JOINT SURVIVAL BEHAVIOR: CONFIRMED
SUBJECT A PROTECTIVE BIAS: ELEVATED
SUBJECT B RELIANCE ON SUBJECT A: UNACKNOWLEDGED
PHYSICAL DISTANCE: DECREASING
RELATIONSHIP MODEL CONFIDENCE: 21.4%
CROWシステム/環境負荷試験
共同生存行動:確認
対象Aの保護傾向:上昇
対象Bの対象Aへの依存:未認識
物理的距離:減少中
関係性モデル信頼度:21.4パーセント
雨は降っていなかった。
だが、空から降りてくるものが何もないというだけで、シアトルの夜が乾いているわけではない。
港湾地区を覆う霧は、海水と排気ガスと工業廃棄物の臭いを含み、街灯の光を薄黄色く濁らせていた。道路脇に積まれたコンテナは巨大な墓標のように並び、その隙間を走る無人搬送車の警告灯だけが、一定の間隔で暗闇を横切っている。
アクトトゥルスは、閉鎖された倉庫の屋根に腹ばいになっていた。
赤い野球帽は脱いでいる。
帽子の代わりに、金髪を黒い布でまとめ、頭部の輪郭をできるだけ小さく見せていた。機械式のウサ耳センサーモジュールも外し、ジャケットの内側へ収納している。
あの耳は便利だったが、潜入任務で目立たないとは言い難い。
隣に伏せる魔法使いも、今夜は巨大な三角帽子をかぶっていなかった。
代わりに黒いフードを深くかぶり、いつもの儀礼用ローブの上から、濃灰色のレインコートを羽織っている。
アクトは双眼機能を拡大し、道路の向こうにある施設を観察した。
高さ四メートルほどの灰色の外壁。
四隅には監視カメラ。
正門には簡易警備棟。
塀の内側には三階建ての管理棟と、窓のない低い保管庫がある。
看板には《セラフィム環境技術研究所》と書かれていた。
表向きは、汚染土壌の浄化技術を研究する民間企業。
依頼人の説明によれば、実際には複数の企業から請け負った廃棄物を調査し、再利用可能な軍事技術やバイオ素材を抜き出す施設らしい。
今夜の目的は、管理棟三階に保管された研究主任の端末を複製すること。
端末そのものを盗む必要はない。
内部データを複製し、何事もなかったように戻す。
殺人は避ける。
破壊も避ける。
警報も避ける。
依頼人は、三度繰り返した。
静かな仕事だ。
アクトは、静かな仕事ほど信用していなかった。
「正門、二人」
通信回線へ小声で送る。
「警備棟に一人。外に一人。外周巡回が一人、西側へ移動中」
隣の魔法使いは、施設を肉眼で眺めていた。
「アストラル上では、建物内部に覚醒者が一名います」
「警備の魔法使いか」
「おそらく。階級や所属までは確認できません」
「精霊は?」
「今のところ見えません」
「今のところ、な」
アクトは小銃の照準を下げた。
今夜持ってきたのは、短銃身化したアサルトライフルだった。消音器を装着し、通常弾とゲル弾を詰めた弾倉を分けている。
撃たないのが最善。
撃つなら、できるだけ殺さない。
だが、生き残るためなら弾種を選ぶつもりはなかった。
魔法使いがアクトを見る。
「何です」
「別に」
「視線を感じました」
「自分、ほんまに帽子置いてきたんやな思て」
「任務内容を考慮した結果です」
「前は象徴性がどうとか言うてへんかったか」
「象徴は形態を固定されるものではありません」
「便利な理屈やな」
「あなたも、目立つ機械耳を外しているでしょう」
「これは装備や」
「私の帽子も装備です」
「ほな前にそう言うたとき否定すんなや」
魔法使いは答えなかった。
アクトは小さく笑う。
その直後、警告表示が視界の端に浮かんだ。
左方向。
約二百メートル。
接近する車両。
二人は同時に身を低くした。
黒いバンが一台、倉庫街の道をゆっくり進んでくる。施設の前を通過し、そのまま港の奥へ消えていった。
アクトは息を吐いた。
「予定どおり、西壁から入る」
「外周センサーは?」
「デッカーが三分だけ穴開ける。二十三時十四分から十七分まで」
現在時刻は二十三時十二分。
屋根を降り、西側の排水路を通るには十分だった。
アクトは立ち上がる。
その際、魔法使いがレインコートの裾を踏み、身体を僅かに傾けた。
アクトの銀色の手が、反射的に彼女の腕を掴む。
魔法使いはすぐに姿勢を戻した。
「不要です」
「転ぶ前に言いや」
「転倒していません」
「転びかけたやろ」
「重心移動です」
「屋根から落ちる方向への?」
「予定された移動ではありませんでした」
「それを転びかけた言うねん」
アクトは手を離し、屋根の端へ向かった。
魔法使いは何も言わず、その後へ続く。
倉庫の裏側には、錆びた非常階段があった。
アクトが先に降りる。
銀色の指で手すりを掴むたび、金属が小さく軋んだ。
地上へ下りると、魔法使いも音を立てず着地した。
ローブとレインコートという、どう考えても潜入には向かない服装のわりに、動きは軽い。
「自分、その服でよう動けるな」
「術式行使を妨げないよう設計されています」
「雨具の下にローブ着とる時点で大概やけどな」
「防護衣を兼ねています」
「ほんまか?」
「精神的な意味で」
「防弾性能ゼロやん」
「弾丸に当たらなければ問題ありません」
「次それ言うたら前歩かせるぞ」
二人はコンテナの陰を移動した。
西側の外壁までは百メートル。
途中に照明は少ないが、無人搬送車の走行路を横切る必要がある。
アクトの視界には、各種センサーが拾った情報が重ねて表示されていた。
熱源。
移動物体。
音源。
電波反応。
だが、それでも完全ではない。
サイバーアイの熱映像は、コンテナ内部までは見通せない。
