アクトと黒曜   作:矢塚 和哉

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CROW SYSTEM / TRAUMA EXPOSURE MONITOR

SUBJECT A VULNERABILITY DISCLOSURE: ACCIDENTAL
SUBJECT B WITHDRAWAL RESPONSE: SUPPRESSED
MUTUAL OBSERVATION DEPTH: INCREASED
EMOTIONAL DISTANCE: UNSTABLE
RELATIONSHIP STATUS: UNRESOLVED

CROWシステム/心的外傷露出監視

対象Aの脆弱性開示:偶発的
対象Bの撤退反応:抑制
相互観察深度:上昇
情動的距離:不安定
関係性の状態:未解決



ガラスの底に沈む街

雨は、夜半を過ぎてから降り始めた。

 

最初は細い糸のようだったものが、零時を回る頃には高架道路の縁から滝のように流れ落ち、シアトル南部の旧商業区を灰色の水膜で覆っていた。

 

道路に残った古い白線は雨に溶け、ネオン広告の光が黒い路面へ長く引き延ばされている。

 

アクトトゥルスは、閉鎖された立体駐車場の四階から、その光を見下ろしていた。

 

赤い野球帽の上では、機械式のウサ耳センサーモジュールが一定の間隔で動いている。片方は下の道路を走る車両音へ、もう片方は背後の階段室へ向けられていた。

 

黒いジャケット。

 

ホットパンツ。

 

露出した銀色の四肢。

 

左腿のホルスター。

 

背中には短銃身のアサルトライフル。

 

隠密任務向けの外見ではない。

 

だが、今夜の仕事は潜入ではなく、待ち伏せだった。

 

「遅いな」

 

アクトが言う。

 

隣に立つ魔法使いは、雨の向こうにある高層ホテルを眺めていた。

 

黒いおかっぱ髪。

 

血色の薄い肌。

 

全身を覆う黒いローブ。

 

金糸で描かれた惑星記号と幾何学模様。

 

巨大な三角帽子は、今夜もかぶっていない。

 

代わりに、黒いフード付きの外套を羽織っていた。

 

杖の先端に埋め込まれた紫水晶が、雨粒を受けるたび微かに光る。

 

「予定時刻から三分十二秒です」

 

「三分なら誤差やろ」

 

「予定は遵守されるべきです」

 

「自分が正面玄関から入ったときも予定言うてたな」

 

「その話は終了しています」

 

「便利やな」

 

魔法使いは返事をしなかった。

 

今回の依頼は、ある男を保護することだった。

 

グレゴリー・ヴァイス。

 

小規模企業《オルフェウス医療物流》の管理責任者。

 

表向きは医療用品の配送と廃棄処理を請け負う会社だが、実際には企業病院から回収された義肢、神経接続端子、違法改造用の生体部品を横流ししていた。

 

ヴァイスは、その取引記録を持って逃げた。

 

依頼人は、彼を生きたまま確保したいと言った。

 

記録だけでは足りない。

 

証言が必要だという。

 

今夜、ヴァイスは旧商業区の高層ホテルで仲介人と接触し、その後、この立体駐車場へ移動する予定だった。

 

アクトたちは、彼を受け取って安全な場所へ運ぶ。

 

簡単な護送仕事。

 

そう説明された。

 

アクトは簡単な仕事を信用していない。

 

特に、依頼人が「戦闘の可能性は低い」と言ったときは。

 

「出てきた」

 

魔法使いが言った。

 

ホテルの回転扉から、男が一人飛び出してくる。

 

灰色のスーツ。

 

黒いコート。

 

片手に小型のケース。

 

もう片方の手で端末を握っている。

 

何度も背後を振り返りながら、濡れた歩道を走っていた。

 

ヴァイスだ。

 

アクトの視界へ識別情報が表示される。

 

顔認証、一致。

 

歩行姿勢、一致。

 

体格、一致。

 

「一人か?」

 

「物理的には」

 

「アストラルは?」

 

魔法使いは目を細める。

 

「後方に、追跡用の術式痕跡があります」

 

「精霊?」

 

「いいえ。標識です」

 

「消せる?」

 

「近くへ来れば」

 

ヴァイスは横断歩道を渡り、立体駐車場へ入った。

 

一階。

 

二階。

 

階段を駆け上がってくる。

 

アクトは背中の小銃を確かめ、四階中央へ移動した。

 

