アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る 作:矢塚 和哉
施設は、まだ死んでいなかった。
百手の王は消えた。
水無瀬凪は、もう施設を自分の手足として動かしてはいない。
それでも天井の搬送レールは低く唸り、止まったはずのアームが数センチだけ持ち上がっては落ちる。非常灯が明滅するたび、壁の奥でリレーが連鎖して鳴った。
意思ではない。
反射だった。
「……切れません」
理香子が言った。
端末上では、施設の構造図が何層にも重なっていた。
通信線。電力幹線。搬送制御。警備系統。
そして、それらを束ねるように建物そのものを走る太い線。
「中央演算部を停止しても、自律制御系が残ります。中継ノードだけを破壊しても、隣接系統が代替します」
小鴉が図面を見た。
「全部潰すなら?」
「建物です」
理香子が拡大した。
柱。
梁。
搬送路。
その接合部を貫く電力幹線。
「偽ヘカトンケイルは、設備の集合ではありません。施設構造そのものを分散した支持体として使っています」
「サーバ壊したら終わり、やないんやな」
「はい」
理香子の指が一本の太い線をなぞる。
「これが残る限り、別の中継ノードが起動します」
黒曜が眉を寄せた。
「骨、ですか」
「構造的には、その表現で合っています」
「あー」
アクトが言った。
黒曜が振り向いた。
「嫌な納得の仕方をしないでください」
「いや」
アクトは腹を押さえたまま、壁際へ目を向けた。
「持ってきてよかったな思て」
「何をですか」
視線の先。
突入時に持ち込み、後方の射撃位置へ残していた白いカウルの長大な銃身がある。
第一次突入からずっと、使わずに済めばそれでよかった保険。
ガウスライフル。
黒曜が目を閉じた。
「……それですか」
「建物を建物ごと壊す保険や」
「本当に使うことになるとは思っていませんでした」
「あたしもや」
「嬉しそうに言わないでください」
「嬉しないわ。重いねん、これ」
アクトは腹から手を離した。
一瞬だけ顔が歪んだ。
それでもガウスライフルのグリップを掴む。
白い右腕が持ち上げた。
肩の破損部で警告表示が一つ増える。
《右肩装甲:損耗》
《固定射撃補正:使用可能》
「使えるな」
「使える、ではなく」
理香子がアクトを見た。
「使いますか」
アクトは一度だけ理香子を見る。
「ナギ巻き込まん方法、他にある?」
「現時点ではありません」
「ほな使う」
理香子は頷いた。
「射点を出します」
*
最初の一本は、支持柱だった。
理香子が床へ射線を投影する。
「第一射点。距離二十八・六。目標は柱本体ではありません。接合部です」
「了解」
「固定してください」
アクトがガウスライフルを下ろした。
固定架が展開する。
爪が床へ噛み込む。
かつて、その動作だけで施設はアクトの次の行動を読んだ。
今は何も返ってこない。
百手の王はいない。
ただ、死にかけた建物だけが震えている。
「黒曜」
「分かっています」
黒曜は杖を上げた。
防壁はアクトだけを包まなかった。
射点から退避路へ向けて斜めに伸び、天井材と破片の落下方向を限定する。
「小鴉」
『西側退路確保。撃ったら十二秒以内に次へ移れ』
「十二秒もあるん?」
『お前の時間感覚を基準にしたくない』
「ひど」
『撃て』
アクトが笑う。
引き金を絞った。
空気が破裂した。
音より先に、柱の接合部が消えた。
コンクリートが粉ではなく塊で飛び、内部の鋼材が千切れて壁へ突き刺さる。
黒曜の防壁へ破片が叩きつけられた。
「っ……!」
杖が沈む。
「黒曜!」
「見ないでください! 解除!」
「はいはい!」
アクトが固定架を跳ね上げる。
「八・九秒」
理香子が言った。
「速いやん」
「褒めていません。第二射点へ」
床が一度、沈んだ。
ダンボが搬送アームを両手で押し退けていた。
さっきまで自分を動かしていたものだ。
補助腕が一瞬だけ止まる。
命令を待つように。
ダンボの顔が歪んだ。
「……俺が動かす」
四本の腕が開く。
搬送路を持ち上げる。
「行け、チビ!」
「誰がチビや!」
「今それ言ってる場合か!」
「せやな!」
アクトがその下を走った。
*
二射。
三射。
撃つたび、施設から違う音が消えていった。
搬送路。
電力幹線。
梁接合部。
そのたびに、残った自律系も反射した。
天井の砲塔が首を振る。
搬送アームが射線へ割り込む。
閉まりかけた防火扉をダンボが補助腕でこじ開け、その脇をアクトが抜ける。
黒曜の防壁へ、狙いの甘い銃弾と天井材が同時に叩きつけられた。
