アクトと黒曜   作:矢塚 和哉

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CROW SYSTEM / MEMORY COMPETITION EVENT

SUBJECT A LOSS ATTACHMENT: ACTIVE
SUBJECT B INTERVENTION: NON-OPERATIONAL
SUBSTITUTION HYPOTHESIS: GENERATED
SUBJECT B REJECTION OF HYPOTHESIS: PREDICTED
EMOTIONAL DEPENDENCY: POSSIBLE

CROWシステム/記憶競合事象

対象Aの喪失愛着:活動中
対象Bの介入:非作戦的
代替仮説:生成
対象Bによる仮説拒否:予測済み
情動的依存:可能性あり



金色の残像

弾雨の中心から四日。

 

アクトはソファに沈んでいた。

 

黒いタンクトップ。

 

短いショートパンツ。

 

両腕と両脚の装甲板は外され、銀色の内部フレームがむき出しになっている。

 

右肩からは細いケーブルが伸び、床に置かれた整備端末へ接続されていた。画面には、関節駆動部の出力低下と、外装交換を求める警告が並んでいる。

 

左膝のアクチュエーターも、まだ完全ではない。

 

対物弾を受けた胸には、黄色と紫の痣が残っている。

 

背中の散弾痕は、ストリートドクが処置したあとも、触れれば鈍く痛んだ。

 

だが、どれも致命的ではなかった。

 

サイバーリムは修理できる。

 

外装は交換できる。

 

防弾材も買い直せる。

 

痣も、そのうち消える。

 

だから問題はなかった。

 

少なくとも、アクトはそう考えていた。

 

部屋は暗かった。

 

窓の外では夜のシアトルが雨に濡れている。

 

ネオンの光がガラスを通り、床の上で赤や青に揺れていた。

 

自動照明は落としてある。

 

音楽もない。

 

壁面モニターも消えている。

 

自宅の管理システムだけが、定期的に空調と医療ログを確認していた。

 

テーブルの上には、小さなケースが一つ。

 

何の装飾もない。

 

黒い樹脂製。

 

中には、薄いパッチが数枚並んでいる。

 

BTL。

 

Better Than Life。

 

現実より鮮明な感覚。

 

現実より都合のよい感情。

 

現実よりも簡単に手に入る安息。

 

アクトはケースを開けたまま、しばらく中身を見ていた。

 

「……一回だけや」

 

誰に言うでもなく、そう呟いた。

 

一回だけ。

 

眠るまで。

 

痛みが引くまで。

 

整備端末が診断を終えるまで。

 

胸の痣を忘れるまで。

 

背中に弾丸が当たり続けた感覚が消えるまで。

 

理由はいくらでも作れた。

 

アクトはパッチを一枚取り上げた。

 

安物ではない。

 

違法市場では比較的質の良い、感情調整型のBTLだ。

 

極端な高揚感や攻撃性を与えるものではない。

 

ただ、心地よい記憶と、穏やかな安心感を再生する。

 

そう聞いていた。

 

以前にも使ったことがある。

 

何度もではない。

 

少なくとも、何度もだとは思っていない。

 

アクトは左脇腹にある小さな接続端子へ指を伸ばした。

 

薄いパッチを貼る。

 

端子が認識する。

 

視界の隅に接続確認が表示された。

 

警告。

 

神経系への直接接続。

 

情動フィードバック有効。

 

記憶領域への疑似刺激を開始します。

 

停止しますか。

 

「せえへん」

 

アクトはソファへ深く身体を預けた。

 

右手を膝の上に置く。

 

銀色の指先が、わずかに震えていた。

 

接続を開始する。

 

世界がゆっくりと遠ざかった。

 

 

最初に聞こえたのは、風の音だった。

 

乾いた風。

 

シアトルの雨ではない。

 

湿り気のない、遠い土地の風。

 

砂の混じった風が、古い木造住宅の壁を撫でている。

 

次に匂いが戻ってきた。

 

焼けたパン。

 

古い油。

 

日向に干したシーツ。

 

安い洗剤。

 

そして、少し焦げた卵。

 

アクトは目を開けた。

 

小さな台所だった。

 

窓から朝の光が差している。

 

白いカーテンが、風に揺れていた。

 

テーブルの上には、二枚の皿。

 

固く焼かれたパン。

 

形の崩れた目玉焼き。

 

切っただけの果物。

 

昔の家。

 

