「三階東端。反応あり」

 

九十八。

 

アクトは複製装置を引き抜いた。

 

「取れた!」

 

『撤収しろ!』

 

警報が鳴った。

 

赤い照明が廊下を染める。

 

アクトは複製装置をポーチへ押し込み、小銃を展開する。

 

魔法使いはレインコートを脱ぎ捨てた。

 

灰色の作業服に見せていた幻影が崩れ、黒いローブと金糸の模様が現れる。

 

「戦闘は避けるで」

 

「同意します」

 

「ほんまに?」

 

「可能な限り」

 

扉の外には少なくとも四人。

 

さらに階段側から増援。

 

正面から突破すれば戦闘になる。

 

窓の外は三階。

 

下には保管庫の屋根があり、距離は五メートルほど。

 

アクトが窓を開けようとする。

 

ロックされている。

 

「割る?」

 

「破壊は避けるのでは?」

 

「今それ言う?」

 

魔法使いが杖を窓へ向けた。

 

紫水晶が光る。

 

ガラス表面が揺らぎ、何もない空間へ変わった。

 

アクトが手を伸ばす。

 

触れる。

 

ガラスはある。

 

「見えんだけやん」

 

「存在を消したわけではありません」

 

「意味ないやろ!」

 

「警備側から室内が見えなくなりました」

 

「そういうことかい」

 

扉が外から叩かれる。

 

「セキュリティだ! 扉を開けろ!」

 

アクトは窓枠を調べる。

 

強化ガラス。

 

通常弾では時間がかかる。

 

「障壁で受けられる?」

 

「短時間なら」

 

「窓割る。自分は扉押さえて」

 

「了解」

 

アクトは小銃の弾倉を通常弾へ交換した。

 

銃口を窓の角へ向ける。

 

三発。

 

四発。

 

消音器を通しても、室内では重い音が響いた。

 

ガラスに白い亀裂が走る。

 

扉が開いた。

 

電子錠を外されたらしい。

 

隙間から警備員が銃を向ける。

 

魔法使いが杖を振った。

 

空間が歪む。

 

扉の向こうにいた警備員たちが、同時に動きを止めた。

 

廊下が崩れたわけではない。

 

床が裂けたわけでもない。

 

だが、彼らにはそう見えた。

 

壁が左右へ傾き、天井が回転し、人影が何重にも増殖する。

 

赤い警告灯が長い光の線となって流れ、銃声と足音があらゆる方向から響く。

 

《混沌界》。

 

魔法は主任室の入口から廊下一帯へ広がった。

 

先頭の警備員が壁へ手をつく。

 

後ろの一人が膝をついた。

 

だが、全員が無力化されたわけではない。

 

一人が目を閉じ、壁沿いへ進もうとする。

 

別の一人は混乱したまま引き金を引いた。

 

弾丸が室内へ飛び込む。

 

アクトは机の陰へ身を伏せた。

 

壁面ディスプレイが砕ける。

 

「避けるいうたやろ!」

 

「彼らが射撃したのです!」

 

「その前に混乱させたん自分や!」

 

「戦闘回避のためです!」

 

「始まっとるやんけ!」

 

窓へさらに三発。

 

亀裂が広がる。

 

アクトは小銃を背負い、銀色の踵でガラスを蹴った。

 

一度。

 

二度。

 

三度目で、窓全体が外へ崩れた。

 

破片が保管庫の屋根へ降り注ぐ。

 

背後で銃声。

 

魔法使いの障壁が青白く光り、弾丸を弾いた。

 

「先行して!」

 

「自分は?」

 

「維持しながら移動します!」

 

アクトは窓枠を越えた。

 

五メートル下。

 

保管庫の屋根。

 

普通の人間なら、骨折してもおかしくない高さ。

 

アクトは躊躇せず飛び降りた。

 

着地。

 

両脚の衝撃吸収機構が作動する。

 

屋根が低く鳴った。

 

膝をつく。

 

平衡強化器が姿勢の傾きを補正し、身体を即座に安定させる。

 

見上げる。

 

魔法使いが窓枠に立っていた。

 

ローブの裾が夜風にはためく。

 

「飛べ!」

 

「命令しないでください!」

 

「ほなそこで撃たれとけ!」

 

魔法使いが飛んだ。

 

正確には、落下した。

 

アクトは両腕を広げる。

 

黒い塊が降ってくる。

 

受け止めた瞬間、強い衝撃が肩と背中を抜けた。

 