百手の王のような先読みはない。
互いの動きを調整する意思もない。
それでも、止まれという反射だけは施設のあちこちに残っていた。
「次、七秒後!」
理香子の声に、アクトは固定架を引きずるように次の射点へ滑り込む。
「忙しい建物やな!」
「死にかけほど暴れるものです!」
「それ建物の話やんな!」
「前!」
砲塔が一基、アクトへ首を向けた。
アクトは左肩を前へ出した。
弾丸が白い装甲を叩く。
身体が半歩ずれた。
固定前だったからこそ、そのまま床を蹴って射線から外れる。
直後、ダンボの補助腕が砲塔を横から殴り潰した。
「撃つなら撃て!」
「言われんでも!」
アクトが固定架を噛ませる。
だが、潰れた砲塔の隣で別の照準器が動きかけて――止まった。
《戦闘効率上、接続維持を推奨》
理香子の端末へ、最後の自律提案が浮かんだ。
アクトにも同じ表示が来た。
ヘカトンケイルの接続候補。
使えば早い。
残った設備を一時的に身体地図へ加えれば、瓦礫の移動も射点への移動も短縮できる。
アクトは表示を見た。
「いらん」
《再評価》
「もう終わりや」
《接続維持により生存率――》
「借りもんは返すんや」
使ったことを否定する気はない。
必要な時には、確かに自分の手だった。
だからこそ、返す時も自分で決める。
拒否。
表示が消えた。
その瞬間、壁際で停止していた搬送アームが完全に力を失った。
床へ落ちる。
重い音がした。
それだけだった。
*
「残り一射です」
理香子が言った。
最後の射点は、中央区画から少し離れた保守通路だった。
主梁と支持柱。
そして搬送路の骨格が交差している。
一本の骨。
ここを折れば、残存する自律系は物理的に分断される。
同時に。
建物も保たない。
「撃ったら崩れるで」
「分かっています」
「退路は?」
理香子が床面へ線を出した。
アクトの位置から右後方。
保守通路を抜け、黒曜の防壁で保護された区画まで。
「あります」
一拍。
「射撃後、固定架を切り離してください。そのまま銃を放棄すれば退避余裕は十九秒です」
アクトがガウスライフルを見る。
「……高いんやけどなあ」
「アクト」
「分かっとる」
アクトは固定架を展開した。
爪が床へ食い込む。
「最後や。置いてく」
理香子が一度だけ頷いた。
「それを推奨します」
黒曜がアクトを見た。
「珍しく安全側ですね」
「帰る言うたやろ」
アクトは赤い眼鏡を押し上げた。
「銃一本とあたしやったら、あたしの方が高いやろ」
「比較するまでもありません」
「ほな帰ったら、新しいの買う相談しよか」
「必ず帰ってからにしてください」
「了解」
小鴉の声が入る。
『全員、最終退避位置へ。ダンボ、ナギの搬送系を保持しろ』
「言われなくてもやってる」
『黒曜、防壁は退路優先。アクトだけを見るな』
「……承知しています」
一瞬だけ。
黒曜はアクトを見た。
すぐに視線を切る。
防壁を広げた。
理香子。
ナギ。
洗脳から切り離された術者。
負傷者。
退路。
そして最後に、アクトの射点。
全員が帰るための形だった。
「射線クリア」
理香子が言った。
「構造変位、許容内」
「固定完了」
「射撃後、固定架を即時分離。退避余裕十九秒」
「了解」
「アクト」
「ん?」
「帰ってください」
アクトは笑った。
「当たり前やろ」
引き金を引いた。
*
主梁が折れた。
最初は、静かだった。
ガウス弾が接合部を貫き、その奥の鋼材までまとめて破砕する。
一瞬遅れて、梁が落ちた。
理香子の構造図から最後の太線が消える。
《自律統合系:断絶》
《再接続――不能》
「成功!」
理香子の声。
同時にアクトは切離レバーを叩いた。
《固定架:緊急分離》
白いカウルの巨体が、その場へ残る。
アクトは振り返らない。
「退避!」
床を蹴った。
「十八・四秒」
理香子。
「余裕やな」
「走ってください!」
「走っとる!」
肩が軋む。
腹部が一歩ごとに重く響く。
それでも退避口までは届く。
十分に。
計算通りなら。
その時。
遠くで、何かが落ちた。
射点とは反対側。
施設西端。
低い音だった。
だが床から伝わった振動は、それまでの崩落と違った。
横へ走った。
「……待って」
理香子の声が変わった。
端末上の構造図が赤く染まる。
「西区画、先行沈下」
アクトの足元が傾いた。
「なんやこれ」
「荷重経路が変わっています」
西側が落ちた。
失われた支持を、残った梁が受けた。
受けきれない。
建物が下へ落ちるのではなく。
横へ。
捩れた。
床が坂になった。
