アクトと黒曜 ――銃声と魔法、軽口と理屈。関係に名前をつけないまま、共に走る   作:矢塚 和哉

45 / 45
自分の手

 暗い。

 

 最初に分かったのは、それだった。

 

 次に、狭い。

 

 胸のすぐ上に何かがある。コンクリートか、梁か、それとも床だったものか。見ようとして、首がほとんど動かないことに気づいた。

 

 最後に。

 

 手がない。

 

 脚もない。

 

 分かっている。  自分で切った。

 

 それでも、右手を動かそうとすると、指が曲がる感覚だけは返ってきた。

 

 握る。  開く。

 

 感覚だけ。

 

「……気色悪いな、これ」

 

 声にすると、胸の奥が痛んだ。

 

 表示が視界の端に浮かぶ。

 

《予備酸素系:稼働》 《推定残存時間:00:51:43》

 

「減るん早ない?」

 

 返事はない。

 

 通信は死んでいる。

 

 アクトは息を吐こうとして、途中でやめた。

 呼吸を意識すると余計に苦しくなる。肺そのものが止まっているわけではない。ただ、胸郭の損傷と瓦礫の圧迫で、まともな換気量を稼げない。内蔵酸素系が足りない分を押し込んでいる。

 

 一時間。

 

 正確には、もう五十二分もない。

 

「まあ――」

 

 言いかけて、やめた。

 

 黒曜に怒られる。

 

 通信が切れていても怒られる気がした。

 

          ◇

 

「そこを退いてください」

 

 黒曜の声は低かった。

 

 目の前には、崩れた保守通路がある。

 

 つい数分前まで通路だった場所だ。

 いまは梁と床材と搬送レールが斜めに噛み合い、巨大な栓になっていた。奥へ進む隙間はない。

 

 EVOの救助要員が二人、黒曜の前に立っている。

 

「二次崩落の危険があります。現在、構造解析を――」

 

「分かっています。退いてください」

 

「黒曜」

 

 理香子が呼んだ。

 

 黒曜は振り向かなかった。

 

「退いてください」

 

「そこではありません」

 

 今度は振り向いた。

 

 理香子は床に膝をつき、端末を三枚開いていた。  顔色が悪い。

 

「……何がです」

 

「アクトの位置です」

 

 崩落前の構造図。  最後に受信したアクトの座標。

 ガウスライフルの射点。  四肢接続基部の緊急分離ログ。

 

 それらが重ねられている。

 

「最後の座標から、落下方向だけで追うとそこです。でも、建物は落ちていません。捩れています」

 

 理香子の指が地図を滑った。

 

「床面が先に東へ傾斜。その後、中央梁が沈下。アクトは垂直に落ちたのではなく、床材ごと横へ移動しています」

 

「どこへ」

 

「推定中です」

 

「何分かかります」

 

「分かりません」

 

 黒曜の眉が動いた。

 

「分からない?」

 

「分かりません」

 

 理香子は同じ言葉を返した。

 

 声は平坦だった。  指だけが、いつもの倍ほど速く動いている。

 

「切断ログが四つあります。右腕、左腕、右脚、左脚。時刻差は一・七秒。そこから胴体の移動方向を逆算します」

 

「酸素は」

 

「最後の表示では一時間強」

 

「最後の表示では、でしょう」

 

「はい」

 

 黒曜が杖を握り直した。

 

「なら急いでください」

 

「急いでいます」

 

「もっとです」

 

「急いでいます」

 

 理香子の声が、ほんの少しだけ上ずった。

 

 黒曜は黙った。

 

 その横を、巨大な影が通った。

 

 ダンボだった。

 

 瓦礫の前で止まり、救助要員を見る。

 

「これ、どかしゃいいのか」

 

「待ってください」

 

 救助主任が即座に止めた。

 

「荷重が読めていません。一本抜けば上が全部落ちる可能性があります」

 

「じゃあ読め」

 

「いまやっています」

 

「急げ」

 