強化された脚部が屋根を滑る。

 

だが、倒れない。

 

平衡強化器が傾きを補正し、足裏が屋根を捉える。

 

アクトは魔法使いを抱えたまま、数歩後退して止まった。

 

「重っ」

 

「失礼です」

 

「軽い言うたら嘘になる高さや!」

 

「下ろしてください」

 

アクトは魔法使いを屋根へ立たせる。

 

彼女の顔は白い。

 

「ドレイン来とる?」

 

「軽微です」

 

「また顔色悪いぞ」

 

「照明の影響です」

 

「夜やぞ」

 

主任室の窓から警備員が顔を出した。

 

アクトは小銃を構える。

 

今度はゲル弾。

 

二発。

 

一発目が窓枠へ当たり、二発目が警備員の胸へ命中した。

 

男は後ろへ倒れた。

 

殺してはいない。

 

だが、立ち上がるまで時間はかかる。

 

「一回だけや言うたから、これで終わりや」

 

「誰に言っているのです」

 

「気にすんな」

 

保管庫の屋根から地上までは四メートル。

 

端には保守用の梯子がある。

 

二人は走る。

 

後方では《混沌界》の効果が薄れ始めている。

 

魔法使いが術式の維持を切ったのだろう。

 

追手が窓から射撃してくる。

 

しかし距離があり、暗く、アクトたちはすでに屋根の縁へ到達していた。

 

アクトが先に梯子を滑り降りる。

 

魔法使いが続く。

 

地上へ着いた瞬間、施設全体の投光器が点灯した。

 

白い光が敷地を照らす。

 

「見つかる」

 

「分かっています」

 

「何とかできる?」

 

「範囲が広すぎます」

 

「煙は?」

 

「用意していません」

 

「自分、何でも魔法でできるんちゃうん」

 

「魔法は万能ではありません!」

 

「今さら認めたな!」

 

アクトはポーチから煙幕手榴弾を取り出した。

 

ピンを抜き、処理設備と管理棟の間へ投げる。

 

白い煙が広がる。

 

「物理は便利やろ」

 

「視界を遮るだけです」

 

「それで十分や」

 

二人は煙へ入った。

 

アクトのサイバーアイは熱映像へ切り替わる。

 

魔法使いの身体が白く浮かぶ。

 

だが、煙の中へ警備用ドローンが二機入ってきた。

 

熱源は小さい。

 

プロペラ音。

 

アクトは一機の位置を特定し、小銃を向ける。

 

「撃つな」

 

魔法使いが言う。

 

「何で」

 

「音で位置を知られます」

 

「もう警報鳴っとるわ」

 

「こちらへ」

 

魔法使いがアクトの手首を掴んだ。

 

煙の中で方向を変える。

 

「出口そっちちゃう」

 

「追手の認識をずらします」

 

「幻影?」

 

「はい」

 

アクトの視界では何も変わらない。

 

だが、煙の外側では、二人の偽像が西の排水路へ向かって走っているはずだ。

 

ドローンの音が偽像の方向へ離れていく。

 

「便利やな」

 

「先ほども言いました」

 

「でもこれ、カメラには効くん?」

 

「物理幻影です。光学系には」

 

「熱は?」

 

魔法使いが僅かに黙る。

 

「通常の光学映像ほど確実ではありません」

 

「穴あるやん」

 

「あなたの煙幕にもあります」

 

「せやから走るで」

 

二人は処理設備の影へ入った。

 

予定していた排水路は、すでに警備側が封鎖しつつある。

 

正門も無理。

 

残る撤収経路は北側の資材搬入口。

 

だが、そこには車両用ゲートと警備員がいる。

 

戦闘を避けるなら、別の手段が必要だった。

 

アクトが施設図を表示する。

 

北東角。

 

廃棄物搬送用のコンベア。

 

施設外の集積場へ続いている。

 

「これ使う」

 

魔法使いが図を見る。

 

「稼働中です」

 

「止めたら警報増える」

 

「すでに鳴っています」

 

「せやけど止めん。流れに乗る」

 

「廃棄物と一緒に?」

 

「嫌なら正門から帰る?」

 

「……行きましょう」

 

二人は処理設備の間を走った。

 

警備員の声が近づく。

 

銃声はない。

 

相手もこちらの位置を見失っている。

 

コンベア設備は、幅二メートルほど。

 