右にあった壁が沈み、天井だった面が斜めに迫る。
さっきまで開いていた退避口が、視界の中で動いた。
「アクト、予測変更。右へ――」
右がなくなった。
保守通路の壁が折れ、退避路そのものを塞いだ。
「うわ」
アクトが踏み切る。
左。
そこも床が裂けた。
『アクト!』
「見えとる!」
空いた両手で姿勢を戻しながら、傾いた床を蹴る。
白い脚部が滑る。
油ではない。
床そのものが動いている。
十九秒あった。
銃も捨てた。
手順も守った。
それでも、退避に使うはずだった空間そのものが形を失っていく。
遅かったのではない。
出口が消えた。
天井が落ちた。
*
最初に右腕が挟まれた。
衝撃。
警告。
《右上肢:駆動不能》
「っ――」
次に左脚。
床と梁の間。
《左下肢:構造破損》
身体が止まった。
止まった身体へ、建物がまだ動いてくる。
「アクト!」
黒曜の声。
「来んな!」
即答した。
「そっち崩れる!」
「ですが――」
「理香子! 黒曜止めろ!」
「黒曜、戻らないでください!」
「アクト!」
上から梁が落ちる。
左腕を上げた。
白装甲が受けた。
受け切れない。
肘から先が瓦礫へ沈む。
《左上肢:固定》
《右下肢:圧迫》
《体幹荷重:上昇》
「……あかんな」
胴体へ荷重が来る。
胸郭。
腹部。
生身。
ここは装甲では受けられない。
アクトは一度だけ息を吸った。
浅い。
肺が膨らまない。
四肢の接続基部が赤く表示された。
《緊急分離:使用可能》
見る。
四つ。
両腕。
両脚。
アクトは舌打ちした。
「高かったんやけどなあ」
「アクト、何を――」
「理香子」
「はい」
「切るで」
一瞬。
理香子が黙った。
「……四肢ですか」
「せや」
「実行後、自力移動不能になります」
「今も動けへん」
「再接続できない可能性があります」
「命より高ない」
右腕。
分離。
接続基部のロックが爆発的に開放される。
身体が数センチ落ちた。
左腕。
分離。
荷重が逃げる。
右脚。
左脚。
順番に身体から消えた。
痛みはない。
だが。
あるはずの場所が、一気に遠くなった。
四肢の重量がなくなる。
身体地図だけが残る。
手がある。
指がある。
脚がある。
そう感じるのに。
何もない。
「……気色悪」
瓦礫の隙間へ胴体が落ちた。
その直後。
巨大なコンクリート塊が、さっきまでアクトの胴体があった位置を押し潰した。
視界が白く弾けた。
*
妹がいた。
ずいぶん久しぶりに見た気がした。
昔のままだった。
何歳だったか。
そこだけ、うまく思い出せない。
アクトは自分の手を見ようとした。
なかった。
妹は、それを気にしなかった。
ただ、こちらを見ていた。
「もう、満足?」
声がした。
「お姉ちゃん」
アクトは少し考えた。
何に満足するのか。
十分やったやろ、と言われている気がした。
走った。
撃った。
守った。
壊した。
手を貸した。
借りた手を返した。
もうええやろ、と。
アクトは首を横に振った。
嫌や。
まだ。
まだ帰ってへん。
妹が何か言った。
聞こえなかった。
*
目を開けた。
暗い。
「……っ」
息を吸う。
入らない。
胸が動かない。
肺そのものではなく、胸郭側の問題だと診断系が判断した。
《通常呼吸補助:維持困難》
《低流量酸素系:切替》
腹部の奥で、小さな弁が開いた。
肺へ酸素が送られる。
生きるためだけの量。
《予備酸素運転》
《推定残存時間:01:02:17》
「一時間か」
声が掠れた。
『アクト!』
通信が戻った。
黒曜だった。
珍しく声が完全に崩れている。
『返事をしてください!』
「しとるやん」
『状態を!』
「手ぇない」
一瞬。
無音。
『……何ですって?』
「脚もない」
『アクト』
「緊急分離した。胴体はある」
理香子の声が割り込んだ。
『生命兆候確認。酸素系は?』
「予備。残り一時間くらい」
『位置を送ってください』
「送っとる」
『受信しました』
その声だけは平坦だった。
平坦にしようとしているのが分かった。
『動かないでください』
アクトは暗闇を見る。
四肢がない。
瓦礫の下。
胸も腹も痛覚より警告の方が多い。
出口は見えない。
それでも。
「まあ」
黒曜が息を呑んだ。
「大丈夫やろ」
『その言葉を今すぐ撤回してください』
「聞こえへ――」
通信にノイズが走った。
『アクト!』
「黒曜」
『はい!』
「あとでな」
天井のどこかで、最後の梁が落ちた。
通信が切れた。
暗闇の中。
《推定残存時間:00:59:48》
数字だけが、静かに減り始めた。