音響センサーは、港全体の機械音に埋もれた人間の足音を見落とす可能性がある。
すべてを機械へ置き換えても、世界が完全に見えるようになるわけではない。
見える範囲が増えるだけだ。
見えないものが、より明確になるだけだ。
排水路の手前で、アクトが拳を上げた。
魔法使いが止まる。
前方の道路を無人搬送車が横切る。
車体には巨大な化学薬品タンクが載せられ、側面に腐食警告のホログラムが明滅していた。
通過を待ち、二人は走った。
アクトは速い。
小柄な身体と強化された脚部が、ほとんど音を立てず地面を蹴る。
魔法使いも遅れない。
西壁へ到達したのは、二十三時十三分五十二秒。
予定より八秒早い。
壁際には排水溝があり、鉄格子がはめ込まれていた。
アクトがしゃがみ込み、工具を取り出す。
通信回線に短い電子音が鳴った。
デッカーからの合図。
監視系統への介入開始。
「三分」
アクトが言う。
「分かっています」
鉄格子には電子錠も警報装置もない。
ただし、ボルトが完全に錆びついていた。
アクトはレンチをかけ、ゆっくり回す。
動かない。
力を強めると、金属が低く鳴った。
「固いな」
「切断しますか」
「音出る」
「腐食させることは可能です」
「魔法で?」
「物質変成ではありません。局所的な――」
「時間かかる?」
「四十秒ほど」
「長い」
アクトは工具を戻した。
代わりに、銀色の人差し指をボルトの根元へかける。
左手で鉄格子を押さえ、右腕へゆっくり力を込めた。
強化された人工筋肉が収縮する。
錆びた金属が微かに悲鳴を上げた。
「音が出ています」
「分かっとる」
「警備員が接近した場合は?」
「自分が何とかして」
「曖昧な指示です」
「応援しといて」
「非生産的です」
ボルトが一本、根元から折れた。
アクトは残る三本も順番に折った。
鉄格子を外し、地面へ静かに置く。
「四十一秒」
魔法使いが言う。
「自分の魔法と一秒しか変わらんかったな」
「私の方法なら無音でした」
「先に言えや」
「言いました」
二人は狭い排水路へ入った。
先頭はアクト。
幅は一メートルもない。
水は足首ほどまで溜まり、油の膜が虹色に光っている。
臭気分析機能が警告を表示したため、アクトは嗅覚フィルターを強めた。
魔法使いは何も装着していない。
「臭ないんか」
「不快ですが、耐えられます」
「魔法で消せへんの」
「幻影で臭いを上書きすることは可能です」
「ほなやったらええやん」
「嗅覚は危険物質の検知に必要です」
「真面目やなあ」
「当然です」
「酒の味にはうるさいくせに」
「関係ありません」
排水路は施設の西壁の下を抜け、敷地内の処理槽へ続いている。
途中に鉄柵があるはずだった。
だが、情報どおり、下部が腐食して外れていた。
アクトが隙間を通り抜け、次に魔法使いが身をかがめる。
ローブの裾が鉄柵へ引っかかった。
「止まって」
アクトが囁く。
魔法使いが静止した。
アクトは戻り、布を金属片から外す。
「やっぱその服、潜入向いてへんやろ」
「損傷はありません」
「そういう問題ちゃう」
「任務終了後に検討します」
「前向きやん」
「改善を約束したわけではありません」
「一瞬見直したあたしがアホやった」
排水路の出口には、小さな貯水槽があった。
二人は梯子を上り、蓋の下で止まる。
アクトが音響センサーを最大感度へ上げた。
足音はない。
機械音。
遠くの話し声。
建物の空調。
無線通信。
蓋を数センチだけ持ち上げ、外を見る。
薄暗い施設裏。
三十メートル先に管理棟。
左に保管庫。
右に廃棄物処理設備。
巡回警備員は見えない。
時刻は二十三時十五分三十六秒。
監視の穴が閉じるまで、残り一分二十四秒。
二人は外へ出た。
アクトが蓋を戻す。
管理棟の裏口へ走る。
ドアの電子錠は、デッカーがすでに解除していた。
開ける。
中は清掃用具の保管室。
二人が入り、扉を閉めた直後、通信回線に電子音が鳴った。
監視系統が復旧した。
「ぎりぎりやな」
「予定内です」
「あと十秒遅れてたら映っとったぞ」
「遅れていません」
「結果だけ見たらな」
アクトは保管室の内部を確認した。
モップ。
洗剤。
業務用清掃ドローン。
作業服。
壁のフックには、職員用の薄灰色のコートが二着掛かっている。
アクトは一着を取った。
子供用に見えるほど袖が余る。
「でかい」
「あなたが小さいのです」
「知っとるわ」
袖を折り、ジャケットとサイバーアームを隠す。
左腿のホルスターはコートの内側に収まったが、小銃は隠せない。
アクトは折り畳んで背中へ固定し、上からコートを被せた。
多少不自然だが、暗い廊下ならごまかせる。
魔法使いもレインコートを脱ぎ、灰色の作業服をローブの上へ羽織った。
前が閉まらない。
「無理あるやろ」
「照明条件を考えれば問題ありません」
「腹んとこ、金糸見えとるで」
「幻影で補正します」
魔法使いが短い言葉を唱えた。
彼女の輪郭が僅かに揺らぐ。
黒いローブも金糸も消え、地味な作業服姿へ変わった。
顔も少し変わっている。
頬がふっくらし、年齢が五歳ほど上に見えた。
「便利やな」
「あなたにも施しますか」
「動いたら崩れへん?」
「この程度なら問題ありません」
「ほな頼む」
魔法使いが指を動かす。
アクトの視界には何も変化がない。
自分自身には術式の外観が見えにくいらしい。
魔法使いが小型ミラーを取り出す。
そこには、茶色い短髪の若い作業員が映っていた。
赤い眼鏡も金髪もない。
銀色の腕も、人肌色の作業用義手に見える。
「帽子ないと、誰か分からへんな」
「それが目的です」
「胸、盛ってへん?」
「平均的な体格に補正しました」
「余計なことすんなや」
「あなたの実体そのままでは、未成年と判断される可能性があります」
