アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
撤退してから、アクトは三度、右手を開いて閉じた。
白い指が五本、遅れなく動く。
握る。 開く。 親指を人差し指へ。中指へ。薬指へ。小指へ。
「異常なし」
森田の声に、アクトは右肩を回した。
「知っとる」 「なら動くな」 「動かして確認しとるんや」
「こっちが確認してる最中に勝手に確認を増やすな」
簡易診療区画の照明は白すぎた。
EVOが旧施設から二ブロック離れた倉庫を臨時拠点へ転用し、医療班と保全班と解析班を押し込んでいる。壁際には折り畳み式の診療台、反対側には回収した機材。中央の机では、理香子が戦闘ログを三枚の仮想画面へ展開していた。
黒曜はその隣の椅子に座っている。
座らされている、と言った方が正しい。
「鼻血、止まった?」
アクトが訊く。
「止まりました」 「頭は」 「痛いです」 「吐き気」 「ありません」
「視界」 「問題ありません」 「ほんま?」
「あなたに言われたくありません」
黒曜は目だけを向けた。
顔色はまだ悪い。
多重防壁を予定外の位置へ重ねた反動は、鼻血だけでは済んでいなかった。撤退直後は焦点が合わず、壁に手をついていた。今は受け答えこそ普段通りだが、指先でこめかみを押さえる回数が多い。
アクトは口を閉じた。
森田が白い左前腕の装甲を指で叩く。
「こっちは表層損傷。内部フレーム正常。右脚、膝外装に擦過。左脚、足首の補正値が〇・八パーセントずれてる」
「誤差やろ」 「補正する」 「はいはい」 「あと胸部」 「生身やで」
「だから見る」
ジャケットの脇腹に、搬送床から飛んだ破片が裂いた跡がある。下の皮膚には細い赤線が一本。
森田はそれを見て、消毒材を押しつけた。
「いっ」 「生身だな」 「確認方法が雑やねん」
返事はない。
森田は端末へ数値を入れた。
「戦闘継続は可能。ただし今日はもう突っ込むな」
「次の作戦、今日ちゃうやろ」 「お前は予定にないことをする」
「信用ないなあ」 「実績だ」
アクトは肩をすくめた。
その動きの途中で、視線が中央の机へ移る。
理香子はさっきからほとんど動いていない。
画面だけが動いていた。
第一次突入で取得したログ。 施設側の制御命令。 アクトたちの位置。
小鴉の指示。 黒曜の術式展開。
そして、撤退路に現れた巨大な強化身体。
ダンボ。
画面の中で、同じ身体に二種類の矢印が重なっている。
一つは赤。 一つは白。
「理香子」
返事がない。
「理香子」
「聞こえています」
「ならええ」
「何ですか」
「呼んだだけ」
理香子の指が一瞬止まった。
「意味がありません」 「あるで。返事した」 「……そうですか」
またキーを叩き始める。
その左手は、もう勝手には曲がっていない。
けれど、時々、五本の指を机へ押しつけるようにしている。
そこにあると確かめるみたいに。
*
「救助した作業員、意識戻った」
小鴉が入ってきた。
黒いコートの裾に、まだ施設の粉塵がついている。
「怪我は?」
黒曜が訊いた。
「肋骨二本。左脚挫傷。死なない」
「よかったやん」
アクトが言うと、小鴉は一度だけ彼女を見る。
「予定は十一分遅れた」 「せやな」
「第二退避路の閉鎖が四十七秒早ければ、全員あそこで詰んでいた」
「せやな」 「救助そのものを間違いだったとは言わない」 「うん」
「次も同じ判断をするなら、先に言え」 「無茶言うなあ。現場見て決めるわ」
「だから嫌いなんだ、お前は」
声音に怒気はなかった。
小鴉は理香子の横へ薄い端末を置いた。
「で、拾った甲斐はあった」
画面が開く。
作業員の証言記録だった。
《搬送区画B-7勤務》 《臨時保全要員》 《旧施設構造の詳細情報なし》
理香子が目を走らせる。
「この人、何を見ました」
「見たというより、やらされた」
小鴉が壁にもたれた。