まだ銀色の腕を持っていなかった頃の家。

 

アクトは自分の手を見た。

 

小さい。

 

生身だ。

 

指先に傷もない。

 

爪には、青い塗料が少し付着している。

 

腕も細い。

 

皮膚の下に、機械はない。

 

「早く食べないと遅れるよ」

 

声がした。

 

アクトは顔を上げた。

 

少女がいた。

 

テーブルの向こう側。

 

金色の髪。

 

朝の光を受けて、輪郭が白くぼやけている。

 

年齢は、アクトと同じくらい。

 

あるいは、少し下。

 

顔はよく見えなかった。

 

逆光のせいだ。

 

それだけではない。

 

記憶がそこを曖昧にしている。

 

目の形。

 

口元。

 

声の高さ。

 

確かに知っているはずなのに、思い出そうとすると輪郭が崩れる。

 

「何ぼーっとしてるの?」

 

少女が笑った。

 

「いつものことだけど」

 

「……うるさい」

 

アクトの口から声が出た。

 

今より少し高い。

 

関西弁も薄い。

 

「そっちの卵、焦げとるやん」

 

「アクトが起きないからでしょ」

 

「あたしのせいちゃうやろ」

 

「三回起こした」

 

「二回や」

 

「三回」

 

「二回」

 

「三回」

 

少女は笑っている。

 

アクトも、たぶん笑っていた。

 

夢の中では、胸の痣も背中の痛みもない。

 

右肩の警告もない。

 

弾丸の音もない。

 

ただ朝がある。

 

安い朝食がある。

 

向かい側に彼女がいる。

 

懐かしかった。

 

懐かしすぎて、胸の奥が痛んだ。

 

BTLは、その痛みさえ心地よいものに変えていた。

 

幸福だった頃の記憶。

 

いや。

 

本当に幸福だったかどうかは分からない。

 

人間は過去を整える。

 

都合の悪い角を削り、色を塗り直し、失ったものほど美しくする。

 

BTLは、その作業をもっと丁寧に行う。

 

少女がパンをかじった。

 

アクトも同じように食べた。

 

固い。

 

少し焦げている。

 

味まで覚えている。

 

「今日、帰り遅い?」

 

少女が聞いた。

 

「知らん」

 

「また仕事?」

 

「仕事ちゃう。手伝いや」

 

「同じじゃない」

 

「違うわ。仕事やったら金もらえるやろ」

 

「お金もらえないの?」

 

「今度まとめてもらう」

 

「それ、前も言ってた」

 

「今度はほんまや」

 

少女は心配そうにアクトを見た。

 

その視線だけが、妙に鮮明だった。

 

「危ないこと、してないよね」

 

「してへん」

 

「本当に?」

 

「ほんまや」

 

「嘘」

 

「何がや」

 

「アクト、嘘つくとき右を見る」

 

アクトは反射的に右を向いた。

 

少女が笑う。

 

「あ」

 

「今のは違う!」

 

「やっぱり嘘だ」

 

「違う言うとるやろ!」

 

その笑い声が、台所に広がった。

 

風がカーテンを揺らす。

 

白い布が二人の間を一瞬だけ横切る。

 

そして、戻ったとき。

 

少女の笑顔が消えていた。

 

「守ってくれるって言ったよね」

 

アクトの手が止まる。

 

「……何を」

 

「私のこと」

 

少女の声は同じだった。

 

穏やか。

 

責めるような響きはない。

 

それが余計に苦しかった。

 

「言ったよね」

 

「そんなん……」

 

「言った」

 

台所の光が少し暗くなる。

 

風の音が強くなった。

 

窓の外が、朝ではなくなっている。

 

赤い。

 

夕焼けではない。

 

火の色だった。

 

アクトは立ち上がろうとした。

 

椅子が動かない。

 

床へ固定されている。

 

「待て」

 

少女が、まだこちらを見ている。

 

「なあ、待ってくれ」

 

「何を?」

 

「これはちゃう」

 

「何が違うの?」

 

「こんな話してへん」

 

「したよ」

 

「してへん!」

 

アクトはテーブルを叩いた。

 

生身の拳。

 

痛みが走る。

 

皿が跳ねる。

 

目玉焼きが床へ落ちた。

 

黄身が割れる。

 

黄色い液体が広がる。

 

それが一瞬で赤黒く変わった。

 

血。

 

テーブルの下から流れてくる。

 

少女の足元。

 