「やっています」

 

 ダンボは舌打ちした。

 

 それ以上は手を出さなかった。

 

 ただ、瓦礫の前から離れもしなかった。

 

          ◇

 

 EVOは速かった。

 

 慈善事業ではない。

 

 旧施設はEVO由来。  生存して回収されたナギもEVO案件。

 アクトは契約下の実働要員。  しかもMCT由来の技術と人員まで絡んでいる。

 

 死者が増えれば、責任も増える。

 

 だから企業は金を使った。

 

 大型救難ドローン。  地中探査レーダー。  構造解析用センサー。

 切断機。  油圧ジャッキ。  医療班。

 

 現場責任者の御厨は、到着した機材を見もしなかった。

 

「生存者一名。最優先で回収します。旧施設の保全順位はゼロへ変更」

 

 MCT側の監査員が口を挟む。

 

「証拠保全は」

 

「人命回収後です」

 

「当社資産由来の――」

 

「崩落事故の現場で、瓦礫を証拠品として抱えて人間を窒息死させた記録が欲しいなら、どうぞ正式に異議を出してください」

 

 監査員は黙った。

 

 御厨は端末へ視線を戻した。

 

「救助を継続します」

 

 企業は優しくない。

 

 だが、責任から逃げない時の企業は強い。

 

          ◇

 

《推定残存時間:00:37:08》

 

「三十七分か」

 

 アクトは呟いた。

 

 時間を見るのをやめようと思って、三十秒後にはまた見た。

 

《00:36:36》

 

「見ても増えへんか」

 

 当たり前だった。

 

 右手を握る。

 

 ない。

 

 左脚の膝を曲げる。

 

 ない。

 

 頭では理解しているのに、身体地図はまだ四肢を持っている。

 

 右腕の装甲が瓦礫を押している気がする。

 左脚の踵が床に触れている気がする。

 

 だが実際にあるのは、接続基部より先が空白になった胴体だけだ。

 

「……返事くらいせえや」

 

 存在しない右手に言った。

 

 返事はなかった。

 

 代わりに。

 

 遠くで、音がした。

 

 ごん。

 

 アクトは目を開いた。

 

 ごん。

 

 規則的ではない。

 

 機械の振動でもない。

 

 ごん。

 

「……おい」

 

 瓦礫の向こうからだった。

 

「雑やなあ」

 

 少し笑った。

 

 胸が痛んだ。

 

          ◇

 

「ここです」

 

 理香子が言った。

 

 端末上に赤い円が出た。

 

 最初の推定位置から十一メートル以上ずれている。

 

「切断された右脚が途中の空洞で止まっています。左腕はさらに下。胴体は――ここ」

 

 地中探査レーダーの像と重なる。

 

 不規則な空洞。

 

 人間一人が横たわるには狭い。

 

 だが、アクトには四肢がない。

 

 そのことが、生存空間を作っていた。

 

 黒曜が一歩出る。

 

「行きます」

 

「直進は無理です」

 

「分かっています」

 

「上から掘ります」

 

「何分」

 

 救助主任が答えた。

 

「安全にやるなら四十五分」

 

「ありません」

 

「分かっています。だから安全率を落とす」

 

 御厨が言った。

 

「二十五分で開けます」

 

 黒曜が彼を見る。

 

「可能ですか」

 

「可能にします。ただし途中から人力が必要です。機械を入れると空洞を潰す」

 

「人力ならいるぞ」

 

 ダンボが言った。

 

 救助主任が彼の腕を見る。

 

「出力制御は」

 

「俺がやる」

 

「外部補正なしで?」

 

 ダンボの顔が固まった。

 

 一瞬。

 

 本当に一瞬だけ。

 

 右腕が止まった。

 

 何かを待つように。

 

 許可を。

 

 補正を。

 

 動かしていいという、外からの命令を。

 

 ダンボは自分の右手を見た。

 

 握った。

 

 開いた。

 

 もう一度、握った。

 

「……俺がやる」

 