黒いゴム製のベルトが、金属片と袋詰めされた廃棄物を施設外へ運んでいる。

 

周囲には腐食臭が漂っていた。

 

アクトがセンサーで内容物を確認する。

 

重金属。

 

有機溶剤。

 

医療廃棄物。

 

「乗るで」

 

「安全性に重大な問題があります」

 

「今さらやろ」

 

アクトがコンベアへ飛び乗る。

 

足場は動いている。

 

平衡強化器が速度差を補正し、身体を安定させる。

 

魔法使いも続いた。

 

着地した瞬間、足を滑らせる。

 

アクトが腕を掴む。

 

「また重心移動か?」

 

「ベルトの速度が想定以上でした」

 

「それを滑った言うねん」

 

二人は廃棄物の袋の陰へしゃがむ。

 

コンベアは低いトンネルへ入った。

 

頭上すれすれ。

 

照明はなく、機械音だけが響く。

 

アクトは暗視へ切り替えた。

 

魔法使いの姿が淡い緑色に見える。

 

「この先、検査ゲートある」

 

「魔法的なものですか」

 

「物理センサー。重量と放射線、化学物質」

 

「私たちは廃棄物ではありません」

 

「機械には分からんやろ」

 

「重量で異常が出ます」

 

「二人で百キロちょい増えるくらいや」

 

魔法使いがアクトを見る。

 

「私はそれほど重くありません」

 

「自分の分、五十くらいやろ」

 

「あなたは?」

 

「装備込みで八十」

 

「小柄なわりに重いですね」

 

「機械やからな」

 

アクトは自分の腕を軽く叩いた。

 

金属音はしない。

 

内部には衝撃吸収材と人工筋肉が詰まっている。

 

「気にするか?」

 

「何をです」

 

「前に、置換範囲が過剰や言うとったやろ」

 

「現在も考えは変わっていません」

 

「ほな重いとか言うなや」

 

「重量は事実です」

 

「ほんま便利な言葉やな」

 

コンベアの先に赤い光が見えた。

 

検査ゲート。

 

左右にセンサー柱。

 

アクトは周囲を見る。

 

大型の廃棄物袋が一つ。

 

中身は、切断された樹脂パイプと防護服。

 

「これ使う」

 

袋を引き寄せる。

 

口を開き、中身を少し外へ出す。

 

「入るで」

 

「二人で?」

 

「自分、細いやろ」

 

「あなたほどではありません」

 

「胸盛った幻影もう切れとるから大丈夫や」

 

「その話を続けるなら、ここへ置いていきます」

 

「冗談や」

 

二人は袋へ入った。

 

狭い。

 

アクトが先に身体を丸め、その上へ魔法使いが重なる。

 

ローブが顔へかかる。

 

「息苦しい」

 

「我慢してください」

 

「自分の杖、脇腹刺さっとる」

 

「動かす空間がありません」

 

「痛いねん」

 

「あなたの脇腹は生身でしょう」

 

「せやから痛い言うとる!」

 

「静かに」

 

袋の口を内側から閉じる。

 

暗闇。

 

コンベアの振動。

 

互いの呼吸。

 

魔法使いの体温。

 

金属と薬品の臭い。

 

検査ゲートを通過する。

 

機械音が変わる。

 

重量測定。

 

放射線検査。

 

化学分析。

 

警告は鳴らない。

 

「通った?」

 

アクトが囁く。

 

「まだです」

 

「何で分かる」

 

「外部のマナの流れで」

 

「袋ん中でも分かるんか」

 

「あなたこそ、何も見えない状態で落ち着いていますね」

 

「見えとるで」

 

「何が」

 

「赤外線。袋越しやからぼんやりやけど」

 

「不公平です」

 

「ウェア入れたら?」

 

魔法使いの身体が僅かに硬くなる。

 

「不要です」

 

「冗談やって」

 

「趣味が悪い」

 

「自分もあたしの身体に色々言うやん」

 

「医学的・魔術的観点からの意見です」

 

「ほな今のも技術的観点や」

 

「同一ではありません」

 

「同じや」

 

袋が大きく揺れた。

 

コンベアの傾斜が変わる。

 

二人の身体が袋の中で滑る。

 

魔法使いの肘がアクトの胸へ当たる。

 

アクトの額が杖へぶつかる。

 

「痛っ」

 

「静かに」

 

「自分が当てたんやろ!」

 

外でブザーが鳴った。

 

二人は黙る。

 