魔法使いも続く。

 

「撃たれたら、あたしが前」

 

「分かっています」

 

「自分は後ろで術式」

 

「毎回同じ説明は不要です」

 

「前に飛び出したやろ」

 

「あれは術式展開に適した位置でした」

 

「銃口の前が?」

 

「結果として成功しました」

 

「壁ごと吹っ飛ばしたやつが言うな」

 

階段室の扉が開いた。

 

ヴァイスが転がり込むように現れる。

 

すぐにアクトへ銃を向けた。

 

小型の自動拳銃。

 

手が震えている。

 

「止まれ!」

 

「迎えや」

 

「証拠は?」

 

「自分の名前、グレゴリー・ヴァイス。四十七歳。右膝に人工靱帯。娘が一人。元妻とポートランド在住」

 

男の顔が引きつる。

 

「どこまで知ってる」

 

「依頼人が喋っただけや。銃下ろし」

 

「依頼人の名前を言え」

 

アクトは言わない。

 

依頼人の名前は知らされていなかった。

 

フィクサーを経由した仕事だ。

 

魔法使いが一歩進む。

 

「今ここで確認を続けることに意味はありません」

 

ヴァイスの銃口が彼女へ向く。

 

「動くな」

 

「あなたを追跡している者がいます」

 

「知ってる!」

 

「では、なおさら時間を浪費すべきではありません」

 

「誰だ、お前たちは」

 

「助けに来た者です」

 

「そう見えない」

 

ヴァイスの視線がアクトの銀色の腕へ移る。

 

次に魔法使いのローブ。

 

最後に杖。

 

アクトは肩を竦めた。

 

「見た目で仕事選べる状況ちゃうやろ」

 

「信用できるか」

 

「せんでええ。生きてついてき」

 

ヴァイスは数秒迷い、銃を下げた。

 

その瞬間、魔法使いが杖を持ち上げる。

 

紫水晶が光った。

 

ヴァイスの胸元から、黒い糸のような光が浮かび上がる。

 

首の後ろへ伸び、空中へ消えている。

 

「動かないでください」

 

「何だ、それ」

 

「追跡用の標識です」

 

「取れるのか」

 

「今、外します」

 

魔法使いの指が空中をなぞる。

 

黒い糸が震えた。

 

アクトには、実体のない光がまるで神経のように見えた。

 

数秒後、糸は切れた。

 

空中で灰のように崩れ、消える。

 

魔法使いが小さく息を吐いた。

 

「終わりました」

 

「顔色悪いで」

 

「照明の影響です」

 

「駐車場やぞ」

 

「雨天による光量不足です」

 

ヴァイスが二人を交互に見る。

 

「……いつもこんな調子なのか」

 

「誰がや」

 

「二人とも」

 

「仕事中は静かです」

 

魔法使いが答える。

 

アクトは彼女を見る。

 

「どの口が言うてんねん」

 

遠くでエンジン音がした。

 

一台。

 

いや、二台。

 

ウサ耳センサーが道路側へ向く。

 

アクトは駐車場の外を見る。

 

黒いSUVが二台、入口へ入ってくる。

 

ヘッドライトを消している。

 

ナンバープレートなし。

 

車高が高い。

 

窓は防弾仕様。

 

「来たな」

 

ヴァイスの顔から血の気が引く。

 

「あいつらだ」

 

「何人」

 

「分からない。六人か、八人」

 

「装備」

 

「企業警備崩れ。軍用品を使う」

 

「魔法使いは?」

 

「一人いた」

 

アクトは魔法使いを見る。

 

「標識外したんやろ」

 

「標識を外す前に、位置を送信されていた可能性があります」

 

「先に言えや」

 

「今確認しました」

 

「便利やな、その言葉」

 

アクトはヴァイスへ指を向ける。

 

「車、三階南側。白いバン。鍵は開いとる」

 

「お前たちは?」

 

「あたしらも行く」

 

「一緒に来い」

 

「今行ったら階段で鉢合わせる」

 

魔法使いが駐車場の構造を見る。

 

「西側の車両路を使用します」

 

「下から来るで」

 

「だからこそ、視界を遮ります」

 

「また《混沌界》?」

 

「いいえ」

 

魔法使いは杖を床へ軽く打ちつけた。

 

駐車場の照明が、一斉に消えたように見えた。

 