 今度ははっきり言った。

 

「荷重だけ教えろ。抜く順番もだ。勝手にはやらねえ」

 

 救助主任が頷いた。

 

「それなら使えます」

 

「使うって言うな」

 

「協力をお願いします」

 

「最初からそう言え」

 

 ダンボは瓦礫へ向かった。

 

          ◇

 

 救助は、派手ではなかった。

 

 一本ずつだった。

 

 梁を二センチ持ち上げる。  ジャッキを入れる。  固定する。

 砕けた床材を切る。  小片を吸い出す。

 

 黒曜は防壁を張った。

 

 瓦礫を止めるためではない。

 

 崩落そのものを魔法で支えるには大きすぎる。

 

 落ちる小片の方向を変える。  切断中に跳ねる破片を止める。

 作業員の頭上だけを覆う。

 

 守る場所を選んだ。

 

 鼻の下に乾いた血の跡が残っていた。

 

「右、三センチ」

 

 理香子が言う。

 

 ダンボが梁をずらす。

 

「止めて」

 

 止まる。

 

「二ミリ戻してください」

 

「二ミリ?」

 

「二ミリです」

 

「分かるか、そんなもん」

 

「あなたの身体なら分かります」

 

 ダンボは黙った。

 

 右腕を少し戻した。

 

「そこです」

 

「……分かるじゃねえか」

 

「はい」

 

 ダンボは鼻を鳴らした。

 

 また握る。

 

 自分の手で。

 

          ◇

 

《推定残存時間:00:14:51》

 

 音が近い。

 

 アクトにも分かった。

 

 何かが切断される音。  瓦礫が擦れる音。  怒鳴り声。

 

 そして。

 

「アクト!」

 

 黒曜の声だった。

 

 遠い。

 

 けれど、聞こえた。

 

「おー」

 

 声を出したつもりだった。

 

 ほとんど息しか出なかった。

 

「アクト!」

 

「ここやー」

 

 胸が痛い。

 

「返事をしてください!」

 

「しとるわ……」

 

「聞こえません!」

 

「知らんがな……」

 

 頭上で何かが動いた。

 

 細い光が落ちてきた。

 

 眩しかった。

 

 アクトは目を細めた。

 

 その隙間から、黒いものが見えた。

 

 髪。

 

 黒曜の顔。

 

 ひどい顔だった。

 

「……なんちゅう顔しとんねん」

 

「誰のせいですか」

 

「建物?」

 

「あなたです」

 

「建物やろ」

 

「あなたです」

 

「理不尽やなあ」

 

 黒曜の顔が歪んだ。

 

 怒っている。

 

 たぶん。

 

 泣いているようにも見えた。

 

「手ぇないで」

 

「見れば分かります」

 

「脚もない」

 

「分かっています」

 

「ほんまに?」

 

「黙ってください」

 

「はい」

 

 素直に黙った。

 

 数秒後。

 

「黒曜」

 

「何ですか」

 

「帰れる?」

 

 黒曜は一度だけ目を閉じた。

 

「帰します」

 

「そか」

 

「あなたも帰るつもりだったのでしょう」

 

「そらな」

 

「なら最後まで、そのつもりでいてください」

 

「おう」

 

 黒曜が隙間から手を伸ばした。

 

 届かない。

 

 アクトにも、伸ばす手がない。

 

 二人ともそれに気づいた。

 

 黒曜は手を引かなかった。

 

 アクトは少し笑った。

 

「あとでな」

 

「当然です」

 

          ◇

 

 回収された時、酸素表示は七分を切っていた。

 

 そこから先は速かった。

 

 EVOの医療班がアクトを受け取る。

 

 四肢接続基部を封鎖。  胸郭固定。  循環維持。

 内蔵酸素系から外部呼吸補助へ切り替え。

 

 医療担当が数字を読み上げるたびに、別の誰かが処置を終える。

 

 アクトは途中から眠らされた。

 

 今度は妹を見なかった。

 