白い靴下が赤く染まっている。

 

「アクト」

 

「やめろ」

 

「助けて」

 

「やめろ!」

 

景色が崩れた。

 

 

銃声。

 

一発。

 

二発。

 

三発。

 

古い台所の壁へ穴が開く。

 

木片が飛ぶ。

 

窓が砕ける。

 

少女が立ち上がる。

 

アクトも動こうとする。

 

だが足が床へ沈んでいる。

 

生身の足ではない。

 

銀色のサイバーレッグ。

 

膝の関節がロックされている。

 

警告表示。

 

右脚出力、零。

 

左脚出力、零。

 

両腕も動かない。

 

全身の制御を失っている。

 

「動けや」

 

アクトは歯を食いしばった。

 

「動け!」

 

少女へ銃口が向く。

 

誰が撃っているのか見えない。

 

敵は壁の向こう。

 

窓の外。

 

天井。

 

床下。

 

あらゆる場所にいる。

 

赤い照準線が、少女の胸へ集まる。

 

「伏せろ!」

 

少女は動かない。

 

アクトを見ている。

 

「伏せろ言うとるやろ!」

 

「守ってくれるんじゃなかったの?」

 

「守る! 守るから!」

 

「どうやって?」

 

引き金の音。

 

世界が白く弾ける。

 

弾丸が飛ぶ。

 

アクトは身体を投げ出そうとする。

 

動かない。

 

銀色の腕が重い。

 

脚が重い。

 

胸には対物弾を受けた痛み。

 

背中には散弾。

 

無数の通常弾。

 

四日前の被弾が、すべて同時に戻ってくる。

 

少女の身体へ弾丸が当たる。

 

だが血は出ない。

 

代わりに、身体が細かな光へ崩れていく。

 

金色の髪。

 

白い頬。

 

細い指。

 

全部が粒子になって消える。

 

「待て!」

 

アクトは叫ぶ。

 

「待ってや!」

 

少女の顔が、最後に少しだけ見えた。

 

笑っていた。

 

悲しそうに。

 

「遅いよ」

 

光が消えた。

 

何も残らなかった。

 

 

次に、アクトは路地裏にいた。

 

雨が降っている。

 

シアトルの雨。

 

夜。

 

ネオン。

 

ゴミ箱。

 

排水溝。

 

濡れたアスファルト。

 

現実に近い。

 

だが、時間が違う。

 

まだアクトの四肢が生身だった頃。

 

身体は小さく、痩せている。

 

ジャケットの袖が長すぎる。

 

赤い眼鏡もない。

 

帽子もない。

 

足元には血が流れていた。

 

誰の血か分からない。

 

奥に少女が倒れている。

 

金髪。

 

うつ伏せ。

 

動かない。

 

アクトは走る。

 

今度は脚が動いた。

 

だが距離が縮まらない。

 

十メートル。

 

走る。

 

まだ十メートル。

 

もっと速く。

 

まだ十メートル。

 

「待て」

 

息が切れる。

 

「待ってくれ」

 

少女は動かない。

 

雨だけが降る。

 

血が薄まり、排水溝へ流れていく。

 

アクトは走り続ける。

 

そのうち、自分の脚が銀色に変わった。

 

一歩ごとに金属音。

 

速度が上がる。

 

反応力強化。

 

人工筋肉。

 

平衡補正。

 

駆動支援。

 

もっと速く。

 

さらに速く。

 

人間だった頃には出せなかった速度。

 

それでも届かない。

 

十メートル。

 

永遠に十メートル。

 

「何でや」

 

アクトは叫ぶ。

 

「これだけやったやろ!」

 

腕も銀色へ変わっている。

 

骨格補綴。

 

オルソスキン。

 

サイバーアイ。

 

サイバーイヤー。

 

身体が一つずつ、機械へ置き換わる。

 

能力が増える。

 

強くなる。

 

速くなる。

 

頑丈になる。

 

弾丸を受けても倒れなくなる。

 

車載砲級の攻撃にも耐えられる。

 

誰かの盾になれる。

 

それでも、少女との距離は縮まらない。

 

「まだ足りへんのか!」

 

答えはない。

 

「何が足りへんねん!」

 

雨の音。

 

金属の足音。

 

自分の荒い呼吸。

 

少女の声が、どこからか聞こえた。

 

「全部」

 

アクトは足を止めた。

 

「全部、遅い」

 

倒れていた少女が顔を上げる。

 