数秒。

 

コンベアは止まらない。

 

ブザーは別の荷物に対するものだったらしい。

 

やがて袋が下方へ傾き、二人ごと集積場へ落とされた。

 

衝撃。

 

アクトが下になり、魔法使いを受け止める。

 

「ぐっ」

 

「大丈夫ですか」

 

「自分、毎回あたしの上落ちてへん?」

 

「偶然です」

 

「次は下になってや」

 

「状況によります」

 

袋の外は暗かった。

 

施設外の廃棄物集積場。

 

高さのあるフェンスに囲まれているが、監視は少ない。

 

アクトが袋を破り、外へ出る。

 

魔法使いも続いた。

 

遠くでは施設の警報が続いている。

 

投光器はまだ敷地内を照らし、警備員が走り回っていた。

 

二人がコンベアで外へ出たことには気づいていない。

 

「撤収車両まで八百メートル」

 

アクトが言う。

 

「走れますか」

 

「誰に聞いとる」

 

「あなたの左肩です」

 

アクトは肩を回した。

 

窓から飛び降りた魔法使いを受け止めた際、負荷がかかっている。

 

駆動音が少し大きい。

 

だが、動く。

 

「問題ない」

 

「客観的な評価ですか」

 

「自分に言われたない」

 

「故障した場合、運搬が困難になります」

 

「あたしを担ぐんか?」

 

「必要なら」

 

「できる?」

 

魔法使いはアクトの全身を見る。

 

小柄だが、装備込みで八十キロ近い。

 

「浮遊させます」

 

「担ぐ気ゼロやん」

 

「効率的な手段を選択します」

 

「言うと思ったわ」

 

二人は集積場のフェンスへ向かった。

 

出口は電子錠で閉じている。

 

アクトは鍵を調べる。

 

施設内部の警報と連動し、ロックダウンしている。

 

「登る」

 

高さ三メートル。

 

上部には有刺鉄線。

 

電流反応もある。

 

魔法使いが杖を向ける。

 

「私が先に行きます」

 

「飛ぶんか」

 

「浮遊です」

 

彼女の身体がゆっくり浮き上がる。

 

ローブの裾が垂れ下がり、黒い幽霊のようにフェンスを越える。

 

反対側へ着地。

 

「便利やなあ」

 

「静かに」

 

「はいはい」

 

アクトはフェンスへ飛びついた。

 

銀色の指で金網を掴む。

 

足をかけ、上る。

 

有刺鉄線の手前で、電流の周期を解析する。

 

完全に止めることはできない。

 

だが、絶縁性能のある手袋とサイバーリムなら短時間は耐えられる。

 

アクトは鉄線を押し下げ、身体を越えさせる。

 

火花。

 

警告表示。

 

電流が腕を走る。

 

一瞬、指の制御が乱れた。

 

その瞬間、魔法使いの術が身体を支えた。

 

落下速度が急に遅くなる。

 

アクトはフェンスの外側へ着地した。

 

「助かった」

 

「役割分担です」

 

「自分、それ気に入っとるやろ」

 

「便利な表現です」

 

「認めたな」

 

二人はコンテナ街へ走った。

 

施設から離れるにつれ、警報音は小さくなる。

 

霧が再び周囲を包む。

 

撤収車両は、古い冷凍倉庫の裏に停めてある。

 

あと四百メートル。

 

追手の気配はない。

 

だが、アクトは速度を落とさない。

 

静かな仕事は、最後まで静かとは限らない。

 

角を二つ曲がり、錆びた鉄橋の下を通る。

 

魔法使いの呼吸が少し乱れていた。

 

「大丈夫か」

 

「問題ありません」

 

「ドレインやろ」

 

「軽微です」

 

「顔真っ白やで」

 

「照明の影響です」

 

「霧しかないぞ」

 

「大気汚染の影響です」

 

「言い訳増えたな」

 

「あなたこそ肩を庇っています」

 

「気のせいや」

 

「私の観察能力を疑っているのですか」

 

「自分も便利な言葉使うてるやん」

 

二人は冷凍倉庫へ到着した。

 

裏手のシャッター脇に、古い配送バンが停まっている。

 

運転席には誰もいない。

 

自動運転モード。

 

アクトが接近すると、ドアが開いた。

 

二人は乗り込む。

 

扉を閉める。

 

バンが動き出す。

 

施設とは反対方向へ、ゆっくりと走り始めた。

 