          ◇

 

 目を覚ました時、天井が白かった。

 

「病院か」

 

「医療施設です」

 

「似たようなもんやろ」

 

「違います」

 

 黒曜がいた。

 

 椅子に座っている。

 

「何時間?」

 

「十九時間です」

 

「寝たなあ」

 

「寝かされていたのです」

 

「腹減った」

 

 黒曜の眉間に皺が寄った。

 

「あなたは」

 

「はい」

 

「本当に」

 

「はい」

 

「何を考えているのですか」

 

「蕎麦食いたいなって」

 

「そういう話ではありません!」

 

 怒鳴られた。

 

 アクトは目を瞬いた。

 

 黒曜が怒鳴るのは珍しい。

 

「帰るつもりだった、と言いましたね」

 

「言うた」

 

「退避計算もあった」

 

「あった」

 

「固定解除も間に合った」

 

「間に合った」

 

「それでも、安全余裕を削ったのはあなたです」

 

 アクトは黙った。

 

「結果論やろ」

 

「結果がこれです」

 

 黒曜の視線が下がる。

 

 シーツの下。

 

 そこには、腕も脚もない。

 

「あなたの『まあ、大丈夫やろ』は、見積もりではありません」

 

「……厳しいな」

 

「雑なのです」

 

 アクトは天井を見た。

 

 言い返そうと思った。

 

 いくつか浮かんだ。

 

 全部、やめた。

 

「……次から、もうちょい余裕見るわ」

 

「もうちょい、ではありません」

 

「善処します」

 

「信用しません」

 

「せやろな」

 

 黒曜はしばらく黙っていた。

 

 やがて、小さく息を吐いた。

 

「生きていてください」

 

 アクトはそちらを見た。

 

 黒曜は見返さなかった。

 

「おう」

 

 それだけ答えた。

 

          ◇

 

 ダンボが来たのは二日後だった。

 

 見舞いではない、と最初に言った。

 

「EVOに呼ばれただけだ」

 

「へえへえ」

 

「ついでだ」

 

「はいはい」

 

「その顔やめろ」

 

「どの顔や」

 

「ムカつく顔だ」

 

「元からや」

 

 ダンボは鼻を鳴らした。

 

 右手を見た。

 

 一瞬だけ、止まる。

 

 それから握った。

 

 開いた。

 

 アクトはそれを見ていた。

 

「手ぇ、返してもろたで」

 

「二度と借りねえ」

 

「次は利子取るで」

 

「借りねえっつってんだろ」

 

「高いで?」

 

「だから借りねえ」

 

 ダンボは踵を返した。

 

「おい」

 

「なんだ」

 

「瓦礫、掘ったんやって?」

 

「知らねえ」

 

「理香子から聞いた」

 

「あの女、余計なこと喋るな」

 

「ありがとな」

 

 ダンボは止まった。

 

 振り返らない。

 

「借りを返しただけだ」

 

「まだ残っとるで」

 

「ふざけんな」

 

 そのまま出ていった。

 

 友情ではない。

 

 たぶん、あれでいい。

 

          ◇

 

 ナギは生きていた。

 

 EVOの医療区画で治療と隔離を受けている。

 

 理香子とは同居しない。

 

 理香子は、それを提案もしなかった。

 

「今後の居住先、契約、治療方針は本人とEVOで決める事項です」

 

 そう言った。

 

 アクトは少しだけ笑った。

 

「拾ったんちゃうん?」

 

「拾いました」

 

「ほな面倒見たら?」

 

「拾うことと、人生を決めることは別です」

 

「せやな」

 

 数日後。

 

 理香子の端末に、一通だけメッセージが来た。

 

《まだ笑ってない》

 

 三秒後。

 

《でも、生きてる》

 

 理香子は画面を見た。

 

 長く見た。

 

 返信欄を開く。

 

 閉じる。

 

 また開く。

 

「何て返すん?」

 

「見ないでください」

 

「見てへんで」

 

「見ています」

 