その顔は見えない。

 

顔のある場所が、黒く塗り潰されている。

 

「腕を替えるのも」

 

一歩。

 

少女が近づく。

 

「脚を替えるのも」

 

一歩。

 

「強くなるのも」

 

一歩。

 

「誰かを守るのも」

 

距離が縮まる。

 

ようやく。

 

だがアクトは後ろへ下がった。

 

近づいてくる少女が怖かった。

 

「全部、私が死んでから」

 

「やめろ」

 

「私が死んだから、強くなった」

 

「違う」

 

「私が死んだから、守るようになった」

 

「違う!」

 

「私が死んだから、その身体になった」

 

「ちゃう言うとるやろ!」

 

アクトは拳を振るった。

 

銀色の拳が、少女の顔を貫く。

 

手応えはない。

 

少女の身体が黒い煙になり、アクトの周囲へ広がる。

 

耳元で声がした。

 

「私が死んで、よかった?」

 

アクトの呼吸が止まった。

 

その問いだけは、聞いてはいけなかった。

 

「ちゃう」

 

声が出ない。

 

「違う」

 

喉が閉じる。

 

「違うねん」

 

少女の声が、左右から聞こえる。

 

背後から。

 

頭上から。

 

自分の胸の中から。

 

「私が死ななかったら、今のアクトはいなかった」

 

「黙れ」

 

「強くなれなかった」

 

「黙れ!」

 

「黒曜も守れなかった」

 

「黙れ言うとるやろ!」

 

「だから」

 

少女が目の前に立っていた。

 

今度は顔が見えた。

 

見覚えのある顔。

 

絶対に忘れたくなかった顔。

 

なのに、目覚めればまた曖昧になる顔。

 

少女は穏やかに笑った。

 

「私が死んで、よかったね」

 

アクトは叫んだ。

 

 

現実の部屋で、銀色の右腕が跳ねた。

 

整備用ケーブルが引きちぎられる。

 

端末が床へ落ち、画面が割れた。

 

アクトの身体がソファから転げ落ちる。

 

肩がテーブルへ当たる。

 

黒いケースが飛ぶ。

 

BTLパッチが床へ散らばる。

 

「ちゃう!」

 

アクトは目を閉じたまま叫んでいた。

 

「ちゃう、ちゃう、ちゃう!」

 

両手が何かを掴もうと宙をかく。

 

右腕の出力制御が不完全なまま暴れ、テーブルの脚を叩き折った。

 

室内管理システムが警告を発する。

 

神経信号異常。

 

情動負荷上昇。

 

緊急切断を推奨。

 

BTL接続は続いている。

 

パッチが脇腹の端子へ貼りついたまま、濃すぎる夢を送り込み続けている。

 

アクトの視界では、まだ少女が立っていた。

 

血に濡れた金髪。

 

笑顔。

 

責める声。

 

懐かしい匂い。

 

焦げた卵。

 

白いカーテン。

 

守るという約束。

 

「ごめん」

 

アクトの声が小さくなる。

 

「ごめん……」

 

少女が手を伸ばす。

 

アクトも手を伸ばす。

 

銀色の指。

 

少女の手は生身。

 

二つの手が触れそうになる。

 

その直前。

 

玄関の電子錠が破裂した。

 

強制解除。

 

扉が開く。

 

「アクト!」

 

黒曜の声だった。

 

黒いローブの裾が、暗い部屋へ滑り込む。

 

大きな帽子はかぶっていない。

 

数日前のドレインからまだ回復しきっていないのか、顔色は普段以上に白い。

 

杖もない。

 

代わりに、片手には小型の医療スキャナー。

 

もう片方には、アクトの部屋の非常アクセスキー。

 

床に散らばるBTLパッチ。

 

折れたテーブル。

 

割れた整備端末。

 

痙攣するアクト。

 

黒曜は一瞬で状況を理解した。

 

「接続を切ります」

 

アクトの脇腹へ手を伸ばす。

 

その手首を、銀色の指が掴んだ。

 

速い。

 

強い。

 

黒曜の細い手首が軋んだ。

 

「触んな」

 

アクトは目を閉じたまま言った。

 

「アクト。私です」

 

「触んな!」

 

腕が振られる。

 

黒曜の身体が壁へ押しつけられた。

 

息が詰まる。

 

それでも手を引かない。

 

「接続を解除します」

 

「来るな!」

 

