SUBJECT A VULNERABILITY DISCLOSURE: ACCIDENTAL
SUBJECT B WITHDRAWAL RESPONSE: SUPPRESSED
MUTUAL OBSERVATION DEPTH: INCREASED
EMOTIONAL DISTANCE: UNSTABLE
RELATIONSHIP STATUS: UNRESOLVED
CROWシステム/心的外傷露出監視
対象Aの脆弱性開示:偶発的
対象Bの撤退反応:抑制
相互観察深度:上昇
情動的距離:不安定
関係性の状態:未解決
雨は、夜半を過ぎてから降り始めた。
最初は細い糸のようだったものが、零時を回る頃には高架道路の縁から滝のように流れ落ち、シアトル南部の旧商業区を灰色の水膜で覆っていた。
道路に残った古い白線は雨に溶け、ネオン広告の光が黒い路面へ長く引き延ばされている。
アクトトゥルスは、閉鎖された立体駐車場の四階から、その光を見下ろしていた。
赤い野球帽の上では、機械式のウサ耳センサーモジュールが一定の間隔で動いている。片方は下の道路を走る車両音へ、もう片方は背後の階段室へ向けられていた。
黒いジャケット。
ホットパンツ。
露出した銀色の四肢。
左腿のホルスター。
背中には短銃身のアサルトライフル。
隠密任務向けの外見ではない。
だが、今夜の仕事は潜入ではなく、待ち伏せだった。
「遅いな」
アクトが言う。
隣に立つ魔法使いは、雨の向こうにある高層ホテルを眺めていた。
黒いおかっぱ髪。
血色の薄い肌。
全身を覆う黒いローブ。
金糸で描かれた惑星記号と幾何学模様。
巨大な三角帽子は、今夜もかぶっていない。
代わりに、黒いフード付きの外套を羽織っていた。
杖の先端に埋め込まれた紫水晶が、雨粒を受けるたび微かに光る。
「予定時刻から三分十二秒です」
「三分なら誤差やろ」
「予定は遵守されるべきです」
「自分が正面玄関から入ったときも予定言うてたな」
「その話は終了しています」
「便利やな」
魔法使いは返事をしなかった。
今回の依頼は、ある男を保護することだった。
グレゴリー・ヴァイス。
小規模企業《オルフェウス医療物流》の管理責任者。
表向きは医療用品の配送と廃棄処理を請け負う会社だが、実際には企業病院から回収された義肢、神経接続端子、違法改造用の生体部品を横流ししていた。
ヴァイスは、その取引記録を持って逃げた。
依頼人は、彼を生きたまま確保したいと言った。
記録だけでは足りない。
証言が必要だという。
今夜、ヴァイスは旧商業区の高層ホテルで仲介人と接触し、その後、この立体駐車場へ移動する予定だった。
アクトたちは、彼を受け取って安全な場所へ運ぶ。
簡単な護送仕事。
そう説明された。
アクトは簡単な仕事を信用していない。
特に、依頼人が「戦闘の可能性は低い」と言ったときは。
「出てきた」
魔法使いが言った。
ホテルの回転扉から、男が一人飛び出してくる。
灰色のスーツ。
黒いコート。
片手に小型のケース。
もう片方の手で端末を握っている。
何度も背後を振り返りながら、濡れた歩道を走っていた。
ヴァイスだ。
アクトの視界へ識別情報が表示される。
顔認証、一致。
歩行姿勢、一致。
体格、一致。
「一人か?」
「物理的には」
「アストラルは?」
魔法使いは目を細める。
「後方に、追跡用の術式痕跡があります」
「精霊?」
「いいえ。標識です」
「消せる?」
「近くへ来れば」
ヴァイスは横断歩道を渡り、立体駐車場へ入った。
一階。
二階。
階段を駆け上がってくる。
アクトは背中の小銃を確かめ、四階中央へ移動した。
魔法使いも続く。
「撃たれたら、あたしが前」
「分かっています」
「自分は後ろで術式」
「毎回同じ説明は不要です」
「前に飛び出したやろ」
「あれは術式展開に適した位置でした」
「銃口の前が?」
「結果として成功しました」
「壁ごと吹っ飛ばしたやつが言うな」
階段室の扉が開いた。
ヴァイスが転がり込むように現れる。