実際には消えていない。

 

アクトのサイバーアイには、照明が正常に点灯している。

 

だが、ヴァイスは驚いて周囲を見回した。

 

「何も見えない」

 

「私たち以外には、さらに見えません」

 

「幻影か」

 

「はい」

 

「カメラは?」

 

「光学系には作用します」

 

「熱は?」

 

「アクト」

 

「何や」

 

「あなたが対応してください」

 

「役割分担やな」

 

「便利な言葉です」

 

アクトは笑いそうになった。

 

だが、その時間はなかった。

 

階下で車のドアが開く。

 

足音。

 

複数。

 

無線通信。

 

一人が指示を出している。

 

「対象は四階。生け捕り。護衛は排除」

 

アクトのウサ耳センサーが声を拾う。

 

距離、約四十メートル。

 

上昇中。

 

「三階で迎える」

 

「戦闘を避けるのでは?」

 

魔法使いが言う。

 

「逃げ道一本しかない。追いつかれたらヴァイスごと撃たれる」

 

「ならば、短時間で終わらせます」

 

「珍しく話早いやん」

 

アクトはヴァイスへ向き直る。

 

「車まで走れ。途中で止まるな。銃声しても振り返んな」

 

「お前たちは」

 

「後から行く」

 

「死ぬぞ」

 

「縁起でもないこと言うなや」

 

ヴァイスが走り出す。

 

魔法使いは、その背中へ小さな幻影を重ねた。

 

輪郭が薄くなり、暗闇へ溶ける。

 

アクトは小銃を構え、三階へ続く車両路へ向かった。

 

魔法使いが横へ並ぶ。

 

「後ろおれ言うたやろ」

 

「術式展開には視界が必要です」

 

「またそれか」

 

「今回は正しい」

 

「前もそう言うとった」

 

二人は斜面を下る。

 

足音が近づく。

 

敵は三階へ入った。

 

六人。

 

前衛二人。

 

中衛三人。

 

後衛一人。

 

熱源の位置がアクトの視界へ表示される。

 

前衛は盾持ち。

 

中衛は短機関銃。

 

後衛は魔法使いらしい。

 

「六」

 

「確認しています」

 

「後ろ一人、覚醒者?」

 

「はい」

 

「先に潰せる?」

 

「射線がありません」

 

「作るわ」

 

「無理をしないでください」

 

アクトが横目で見る。

 

「自分が言うんか」

 

魔法使いは答えなかった。

 

斜面を下り切る直前、敵の声が響く。

 

「止まれ! 武器を捨てろ!」

 

アクトは止まらない。

 

敵の先頭が盾を上げる。

 

二人目が肩越しに銃を構える。

 

その瞬間、魔法使いが杖を振った。

 

世界が折れた。

 

敵の視界では、斜面が左右へ裂け、アクトの姿が三つに増えた。

 

一人は左へ。

 

一人は右へ。

 

一人は正面へ。

 

前衛の銃口が僅かに迷う。

 

それだけで十分だった。

 

アクトは斜面の手すりを左手で掴み、身体を横へ投げた。

 

銀色の脚が壁を蹴る。

 

通常なら倒れる角度。

 

だが、平衡強化器が身体の回転を即座に補正する。

 

視界の床は《混沌界》の余波で傾いて見える。

 

しかし、脚部の関節角度は真実を返していた。

 

右足、接地。

 

左足、浮遊。

 

重心、前方十二度。

 

アクトは目ではなく、身体の数値を信じる。

 

最初の弾丸が、頭のあった場所を通過した。

 

次の瞬間、アクトは盾の内側へ入っていた。

 

銃身を上げる暇はない。

 

左手で盾の縁を掴む。

 

右肩を相手の胸へ押しつける。

 

腰を落とす。

 

柔術の投げは、生身の筋力だけではない。

 

銀色の脚が床を噛み、人工筋肉が一気に収縮する。

 

盾持ちの身体が浮いた。

 

アクトは敵を投げるのではなく、盾ごと回転軸にした。

 

男の身体が横へ流れ、二人目の射線を塞ぐ。

 

短機関銃が鳴った。

 

弾丸は盾と仲間の装甲へ吸い込まれる。

 

アクトは倒れた盾の上へ片膝を置き、背中の小銃を引き抜いた。

 

二連射。

 

一発目は二人目の銃を弾く。

 