「十九や」
「施設の職員には見えません」
「そこは否定できへんな」
二人は保管室を出た。
廊下は白く、無機質だった。
壁には環境保全を訴える企業広告が並び、浄化された森や川の映像が流れている。
その下を、廃棄物処理施設特有の低い振動が伝わっていた。
目的地は三階。
エレベーターは使用しない。
階段へ向かう。
角を曲がる前に、アクトが止まった。
足音。
二人。
接近中。
アクトは魔法使いへ視線を送る。
彼女は頷いた。
二人はそのまま歩いた。
向こうから現れたのは、白衣を着た研究員の男女だった。
女が端末を見ながら話している。
「試料七番の反応値、やっぱりおかしいわ」
「主任に上げた?」
「今朝。返事なし」
「また?」
二人はアクトたちへ一瞬視線を向けた。
アクトは軽く頭を下げる。
「お疲れさまです」
魔法使いも続ける。
「お疲れさまです」
研究員たちはそのまま通り過ぎた。
角を曲がり、足音が遠ざかる。
アクトが小声で言う。
「自分、挨拶できるんやな」
「当然です」
「もっと不自然になる思た」
「あなたは私を何だと思っているのです」
「三角帽子で正面玄関入る女」
「過去の一件を一般化しないでください」
階段を上る。
二階。
三階。
途中、監視カメラが二台。
デッカーは映像を消していない。
代わりに、侵入者の姿を職員として登録した偽映像へ置き換えている。
完全な掌握ではないため、時間をかければ異常を検出される。
目的の部屋は、三階東端。
研究主任室。
廊下の突き当たりには、ガラス張りの休憩スペースがあり、夜勤職員が二人座っていた。
主任室へ行くには、その前を通らなければならない。
アクトは歩調を緩める。
片方の職員が顔を上げた。
「清掃、今日だっけ?」
アクトは答える前に、魔法使いを見た。
彼女は平然としている。
「臨時です」
「こんな時間に?」
「二階で溶媒が漏れたため、空調系統を点検しています」
職員は眉を寄せた。
「聞いてないけど」
「連絡系統に不備があるのでしょう」
いつもの魔法使いそのままの口調だった。
ただし、職員には単に愛想の悪い作業員として聞こえたらしい。
「担当部署は?」
「第三設備管理部門です」
そんな部署が存在するのか、アクトは知らない。
職員が端末へ手を伸ばした。
「確認するよ」
魔法使いが僅かに指を動かした。
休憩スペースの奥で、警告音が鳴った。
コーヒーメーカーから白い煙が上がる。
「うわ」
二人の職員が振り返る。
一人が慌てて電源を切り、もう一人が消火器を取る。
アクトたちは、その横を自然な歩調で通り過ぎた。
主任室の前へ到着する。
「今の何や」
「小規模な幻影です」
「煙だけ?」
「警告音も含みます」
「機械壊したんちゃうんやな」
「破壊は依頼条件に反します」
「律儀やな」
主任室の扉には、生体認証とカードリーダーがある。
デッカーから受け取った偽造キーを接続する。
認証ランプが黄色く点滅した。
五秒。
十秒。
赤。
失敗。
「一回目あかん」
通信回線でデッカーへ報告する。
返事は雑音混じりだった。
『待て。認証方式が変わってる』
「聞いてへんで」
『俺もだよ。二分くれ』
アクトは廊下を見る。
休憩スペースでは、まだコーヒーメーカー騒ぎが続いている。
「二分は長い」
『知ってる。文句は管理者に言え』
「警備側が反応する可能性は?」
『ある』
「どのくらい」
『五分以内なら三割。十分快適とは言えない』
「快適さ求めてへんわ」
通信を切る。
魔法使いが扉を見る。
「物理的に侵入しますか」
「痕跡残る」
「記憶操作で主任本人を呼ぶ方法もあります」
「どこにおるか分からんやろ」
「アストラル上で探索できます」
「時間かかる?」
「建物内なら数分」
「却下」
アクトは扉の横に立った。
二分待つ。
ただ待つだけの時間は、銃撃戦より長く感じる。
廊下の照明。
空調音。
遠くの声。
自分の人工心肺ではない、生身の心臓が胸の奥で脈打つ。
アクトは視界の表示を切り替えた。
熱源検知。
電波解析。
音響。
床の振動。
情報が増える。
だが、安心は増えない。
魔法使いが小声で言った。
「緊張していますか」
「しとらん」
「心拍数が上昇しています」
「自分、そんなん分かるんか」
「呼吸音で」
「聞くなや」
「聞こえるだけです」
「自分は緊張せえへんの」
「必要ありません」
「撃たれたら?」
「障壁を展開します」
「間に合わんかったら?」
「あなたが撃つでしょう」
アクトは魔法使いを見る。
彼女は主任室の扉を見たままだった。
「信用しとるんか」
「役割分担です」
「便利な言葉やな」
「事実です」
認証ランプが緑へ変わった。
扉が開く。
『開けた。三分でコピーしろ』
「了解」
二人は室内へ入った。
主任室は広くなかった。
机。
本棚。
壁面ディスプレイ。
窓の外には、保管庫の屋根と海が見える。
机の端末はスリープ状態だった。
アクトが扉を閉め、魔法使いが窓側を確認する。
端末へ複製装置を接続。
進行率が表示される。
一パーセント。
二パーセント。
遅い。
「三分で終わるんか、これ」
『データ量が想定の四倍ある』
「必要分だけ抜けへんの」
『暗号化されてる。丸ごと持って帰って後で選別する』
「警報は?」
『まだなし』
魔法使いが本棚の前で立ち止まっていた。
「何しとる」
「これを」
彼女が一冊の紙の本を引き出す。
今どき珍しい、物理媒体だ。
表紙にはタイトルがない。
開くと、手書きの記録が並んでいる。
「研究日誌か?」
「術式記号があります」
「魔法研究?」
「それだけではありません」
魔法使いの顔から、いつもの僅かな尊大さが消えていた。
ページには円形の図形と、人体を模した線画。
脊髄。
神経。