「施設へ入ってから、作業指示が端末に直接出るようになった。最初は配管点検。次に搬送路のロック解除。その次が、隔壁を一枚だけ手動で開けろ」
「手動?」
「自動制御から外されていた隔壁だ。施設側は自分で開けられない。だから人間に開けさせた」
理香子の画面に構造図が出る。
B-7。 撤退時、アクトが作業員を見つけた区画から二十メートル。
「その後、作業員は?」
「戻れと表示された。戻る途中で搬送床が動いて挟まれた」
アクトの眉が少し寄った。
「使うだけ使うて、帰り道は面倒見んかったんか」
「違います」
理香子が言った。
構造図を拡大する。
「搬送床が動いた時刻は、私たちが第一次突入を開始した後です。作業員への指示を出した時点では、帰路は開いていました」
「ほな、あたしら来たせいで閉じた?」
「正確には、施設が私たちへの対応を優先した結果です」
小鴉が言う。
「人間一人を殺す命令は出していない。だが、使い終わった人間の安全を維持する優先度も低かった」
黒曜が静かに画面を見る。
「手として使った後は、手ではなくなった」
「そういうことです」
理香子の声が硬くなる。
アクトは何も言わなかった。
救助は成功した。
そのせいで撤退は遅れた。 第二退避路を失いかけた。
黒曜は余計な防壁を使った。 全員が危険になった。
それでも、あそこに人がいた。
拾えた。
その事実と、拾うために増えた危険は、どちらも消えない。
「次は?」
アクトが訊いた。
「次?」
「同じ状況。中に一人残っとる。切り離したら全体は安全。拾いに行ったら予定崩れる」
小鴉は少し考えた。
「切り離せと言う」
「そか」
「お前は?」
「その時決める」
「最悪だな」
「知っとる」
そこで会話は終わった。
どちらも相手を説得しようとはしなかった。
*
理香子が戦闘ログを止めた。
「これを見てください」
ダンボの映像。
撤退路。
巨大な身体が前へ出る。
アクトを見ている。
口が動く。
《チビ。逃げんじゃねえ》
次の瞬間、右の補助腕がアクトではなく小鴉へ向いた。
銃口が動く。
ダンボの本体は、逆にアクトへ踏み込もうとしている。
脚が止まる。
腰が捻れる。
肩が前へ出る。
身体の各部が、別々の目的へ引かれた。
理香子が映像を一フレームずつ送る。
「本人の運動入力を抽出しました」
赤い線が出た。
「右脚。前進」 「左脚。前進」 「体幹。前傾」
「右腕。アクトへの打撃準備」 「視線。アクトを追跡」
次に白い線。
「上位制御入力」
右補助腕。小鴉を照準。 左補助腕。退避路を制圧。 左脚。位置保持。
視覚補助。黒曜を脅威対象として強調。 姿勢制御。前進を抑制。
アクトが椅子の背へ肘を乗せた。
「喧嘩しとるな」
「はい」
「本人と身体が」
「少し違います」
理香子は二つの線を重ねた。
「本人も身体を動かしています。身体も本人へ反応しています。ただし、一部の系統で本人より優先度の高い命令が挿入されています」
黒曜が訊く。
「完全に操られているわけではない?」
「違います。完全支配なら、もっと滑らかです」
映像のダンボはひどく不格好だった。
一歩出ようとして止まる。 殴ろうとして肩だけが走る。
補助腕は本人の視線とは違う方向へ発砲する。
強い。
なのに、動きが割れている。
「本人も戦っとる」
アクトが言った。
「はい」
「しかも、あたし殴ろうとして」
「はい」
「元気やなあ」
誰も笑わなかった。
アクトも笑っていない。
映像の中でダンボが吠える。
《動けっつってんだろ!》
理香子がそこで止めた。
「この直前です」
拡大。
首の後ろ。 脊椎接続部。 運動制御バス。
二つの信号が衝突している。
「本人の命令が消されているわけではありません」
「残っとる?」
「はい。残ったまま、後から来た命令に負けています」
アクトの右手が、無意識に一度だけ握られた。
白い指。
自分が閉じろと思えば閉じる。 開けと思えば開く。