車内には、折り畳み式の座席と救急箱、飲料水がある。

 

アクトは座席へ腰を下ろし、小銃を足元へ置いた。

 

魔法使いは向かいへ座る。

 

しばらく、どちらも話さなかった。

 

アクトは複製装置を取り出す。

 

表示は正常。

 

データ復元可能。

 

依頼は成功だ。

 

施設へ侵入し、端末データを複製し、撤収した。

 

窓を一枚壊した。

 

ディスプレイも一枚壊れた。

 

警備員を一人、ゲル弾で倒した。

 

完全に静かな仕事ではなくなったが、死人は出ていない。

 

戦闘も一度だけ。

 

依頼条件から大きく外れてはいない。

 

「本の写真、撮れた?」

 

アクトが聞く。

 

魔法使いは自分の端末を確認した。

 

「十二ページ分」

 

「持って帰らんでよかったんか」

 

「原本の消失は、相手へ情報漏洩を知らせます」

 

「ちゃんと潜入らしい判断できるやん」

 

「私は常に適切な判断をしています」

 

「正面玄関」

 

「その話は終了しています」

 

アクトは笑った。

 

魔法使いは端末の画像を一枚ずつ確認する。

 

その表情は険しい。

 

「そんな気になるんか」

 

「内容次第では、依頼人へ渡さないほうがよい可能性があります」

 

「それ、依頼違反ちゃう?」

 

「今回の依頼対象は主任端末のデータです。この記録は含まれていません」

 

「屁理屈やな」

 

「契約内容の確認です」

 

「依頼人がこの研究欲しがっとったら?」

 

「端末内にも関連資料があるでしょう」

 

「ほなもう渡るやん」

 

「そうですね」

 

魔法使いは端末を閉じた。

 

珍しく、迷っている。

 

アクトは飲料水を一本取り、彼女へ投げた。

 

魔法使いは危うげなく受け取る。

 

「飲み」

 

「命令しないでください」

 

「ドレインあるんやろ」

 

「水分補給で魔力消耗が回復するわけではありません」

 

「せやけど身体は楽になる」

 

魔法使いはボトルを見る。

 

「あなたは?」

 

「もう一本ある」

 

「肩の点検を」

 

「車内では無理や」

 

「目視だけでも」

 

「見たいんか」

 

「損傷状態の確認です」

 

「言い方」

 

アクトは作業用コートを脱ぎ、ジャケットの右肩をずらした。

 

銃撃は受けていない。

 

だが、人工関節と生身の接続部に赤みがある。

 

魔法使いが身を乗り出す。

 

細い指が、接続部の少し上へ触れた。

 

冷たい。

 

「痛みは?」

 

「ちょい」

 

「感覚異常は」

 

「ない」

 

「駆動遅延」

 

「〇・〇三秒くらい」

 

「整備が必要です」

 

「帰ったらやる」

 

「専門家へ」

 

「あたしでもできる」

 

「完全な点検は不可能でしょう」

 

「金かかる」

 

「報酬が入ります」

 

「貯めときたいねん」

 

「何のために」

 

アクトはジャケットを戻した。

 

「まだ聞くんか」

 

「以前から回答を得ていません」

 

「言いたない」

 

「分かりました」

 

魔法使いは意外にも引き下がった。

 

アクトが顔を上げる。

 

「聞かへんの」

 

「言いたくないのでしょう」

 

「前にも言うたな、それ」

 

「必要以上に踏み込まないよう改善しています」

 

「成長したなあ」

 

「あなたに評価されることではありません」

 

「でも勝手に整備予約入れたりするやん」

 

「必要な範囲です」

 

「全然変わってへんやん」

 

バンが港湾地区を抜ける。

 

窓の外に、高層ビル群の光が見え始めた。

 

赤。

 

青。

 

白。

 

企業広告とホログラムが霧の上へ滲んでいる。

 

魔法使いが水を一口飲んだ。

 

「先ほどの《混沌界》の中で、よく動けましたね」

 

「あたし、範囲の外やったやろ」

 

「境界には入っていました。影響は弱いですが、視覚と聴覚に干渉があったはずです」

 

「ちょっと床傾いて見えたで」

 

「転倒しませんでした」

 

「平衡強化あるからな」

 

アクトは耳の後ろを指で示した。

 

「目ぇぐちゃぐちゃでも、身体が傾いとるかは別で分かる。脚の関節角度も出るし」

 