脳。
その周囲に記されたマナの流れ。
アクトには詳しい意味までは分からない。
だが、普通の環境技術研究ではないことだけは分かった。
「依頼の対象に入っとる?」
「不明です」
「持ってく?」
魔法使いは一瞬迷った。
「複製します」
彼女は端末を取り出し、ページを撮影し始めた。
進行率、三十五パーセント。
廊下から足音が聞こえた。
一人。
こちらへ向かっている。
「来るで」
魔法使いが本を戻す。
アクトは扉の横へ移動し、拳銃へ手を添えた。
足音が止まる。
ドアノブが動いた。
鍵がかかっている。
外から男の声。
「主任?」
返事はしない。
「主任、いますか」
端末の進行率は四十二パーセント。
男がカードをかざす音。
電子錠が反応する。
アクトが魔法使いを見る。
魔法使いは指を唇へ当て、静かに呪文を唱えた。
扉の外で、別の声がした。
「主任なら一階へ下りたよ」
「え?」
「さっきエレベーターで」
「そうか。ありがとう」
足音が遠ざかる。
アクトは拳銃から手を離した。
「今の、誰の声や」
「先ほど休憩スペースにいた職員です」
「声まで覚えたんか」
「音声模倣は基礎です」
「こわ」
「あなたの銃より平和的です」
「それはそう」
進行率、六十パーセント。
アクトは窓へ近づいた。
外周巡回の警備員が一人、管理棟の方向へ歩いている。
通常の巡回か。
何かに気づいたのか。
「外の警備、こっち来る」
『予定ルートだ。問題ない』
「ほんまやろな」
『今度は正しい』
「今度は、言うな」
七十パーセント。
魔法使いが再び本棚を見る。
「気になりますか」
アクトが聞く。
「何がです」
「さっきの本」
「興味深い内容でした」
「どういう研究や」
「生体の神経系と、アストラル知覚を人工的に接続する試みです」
「それ、できるんか?」
「通常は不可能です。覚醒していない者へ、単純な処置で魔法知覚を与えることはできません」
「通常は?」
「彼らは、例外を作ろうとしている」
魔法使いの声が低くなる。
「成功しとると思う?」
「不明です」
「してたら?」
「危険です」
「便利そうやけどな」
「見るべきでないものを見ることになります」
「アストラル界を?」
「それだけではありません」
魔法使いは窓の外を見た。
「知覚とは、単に情報を受け取ることではありません。何を現実と判断するかを決める行為です。生身の脳へ、処理できない情報を強制的に流し込めば、人格そのものが崩壊する可能性があります」
アクトは自分の右手を見た。
銀色の指。
人工触覚。
圧力。
温度。
振動。
生身ではない感覚が、神経を通じて脳へ送られている。
「サイバーウェアと何が違うんや」
「あなたの感覚器は、物理世界の情報を機械的に変換しています」
「魔法は違う?」
「アストラル知覚は、物理世界の延長ではありません」
「よう分からんな」
「分からないままでよいこともあります」
「自分らしない言い方やな」
魔法使いは答えなかった。
進行率、九十一パーセント。
そのとき、通信回線に鋭い警告音が鳴った。
『まずい。管理系統に逆探知が入った』
「警報?」
『まだだ。だが、三十秒で接続を切れ』
進行率、九十三。
「間に合わん」
『九十八まで行けば復元できる。待て』
廊下の照明が一度消えた。
すぐ復旧する。
魔法使いが顔を上げた。
「アストラル反応」
「どこ」
「下です。接近しています」
施設内の覚醒者。
警備魔法使い。
進行率、九十五。
扉の外から、足音。
今度は複数。
走っている。
「ばれたな」
『接続切れ!』
九十六。
「まだや」
『切れ!』
九十七。
扉の向こうで声がする。
「三階東端。反応あり」
九十八。
アクトは複製装置を引き抜いた。
「取れた!」
『撤収しろ!』
警報が鳴った。
赤い照明が廊下を染める。
アクトは複製装置をポーチへ押し込み、小銃を展開する。
魔法使いはレインコートを脱ぎ捨てた。
灰色の作業服に見せていた幻影が崩れ、黒いローブと金糸の模様が現れる。
「戦闘は避けるで」
「同意します」
「ほんまに?」
「可能な限り」
扉の外には少なくとも四人。
さらに階段側から増援。
正面から突破すれば戦闘になる。
窓の外は三階。
下には保管庫の屋根があり、距離は五メートルほど。
アクトが窓を開けようとする。
ロックされている。
「割る?」
「破壊は避けるのでは?」
「今それ言う?」
魔法使いが杖を窓へ向けた。
紫水晶が光る。
ガラス表面が揺らぎ、何もない空間へ変わった。
アクトが手を伸ばす。
触れる。
ガラスはある。
「見えんだけやん」
「存在を消したわけではありません」
「意味ないやろ!」
「警備側から室内が見えなくなりました」
「そういうことかい」
扉が外から叩かれる。
「セキュリティだ! 扉を開けろ!」
アクトは窓枠を調べる。
強化ガラス。
通常弾では時間がかかる。
「障壁で受けられる?」
「短時間なら」
「窓割る。自分は扉押さえて」
「了解」
アクトは小銃の弾倉を通常弾へ交換した。
銃口を窓の角へ向ける。
三発。
四発。
消音器を通しても、室内では重い音が響いた。
ガラスに白い亀裂が走る。
扉が開いた。
電子錠を外されたらしい。
隙間から警備員が銃を向ける。
魔法使いが杖を振った。
空間が歪む。
扉の向こうにいた警備員たちが、同時に動きを止めた。
廊下が崩れたわけではない。
床が裂けたわけでもない。
だが、彼らにはそう見えた。
壁が左右へ傾き、天井が回転し、人影が何重にも増殖する。
赤い警告灯が長い光の線となって流れ、銃声と足音があらゆる方向から響く。
《混沌界》。
魔法は主任室の入口から廊下一帯へ広がった。
先頭の警備員が壁へ手をつく。
後ろの一人が膝をついた。