それだけのことが、映像の向こうでは成立していない。
「嫌やな」
「何がですか」
「自分の手ぇ動かしとるのに、自分より偉い奴がおるん」
理香子は返事をしなかった。
代わりに、別のログを開いた。
「施設側の分類を見つけました」
文字列が並ぶ。
《対象:MCT強化身体》 《自律運動:保持》 《局所制御:許可》
《外部優先命令:有効》 《戦術統合:進行》
小鴉の目が細くなる。
「操縦者じゃない」
「はい」
「兵士でもない」
「はい」
理香子が最後の行を表示した。
《構成分類:実働肢》
アクトがしばらく黙った。
「……腕扱いか」
「正確には、施設の運動能力を外部へ延長する可動構成要素です」
「それを腕言うんや」
「概念としては」
「本人、絶対キレるで」
「すでにキレています」
「せやった」
アクトは椅子へ深く座った。
映像のダンボは、まだ止まったままだ。
口はアクトを罵っている。 腕は別の相手を撃っている。
脚は本人を進ませない。
あの男は強くなりたがっていた。
それは知っている。
強くなったことを喜んでもいた。
だからこそ、余計に趣味が悪い。
自分で欲しがった強さの中に、自分より優先される命令が混じっている。
「こいつ、自分で入れた機能もあるんやろ」
アクトが訊いた。
小鴉が答える。
「ある。かなりな」
「止められた腕も?」
「緊急制御そのものには承認履歴がある」
「ほな、ややこしいな」
「何が」
「本人が選んだもんと、本人が選んでへん使われ方が、同じ線の上に乗っとる」
理香子が画面を見る。
「……はい」
その返事だけ、少し遅かった。
*
昔の記録を開いたのは、そのあとだった。
EVOの監査部門から届いた復元データ。
十一年前。
欠損が多い。 音声も一部しかない。 映像は固定カメラ二台分。
理香子は開く前に、一度だけ手を止めた。
「やめる?」
アクトが訊く。
「やめません」
「そか」
再生。
若い理香子が走っている。
今より髪が長い。
その前をナギが走る。
さらに後ろ。
ロク。
施設内に警報。
《統合系異常》 《外部切断失敗》 《負荷上昇》
映像が乱れる。
ナギの声。
《リコ、先に》
理香子の声。
《無理です。三人で――》
ロク。
《二人で行け》
《ロク》
《いいから行け》
映像の中のロクは、格好よくはなかった。
片足を引きずっている。 左肩から血が出ている。 銃も持っていない。
ただ、隔壁の横にある手動レバーへ手をかけていた。
《閉めるぞ》
《待って》
《待たねえ》
《ロク!》
《飯、まだだからな》
そこで音声が飛ぶ。
次の映像。
理香子とナギが隔壁の向こう。
ロクがこちら側。
扉が閉まる。
ナギが端末へ接続したまま叫んでいる。
《切らないで》
理香子の手が端末に伸びる。
《負荷が――》
《まだ維持できる》
《できません》
《ロクが残ってる》
《分かっています》
《じゃあ切らないで!》
警報。
映像が白く飛ぶ。
ログだけが残る。
《外部接続:切断》 《統合系:分離》 《区画封鎖》
そして。
《生体反応:1》
そこで記録は終わった。
誰もすぐには喋らなかった。
倉庫の空調音だけがする。
「……私が切りました」
理香子が言った。
アクトは画面を見たまま答える。
「せやな」
「ナギは維持しようとしていました」
「せやな」
「ロクは残りました」
「うん」
「私が切ったから」
アクトの視線が理香子へ向く。
「そこまではログにないで」
理香子の口が止まる。
「でも」
「切らんかったらどうなった?」
「分かりません」
「切ったら?」
「私とナギは生き残りました」
「ロクは?」
「戻りませんでした」
「ほな、そこまでや」
「……何がですか」
「分かっとるとこ」
理香子の眉がわずかに寄る。
アクトは続けた。
「誰のせいか決めたいんやったら、あたしには無理や。ログ足らんし。ナギが正しかったかもしれん。理香子が正しかったかもしれん。どっちも間違っとったかもしれん」