二発目は腿。

 

男が崩れる。

 

右から三人目。

 

銃口がアクトへ向く。

 

その前に、魔法使いの幻影が敵の足元へ黒い穴を作った。

 

男は反射的に踏み止まる。

 

実際には何もない。

 

だが、一瞬だけ足が止まる。

 

アクトはその一瞬へ滑り込んだ。

 

銃身を左腕で外へ流す。

 

右肘を顎へ。

 

完全には入らない。

 

相手の首が強化されている。

 

ならば、次。

 

アクトは自分から相手の懐へ沈み、腰を回した。

 

足を払う。

 

男が背中から落ちる。

 

小銃の銃床を胸へ叩き込む。

 

呼吸が止まった。

 

四人目が制圧射撃を始める。

 

弾丸がコンクリートを砕く。

 

アクトは倒れた男の身体を蹴って転がし、自分も柱の陰へ滑る。

 

「後ろ!」

 

魔法使いの声。

 

見ずに身体を沈める。

 

頭上を弾丸が通る。

 

後衛の魔法使いが射線を作るため、斜面の上へ出ていた。

 

紫色の光が指先へ集まる。

 

敵の術者と、こちらの魔法使いが同時に呪文を放つ。

 

音はなかった。

 

だが、空気が押し潰された。

 

アクトのサイバーアイにノイズが走る。

 

敵の魔法が飛来する。

 

その進路へ、魔法使いの障壁が滑り込んだ。

 

青白い膜がひしゃげる。

 

一秒。

 

二秒。

 

ひびが入る。

 

「長く持たへんぞ!」

 

「分かっています!」

 

アクトは柱から飛び出した。

 

四人目の銃口が追う。

 

わざとだ。

 

射線を引きつける。

 

アクトは正面へ二歩。

 

三歩目で急停止。

 

人工脚が床を噛む。

 

上体だけを後方へ倒す。

 

銃弾が眼鏡の上を通る。

 

その姿勢のまま、小銃を撃つ。

 

一発。

 

四人目の肩。

 

男が回る。

 

アクトは倒れきる前に左手を床へついた。

 

片腕だけで身体を支え、両脚を横へ振る。

 

低い回転蹴りが五人目の膝裏へ入る。

 

男が崩れる。

 

そのままアクトは手を軸に身体を回し、立ち上がる。

 

後衛の魔法使いまで、十五メートル。

 

敵が二発目の術式を組む。

 

こちらの魔法使いが叫んだ。

 

「右へ三歩!」

 

「何が見えとる!」

 

「私を信じて!」

 

アクトは右へ跳んだ。

 

そこに床があることを、目は否定していた。

 

《混沌界》の影響で、右側は吹き抜けに見える。

 

だが、平衡強化器と脚部センサーは、平面だと報告している。

 

アクトは見えない床へ着地した。

 

同時に、魔法使いの幻影が消える。

 

敵の術者から見れば、アクトは突然、何もない空間から現れた。

 

照準が遅れる。

 

アクトは撃った。

 

一発目。

 

敵の杖を弾く。

 

二発目。

 

肩。

 

術式が崩れる。

 

敵魔法使いが膝をつく。

 

残る一人が後退し、無線へ手を伸ばした。

 

魔法使いが指を鳴らす。

 

敵の耳元で、存在しない爆発音が鳴った。

 

男が両耳を押さえる。

 

アクトは距離を詰め、銃口を胸へ当てた。

 

「終わりや」

 

男が武器を落とした。

 

戦闘開始から、十三秒。

 

銃声の残響だけが、駐車場の天井を転がっていた。

 

アクトは周囲を見る。

 

六人。

 

全員、生きている。

 

三人は動けない。

 

二人は意識あり。

 

敵の魔法使いは肩を押さえ、こちらを睨んでいる。

 

魔法使いが杖を下ろした。

 

その顔は、紙のように白い。

 

「自分」

 

「問題ありません」

 

「まだ何も言うてへん」

 

「顔色の話でしょう」

 

「せや」

 

「照明の影響です」

 

「非常灯しかないぞ」

 

「赤色光は肌を不健康に見せます」

 

「元から不健康や」

 

「失礼です」

 

アクトは敵の無線を踏み砕いた。

 

それから魔法使いへ近づく。

 

「歩ける?」

 

「当然です」

 

「膝震えとるで」

 