すぐにアクトへ銃を向けた。
小型の自動拳銃。
手が震えている。
「止まれ!」
「迎えや」
「証拠は?」
「自分の名前、グレゴリー・ヴァイス。四十七歳。右膝に人工靱帯。娘が一人。元妻とポートランド在住」
男の顔が引きつる。
「どこまで知ってる」
「依頼人が喋っただけや。銃下ろし」
「依頼人の名前を言え」
アクトは言わない。
依頼人の名前は知らされていなかった。
フィクサーを経由した仕事だ。
魔法使いが一歩進む。
「今ここで確認を続けることに意味はありません」
ヴァイスの銃口が彼女へ向く。
「動くな」
「あなたを追跡している者がいます」
「知ってる!」
「では、なおさら時間を浪費すべきではありません」
「誰だ、お前たちは」
「助けに来た者です」
「そう見えない」
ヴァイスの視線がアクトの銀色の腕へ移る。
次に魔法使いのローブ。
最後に杖。
アクトは肩を竦めた。
「見た目で仕事選べる状況ちゃうやろ」
「信用できるか」
「せんでええ。生きてついてき」
ヴァイスは数秒迷い、銃を下げた。
その瞬間、魔法使いが杖を持ち上げる。
紫水晶が光った。
ヴァイスの胸元から、黒い糸のような光が浮かび上がる。
首の後ろへ伸び、空中へ消えている。
「動かないでください」
「何だ、それ」
「追跡用の標識です」
「取れるのか」
「今、外します」
魔法使いの指が空中をなぞる。
黒い糸が震えた。
アクトには、実体のない光がまるで神経のように見えた。
数秒後、糸は切れた。
空中で灰のように崩れ、消える。
魔法使いが小さく息を吐いた。
「終わりました」
「顔色悪いで」
「照明の影響です」
「駐車場やぞ」
「雨天による光量不足です」
ヴァイスが二人を交互に見る。
「……いつもこんな調子なのか」
「誰がや」
「二人とも」
「仕事中は静かです」
魔法使いが答える。
アクトは彼女を見る。
「どの口が言うてんねん」
遠くでエンジン音がした。
一台。
いや、二台。
ウサ耳センサーが道路側へ向く。
アクトは駐車場の外を見る。
黒いSUVが二台、入口へ入ってくる。
ヘッドライトを消している。
ナンバープレートなし。
車高が高い。
窓は防弾仕様。
「来たな」
ヴァイスの顔から血の気が引く。
「あいつらだ」
「何人」
「分からない。六人か、八人」
「装備」
「企業警備崩れ。軍用品を使う」
「魔法使いは?」
「一人いた」
アクトは魔法使いを見る。
「標識外したんやろ」
「標識を外す前に、位置を送信されていた可能性があります」
「先に言えや」
「今確認しました」
「便利やな、その言葉」
アクトはヴァイスへ指を向ける。
「車、三階南側。白いバン。鍵は開いとる」
「お前たちは?」
「あたしらも行く」
「一緒に来い」
「今行ったら階段で鉢合わせる」
魔法使いが駐車場の構造を見る。
「西側の車両路を使用します」
「下から来るで」
「だからこそ、視界を遮ります」
「また《混沌界》?」
「いいえ」
魔法使いは杖を床へ軽く打ちつけた。
駐車場の照明が、一斉に消えたように見えた。
実際には消えていない。
アクトのサイバーアイには、照明が正常に点灯している。
だが、ヴァイスは驚いて周囲を見回した。
「何も見えない」
「私たち以外には、さらに見えません」
「幻影か」
「はい」
「カメラは?」
「光学系には作用します」
「熱は?」
「アクト」
「何や」
「あなたが対応してください」
「役割分担やな」
「便利な言葉です」
アクトは笑いそうになった。
だが、その時間はなかった。
階下で車のドアが開く。
足音。
複数。
無線通信。
一人が指示を出している。
「対象は四階。生け捕り。護衛は排除」
アクトのウサ耳センサーが声を拾う。
距離、約四十メートル。
上昇中。
「三階で迎える」
「戦闘を避けるのでは?」
魔法使いが言う。
「逃げ道一本しかない。追いつかれたらヴァイスごと撃たれる」
「ならば、短時間で終わらせます」
「珍しく話早いやん」
アクトはヴァイスへ向き直る。
「車まで走れ。途中で止まるな。銃声しても振り返んな」