「これは命令ではありません」

 

黒曜はアクトの指を一本ずつ外そうとした。

 

力では勝てない。

 

当然だった。

 

だがアクトの動きは正確ではない。

 

夢の中の何かと戦っている。

 

黒曜は身体を低くし、掴まれた腕を捻る。

 

アクトの肘の可動域へ入り込み、サイバーアームの関節がそれ以上閉じない位置を作った。

 

「離せ!」

 

「拒否します」

 

「殺すぞ!」

 

「その状態のあなたには困難です」

 

「試してみるか!」

 

「言語能力が残っているなら、私の声を聞きなさい」

 

黒曜の声は冷静だった。

 

だが呼吸は速い。

 

額には汗が浮いている。

 

魔法を使えば、もっと簡単に拘束できたかもしれない。

 

精神系の術式。

 

身体制御。

 

幻影の遮断。

 

だが数日前のドレインが残っている。

 

そして何より、今のアクトの精神へ外から魔法を重ねることが、正しいとは思えなかった。

 

「アクト」

 

「うるさい!」

 

「あなたが見ているものは、現在ではありません」

 

「知っとる!」

 

「それは記憶です」

 

「知っとる言うとるやろ!」

 

「では、戻りなさい」

 

「戻れるか!」

 

アクトが目を開いた。

 

青い瞳。

 

だが焦点が合っていない。

 

黒曜を見ているのではない。

 

黒曜の向こう側に、別の誰かを見ている。

 

「戻ったら、またおらんようになる」

 

黒曜は黙った。

 

「そこにおるんや」

 

アクトが言う。

 

「今、そこに」

 

声が震えている。

 

「ずっと思い出されへんかった顔が、ちゃんと見えとる」

 

黒曜の手が止まる。

 

「声も聞こえる。匂いもする。何食ってたかも分かる。全部ある」

 

「それはBTLが再構成した記憶です」

 

「せやから何や」

 

「完全な記憶ではありません」

 

「完全や!」

 

「違います」

 

「お前に何が分かんねん!」

 

アクトの腕に力が入る。

 

黒曜の手首へ痛みが走る。

 

それでも彼女は表情を変えなかった。

 

「分かりません」

 

即答だった。

 

アクトの動きが少し止まる。

 

「私は、その人物を知りません」

 

「……」

 

「あなたが何を失ったのかも、正確には知りません」

 

「ほな、黙っとけ」

 

「ですが」

 

黒曜は空いている手を伸ばした。

 

今度はゆっくり。

 

アクトの脇腹に貼られたパッチへ。

 

「それが、あなたを傷つけていることは分かります」

 

「傷ついてへん」

 

「泣いています」

 

アクトは一瞬、何を言われたか分からない顔をした。

 

頬へ手を当てる。

 

生身の皮膚。

 

濡れていた。

 

「……これは」

 

「涙です」

 

「知っとるわ」

 

「では、認めなさい」

 

「何を」

 

「あなたは現在、正常ではありません」

 

「正常や」

 

「正常な人間は、テーブルを破壊しながら過去の死者へ謝罪しません」

 

「死んだ言うな!」

 

アクトが叫ぶ。

 

黒曜の身体が震えた。

 

だが視線は逸らさない。

 

「死んでいます」

 

冷たい言葉だった。

 

容赦がなかった。

 

「あなたがどれだけ鮮明に見ても、そこにはいません」

 

「黙れ」

 

「その人物は戻りません」

 

「黙れ!」

 

「そして、あなたがここで壊れても、その事実は変わりません」

 

アクトの拳が動いた。

 

黒曜の顔へ向かう。

 

寸前で止まる。

 

銀色の拳が、頬から数センチの位置で震えている。

 

黒曜は目を閉じなかった。

 

「殴りなさい」

 

「……何やて」

 

「それで接続を切れるなら、殴りなさい」

 

「調子乗んな」

 

「私はあなたより脆弱です。適切に当たれば、一撃で意識を失います」

 

「分かっとるわ!」

 

「ならば選びなさい」

 

黒曜は言った。

 

「死者の夢を取るか、現在の私を殴るか」

 

部屋が静かになった。

 

雨の音。

 

空調。

 

壊れた整備端末の警告音。

 

アクトの荒い呼吸。

 

夢の中では、少女がまだ呼んでいる。

 

アクト。

 

こっちへ来て。

 

もう一度、朝ご飯を食べよう。

 