「幻影への抵抗力が高いわけではない」

 

「分かっとる。人影は増えて見えたし、音も変やった」

 

「では、なぜ警備員と私を識別できたのです」

 

「自分の位置、先に覚えとったから」

 

「記憶だけで?」

 

「匂いも」

 

魔法使いの眉が動く。

 

「私の?」

 

「香料。いつも同じやろ」

 

「使用していません」

 

「ローブに染みついとる薬草か何かや」

 

「儀礼用の香です」

 

「ほなそれ」

 

「戦闘時に嗅覚で味方を識別するのは、あまり推奨できません」

 

「使えるもん全部使うんや」

 

「視覚、聴覚、平衡感覚、嗅覚」

 

「あと、自分は撃ってこんやろ」

 

「当然です」

 

「それが一番大きい」

 

魔法使いは黙った。

 

アクトは水を飲む。

 

「自分があたし撃たへんいう前提で動けた」

 

「それは」

 

魔法使いが言葉を止める。

 

「何や」

 

「不用心です」

 

「自分が裏切ったら終わりやな」

 

「その可能性を考慮しないのですか」

 

「考えとるで」

 

「ならば、なぜ」

 

「自分、裏切るときは先に正当性の説明始めるやろ」

 

魔法使いの目が細くなる。

 

「侮辱ですか」

 

「観察や」

 

「私の言葉を使わないでください」

 

「便利やな、これ」

 

アクトは笑った。

 

魔法使いは不満そうに水を飲む。

 

だが、否定はしなかった。

 

バンは市街地へ入り、速度を落とした。

 

受け渡し場所までは、あと二十分。

 

「今日の反省点」

 

魔法使いが言った。

 

「もう始めるんか」

 

「記憶が鮮明なうちに整理すべきです」

 

「酒場行ってからでええやろ」

 

「飲酒後では判断精度が低下します」

 

「自分も飲むやん」

 

「少量です」

 

「二本空けたことあるやろ」

 

「過去の例外です」

 

「ほな自分から言い」

 

魔法使いは少し考えた。

 

「第一に、認証方式の変更を事前に把握できなかったこと」

 

「それデッカーやろ」

 

「チームの問題です」

 

「珍しく人の失敗まで背負うやん」

 

「責任を背負っているのではありません。要因を分類しています」

 

「はいはい」

 

「その返答をやめてください」

 

「次」

 

「第二に、主任室からの撤収経路が不十分でした。窓を破壊する可能性を、事前に計画へ含めるべきでした」

 

「窓から飛ぶ気やったん?」

 

「緊急時の選択肢として」

 

「次はロープ持ってこよか」

 

「浮遊術があります」

 

「自分、ドレインでふらふらやったやろ」

 

「軽微です」

 

「次」

 

「第三に、あなたが私を受け止める必要がない方法を検討します」

 

「気にしとるんか?」

 

「あなたの肩へ負荷がかかりました」

 

「それだけ?」

 

「それだけです」

 

「ふうん」

 

「何です」

 

「別に」

 

魔法使いがアクトを見る。

 

「あなたの反省点は?」

 

「窓割るの遅かった」

 

「強化ガラスでした」

 

「最初から角狙って集中しとけば、二発減らせた」

 

「結果に大きな違いはありません」

 

「弾二発と時間一秒ちょい。違うで」

 

「それほど細かく評価するのですか」

 

「自分が秒単位で言うたんやろ」

 

「確かに」

 

「あと、魔法使い飛び降りさせる前に、着地点確認したらよかった」

 

「私は問題なく着地しました」

 

「あたしの上にな」

 

「受け止めたのはあなたです」

 

「避けたらよかった?」

 

魔法使いは即答しなかった。

 

「……それは困ります」

 

「素直やん」

 

「負傷の可能性があるという意味です」

 

「はいはい」

 

「その返答を」

 

「やめへん」

 

バンが交差点を曲がる。

 

車内へ、街のネオンが流れ込む。

 

一瞬だけ、魔法使いの顔が赤く照らされた。

 

疲れている。

 

頬は白く、目の下に薄い影がある。

 

だが、表情は少しだけ穏やかだった。

 

「もう一個」

 

アクトが言う。

 

「何です」

 

「自分の《混沌界》、あたしが中入るときは一声くれ」

 

「事前に伝えたでしょう」

 

「撃ち合い始まってからや」

 

「時間がありませんでした」

 