「術式終了後の筋緊張です」

 

「ほな腕出し」

 

「不要です」

 

アクトは返事を待たず、魔法使いの腕を自分の肩へ回した。

 

「離してください」

 

「走るで」

 

「一人で歩けます」

 

「ほな遅れんな」

 

アクトが一歩進む。

 

魔法使いも進む。

 

三歩目で、彼女の足が僅かにもつれた。

 

アクトは何も言わず、支える腕へ力を込めた。

 

魔法使いも、それ以上拒まなかった。

 

三階南側へ向かう。

 

白いバンのエンジンはかかっている。

 

依頼人側が用意した自動運転車両だった。

 

ヴァイスは開いた側面扉の前で待っていた。

 

二人の姿を見ると、車内へ手を振る。

 

「早く!」

 

「分かっとる!」

 

アクトは魔法使いを後部座席へ押し込み、自分も乗る。

 

ヴァイスが助手席へ滑り込み、扉が閉まる。

 

「出せ!」

 

音声命令を受け、バンは駐車枠を飛び出した。

 

自動運転系が出口までの経路を表示する。

 

「下にまだいるぞ!」

 

「そのまま行かせろ!」

 

一階から別の車両が上がってくる。

 

バンは衝突回避のため急角度で進路を変えた。

 

側面が柱へ擦れ、火花が散る。

 

「依頼人、運転設定ケチったんちゃうか!」

 

「俺に言うな!」

 

その直後、後方の窓が砕けた。

 

「撃たれた!」

 

「今は撃たれとる!」

 

アクトが後部ドアの隙間から小銃を出す。

 

追跡車両の前輪を狙う。

 

一発。

 

外れ。

 

二発目。

 

タイヤが破裂する。

 

黒いSUVが横へ流れ、壁へ激突した。

 

「やった!」

 

ヴァイスが叫ぶ。

 

「頭下げとけ!」

 

バンは出口ゲートへ突っ込んだ。

 

遮断棒をへし折り、雨の道路へ飛び出す。

 

追手は来ない。

 

少なくとも、すぐには。

 

ヴァイスは何度もミラーを見る。

 

「誰も追ってこない」

 

「油断すんな」

 

「どこへ行く」

 

「受け渡し場所」

 

「安全なのか」

 

「知らん」

 

「知らない?」

 

「依頼人の用意した場所や」

 

「信用できるのか」

 

「今さらやな」

 

ヴァイスは黙った。

 

バンは雨の市街地を走る。

 

後部座席では、魔法使いが目を閉じていた。

 

杖は膝の上。

 

呼吸は浅い。

 

アクトは小銃を足元へ置き、隣へ座る。

 

「水飲む?」

 

「不要です」

 

「飲み」

 

「命令しないでください」

 

アクトはボトルの蓋を開け、手渡した。

 

魔法使いは少し迷って受け取る。

 

「ドレイン重かった?」

 

「許容範囲です」

 

「障壁と《混沌界》同時やったもんな」

 

「完全な同時維持ではありません」

 

「そういう話ちゃう」

 

魔法使いは水を一口飲んだ。

 

「あなたこそ、右腕の応答が遅れていました」

 

「見とったんか」

 

「最後の射撃です」

 

「〇・〇二秒や」

 

「測定したのですか」

 

「感覚で分かる」

 

「整備が必要です」

 

「仕事終わってからな」

 

「明日」

 

「今夜帰ったら見る」

 

「専門家へ」

 

「金かかる」

 

「報酬が入ります」

 

「貯めときたい」

 

「またですか」

 

アクトは窓の外を見る。

 

雨粒がガラスを流れ、ネオンの光を歪めている。

 

「またや」

 

「理由は」

 

「言いたない」

 

「分かりました」

 

魔法使いは、それ以上聞かなかった。

 

以前なら問い詰めていただろう。

 

今は、聞かない。

 

だが諦めたわけではないことを、アクトは知っている。

 

たぶん明日になれば、勝手に整備予約を入れる。

 

必要な範囲だと言って。

 

「さっき」

 

魔法使いが言った。

 

「何や」

 

「右へ三歩と指示したとき、躊躇しませんでしたね」

 

「したで」

 

「動作には現れていません」

 

「自分が言うたから動いただけや」

 

「床がないように見えていたはずです」

 

「見えとった」

 

「では、なぜ」

 