だが、全員が無力化されたわけではない。
一人が目を閉じ、壁沿いへ進もうとする。
別の一人は混乱したまま引き金を引いた。
弾丸が室内へ飛び込む。
アクトは机の陰へ身を伏せた。
壁面ディスプレイが砕ける。
「避けるいうたやろ!」
「彼らが射撃したのです!」
「その前に混乱させたん自分や!」
「戦闘回避のためです!」
「始まっとるやんけ!」
窓へさらに三発。
亀裂が広がる。
アクトは小銃を背負い、銀色の踵でガラスを蹴った。
一度。
二度。
三度目で、窓全体が外へ崩れた。
破片が保管庫の屋根へ降り注ぐ。
背後で銃声。
魔法使いの障壁が青白く光り、弾丸を弾いた。
「先行して!」
「自分は?」
「維持しながら移動します!」
アクトは窓枠を越えた。
五メートル下。
保管庫の屋根。
普通の人間なら、骨折してもおかしくない高さ。
アクトは躊躇せず飛び降りた。
着地。
両脚の衝撃吸収機構が作動する。
屋根が低く鳴った。
膝をつく。
平衡強化器が姿勢の傾きを補正し、身体を即座に安定させる。
見上げる。
魔法使いが窓枠に立っていた。
ローブの裾が夜風にはためく。
「飛べ!」
「命令しないでください!」
「ほなそこで撃たれとけ!」
魔法使いが飛んだ。
正確には、落下した。
アクトは両腕を広げる。
黒い塊が降ってくる。
受け止めた瞬間、強い衝撃が肩と背中を抜けた。
強化された脚部が屋根を滑る。
だが、倒れない。
平衡強化器が傾きを補正し、足裏が屋根を捉える。
アクトは魔法使いを抱えたまま、数歩後退して止まった。
「重っ」
「失礼です」
「軽い言うたら嘘になる高さや!」
「下ろしてください」
アクトは魔法使いを屋根へ立たせる。
彼女の顔は白い。
「ドレイン来とる?」
「軽微です」
「また顔色悪いぞ」
「照明の影響です」
「夜やぞ」
主任室の窓から警備員が顔を出した。
アクトは小銃を構える。
今度はゲル弾。
二発。
一発目が窓枠へ当たり、二発目が警備員の胸へ命中した。
男は後ろへ倒れた。
殺してはいない。
だが、立ち上がるまで時間はかかる。
「一回だけや言うたから、これで終わりや」
「誰に言っているのです」
「気にすんな」
保管庫の屋根から地上までは四メートル。
端には保守用の梯子がある。
二人は走る。
後方では《混沌界》の効果が薄れ始めている。
魔法使いが術式の維持を切ったのだろう。
追手が窓から射撃してくる。
しかし距離があり、暗く、アクトたちはすでに屋根の縁へ到達していた。
アクトが先に梯子を滑り降りる。
魔法使いが続く。
地上へ着いた瞬間、施設全体の投光器が点灯した。
白い光が敷地を照らす。
「見つかる」
「分かっています」
「何とかできる?」
「範囲が広すぎます」
「煙は?」
「用意していません」
「自分、何でも魔法でできるんちゃうん」
「魔法は万能ではありません!」
「今さら認めたな!」
アクトはポーチから煙幕手榴弾を取り出した。
ピンを抜き、処理設備と管理棟の間へ投げる。
白い煙が広がる。
「物理は便利やろ」
「視界を遮るだけです」
「それで十分や」
二人は煙へ入った。
アクトのサイバーアイは熱映像へ切り替わる。
魔法使いの身体が白く浮かぶ。
だが、煙の中へ警備用ドローンが二機入ってきた。
熱源は小さい。
プロペラ音。
アクトは一機の位置を特定し、小銃を向ける。
「撃つな」
魔法使いが言う。
「何で」
「音で位置を知られます」
「もう警報鳴っとるわ」
「こちらへ」
魔法使いがアクトの手首を掴んだ。
煙の中で方向を変える。
「出口そっちちゃう」
「追手の認識をずらします」
「幻影?」
「はい」
アクトの視界では何も変わらない。
だが、煙の外側では、二人の偽像が西の排水路へ向かって走っているはずだ。
ドローンの音が偽像の方向へ離れていく。
「便利やな」
「先ほども言いました」
「でもこれ、カメラには効くん?」
「物理幻影です。光学系には」
「熱は?」
魔法使いが僅かに黙る。
「通常の光学映像ほど確実ではありません」
「穴あるやん」
「あなたの煙幕にもあります」
「せやから走るで」
二人は処理設備の影へ入った。
予定していた排水路は、すでに警備側が封鎖しつつある。
正門も無理。
残る撤収経路は北側の資材搬入口。
だが、そこには車両用ゲートと警備員がいる。
戦闘を避けるなら、別の手段が必要だった。
アクトが施設図を表示する。
北東角。
廃棄物搬送用のコンベア。
施設外の集積場へ続いている。
「これ使う」
魔法使いが図を見る。
「稼働中です」
「止めたら警報増える」
「すでに鳴っています」
「せやけど止めん。流れに乗る」
「廃棄物と一緒に?」
「嫌なら正門から帰る?」
「……行きましょう」
二人は処理設備の間を走った。
警備員の声が近づく。
銃声はない。
相手もこちらの位置を見失っている。
コンベア設備は、幅二メートルほど。
黒いゴム製のベルトが、金属片と袋詰めされた廃棄物を施設外へ運んでいる。
周囲には腐食臭が漂っていた。
アクトがセンサーで内容物を確認する。
重金属。
有機溶剤。
医療廃棄物。
「乗るで」
「安全性に重大な問題があります」
「今さらやろ」
アクトがコンベアへ飛び乗る。
足場は動いている。
平衡強化器が速度差を補正し、身体を安定させる。
魔法使いも続いた。
着地した瞬間、足を滑らせる。
アクトが腕を掴む。
「また重心移動か?」
「ベルトの速度が想定以上でした」
「それを滑った言うねん」
二人は廃棄物の袋の陰へしゃがむ。
コンベアは低いトンネルへ入った。
頭上すれすれ。
照明はなく、機械音だけが響く。
アクトは暗視へ切り替えた。
魔法使いの姿が淡い緑色に見える。
「この先、検査ゲートある」
「魔法的なものですか」