「お前たちは」
「後から行く」
「死ぬぞ」
「縁起でもないこと言うなや」
ヴァイスが走り出す。
魔法使いは、その背中へ小さな幻影を重ねた。
輪郭が薄くなり、暗闇へ溶ける。
アクトは小銃を構え、三階へ続く車両路へ向かった。
魔法使いが横へ並ぶ。
「後ろおれ言うたやろ」
「術式展開には視界が必要です」
「またそれか」
「今回は正しい」
「前もそう言うとった」
二人は斜面を下る。
足音が近づく。
敵は三階へ入った。
六人。
前衛二人。
中衛三人。
後衛一人。
熱源の位置がアクトの視界へ表示される。
前衛は盾持ち。
中衛は短機関銃。
後衛は魔法使いらしい。
「六」
「確認しています」
「後ろ一人、覚醒者?」
「はい」
「先に潰せる?」
「射線がありません」
「作るわ」
「無理をしないでください」
アクトが横目で見る。
「自分が言うんか」
魔法使いは答えなかった。
斜面を下り切る直前、敵の声が響く。
「止まれ! 武器を捨てろ!」
アクトは止まらない。
敵の先頭が盾を上げる。
二人目が肩越しに銃を構える。
その瞬間、魔法使いが杖を振った。
世界が折れた。
敵の視界では、斜面が左右へ裂け、アクトの姿が三つに増えた。
一人は左へ。
一人は右へ。
一人は正面へ。
前衛の銃口が僅かに迷う。
それだけで十分だった。
アクトは斜面の手すりを左手で掴み、身体を横へ投げた。
銀色の脚が壁を蹴る。
通常なら倒れる角度。
だが、平衡強化器が身体の回転を即座に補正する。
視界の床は《混沌界》の余波で傾いて見える。
しかし、脚部の関節角度は真実を返していた。
右足、接地。
左足、浮遊。
重心、前方十二度。
アクトは目ではなく、身体の数値を信じる。
最初の弾丸が、頭のあった場所を通過した。
次の瞬間、アクトは盾の内側へ入っていた。
銃身を上げる暇はない。
左手で盾の縁を掴む。
右肩を相手の胸へ押しつける。
腰を落とす。
柔術の投げは、生身の筋力だけではない。
銀色の脚が床を噛み、人工筋肉が一気に収縮する。
盾持ちの身体が浮いた。
アクトは敵を投げるのではなく、盾ごと回転軸にした。
男の身体が横へ流れ、二人目の射線を塞ぐ。
短機関銃が鳴った。
弾丸は盾と仲間の装甲へ吸い込まれる。
アクトは倒れた盾の上へ片膝を置き、背中の小銃を引き抜いた。
二連射。
一発目は二人目の銃を弾く。
二発目は腿。
男が崩れる。
右から三人目。
銃口がアクトへ向く。
その前に、魔法使いの幻影が敵の足元へ黒い穴を作った。
男は反射的に踏み止まる。
実際には何もない。
だが、一瞬だけ足が止まる。
アクトはその一瞬へ滑り込んだ。
銃身を左腕で外へ流す。
右肘を顎へ。
完全には入らない。
相手の首が強化されている。
ならば、次。
アクトは自分から相手の懐へ沈み、腰を回した。
足を払う。
男が背中から落ちる。
小銃の銃床を胸へ叩き込む。
呼吸が止まった。
四人目が制圧射撃を始める。
弾丸がコンクリートを砕く。
アクトは倒れた男の身体を蹴って転がし、自分も柱の陰へ滑る。
「後ろ!」
魔法使いの声。
見ずに身体を沈める。
頭上を弾丸が通る。
後衛の魔法使いが射線を作るため、斜面の上へ出ていた。
紫色の光が指先へ集まる。
敵の術者と、こちらの魔法使いが同時に呪文を放つ。
音はなかった。
だが、空気が押し潰された。
アクトのサイバーアイにノイズが走る。
敵の魔法が飛来する。
その進路へ、魔法使いの障壁が滑り込んだ。
青白い膜がひしゃげる。
一秒。
二秒。
ひびが入る。
「長く持たへんぞ!」
「分かっています!」
アクトは柱から飛び出した。
四人目の銃口が追う。
わざとだ。
射線を引きつける。
アクトは正面へ二歩。
三歩目で急停止。
人工脚が床を噛む。
上体だけを後方へ倒す。
銃弾が眼鏡の上を通る。
その姿勢のまま、小銃を撃つ。
一発。
四人目の肩。
男が回る。
アクトは倒れきる前に左手を床へついた。
片腕だけで身体を支え、両脚を横へ振る。
低い回転蹴りが五人目の膝裏へ入る。
男が崩れる。