アクトは赤い帽子のつばを触った。

 

戦闘中にずれたらしく、少し左へ傾いている。

 

「平衡強化は床ある言うてた。脚も接地できる言うてた」

 

「機械を信じたのですか」

 

「それもある」

 

「それ以外は?」

 

アクトは一瞬だけ魔法使いを見る。

 

「自分が、ない床に飛べ言うほどアホちゃう思た」

 

魔法使いは黙った。

 

ヴァイスが助手席から振り返る。

 

「何の話だ?」

 

「前見とく意味ないやろ」

 

アクトが言う。

 

「周囲の警戒には意味があります」

 

魔法使いが続けた。

 

ヴァイスは慌てて前方の道路へ視線を戻す。

 

魔法使いが小さく息を吐いた。

 

「評価が低いですね」

 

「褒めとるんや」

 

「分かりにくい」

 

「自分もやろ」

 

「私は明確です」

 

「整備受けろ、帽子は重要、私は正しい」

 

「概ね正確です」

 

「ほらな」

 

バンが高架道路へ入る。

 

雨音が少し遠くなる。

 

街の光が、下方へ沈んでいく。

 

アクトは座席へ背を預けた。

 

右腕が小さく鳴る。

 

魔法使いの視線が、すぐそちらへ向いた。

 

「今の音は」

 

「聞こえた?」

 

「はい」

 

「自分、耳ええな」

 

「話を逸らさないでください」

 

「帰ったら見る」

 

「私も立ち会います」

 

「サイバー整備分からんやろ」

 

「作業の妨害はしません」

 

「見とるだけ?」

 

「異常があれば指摘します」

 

「何の異常や」

 

「あなたが作業を中断して酒を飲むなど」

 

「飲まへんわ」

 

「以前、部品洗浄中にビールを開けていました」

 

「一本だけや」

 

「不適切です」

 

「自分、いつ見た」

 

魔法使いは答えなかった。

 

アクトが横を見る。

 

「まさか、あたしの部屋来たとき?」

 

「ドアが開いていました」

 

「勝手に入ったんか?」

 

「呼びかけに応答がなかったため、安全確認を行いました」

 

「寝とっただけやろ」

 

「床に部品が散乱していました」

 

「整備中や」

 

「黒いタンクトップとショートパンツで」

 

「家やからな」

 

「無防備です」

 

アクトは数秒黙った。

 

「自分、何見とんねん」

 

「安全確認です」

 

「顔、赤ない?」

 

「非常灯の反射です」

 

「もう駐車場出とるぞ」

 

「後続車両のライトです」

 

「窓、反対側やで」

 

魔法使いは水を飲んだ。

 

アクトは笑いを堪えきれなかった。

 

ヴァイスがミラー越しに見る。

 

「本当に、いつもこんな調子なのか」

 

「仕事中は静かや」

 

「先ほども聞いた気がする」

 

「気のせいや」

 

「私たちは必要な会話しかしていません」

 

魔法使いが言う。

 

アクトは彼女を見る。

 

「どの口が言うてんねん」

 

受け渡し場所は、旧地下鉄駅だった。

 

企業再開発から外れ、十年以上使われていない。

 

入口は閉鎖されていたが、側道から地下駐車場へ入れる。

 

ヴァイスが目的地を入力する。

 

バンは指定位置で静かに停車した。

 

照明は半分しか点いていない。

 

柱の陰から、三人の男女が現れた。

 

中央の女が手を上げる。

 

「依頼人側です」

 

「合言葉」

 

アクトが言う。

 

女は答えた。

 

「ガラスの底に、街は二つある」

 

アクトはフィクサーから聞いた返答を返す。

 

「沈むのは、見えているほうだけ」

 

女が頷いた。

 

ヴァイスはすぐには降りなかった。

 

「本当に安全なのか」

 

「ここまで来たら信じるしかない」

 

「お前たちは来ないのか」

 

「契約はここまでや」

 

ヴァイスはアクトを見る。

 

次に魔法使いを見る。

 

「助かった」

 

「報酬分です」

 

魔法使いが言う。

 

「もう少し言い方あるやろ」

 

「事実です」

 

ヴァイスは苦笑した。

 

「二人とも、死ぬなよ」

 

「縁起でもないこと言うなや」

 

男はケースを持ってバンを降りた。

 