「物理センサー。重量と放射線、化学物質」
「私たちは廃棄物ではありません」
「機械には分からんやろ」
「重量で異常が出ます」
「二人で百キロちょい増えるくらいや」
魔法使いがアクトを見る。
「私はそれほど重くありません」
「自分の分、五十くらいやろ」
「あなたは?」
「装備込みで八十」
「小柄なわりに重いですね」
「機械やからな」
アクトは自分の腕を軽く叩いた。
金属音はしない。
内部には衝撃吸収材と人工筋肉が詰まっている。
「気にするか?」
「何をです」
「前に、置換範囲が過剰や言うとったやろ」
「現在も考えは変わっていません」
「ほな重いとか言うなや」
「重量は事実です」
「ほんま便利な言葉やな」
コンベアの先に赤い光が見えた。
検査ゲート。
左右にセンサー柱。
アクトは周囲を見る。
大型の廃棄物袋が一つ。
中身は、切断された樹脂パイプと防護服。
「これ使う」
袋を引き寄せる。
口を開き、中身を少し外へ出す。
「入るで」
「二人で?」
「自分、細いやろ」
「あなたほどではありません」
「胸盛った幻影もう切れとるから大丈夫や」
「その話を続けるなら、ここへ置いていきます」
「冗談や」
二人は袋へ入った。
狭い。
アクトが先に身体を丸め、その上へ魔法使いが重なる。
ローブが顔へかかる。
「息苦しい」
「我慢してください」
「自分の杖、脇腹刺さっとる」
「動かす空間がありません」
「痛いねん」
「あなたの脇腹は生身でしょう」
「せやから痛い言うとる!」
「静かに」
袋の口を内側から閉じる。
暗闇。
コンベアの振動。
互いの呼吸。
魔法使いの体温。
金属と薬品の臭い。
検査ゲートを通過する。
機械音が変わる。
重量測定。
放射線検査。
化学分析。
警告は鳴らない。
「通った?」
アクトが囁く。
「まだです」
「何で分かる」
「外部のマナの流れで」
「袋ん中でも分かるんか」
「あなたこそ、何も見えない状態で落ち着いていますね」
「見えとるで」
「何が」
「赤外線。袋越しやからぼんやりやけど」
「不公平です」
「ウェア入れたら?」
魔法使いの身体が僅かに硬くなる。
「不要です」
「冗談やって」
「趣味が悪い」
「自分もあたしの身体に色々言うやん」
「医学的・魔術的観点からの意見です」
「ほな今のも技術的観点や」
「同一ではありません」
「同じや」
袋が大きく揺れた。
コンベアの傾斜が変わる。
二人の身体が袋の中で滑る。
魔法使いの肘がアクトの胸へ当たる。
アクトの額が杖へぶつかる。
「痛っ」
「静かに」
「自分が当てたんやろ!」
外でブザーが鳴った。
二人は黙る。
数秒。
コンベアは止まらない。
ブザーは別の荷物に対するものだったらしい。
やがて袋が下方へ傾き、二人ごと集積場へ落とされた。
衝撃。
アクトが下になり、魔法使いを受け止める。
「ぐっ」
「大丈夫ですか」
「自分、毎回あたしの上落ちてへん?」
「偶然です」
「次は下になってや」
「状況によります」
袋の外は暗かった。
施設外の廃棄物集積場。
高さのあるフェンスに囲まれているが、監視は少ない。
アクトが袋を破り、外へ出る。
魔法使いも続いた。
遠くでは施設の警報が続いている。
投光器はまだ敷地内を照らし、警備員が走り回っていた。
二人がコンベアで外へ出たことには気づいていない。
「撤収車両まで八百メートル」
アクトが言う。
「走れますか」
「誰に聞いとる」
「あなたの左肩です」
アクトは肩を回した。
窓から飛び降りた魔法使いを受け止めた際、負荷がかかっている。
駆動音が少し大きい。
だが、動く。
「問題ない」
「客観的な評価ですか」
「自分に言われたない」
「故障した場合、運搬が困難になります」
「あたしを担ぐんか?」
「必要なら」
「できる?」
魔法使いはアクトの全身を見る。
小柄だが、装備込みで八十キロ近い。
「浮遊させます」
「担ぐ気ゼロやん」
「効率的な手段を選択します」
「言うと思ったわ」
二人は集積場のフェンスへ向かった。
出口は電子錠で閉じている。
アクトは鍵を調べる。
施設内部の警報と連動し、ロックダウンしている。
「登る」
高さ三メートル。
上部には有刺鉄線。
電流反応もある。
魔法使いが杖を向ける。
「私が先に行きます」
「飛ぶんか」
「浮遊です」
彼女の身体がゆっくり浮き上がる。
ローブの裾が垂れ下がり、黒い幽霊のようにフェンスを越える。
反対側へ着地。
「便利やなあ」
「静かに」
「はいはい」
アクトはフェンスへ飛びついた。
銀色の指で金網を掴む。
足をかけ、上る。
有刺鉄線の手前で、電流の周期を解析する。
完全に止めることはできない。
だが、絶縁性能のある手袋とサイバーリムなら短時間は耐えられる。
アクトは鉄線を押し下げ、身体を越えさせる。
火花。
警告表示。
電流が腕を走る。
一瞬、指の制御が乱れた。
その瞬間、魔法使いの術が身体を支えた。
落下速度が急に遅くなる。
アクトはフェンスの外側へ着地した。
「助かった」
「役割分担です」
「自分、それ気に入っとるやろ」
「便利な表現です」
「認めたな」
二人はコンテナ街へ走った。
施設から離れるにつれ、警報音は小さくなる。
霧が再び周囲を包む。
撤収車両は、古い冷凍倉庫の裏に停めてある。
あと四百メートル。
追手の気配はない。
だが、アクトは速度を落とさない。
静かな仕事は、最後まで静かとは限らない。
角を二つ曲がり、錆びた鉄橋の下を通る。
魔法使いの呼吸が少し乱れていた。
「大丈夫か」
「問題ありません」
「ドレインやろ」
「軽微です」
「顔真っ白やで」
「照明の影響です」
「霧しかないぞ」
「大気汚染の影響です」
「言い訳増えたな」
「あなたこそ肩を庇っています」