「ロクは」
「先に行け言うた」
理香子の指が止まる。
「そこは残っとる」
アクトは画面の最後のフレームを見る。
閉じかけた隔壁。 向こう側のロク。
「自分で最後尾残って、二人先にやった。そこまで勝手に消したら、あのおっさん怒るんちゃう」
「おっさんではありません」
「知らんがな。昔の映像やと全員若いねん」
黒曜が小さく息を吐いた。
笑ったわけではない。
けれど張り詰めていたものが、ほんの少しだけ動いた。
理香子は画面を閉じなかった。
「アクト」
「ん?」
「先に行けと言わないでください」
アクトが瞬きをする。
「何の話や」
「今後です」
「状況によるやろ」
「言わないでください」
「いや、退路とか――」
「言わないでください」
今度は、理香子がアクトを見た。
声は平坦だった。
いつもの声だった。
ただ、右手が机の端を強く握っていた。
「……分かった」
アクトが言う。
「言わん」
「はい」
「その代わり、理香子も勝手に残んなや」
「残りません」
「即答やな」
「合理性がありません」
「そういう話ちゃうねんけどな」
理香子は少しだけ目を逸らした。
*
深夜。
黒曜は医療班に追い出されるように休養区画へ行った。
小鴉はMCTとの連絡。
森田も機材確認へ戻った。
臨時解析室に残ったのは、アクトと理香子だけだった。
アクトは自販機の前で二本の缶を見比べる。
「コーヒーと、ソイなんちゃら」
「どちらでも」
「一番困る答えや」
「では水」
「もっとおもんない」
結局、コーヒーを二本買った。
一つを理香子の机へ置く。
「飲みません」
「置いただけや」
「冷めます」
「缶やで」
「ぬるくなります」
「細かいなあ」
アクトは自分の缶を開けた。
理香子の画面には、まだダンボの制御ログが残っている。
赤い入力。 白い入力。
二つが同じ身体の中でぶつかっている。
「なあ」
「はい」
「ナギ、あれ見て何思っとるんやろな」
「分かりません」
「腕増えた、くらい?」
「可能性はあります」
「嫌やなあ」
「何がですか」
「人一人増えて、腕一本増えた計算になるん」
理香子はしばらく黙った。
やがて画面の最下段を指で拡大する。
《構成分類:実働肢》
その下に、さらに小さな更新行があった。
《自律意思:保持》 《統合効率:低下要因》 《補正学習:継続》
アクトの目から軽さが消えた。
「……まだ本人の意思、邪魔扱いなんやな」
「はい」
「消す気か」
「現時点では断定できません。ただし、統合効率を上げるなら」
「邪魔になる」
「はい」
アクトは右手を開いた。
五本。
全部、自分の意思で動く。
その手を見てから、画面の中の巨大な男を見る。
「次会うたら」
「はい」
「まず殴られんようにせなな」
「そこですか」
「大事やで。あいつ普通にあたし殴る気やったし」
「否定できません」
「ほんで」
アクトは缶を一口飲んだ。
「本人が何したいか、聞けたら聞こ」
理香子が横を見る。
「助けるのですか」
「知らん」
「……知らない?」
「本人が助けて言うてへんやろ」
アクトは白い指で缶を回した。
「勝手に助ける話まで決めたら、あっちと変わらんやん」
理香子は何も返さなかった。
画面では、ダンボの運動入力がまた再生される。
前へ。
止められる。
殴る。
逸らされる。
それでも赤い線は消えない。
何度上から命令を重ねられても、本人の入力だけは残っている。
理香子は再生を止めた。
最後に残ったのは、施設側の分類だった。
《実働肢》
その文字を、理香子はしばらく見ていた。
そして別窓を開く。
次の侵入経路。
射線候補。
退避路。
封印されたままのアクトの実戦記録。
今度は、誰かを先に行かせるための線ではない。
三人とも戻るための線を引く。
一本目。
二本目。
三本目。
その途中で、机の上の缶へ手を伸ばした。
五本の指で、自分で掴んだ。