「画面は見てへん」

 

「顔を見ています」

 

「フヒって言わへんの?」

 

「言いません」

 

 理香子はアクトから端末を隠した。

 

 しばらくして。

 

 短く打った。

 

《はい》

 

 送信。

 

 三秒待った。

 

 返事は来なかった。

 

 それでよかった。

 

          ◇

 

 ロクの話をしたのは、その少し後だった。

 

 場所は病室ではなかった。

 

 サルーンだった。

 

 葬式、と理香子は言った。  アクトが想像したような祭壇も棺もなかった。

 

 テーブルが一つ。

 

 酒が数本。

 

 空けた椅子が一脚。

 

 その前に、誰も口をつけていないグラスが置かれている。

 

「……葬式いうより飲み会やな」

 

「そういうものだったそうです」

 

 理香子が答えた。

 

「ロクが?」

 

「はい」

 

 アクトは杖に体重を預けた。

 

 医療施設から借りた四肢は、白くない。

 

 装甲もない。

 

 皮膚を似せる必要すらない、灰色の簡素なレンタルリムだった。

 

 歩ける。

 

 物も持てる。

 

 それだけなら十分だ。

 

 だが、いつもの歩幅で脚を出そうとすると半歩足りない。

 いつものつもりで身体を傾けると、戻ってくる反応が遅い。

 

 だから杖を借りた。

 

 右手で床を突く。

 

 借り物の右手で、借り物の杖を握る。

 

 それでも、勝手には動かない。

 

 動かせば動く。

 

 止めれば止まる。

 

 それでよかった。

 

「椅子、引きます」

 

 黒曜が手を伸ばした。

 

「自分で座れるで」

 

「転んだら笑います」

 

「ひどない?」

 

「どうぞ」

 

 アクトは杖をつき、椅子の位置を確かめ、ゆっくり腰を下ろした。

 

 一度だけ、レンタルの左脚が予定より外へ流れた。

 

 直す。

 

 今度は止まった。

 

「……これ、あたしの脚ちゃうなあ」

 

 黒曜の表情が固まる。

 

「いや、悪い意味ちゃうで」

 

 アクトは膝を軽く叩いた。

 

「借りもんや。でも、ちゃんと言うことは聞く」

 

 黒曜は何も言わなかった。

 

 理香子がグラスを並べた。

 

 ナギは来ていない。

 

 まだ医療区画から出られない。

 

 代わりに、テーブルの端末が一つだけ回線を開いていた。

 

 音声だけ。

 

『聞こえています』

 

「ほな、全員おるな」

 

「一人、いません」

 

 理香子が空いた椅子を見る。

 

「せやった」

 

 誰が乾杯と言い出したのか、アクトには分からなかった。

 

 グラスが上がった。

 

 空いた席の前の一杯だけは動かない。

 

 アクトのグラスには酒ではなく水が入っていた。

 

「なんであたしだけ水やねん」

 

「投薬中です」

 

「一杯くらい」

 

「駄目です」

 

「黒曜」

 

「私を見ても駄目です」

 

「けち」

 

「生きて帰った直後の人間が言う台詞ではありません」

 

 アクトは諦めて水を飲んだ。

 

 少しだけ、場が緩んだ。

 

 それから。

 

 理香子がロクの話をした。

 

 十一年前。

 

 切断。

 

 最後尾。

 

 二人を先へ。

 

 ナギの声が端末から返る。

 

『私は、切断によってロクが一人残されたと判断しています』

 

「私は、切断しなければ全員が残されたと判断しています」

 

『一致しません』

 

「はい」

 

『記録が不足しています』

 

「はい」

 

 それで会話は止まった。

 

 どちらも譲らなかった。

 

 どちらも、相手を訂正しようとはしなかった。

 

 アクトは空いた椅子を見る。

 

「でも、最後に残ったんはロクなんやろ」

 

「はい」

 

『はい』

 

「二人を先に行かせた」

 

「はい」

 

