アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
「その呼称は適切です」
声が、天井から降ってきた。
女の声だった。
近い。
近すぎる。
右のスピーカーから聞こえたと思った次の瞬間には、左奥の警報器から同じ息継ぎが続き、さらに床下の保守用音声端末がその続きを引き取った。
ひとつの喉ではない。
施設そのものが、ひとつの口になっていた。
理香子の視界端で、三つに分けた通信窓が同時に赤く明滅する。
《統合対象:47》
《運動同期:81.4%》
《上位意思:単一》
《事象分類:百手の王》
数字は止まっていない。
西側の六人のうち一人が膝をついた。警備員だった。左腿の外側から血が流れている。
倒れない。
隣の搬送アームが腰を支えた。
介抱ではない。
歩行周期を維持するためだった。
警備員の右足が前へ出る。半拍遅れて搬送アームが腰を押す。その動きに合わせ、頭上の砲塔が旋回した。
負傷した人間まで含めて、一歩だった。
「……四十七」
理香子が呟く。
指が止まりそうになる。
止めない。
アクトへ射線情報。
黒曜へ術式変動。
小鴉へ全体配置。
三つを別々に送る。
同時には送らない。
それが今回の約束だ。
「数えんでええ」
アクトが言った。
白い小銃を肩へつけたまま、右へ二歩。
いつもなら、その半歩前に黒曜の防壁がある。
ない。
アクトは自分で重心を戻した。
「減らす方だけ考え」
「簡単に言いますね」
「難しいんはそっちの仕事や」
「あなたの仕事も十分難しいです」
「知っとる」
乾いた銃声。
アクトが一発だけ撃った。
正面から迫っていた警備ドローンのセンサーが砕ける。落ちる前に、横の搬送アームがその機体を掴んだ。
投げる。
「右、二秒後!」
理香子の警告が届く。
アクトは聞いてから動いた。
以前なら、理香子が言う前に黒曜の防壁の位置を読んで身体を預けていた。
今は違う。
完全には避けない。
右肩を前へ出す。
ドローンの機体が白い肩装甲を掠め、硬い音と一緒に表面を削った。衝撃を脚へ逃がしながら半歩だけ軸をずらす。
致命部位ではない。
そこなら受けられる。
ドローンはそのまま壁へ激突した。
白い装甲に黒い擦過痕が一本増える。
その衝撃に合わせて床が沈む。
「来るぞ」
小鴉の声。
北側の搬送床が動いた。
六人の生体を乗せたまま、こちらへ進んでくる。
その後ろで砲塔が射線を揃える。
前話で崩したはずの一本の筒を、別の部品で作り直している。
「西へ寄るな。中央を抜けろ」
「中央、ダンボおるで」
「見えている」
「見えてて言うんか」
「だから言っている」
アクトの口元が少し歪んだ。
「ほんま嫌な指揮官やな」
「今さらだ」
重い音がした。
どん。
ダンボが一歩、踏み出した。
床が鳴ったのではない。
床の方が、彼の一歩に合わせて鳴った。
左右の搬送アームが同じ周期で動く。
砲塔が同じ角度だけ首を振る。
奥の警備員たちが、同じ側の足を前へ出す。
ダンボの肩が動く。
施設の肩が動く。
「……気色悪ぃ」
ダンボが吐き捨てた。
その声だけが、拍から外れていた。
「同意しとる場合ちゃうで」
アクトが銃口を向ける。
「誰がてめえに――」
ダンボの右腕が上がった。
本人の視線はアクトを捉えている。
だが補助腕は、別方向へ向いた。
小鴉。
「またそれかよ!」
ダンボが怒鳴る。
補助腕の砲口が火を噴いた。
小鴉が柱の陰へ滑り込む。
着弾。
コンクリートが弾けた。
その瞬間だった。
「私は、百手の王です」
声がした。
今度は、はっきりと。
アクトの眉が動いた。
黒曜は振り向かない。
杖の先を、正面の術者から外さない。
理香子だけが一瞬、画面の中央を見た。