「気のせいや」
「私の観察能力を疑っているのですか」
「自分も便利な言葉使うてるやん」
二人は冷凍倉庫へ到着した。
裏手のシャッター脇に、古い配送バンが停まっている。
運転席には誰もいない。
自動運転モード。
アクトが接近すると、ドアが開いた。
二人は乗り込む。
扉を閉める。
バンが動き出す。
施設とは反対方向へ、ゆっくりと走り始めた。
車内には、折り畳み式の座席と救急箱、飲料水がある。
アクトは座席へ腰を下ろし、小銃を足元へ置いた。
魔法使いは向かいへ座る。
しばらく、どちらも話さなかった。
アクトは複製装置を取り出す。
表示は正常。
データ復元可能。
依頼は成功だ。
施設へ侵入し、端末データを複製し、撤収した。
窓を一枚壊した。
ディスプレイも一枚壊れた。
警備員を一人、ゲル弾で倒した。
完全に静かな仕事ではなくなったが、死人は出ていない。
戦闘も一度だけ。
依頼条件から大きく外れてはいない。
「本の写真、撮れた?」
アクトが聞く。
魔法使いは自分の端末を確認した。
「十二ページ分」
「持って帰らんでよかったんか」
「原本の消失は、相手へ情報漏洩を知らせます」
「ちゃんと潜入らしい判断できるやん」
「私は常に適切な判断をしています」
「正面玄関」
「その話は終了しています」
アクトは笑った。
魔法使いは端末の画像を一枚ずつ確認する。
その表情は険しい。
「そんな気になるんか」
「内容次第では、依頼人へ渡さないほうがよい可能性があります」
「それ、依頼違反ちゃう?」
「今回の依頼対象は主任端末のデータです。この記録は含まれていません」
「屁理屈やな」
「契約内容の確認です」
「依頼人がこの研究欲しがっとったら?」
「端末内にも関連資料があるでしょう」
「ほなもう渡るやん」
「そうですね」
魔法使いは端末を閉じた。
珍しく、迷っている。
アクトは飲料水を一本取り、彼女へ投げた。
魔法使いは危うげなく受け取る。
「飲み」
「命令しないでください」
「ドレインあるんやろ」
「水分補給で魔力消耗が回復するわけではありません」
「せやけど身体は楽になる」
魔法使いはボトルを見る。
「あなたは?」
「もう一本ある」
「肩の点検を」
「車内では無理や」
「目視だけでも」
「見たいんか」
「損傷状態の確認です」
「言い方」
アクトは作業用コートを脱ぎ、ジャケットの右肩をずらした。
銃撃は受けていない。
だが、人工関節と生身の接続部に赤みがある。
魔法使いが身を乗り出す。
細い指が、接続部の少し上へ触れた。
冷たい。
「痛みは?」
「ちょい」
「感覚異常は」
「ない」
「駆動遅延」
「〇・〇三秒くらい」
「整備が必要です」
「帰ったらやる」
「専門家へ」
「あたしでもできる」
「完全な点検は不可能でしょう」
「金かかる」
「報酬が入ります」
「貯めときたいねん」
「何のために」
アクトはジャケットを戻した。
「まだ聞くんか」
「以前から回答を得ていません」
「言いたない」
「分かりました」
魔法使いは意外にも引き下がった。
アクトが顔を上げる。
「聞かへんの」
「言いたくないのでしょう」
「前にも言うたな、それ」
「必要以上に踏み込まないよう改善しています」
「成長したなあ」
「あなたに評価されることではありません」
「でも勝手に整備予約入れたりするやん」
「必要な範囲です」
「全然変わってへんやん」
バンが港湾地区を抜ける。
窓の外に、高層ビル群の光が見え始めた。
赤。
青。
白。
企業広告とホログラムが霧の上へ滲んでいる。
魔法使いが水を一口飲んだ。
「先ほどの《混沌界》の中で、よく動けましたね」
「あたし、範囲の外やったやろ」
「境界には入っていました。影響は弱いですが、視覚と聴覚に干渉があったはずです」
「ちょっと床傾いて見えたで」
「転倒しませんでした」
「平衡強化あるからな」
アクトは耳の後ろを指で示した。
「目ぇぐちゃぐちゃでも、身体が傾いとるかは別で分かる。脚の関節角度も出るし」
「幻影への抵抗力が高いわけではない」
「分かっとる。人影は増えて見えたし、音も変やった」
「では、なぜ警備員と私を識別できたのです」
「自分の位置、先に覚えとったから」
「記憶だけで?」
「匂いも」
魔法使いの眉が動く。
「私の?」
「香料。いつも同じやろ」
「使用していません」
「ローブに染みついとる薬草か何かや」
「儀礼用の香です」
「ほなそれ」
「戦闘時に嗅覚で味方を識別するのは、あまり推奨できません」
「使えるもん全部使うんや」
「視覚、聴覚、平衡感覚、嗅覚」
「あと、自分は撃ってこんやろ」
「当然です」
「それが一番大きい」
魔法使いは黙った。
アクトは水を飲む。
「自分があたし撃たへんいう前提で動けた」
「それは」
魔法使いが言葉を止める。
「何や」
「不用心です」
「自分が裏切ったら終わりやな」
「その可能性を考慮しないのですか」
「考えとるで」
「ならば、なぜ」
「自分、裏切るときは先に正当性の説明始めるやろ」
魔法使いの目が細くなる。
「侮辱ですか」
「観察や」
「私の言葉を使わないでください」
「便利やな、これ」
アクトは笑った。
魔法使いは不満そうに水を飲む。
だが、否定はしなかった。
バンは市街地へ入り、速度を落とした。
受け渡し場所までは、あと二十分。
「今日の反省点」
魔法使いが言った。
「もう始めるんか」
「記憶が鮮明なうちに整理すべきです」
「酒場行ってからでええやろ」
「飲酒後では判断精度が低下します」
「自分も飲むやん」
「少量です」
「二本空けたことあるやろ」
「過去の例外です」
「ほな自分から言い」
魔法使いは少し考えた。
「第一に、認証方式の変更を事前に把握できなかったこと」