「分かっとるけど、視界ぐにゃぐにゃしたらびびる」

 

「あなたでも驚くのですか」

 

「当たり前やろ」

 

「機械化によって、恐怖反応も低下しているのかと」

 

アクトの青い目が、眼鏡の奥で細くなる。

 

「機械になったん、手ぇ足と目ぇ耳だけや」

 

魔法使いは黙った。

 

アクトは窓の外へ視線を向けた。

 

「怖いもんは怖い。痛いもんは痛いし、びっくりもする」

 

「そうですね」

 

「今日は否定せえへんのやな」

 

「否定する理由がありません」

 

「前は、自分の身体損なう選択や言うてたやん」

 

「現在も、過剰な置換だとは考えています」

 

「やっぱりか」

 

「しかし」

 

魔法使いは言葉を選ぶように、少し間を置いた。

 

「機械化された部位が、あなたのすべてではありません」

 

アクトは彼女を見る。

 

「当たり前やろ」

 

「はい」

 

「今さら気づいたんか」

 

「確認しただけです」

 

「観察?」

 

「そうです」

 

アクトは数秒黙り、それから笑った。

 

「便利やな、その言葉」

 

「あなたが使い始めたのでしょう」

 

「自分からや」

 

「記憶違いです」

 

「酒場着いたら確認する?」

 

「何を」

 

「どっちが先に言うたか」

 

「記録がありません」

 

「あたしの記憶あるで」

 

「主観的です」

 

「自分の記憶もやろ」

 

「私の記憶精度は高い」

 

「ほら、それや」

 

二人の声が車内へ続く。

 

任務は終わった。

 

少なくとも、今のところは。

 

依頼人へデータを渡し、報酬を受け取り、デッカーと状況を共有する。

 

その後、《ラスティ・コヨーテ》へ寄ることになるだろう。

 

魔法使いは反省点を列挙し、アクトはその半分に茶々を入れる。

 

壊した窓の費用を依頼人が報酬から引こうとすれば、二人とも反論する。

 

アクトは計画外の出費だと言い、魔法使いは必要かつ合理的な破壊だったと主張する。

 

おそらく、どちらの説明も採用されない。

 

バンが地下道へ入った。

 

窓の外が暗くなる。

 

アクトは座席へ深く背を預けた。

 

左肩が小さく鳴る。

 

向かいの魔法使いが、その音へ反応して顔を上げた。

 

「整備は」

 

「帰ったら」

 

「専門家へ」

 

「考えとく」

 

「あなたの『考える』は、実行しないという意味でしょう」

 

「よう分かってきたやん」

 

「明日、予約を入れます」

 

「勝手に入れんな」

 

「事前に通告しました」

 

「相談せえ言うとるやろ」

 

「必要な範囲です」

 

「範囲狭すぎや」

 

魔法使いは水のボトルを置いた。

 

「では、相談します」

 

「お」

 

「明日、整備を受けてください」

 

「嫌や」

 

「却下します」

 

「相談の意味分かっとる?」

 

「あなたの回答を確認しました」

 

「確認しただけやんけ」

 

「その上で、最適な判断を行います」

 

「結局勝手に入れるんやろ」

 

「はい」

 

アクトは深く溜息を吐いた。

 

だが、怒ってはいなかった。

 

魔法使いも、それを知っているようだった。

 

地下道を抜け、再び街の光が戻る。

 

瓶とグラスを合わせるには、まだ少し早い。

 

けれど二人は、同じ車両に乗り、同じデータを持ち、同じ場所へ戻ろうとしている。

 

混沌界の中では、床も壁も人影も信用できない。

 

音は嘘をつき、目は欺かれ、上下さえ分からなくなる。

 

それでもアクトは歩けた。

 

人工の平衡感覚が、自分の身体の傾きを教えた。

 

脚部の関節が、足元の状態を伝えた。

 

嗅覚が、魔法使いの居場所を知らせた。

 

そして何より、あの女は自分を撃たないと分かっていた。

 

魔法使いの側も、窓から飛び降りた。

 

下にアクトがいると知っていたからだ。

 

それを信頼と呼ぶには、二人ともまだ少し意地が悪すぎた。

 

役割分担。

 

合理的判断。

 

観察結果。

 

彼女たちは、便利な言葉をいくつも持っている。

 

だから、当分はそれでよかった。

 




共通修正:全話の行頭字下げを削除し、ハーメルン向けの字下げなしに統一。
(7.31.2026)

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