そのままアクトは手を軸に身体を回し、立ち上がる。
後衛の魔法使いまで、十五メートル。
敵が二発目の術式を組む。
こちらの魔法使いが叫んだ。
「右へ三歩!」
「何が見えとる!」
「私を信じて!」
アクトは右へ跳んだ。
そこに床があることを、目は否定していた。
《混沌界》の影響で、右側は吹き抜けに見える。
だが、平衡強化器と脚部センサーは、平面だと報告している。
アクトは見えない床へ着地した。
同時に、魔法使いの幻影が消える。
敵の術者から見れば、アクトは突然、何もない空間から現れた。
照準が遅れる。
アクトは撃った。
一発目。
敵の杖を弾く。
二発目。
肩。
術式が崩れる。
敵魔法使いが膝をつく。
残る一人が後退し、無線へ手を伸ばした。
魔法使いが指を鳴らす。
敵の耳元で、存在しない爆発音が鳴った。
男が両耳を押さえる。
アクトは距離を詰め、銃口を胸へ当てた。
「終わりや」
男が武器を落とした。
戦闘開始から、十三秒。
銃声の残響だけが、駐車場の天井を転がっていた。
アクトは周囲を見る。
六人。
全員、生きている。
三人は動けない。
二人は意識あり。
敵の魔法使いは肩を押さえ、こちらを睨んでいる。
魔法使いが杖を下ろした。
その顔は、紙のように白い。
「自分」
「問題ありません」
「まだ何も言うてへん」
「顔色の話でしょう」
「せや」
「照明の影響です」
「非常灯しかないぞ」
「赤色光は肌を不健康に見せます」
「元から不健康や」
「失礼です」
アクトは敵の無線を踏み砕いた。
それから魔法使いへ近づく。
「歩ける?」
「当然です」
「膝震えとるで」
「術式終了後の筋緊張です」
「ほな腕出し」
「不要です」
アクトは返事を待たず、魔法使いの腕を自分の肩へ回した。
「離してください」
「走るで」
「一人で歩けます」
「ほな遅れんな」
アクトが一歩進む。
魔法使いも進む。
三歩目で、彼女の足が僅かにもつれた。
アクトは何も言わず、支える腕へ力を込めた。
魔法使いも、それ以上拒まなかった。
三階南側へ向かう。
白いバンのエンジンはかかっている。
依頼人側が用意した自動運転車両だった。
ヴァイスは開いた側面扉の前で待っていた。
二人の姿を見ると、車内へ手を振る。
「早く!」
「分かっとる!」
アクトは魔法使いを後部座席へ押し込み、自分も乗る。
ヴァイスが助手席へ滑り込み、扉が閉まる。
「出せ!」
音声命令を受け、バンは駐車枠を飛び出した。
自動運転系が出口までの経路を表示する。
「下にまだいるぞ!」
「そのまま行かせろ!」
一階から別の車両が上がってくる。
バンは衝突回避のため急角度で進路を変えた。
側面が柱へ擦れ、火花が散る。
「依頼人、運転設定ケチったんちゃうか!」
「俺に言うな!」
その直後、後方の窓が砕けた。
「撃たれた!」
「今は撃たれとる!」
アクトが後部ドアの隙間から小銃を出す。
追跡車両の前輪を狙う。
一発。
外れ。
二発目。
タイヤが破裂する。
黒いSUVが横へ流れ、壁へ激突した。
「やった!」
ヴァイスが叫ぶ。
「頭下げとけ!」
バンは出口ゲートへ突っ込んだ。
遮断棒をへし折り、雨の道路へ飛び出す。
追手は来ない。
少なくとも、すぐには。
ヴァイスは何度もミラーを見る。
「誰も追ってこない」
「油断すんな」
「どこへ行く」
「受け渡し場所」
「安全なのか」
「知らん」
「知らない?」
「依頼人の用意した場所や」
「信用できるのか」
「今さらやな」
ヴァイスは黙った。
バンは雨の市街地を走る。
後部座席では、魔法使いが目を閉じていた。
杖は膝の上。
呼吸は浅い。
アクトは小銃を足元へ置き、隣へ座る。
「水飲む?」
「不要です」
「飲み」
「命令しないでください」
アクトはボトルの蓋を開け、手渡した。
魔法使いは少し迷って受け取る。
「ドレイン重かった?」
「許容範囲です」
「障壁と《混沌界》同時やったもんな」
「完全な同時維持ではありません」
「そういう話ちゃう」
魔法使いは水を一口飲んだ。
「あなたこそ、右腕の応答が遅れていました」