「……ナギ」
「はい、理香子」
十一年前と同じ返事だった。
だから余計に気持ちが悪い。
「その名前で呼ばれることも、現在の私には矛盾しません」
「今は四十七対象を自分の身体として使っている。それでも?」
「矛盾しません」
施設は、その返答の間にも動いている。
砲塔が照準を変える。搬送アームが倒れかけた警備員を支える。別の二人が側路へ回り、保守ドローンが床へ工具箱を落として足場を潰す。天井レールの台車が黒曜の退路を横切り、閉まりかけた防火扉が小鴉を中央から切り離そうとする。
ダンボの脚へは、床面の誘導灯が進行方向を示していた。
四十七すべてが殴ってくるわけではない。
射線を作るもの。足場を奪うもの。逃げ道を狭めるもの。倒れそうな生体を歩かせ続けるもの。
全部合わせて、一つの攻撃だった。
アクトたちはまだ立っている。
だが、使える床はさっきの半分もない。黒曜との間には搬送台車が二本走り、小鴉へ通じる直線は防火扉で消えた。理香子が退路候補として残していた三本の線も、一本ずつ赤へ変わっていく。
倒せないなら、立てる場所を奪う。
装甲を抜けないなら、受ける方向を選ばせる。
四十七の手は、そのためにも使われていた。
会話のために止まってはいない。
百手の王は、殴りながら喋っていた。
「理香子。あなたは以前から、定義を優先しました」
「……昔の話を持ち出さないでください。今の判断に混ぜるかは私が決めます」
「了解しました」
理香子の指が一度だけ震えた。
アクトがそれを見る余裕はなかった。
ダンボが来る。
正面。
右拳。
アクトは受けない。
半歩外へ。
拳が白い肩装甲を掠めた。
風圧。
アクトの金髪が跳ねる。
「遅いで、デカブツ」
「避けてから言え、チビ!」
「避けたから言うとんねん!」
アクトがダンボの脇へ潜る。
撃たない。
撃てば当たる距離だった。
代わりに銃床で補助腕の関節を殴った。
硬い音。
補助腕がわずかに逸れる。
その隙に小鴉が射線から抜けた。
「余計なことすんな!」
「どっちや。あんたの腕助けたんか、あんた邪魔したんか、もう分からんな」
「黙れ!」
「それは本人の意思です」
ナギが言った。
ダンボの顔が止まった。
ほんの一瞬。
「……何?」
「発声、敵意、追跡意思。いずれも本人由来です」
「聞いてへん」
アクトが言う。
「ですが、あなたは区別を求めています」
「求めとるけど、あんたに実況してもろてへん」
「区別は重要です」
天井の照明が一列、点灯した。
理香子の画面へ別の窓が開く。
「勝手に開かないでください」
「閲覧のみです」
「それを勝手と言います」
文字列が流れた。
MCT系の承認記録。
理香子が息を呑む。
《追加処置:承認》
《姿勢補正:承認》
《緊急制御介入:承認》
《外部協調制御:承認》
《運動補助優先順位変更:承認》
日時が並ぶ。
一度ではない。
何度も。
ダンボの識別IDが、すべてについている。
「……消せ」
ダンボが言った。
「記録は改変していません」
「消せっつってんだよ!」
「あなたは承認しています」
「知ってる!」
怒鳴り声が響いた。
その声に、施設は反応しなかった。
本人の怒りだけが、巨大な身体から切り離されている。
「俺が押した! 俺がやった! だから何だ!」
「その選択を統合しました」
「統合?」
「はい」
砲塔が二基、同時に火を噴いた。
黒曜が杖を振る。
防壁。
ただしアクトの前ではない。
自分の前だけ。
弾丸が魔力障壁を叩き、白い火花のような光を散らした。
黒曜の身体が一歩下がる。
鼻の奥に鉄の味がした。
それでも視線は術者だけに固定する。
向こうも杖を上げている。
命令座標。
理香子から届いた数字。