今度は焦がさないから。

 

一緒に帰ろう。

 

守ってくれるんでしょう。

 

声は甘かった。

 

懐かしかった。

 

胸の傷を、内側から引っかく。

 

生傷へ爪を立て、治りかけた部分を無理やり開いていく。

 

痛い。

 

だが離したくない。

 

この痛みが消えたら、彼女まで消える気がした。

 

忘れることは裏切りだ。

 

忘れずに苦しむことだけが、自分に残された罰だ。

 

アクトの拳が下がった。

 

「……卑怯やぞ」

 

「合理的な選択肢を提示しただけです」

 

「どこがや」

 

「あなたは私を殴らない」

 

「何で分かる」

 

「過去の誰かを守れなかった人間は、現在の誰かまで自分の手で壊したくはないでしょう」

 

アクトは黒曜を睨んだ。

 

その目に怒りが浮かぶ。

 

怒りの奥に、別の感情。

 

崩れかけた何か。

 

「ほんま、性格悪いな」

 

「知っています」

 

「自覚あったんか」

 

「客観的評価として認識しています」

 

黒曜はパッチへ指をかけた。

 

「外します」

 

アクトは抵抗しなかった。

 

パッチが剥がれる。

 

端子との接続が切れる。

 

夢が一気に崩れた。

 

 

少女の輪郭が消えていく。

 

金色の髪。

 

白いカーテン。

 

焦げた卵。

 

小さな台所。

 

朝の光。

 

「待って」

 

アクトは手を伸ばした。

 

届かない。

 

少女が微笑む。

 

今度は何も言わなかった。

 

ただ、遠ざかる。

 

「待ってや」

 

顔がぼやける。

 

目の色が分からなくなる。

 

声が薄れる。

 

匂いが消える。

 

名前さえも。

 

「まだ」

 

光が閉じる。

 

「まだ、ちゃんと見てへん」

 

最後に残ったのは、金色だけだった。

 

それも消えた。

 

 

アクトは床に座り込んでいた。

 

黒曜の手首を掴んだまま。

 

銀色の指が、白い皮膚へ赤い跡を残している。

 

アクトはゆっくり手を離した。

 

「……悪かった」

 

黒曜は手首を確認した。

 

「骨折はしていません」

 

「そういう意味ちゃうわ」

 

「では、意味が不明です」

 

「謝っとるんや」

 

「珍しい現象ですね」

 

「殴るぞ」

 

「先ほど機会を与えました」

 

「ほんま腹立つな、お前」

 

アクトは額を押さえた。

 

頭が重い。

 

吐き気がある。

 

現実の感覚が薄い。

 

部屋の中のものが、すべて偽物に見える。

 

ソファ。

 

壁。

 

床。

 

黒曜。

 

自分の銀色の腕。

 

夢のほうが鮮明だった。

 

少女の声のほうが、本物だった。

 

「何で来たん」

 

アクトが聞いた。

 

「定時連絡に応答がなかったためです」

 

「一回くらいやろ」

 

「六回です」

 

「そんな鳴っとった?」

 

「応答がないため、室内管理システムへ接続しました」

 

「不法侵入やぞ」

 

「緊急時アクセス権限は、あなた自身が登録しています」

 

「いつ」

 

「発熱した際です」

 

「あれ消してへんかったんか」

 

「合理的ではないため、消去要求を却下しました」

 

「家主はあたしやぞ」

 

「判断能力が低下している家主の要求は、必ずしも優先されません」

 

「どこの管理会社やねん」

 

黒曜は床へ散らばったBTLパッチを見た。

 

一枚。

 

二枚。

 

三枚。

 

ケースには、まだ残っている。

 

「廃棄します」

 

「勝手に決めんな」

 

「では、あなたが廃棄しなさい」

 

「嫌や」

 

「理由は」

 

「高かった」

 

「価格の問題ではありません」

 

「ほな何や」

 

「依存です」

 

アクトの表情が固まった。

 

「軽度や」

 

「程度は聞いていません」

 

「別にいつも使っとるわけちゃう」

 

「使用頻度も聞いていません」

 

「今回ちょっと相性悪かっただけや」

 

「自己正当化の典型です」

 

「お前に言われたないわ」

 

「私は違法な神経刺激剤を使用しません」

 

「収束具ないと落ち着かんやつが偉そうに」

 

黒曜の眉がわずかに動いた。

 

「祭具と依存物を同一視しないでください」

 