「見とったんか」
「最後の射撃です」
「〇・〇二秒や」
「測定したのですか」
「感覚で分かる」
「整備が必要です」
「仕事終わってからな」
「明日」
「今夜帰ったら見る」
「専門家へ」
「金かかる」
「報酬が入ります」
「貯めときたい」
「またですか」
アクトは窓の外を見る。
雨粒がガラスを流れ、ネオンの光を歪めている。
「またや」
「理由は」
「言いたない」
「分かりました」
魔法使いは、それ以上聞かなかった。
以前なら問い詰めていただろう。
今は、聞かない。
だが諦めたわけではないことを、アクトは知っている。
たぶん明日になれば、勝手に整備予約を入れる。
必要な範囲だと言って。
「さっき」
魔法使いが言った。
「何や」
「右へ三歩と指示したとき、躊躇しませんでしたね」
「したで」
「動作には現れていません」
「自分が言うたから動いただけや」
「床がないように見えていたはずです」
「見えとった」
「では、なぜ」
アクトは赤い帽子のつばを触った。
戦闘中にずれたらしく、少し左へ傾いている。
「平衡強化は床ある言うてた。脚も接地できる言うてた」
「機械を信じたのですか」
「それもある」
「それ以外は?」
アクトは一瞬だけ魔法使いを見る。
「自分が、ない床に飛べ言うほどアホちゃう思た」
魔法使いは黙った。
ヴァイスが助手席から振り返る。
「何の話だ?」
「前見とく意味ないやろ」
アクトが言う。
「周囲の警戒には意味があります」
魔法使いが続けた。
ヴァイスは慌てて前方の道路へ視線を戻す。
魔法使いが小さく息を吐いた。
「評価が低いですね」
「褒めとるんや」
「分かりにくい」
「自分もやろ」
「私は明確です」
「整備受けろ、帽子は重要、私は正しい」
「概ね正確です」
「ほらな」
バンが高架道路へ入る。
雨音が少し遠くなる。
街の光が、下方へ沈んでいく。
アクトは座席へ背を預けた。
右腕が小さく鳴る。
魔法使いの視線が、すぐそちらへ向いた。
「今の音は」
「聞こえた?」
「はい」
「自分、耳ええな」
「話を逸らさないでください」
「帰ったら見る」
「私も立ち会います」
「サイバー整備分からんやろ」
「作業の妨害はしません」
「見とるだけ?」
「異常があれば指摘します」
「何の異常や」
「あなたが作業を中断して酒を飲むなど」
「飲まへんわ」
「以前、部品洗浄中にビールを開けていました」
「一本だけや」
「不適切です」
「自分、いつ見た」
魔法使いは答えなかった。
アクトが横を見る。
「まさか、あたしの部屋来たとき?」
「ドアが開いていました」
「勝手に入ったんか?」
「呼びかけに応答がなかったため、安全確認を行いました」
「寝とっただけやろ」
「床に部品が散乱していました」
「整備中や」
「黒いタンクトップとショートパンツで」
「家やからな」
「無防備です」
アクトは数秒黙った。
「自分、何見とんねん」
「安全確認です」
「顔、赤ない?」
「非常灯の反射です」
「もう駐車場出とるぞ」
「後続車両のライトです」
「窓、反対側やで」
魔法使いは水を飲んだ。
アクトは笑いを堪えきれなかった。
ヴァイスがミラー越しに見る。
「本当に、いつもこんな調子なのか」
「仕事中は静かや」
「先ほども聞いた気がする」
「気のせいや」
「私たちは必要な会話しかしていません」
魔法使いが言う。
アクトは彼女を見る。
「どの口が言うてんねん」
受け渡し場所は、旧地下鉄駅だった。
企業再開発から外れ、十年以上使われていない。
入口は閉鎖されていたが、側道から地下駐車場へ入れる。
ヴァイスが目的地を入力する。
バンは指定位置で静かに停車した。
照明は半分しか点いていない。
柱の陰から、三人の男女が現れた。
中央の女が手を上げる。
「依頼人側です」
「合言葉」
アクトが言う。
女は答えた。
「ガラスの底に、街は二つある」
アクトはフィクサーから聞いた返答を返す。
「沈むのは、見えているほうだけ」
女が頷いた。
ヴァイスはすぐには降りなかった。