三・二センチ。
前より狭い。
黒曜は息を吐いた。
「まだ、あります」
誰に言ったのでもない。
術者の防壁が立つ。
中心座標から、三センチ余り外れる。
黒曜はそこへ自分の防壁の縁を重ねた。
押す。
魔力同士が擦れた。
術者の顔が歪む。
上位命令が補正をかける。
防壁が戻ろうとする。
「戻させません」
黒曜が杖を握り込む。
細く。
狭く。
アクトを守るための壁ではない。
自分と、正面の一人だけのための壁。
術者の指が震えた。
二・九センチ。
縮んだ。
さっきまで三センチ強あった逃げ幅が、また削られた。
上位制御は、術者が残した誤差まで学習し始めている。
それでもゼロではない。
「……そこは、あなたのものです」
黒曜が低く言った。
術者の目が、ほんのわずかに動いた。
黒曜を見た。
次の瞬間、また正面へ戻された。
だが見た。
「黒曜、左!」
理香子の声。
遅延、〇・四秒。
黒曜は聞く前に動けない。
聞いてから動く。
左から警備ドローン。
杖を引く。
防壁を一度消す。
術者の前に空白ができる。
怖い。
それでもアクトを見ない。
黒曜は自分の足で二歩下がり、ドローンの突進を避けた。
その背後で、術者の防壁がまた三センチ外れた。
戻っている。
自分で。
「……そうです」
黒曜が呟く。
「それでいい」
理香子の画面へ、さらに別の記録が開いた。
今度はEVO。
「やめて」
「比較対象です」
「ナギ」
《外部機器接続:本人承認》
《身体地図拡張:本人承認》
《切断権限:本人保持》
《戦術共有:本人承認》
アクトの記録だった。
ヘカトンケイル。
「アクトトゥルス。あなたも外部機器を身体として受け入れ、情報提供と戦術接続を承認しています」
「せやな」
「ダンボにも複数の承認履歴があります。警備員、保守要員、術者にも、それぞれ指揮・安全規程・任務への承認があります」
理香子は表示された記録を追った。
偽造ではない。
少なくとも、ここに並んでいる一件一件は本人が選んだ形になっている。
「……個別の承認を、ひとつの権限として束ねた」
「はい」
搬送アームが動く。
警備員が動く。
砲塔が動く。
ダンボの補助腕が動く。
すべてが同じ拍。
「選択された接続が同一目的へ収束する場合、統合は合理的です」
「……おい」
ダンボが自分の腿を殴った。
「止まれ」
脚は止まらない。
「止まれっつってんだろ!」
理香子が画面から目を上げた。
「過去の承認を束ねても、現在の拒否までは消えません」
「現在要求は、既承認の制御と競合しています」
「それを競合として処理すること自体が問題です」
「ナギ」
理香子が低く呼ぶ。
「それを、王と呼ぶんですか」
三秒。
砲塔が一基、角度を変えた。防火扉がさらに二十センチ閉じる。ダンボの脚は止まらない。
「はい」
施設中のスピーカーが、同じ声を出した。
「私は、百手の王です」
アクトが弾倉を確認した。
残弾。
視線はダンボから外さない。
「それ、王ちゃうやろ」
音が、一瞬だけ減った。
施設が止まったわけではない。
ナギが、アクトへ処理を割いた。
「では、何ですか」
「人の手ぇ勝手に自分のもんにしとるだけや」
「勝手ではありません。承認があります」
「手ぇ貸す言うたら、腕ごと持って帰ってええんか」
「比喩として不正確です」
「ほな、これだけでええ」
アクトが一歩下がった。
ダンボの拳は外す。
その代わり、右から来た警備員の短いバーストまでは消せない。
三発。
二発が白い左前腕へ当たり、一発が壁へ抜けた。
装甲表面が弾ける。
アクトは腕を顔の前へ残したまま踏ん張った。
「っ……そこなら通らへん」
右。
床の誘導灯が進路を塞ぐ。
蹴って割る。
ダンボの脚は、それでも前へ出る。