「ほら、それや」

 

「論点を逸らさないでください」

 

「逸らしてへん。似たもん同士や言うとる」

 

「私は自制できます」

 

「あたしもや」

 

「先ほどまで制御を失っていました」

 

「事故や」

 

「依存者は、都合の悪い結果を事故と呼びます」

 

「魔法でぶっ倒れたやつも、ドレインを事故言うやろ」

 

「あれは必要な魔力行使に伴う予測可能な反動です」

 

「今日のあたしも、必要な休息に伴う予測不能な反動や」

 

「無理があります」

 

「知っとる」

 

アクトはそう言って、顔を伏せた。

 

黒曜はすぐには何も言わなかった。

 

床に膝をつき、散らばったパッチを一枚ずつ拾う。

 

ケースへ戻さない。

 

自分のローブのポケットへ入れる。

 

「返せ」

 

「嫌です」

 

「盗人」

 

「危険物の一時保管です」

 

「それ、普通に窃盗やぞ」

 

「後日、適切な形で処分します」

 

「勝手に捨てたら、弁償させるからな」

 

「構いません」

 

黒曜は最後の一枚を拾った。

 

アクトは、その手元を見ている。

 

止めようと思えば止められる。

 

黒曜の腕力では、アクトに勝てない。

 

ケースを奪い返すこともできる。

 

だが動かなかった。

 

黒曜は立ち上がろうとした。

 

少しふらつく。

 

ドレインの後遺症。

 

アクトが反射的に腕を伸ばす。

 

黒曜の肘を支えた。

 

「まだ治ってへんやん」

 

「日常動作に支障はありません」

 

「今ふらついたやろ」

 

「床に障害物が多いためです」

 

「テーブル壊したん、あたしやけどな」

 

「後ほど片づけてください」

 

「今やれ言わんの?」

 

「現在のあなたに、細かな作業を任せるのは不適切です」

 

「珍しく優しいやん」

 

「管理上の判断です」

 

「はいはい」

 

アクトはソファへ戻ろうとした。

 

脚に力が入らない。

 

神経接続を急に切った反動で、平衡感覚が乱れている。

 

身体が傾く。

 

黒曜が支えた。

 

腕力では支えきれず、二人そろってソファへ倒れ込む。

 

「重いです」

 

「ほとんど機械やからな」

 

「知っています」

 

「純粋主義者様には不快か」

 

「今は、その議論をする状況ではありません」

 

「逃げたな」

 

「延期しただけです」

 

アクトはソファの背へ頭を預けた。

 

黒曜は隣に座っている。

 

近い。

 

普段なら文句を言う距離。

 

だが今は、離れる気力がなかった。

 

「顔、忘れてもうた」

 

アクトが言った。

 

「誰のです」

 

「さっきまで見えとった子」

 

「……そうですか」

 

「目ぇ覚ましたら、また曖昧や」

 

「記憶とは、そのようなものです」

 

「声もや。何言うてたかは覚えとるのに、どんな声やったか分からん」

 

黒曜は答えない。

 

「思い出したかった」

 

アクトは自分の銀色の手を見る。

 

「ただ、それだけやったんやけどな」

 

「BTLは記憶を保存する装置ではありません」

 

「分かっとる」

 

「欠落を補い、使用者が望む形へ再構成します」

 

「分かっとる言うとるやろ」

 

「あなたが見た人物は、実在したその人ではない可能性があります」

 

「分かっとる!」

 

声が大きくなる。

 

黒曜は黙った。

 

アクトは息を吐いた。

 

「……分かっとるねん」

 

低い声。

 

「せやけど、偽物でもええから、もう一回見たかった」

 

窓の外で雨が降っている。

 

部屋のガラスに、細い水の筋。

 

「忘れるんが怖い」

 

「なぜです」

 

「忘れたら、ほんまにおらんようになる」

 

「その人物は、すでに存在していません」

 

「そういう言い方しかできへんのか、お前は」

 

「事実です」

 

「知っとるわ」

 

「ですが」

 

黒曜は自分の手首を見た。

 

アクトに掴まれた赤い跡。

 

「忘却と消滅は、同一ではありません」

 

アクトが横目で見る。

 

「どこが違う」

 

「あなたの記憶が不完全でも、その人物が存在した事実は変わりません」

 

「証拠ないやろ」

 

「あなたがいます」

 

「……は?」

 