「本当に安全なのか」
「ここまで来たら信じるしかない」
「お前たちは来ないのか」
「契約はここまでや」
ヴァイスはアクトを見る。
次に魔法使いを見る。
「助かった」
「報酬分です」
魔法使いが言う。
「もう少し言い方あるやろ」
「事実です」
ヴァイスは苦笑した。
「二人とも、死ぬなよ」
「縁起でもないこと言うなや」
男はケースを持ってバンを降りた。
依頼人側の三人が周囲を囲み、地下通路の奥へ消えていく。
アクトは姿が見えなくなるまで見送った。
「終わったな」
「まだ報酬の確認があります」
「現実的やな」
「当然です」
端末が振動する。
フィクサーからの入金通知。
予定額。
減額なし。
アクトは画面を魔法使いへ見せる。
「入った」
「確認しました」
「酒場行く?」
「整備が先です」
「一杯だけ」
「右腕の異常音が先です」
「反省会せなあかんやろ」
「整備しながら可能です」
「家で飲むん?」
「あなたは飲まないでください」
「自分は?」
「少量なら」
「自分だけずるいやん」
魔法使いはバンを降りた。
アクトも続く。
地下駐車場の出口へ向かう。
雨音が上から響いている。
「なあ」
アクトが呼ぶ。
魔法使いが振り返る。
「何です」
「さっき障壁、割れる寸前やったやろ」
「持続限界に近かっただけです」
「もし割れとったら」
「あなたが対処したでしょう」
即答だった。
アクトは少しだけ目を細める。
「信用しとるんか」
「役割分担です」
「便利やな」
「便利です」
魔法使いは否定しなかった。
二人は並んで歩く。
赤い帽子のウサ耳センサーが、雨音へ向けて小さく動く。
杖の紫水晶が、その横で淡く光っている。
片方は機械。
片方は魔法。
互いの世界を、完全には理解しない。
理解する必要があるとも思っていない。
それでも、存在しない床へ飛べと言われれば飛ぶ。
割れかけた障壁の前へ出ろと言われれば出る。
相手が受け止めると知っているから。
相手が撃たないと知っているから。
それを恋愛と呼ぶには、二人とも自覚が足りない。
信頼と呼ぶには、互いに素直さが足りない。
だから今のところは、役割分担でよかった。
雨の向こうに、赤いネオンが見えた。
《ラスティ・コヨーテ》の看板。
アクトが指差す。
「整備前に一杯」
「却下します」
「反省会」
「整備中に行います」
「ビール一本」
「水にしてください」
「ワイン頼むくせに」
「私は術式使用後です」
「あたしも戦闘後や」
「あなたは機械部分の点検が必要です」
「自分も頭の点検いるんちゃう?」
魔法使いが立ち止まる。
「どういう意味です」
「正面玄関」
「その話は終了しています」
アクトは笑いながら歩き出した。
魔法使いも、少し遅れてついてくる。
結局、その夜。
アクトはビールを半分だけ飲み、魔法使いはワインを一杯だけ飲んだ。
右腕の点検は、店の奥の丸テーブルで行われた。
アクトがジャケットを脱ぎ、肩の装甲板を外す。
魔法使いは向かいに座り、工具の扱いへ逐一口を出した。
「そこは逆では?」
「合っとる」
「配線が露出しています」
「今外したんや」
「その部品は洗浄しましたか」
「昨日した」
「記録は?」
「ない」
「不適切です」
「自分、うるさい」
「安全確認です」
アクトは文句を言いながらも、席を立たなかった。
魔法使いも、ワインが空になってから追加を頼まなかった。
赤いネオンの下。
銀色の肩関節。
細い指に持たれた小型ライト。
黒いローブの袖が、アクトの腕へ時々触れる。
そのたびに魔法使いは何も言わず、アクトも何も言わなかった。
店主は二人を一度だけ見て、すぐに視線を逸らした。
《ラスティ・コヨーテ》では、客の名前を聞かない。
銃声がしても、店を壊さなければ警察を呼ばない。
血を流した客にはタオルを渡す。
そして、妙に距離の近い二人組が店の奥で夜更けまで言い争っていても、余計なことは言わない。
そういう店だった。
共通修正:全話の行頭字下げを削除し、ハーメルン向けの字下げなしに統一。
(7.31.2026)