依頼人側の三人が周囲を囲み、地下通路の奥へ消えていく。

 

アクトは姿が見えなくなるまで見送った。

 

「終わったな」

 

「まだ報酬の確認があります」

 

「現実的やな」

 

「当然です」

 

端末が振動する。

 

フィクサーからの入金通知。

 

予定額。

 

減額なし。

 

アクトは画面を魔法使いへ見せる。

 

「入った」

 

「確認しました」

 

「酒場行く?」

 

「整備が先です」

 

「一杯だけ」

 

「右腕の異常音が先です」

 

「反省会せなあかんやろ」

 

「整備しながら可能です」

 

「家で飲むん?」

 

「あなたは飲まないでください」

 

「自分は?」

 

「少量なら」

 

「自分だけずるいやん」

 

魔法使いはバンを降りた。

 

アクトも続く。

 

地下駐車場の出口へ向かう。

 

雨音が上から響いている。

 

「なあ」

 

アクトが呼ぶ。

 

魔法使いが振り返る。

 

「何です」

 

「さっき障壁、割れる寸前やったやろ」

 

「持続限界に近かっただけです」

 

「もし割れとったら」

 

「あなたが対処したでしょう」

 

即答だった。

 

アクトは少しだけ目を細める。

 

「信用しとるんか」

 

「役割分担です」

 

「便利やな」

 

「便利です」

 

魔法使いは否定しなかった。

 

二人は並んで歩く。

 

赤い帽子のウサ耳センサーが、雨音へ向けて小さく動く。

 

杖の紫水晶が、その横で淡く光っている。

 

片方は機械。

 

片方は魔法。

 

互いの世界を、完全には理解しない。

 

理解する必要があるとも思っていない。

 

それでも、存在しない床へ飛べと言われれば飛ぶ。

 

割れかけた障壁の前へ出ろと言われれば出る。

 

相手が受け止めると知っているから。

 

相手が撃たないと知っているから。

 

それを恋愛と呼ぶには、二人とも自覚が足りない。

 

信頼と呼ぶには、互いに素直さが足りない。

 

だから今のところは、役割分担でよかった。

 

雨の向こうに、赤いネオンが見えた。

 

《ラスティ・コヨーテ》の看板。

 

アクトが指差す。

 

「整備前に一杯」

 

「却下します」

 

「反省会」

 

「整備中に行います」

 

「ビール一本」

 

「水にしてください」

 

「ワイン頼むくせに」

 

「私は術式使用後です」

 

「あたしも戦闘後や」

 

「あなたは機械部分の点検が必要です」

 

「自分も頭の点検いるんちゃう?」

 

魔法使いが立ち止まる。

 

「どういう意味です」

 

「正面玄関」

 

「その話は終了しています」

 

アクトは笑いながら歩き出した。

 

魔法使いも、少し遅れてついてくる。

 

結局、その夜。

 

アクトはビールを半分だけ飲み、魔法使いはワインを一杯だけ飲んだ。

 

右腕の点検は、店の奥の丸テーブルで行われた。

 

アクトがジャケットを脱ぎ、肩の装甲板を外す。

 

魔法使いは向かいに座り、工具の扱いへ逐一口を出した。

 

「そこは逆では?」

 

「合っとる」

 

「配線が露出しています」

 

「今外したんや」

 

「その部品は洗浄しましたか」

 

「昨日した」

 

「記録は?」

 

「ない」

 

「不適切です」

 

「自分、うるさい」

 

「安全確認です」

 

アクトは文句を言いながらも、席を立たなかった。

 

魔法使いも、ワインが空になってから追加を頼まなかった。

 

赤いネオンの下。

 

銀色の肩関節。

 

細い指に持たれた小型ライト。

 

黒いローブの袖が、アクトの腕へ時々触れる。

 

そのたびに魔法使いは何も言わず、アクトも何も言わなかった。

 

店主は二人を一度だけ見て、すぐに視線を逸らした。

 

《ラスティ・コヨーテ》では、客の名前を聞かない。

 

銃声がしても、店を壊さなければ警察を呼ばない。

 

血を流した客にはタオルを渡す。

 

そして、妙に距離の近い二人組が店の奥で夜更けまで言い争っていても、余計なことは言わない。

 

そういう店だった。

 




共通修正:全話の行頭字下げを削除し、ハーメルン向けの字下げなしに統一。
(7.31.2026)
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