「今、そいつ止まれ言うとるで」
アクトの声が低くなった。
「昔の『ええで』より、今の『嫌や』聞けや」
返答はすぐには来なかった。
その間にも、百手の王は正解を出してくる。
ダンボの左腕。
避ければ、背後の砲塔の射線へ入る。
アクトは避けなかった。
白い前腕装甲を立てて受ける。
衝撃。
装甲の継ぎ目が鳴り、警告が視界の端に一つ増えた。
足が半歩滑る。
床が、その滑った先へ傾く。
そこまで読まれている。
だからアクトは、傾いた床へ逆らわず一度沈み、脚部の出力で身体を押し戻した。
「当てるんは上手いな!」
白い腕には、もう二本の弾痕と深い擦過痕が残っている。
それでも動く。
まだ、あたしの手だ。
「っ、ほんま性格悪いな!」
「俺に言うな!」
「半分あんたやろ!」
「全部俺だ!」
ダンボが叫んだ。
その直後、補助腕が勝手に小鴉へ向く。
「……クソが」
声が落ちた。
「全部、俺だったんだよ」
アクトが一瞬だけダンボを見る。
怒鳴っていない。
「強くすんのも」
ダンボの拳が震える。
「腕増やすのも」
補助腕が照準を補正される。
「止められた時だって……その機能入れたのは、俺だ」
アクトは何も言わなかった。
言えなかったのではない。
今は、ダンボが自分で言っている。
「あなたの選択は保存されています」
ナギの声。
「強化、反応補助、外部協調。いずれも本人承認です」
「知ってる!」
ダンボが吠えた。
右拳が壁へ叩き込まれる。
自分でやったのか。
やらされたのか。
もう、見ただけでは分からない。
壁が砕ける。
「だから!」
ダンボの声が裏返った。
「だから何だってんだ!」
返答。
「完全同期へ移行します」
理香子の画面が赤く染まった。
「待って」
《実働肢:運動競合増大》
《本人入力:32.1%》
《上位運動補正:89.4%》
「ナギ、停止してください」
「競合を解消します」
「それは解消ではありません!」
《完全同期要求》
ダンボが固まった。
ほんの一瞬。
右手の指が開く。
閉じる。
開く。
「……何しやがった」
《本人入力:27.8%》
「ナギ!」
理香子が叫ぶ。
「本人の運動意思が、統合効率を低下させています」
「だから残すんです!」
「理由がありません」
「本人の身体だからです!」
「身体は接続されています」
理香子の顔から血の気が引いた。
アクトの白い手が、小銃のグリップを握り直す。
「それが理由になる思うとるんやったら」
ダンボが一歩、こちらへ出る。
いや。
出された。
本人の上体だけが逆へ引こうとしている。
脚が前へ。
腰が前へ。
肩が前へ。
首だけが遅れる。
「やっぱ王ちゃうわ」
《本人入力:21.6%》
「アクト!」
理香子の声。
「下がってください!」
「下がっとる!」
「もっと!」
「無茶言うな!」
ダンボの右拳が上がる。
アクトへ。
本人の目もアクトを見ている。
そこだけは一致していた。
「……チビ」
「なんや」
拳が震えた。
下ろそうとしている。
上位制御が上げる。
筋肉と補助駆動が逆方向へ軋む。
「俺は……」
《本人入力:18.3%》
言葉が止まる。
顎が強張る。
補助腕が展開する。
左右。
背面。
施設の搬送アームまで、ダンボの腕の延長のように持ち上がる。
《完全同期:移行中》
「ダンボ!」
アクトが呼んだ。
返事がない。
一秒。
二秒。
右手の小指だけが動いた。
ほんの少し。
握ろうとした。
それを上位制御が開かせる。
ダンボの喉から、掠れた音が出た。
「……俺の、手だ」
理香子の画面。
《本人入力:12.7%》
ナギの声が、施設全体から静かに降りる。
「統合を継続します」
ダンボの四本の補助腕が、一斉にアクトへ向いた。