『それは否定しません』

 

「ほな、そこだけでええんちゃう」

 

 理香子がアクトを見る。

 

 アクトは水のグラスを持ち上げた。

 

「死んだ奴が何考えとったかまで、勝手に決めたらあかんやろ」

 

 誰も答えなかった。

 

「せやけど、選んだことまでなかったことにするんも違う」

 

 空席の前の酒を見る。

 

「ロク。あたし会うたことないけど」

 

 少し考えた。

 

「二人とも、生きとるで」

 

 理香子の指が止まった。

 

 端末の向こうも沈黙した。

 

 三秒ではなかった。

 

 もっと長かった。

 

『はい』

 

 ナギが言った。

 

 理香子は自分のグラスを空けた。

 

「フヒ」

 

 小さかった。

 

 アクトがそちらを見る。

 

「今言うた?」

 

「言っていません」

 

「言うたやろ」

 

「言っていません」

 

 黒曜が静かにグラスを置いた。

 

 空席の酒だけが、最後まで残った。

 

          ◇

 

「で」

 

 森田が言った。

 

「どうする」

 

 アクトは診察台に寝かされたまま、天井を見た。

 

「どうする、て?」

 

「手足だ」

 

「ああ」

 

 四肢接続基部の検査画像が並んでいる。

 

 損傷はある。  だが再建可能。

 

 旧仕様に近い四肢を作り直すこともできる。

 

 森田が画像を切り替えた。

 

「同じものを戻すなら早い」

 

「ふむ」

 

「ただし今回、基部まで開ける。どうせなら接続規格から見直せる」

 

「ほう」

 

「四肢全部をモジュラー化する案もある」

 

 アクトの目が動いた。

 

「交換式?」

 

「そうだ」

 

「戦闘用と、普通っぽいやつ分けられる?」

 

「できる」

 

「装甲は?」

 

「戦闘用なら今より詰められる」

 

「反射系は?」

 

「ついでに更新できる」

 

「WRは?」

 

「二までなら現実的だ」

 

「デルタ?」

 

「金があるならな」

 

「ある」

 

「即答か」

 

「身体やぞ」

 

 森田は鼻で笑った。

 

「そうだったな」

 

 表示が増える。

 

 白い増加装甲を持つ戦闘用四肢。

 

 合成皮膚で覆った低威圧の交換肢。

 

 反射系。  装甲。  接続基部。  制御系。

 

 元へ戻すための一覧ではない。

 

 次を選ぶための一覧だった。

 

 黒曜は少し離れた場所から、それを見ていた。

 

「前と同じでなくてもいいのですか」

 

 アクトは視線だけを向けた。

 

「前のもあたしやで」

 

「はい」

 

「なくなったから言うて、あれが間違いやったわけでもない」

 

「……はい」

 

 アクトはまた一覧を見る。

 

 白い腕。

 

 白い脚。

 

 別枠に、人間の肌に近い四肢。

 

 どれもまだ図面だ。

 

 まだ自分の身体ではない。

 

 だから。

 

 選べる。

 

「次のも、あたしやろ」

 

 黒曜は何も言わなかった。

 

 ただ、少しだけ笑った。

 

 アクトはそれを見て、眉を上げる。

 

「なんや」

 

「いいえ」

 

「なんか言いたそうやん」

 

「何も」

 

「絶対なんかあるやろ」

 

「ありません」

 

「怪しいなあ」

 

 存在しない右手を動かそうとする。

 

 まだ、握る感覚がある。

 

 開く感覚もある。

 

 けれど今度は、それを気味悪いとは思わなかった。

 

 手はない。

 

 だから終わりではない。

 

 百本もいらない。

 

 借りるなら借りればいい。

 

 返す時には返せばいい。

 

 そして、自分の手は。

 

 生まれつきか、機械か、借りものかで決まるわけではない。

 

 自分で選べばいい。

 

 アクトは設計一覧へ視線を戻した。

 

「ほな、まず腕から決めよか」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。