「その人物を守れなかったと考え、自分の身体を変え、現在も他者を守ろうとしているあなたがいる」

 

黒曜の声は淡々としていた。

 

「結果として生じたものが残っているなら、原因まで消滅したとは言えません」

 

「それ、慰めてんの?」

 

「論理的帰結です」

 

「下手くそやな」

 

「慰めではありません」

 

「ほな、もう一回言うて」

 

「嫌です」

 

「何でや」

 

「慰めとして要求されたためです」

 

「めんどくさ」

 

アクトは目を閉じた。

 

暗闇。

 

一瞬、少女の顔が見えた気がした。

 

だがすぐに消える。

 

「なあ」

 

「何です」

 

「あたし、あの子が死んでよかったって、どっかで思っとるんかな」

 

黒曜はすぐには答えなかった。

 

アクトは続ける。

 

「あの子がおらんようになったから、あたしは強くなった。身体も替えた。ランナーになった。お前とも会うた」

 

「それを利益と判断しているのですか」

 

「分からん」

 

「では、質問が不正確です」

 

「夢の中で言われた」

 

「BTLが生成した発言です」

 

「分かっとる」

 

「ならば、あなた自身が恐れている内容を、死者の口から言わせただけです」

 

アクトは眉を寄せた。

 

「きっついこと言うなあ」

 

「事実です」

 

「ほんま性格悪い」

 

「先ほども聞きました」

 

「でも」

 

アクトは息を吐く。

 

「ちょっと楽になった」

 

「そうですか」

 

「嬉しそうにせえへんの?」

 

「当然の結果です」

 

「はいはい。完璧やな」

 

「ええ」

 

アクトは笑った。

 

ほんの少し。

 

それから、身体を横へ倒した。

 

頭が黒曜の肩へ当たる。

 

黒曜の身体が固まる。

 

「重いです」

 

「知っとる」

 

「離れてください」

 

「今、平衡感覚おかしい」

 

「ソファの反対側に十分な空間があります」

 

「動いたら吐く」

 

「……そのままで構いません」

 

「合理的やな」

 

「ええ」

 

二人はしばらく、雨を見ていた。

 

床には壊れた端末。

 

折れたテーブル。

 

引きちぎられたケーブル。

 

BTLのケースは空になっている。

 

アクトの胸には、まだ痣がある。

 

背中も痛む。

 

右肩の修理も終わっていない。

 

記憶の傷は、それより深いところで開いたままだった。

 

治ったわけではない。

 

塞がったわけでもない。

 

ただ、爪を立てて掻きむしる時間が終わっただけだ。

 

「黒曜」

 

「何です」

 

「今日のこと、誰にも言うなよ」

 

「理由は」

 

「恥ずいやろ」

 

「依存症状の記録は、今後の安全管理に必要です」

 

「お前の頭ん中だけにしとけ」

 

「検討します」

 

「消せ」

 

「拒否します」

 

「殴るぞ」

 

「先ほど機会を与えました」

 

「そのネタ、ずっと使う気か」

 

「有効である限りは」

 

「最悪や」

 

黒曜の肩に頭を預けたまま、アクトは目を閉じた。

 

眠気が来ている。

 

今度はBTLの作った眠気ではない。

 

ただの疲労。

 

痛み。

 

神経の消耗。

 

現実の身体が求める眠り。

 

「寝るなとは言わへんの?」

 

「睡眠が必要です」

 

「帰らんの?」

 

「あなたが安定するまで観察します」

 

「監視やん」

 

「管理です」

 

「同じや」

 

黒曜は否定しなかった。

 

アクトの呼吸がゆっくりになる。

 

眠りへ落ちる直前、またあの台所が見えた。

 

白いカーテン。

 

朝の光。

 

焦げた卵。

 

向かい側の少女。

 

だが今度は、顔を見ようとしなかった。

 

名前も呼ばなかった。

 

ただ、その場所に誰かがいたことだけを見た。

 

少女は何も言わない。

 

アクトも何も言わない。

 

風が吹く。

 

カーテンが揺れる。

 

その向こうで、朝の光が静かに広がっていた。

 

夢はそこで終わった。

 

懐かしく。

 

優しく。

 

そして、生傷へ触れる指のように、どうしようもなく痛かった




共通修正:全話の行頭字下げを削除し、ハーメルン向けの字下げなしに統一。
第07話のBTL事件を受けた余韻を冒頭に追加。
(7.31.2026)
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