「それデッカーやろ」
「チームの問題です」
「珍しく人の失敗まで背負うやん」
「責任を背負っているのではありません。要因を分類しています」
「はいはい」
「その返答をやめてください」
「次」
「第二に、主任室からの撤収経路が不十分でした。窓を破壊する可能性を、事前に計画へ含めるべきでした」
「窓から飛ぶ気やったん?」
「緊急時の選択肢として」
「次はロープ持ってこよか」
「浮遊術があります」
「自分、ドレインでふらふらやったやろ」
「軽微です」
「次」
「第三に、あなたが私を受け止める必要がない方法を検討します」
「気にしとるんか?」
「あなたの肩へ負荷がかかりました」
「それだけ?」
「それだけです」
「ふうん」
「何です」
「別に」
魔法使いがアクトを見る。
「あなたの反省点は?」
「窓割るの遅かった」
「強化ガラスでした」
「最初から角狙って集中しとけば、二発減らせた」
「結果に大きな違いはありません」
「弾二発と時間一秒ちょい。違うで」
「それほど細かく評価するのですか」
「自分が秒単位で言うたんやろ」
「確かに」
「あと、魔法使い飛び降りさせる前に、着地点確認したらよかった」
「私は問題なく着地しました」
「あたしの上にな」
「受け止めたのはあなたです」
「避けたらよかった?」
魔法使いは即答しなかった。
「……それは困ります」
「素直やん」
「負傷の可能性があるという意味です」
「はいはい」
「その返答を」
「やめへん」
バンが交差点を曲がる。
車内へ、街のネオンが流れ込む。
一瞬だけ、魔法使いの顔が赤く照らされた。
疲れている。
頬は白く、目の下に薄い影がある。
だが、表情は少しだけ穏やかだった。
「もう一個」
アクトが言う。
「何です」
「自分の《混沌界》、あたしが中入るときは一声くれ」
「事前に伝えたでしょう」
「撃ち合い始まってからや」
「時間がありませんでした」
「分かっとるけど、視界ぐにゃぐにゃしたらびびる」
「あなたでも驚くのですか」
「当たり前やろ」
「機械化によって、恐怖反応も低下しているのかと」
アクトの青い目が、眼鏡の奥で細くなる。
「機械になったん、手ぇ足と目ぇ耳だけや」
魔法使いは黙った。
アクトは窓の外へ視線を向けた。
「怖いもんは怖い。痛いもんは痛いし、びっくりもする」
「そうですね」
「今日は否定せえへんのやな」
「否定する理由がありません」
「前は、自分の身体損なう選択や言うてたやん」
「現在も、過剰な置換だとは考えています」
「やっぱりか」
「しかし」
魔法使いは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「機械化された部位が、あなたのすべてではありません」
アクトは彼女を見る。
「当たり前やろ」
「はい」
「今さら気づいたんか」
「確認しただけです」
「観察?」
「そうです」
アクトは数秒黙り、それから笑った。
「便利やな、その言葉」
「あなたが使い始めたのでしょう」
「自分からや」
「記憶違いです」
「酒場着いたら確認する?」
「何を」
「どっちが先に言うたか」
「記録がありません」
「あたしの記憶あるで」
「主観的です」
「自分の記憶もやろ」
「私の記憶精度は高い」
「ほら、それや」
二人の声が車内へ続く。
任務は終わった。
少なくとも、今のところは。
依頼人へデータを渡し、報酬を受け取り、デッカーと状況を共有する。
その後、《ラスティ・コヨーテ》へ寄ることになるだろう。
魔法使いは反省点を列挙し、アクトはその半分に茶々を入れる。
壊した窓の費用を依頼人が報酬から引こうとすれば、二人とも反論する。
アクトは計画外の出費だと言い、魔法使いは必要かつ合理的な破壊だったと主張する。
おそらく、どちらの説明も採用されない。
バンが地下道へ入った。
窓の外が暗くなる。
アクトは座席へ深く背を預けた。
左肩が小さく鳴る。
向かいの魔法使いが、その音へ反応して顔を上げた。
「整備は」
「帰ったら」
「専門家へ」
「考えとく」
「あなたの『考える』は、実行しないという意味でしょう」
「よう分かってきたやん」
「明日、予約を入れます」
「勝手に入れんな」
「事前に通告しました」
「相談せえ言うとるやろ」
「必要な範囲です」
「範囲狭すぎや」
魔法使いは水のボトルを置いた。
「では、相談します」
「お」
「明日、整備を受けてください」
「嫌や」
「却下します」
「相談の意味分かっとる?」
「あなたの回答を確認しました」
「確認しただけやんけ」
「その上で、最適な判断を行います」
「結局勝手に入れるんやろ」
「はい」
アクトは深く溜息を吐いた。
だが、怒ってはいなかった。
魔法使いも、それを知っているようだった。
地下道を抜け、再び街の光が戻る。
瓶とグラスを合わせるには、まだ少し早い。
けれど二人は、同じ車両に乗り、同じデータを持ち、同じ場所へ戻ろうとしている。
混沌界の中では、床も壁も人影も信用できない。
音は嘘をつき、目は欺かれ、上下さえ分からなくなる。
それでもアクトは歩けた。
人工の平衡感覚が、自分の身体の傾きを教えた。
脚部の関節が、足元の状態を伝えた。
嗅覚が、魔法使いの居場所を知らせた。
そして何より、あの女は自分を撃たないと分かっていた。
魔法使いの側も、窓から飛び降りた。
下にアクトがいると知っていたからだ。
それを信頼と呼ぶには、二人ともまだ少し意地が悪すぎた。
役割分担。
合理的判断。
観察結果。
彼女たちは、便利な言葉をいくつも持っている。
だから、当分はそれでよかった。
共通修正:全話の行頭字下げを削除し、ハーメルン向けの字下げなしに統一。
(7.31.2026)