目を覚ました僕をまず迎えたのは、メティアさん……ではなく、背に触れる草と、雨に濡れた時のような気持ちの悪さだった。
眉間に皺が寄る。
上体を起こして確かめると、頭からつま先まで濡れていない箇所はなく、衣服がべたりと全身に張り付いていた。
体温で温くなった水が滴る感覚は、まるで大量の汗をかいたようで最悪の気分だった。
こんなことをする人は――
「起きたか」
「はい、おかげさまでばっちり目が覚めました」
僕は目を細め、メティアさんに礼を言う。
「そうか。水を掛けてやった甲斐があったよ」
愉快そうに手に持ったバケツを振るメティアさんに、僕はげんなりとしてしまう。
弟子を苛めるのはそんなに面白いのだろうか。
そんな彼女の姿を見ても殺したいという衝動は湧いてこない。
いや、衝動に繋がらないだけで、熱はあった。
ただ、その熱が炎となって僕を突き動かすようには思えなかった。
「どうした、そんなに私の顔をジロジロ見て。惚れでもしたか?」
ククッと笑うメティアさんは、よほど気分が良いのだろう。
とことんまで僕をからかってやろうという魂胆が目に見えていた。
「そういうことにしておいてあげます……」
こういう時の彼女とはまともに取り合わない方がいい。
この数か月で得た、剣以外で数少ない学びだった。
「そういうことにしておけ」
今回も、メティアさんの手のひらの上で転がされっぱなしだった。
……いつかこの人の余裕そうな笑みを崩してやろう。
それはそうと、さっきは野盗から助けてもらったんだった。
「あ、それと助けてくれてありがとうございます」
メティアさんに頭を下げる。
「命を救ってもらった礼がついでなのか……まあいい」
僕の適当な礼にメティアさんは他にも何か言いたそうだった。
まあ確かに、命を救われたにしては淡々としすぎているかもしれない。
「それで、こうして起こされたってことは……えーと、稽古するんでしたっけ?」
「稽古はする。だがその前に一つ聞かせろ」
メティアさんが聞きたいことに思い当たる節しかない。
むしろ一つで済むのだろうか。
「なんでしょうか?」
意図したわけではないが、メティアさんの機嫌を窺うような声が出る。
「なに、そう畏まるな。私とお前の仲じゃないか」
メティアさんはそう言って、ハハとフレンドリーに笑うと、
「私が聞きたいのは……ブラン、お前今までの稽古では手を抜いていたな?」
底冷えするような声を放った。
あー……怒ってるな……。
まずいか?
まずいな。
今までにも何度か、メティアさんを怒らせたことはあったが、ここまでではなかった。
「それで、どうなんだ。早く答えろ」
適当な答えは許さないと、メティアさんの蒼い瞳が僕を睨み、答えを急かす。
噴き出した汗が体を撫でる。
体は既にびしょ濡れだというのに、一滴ごとに汗と水の区別がついてしまう。
ごくりと唾を飲み、肺の中の空気を吐き出す。
「手は確かに抜いてました。でも別に、特別な理由はないです。ただ……虚しくて」
「虚しい……虚しい、か」
メティアさんは目を閉じ、腕を組む。
言葉の意味を理解しようと反芻する。
「お前の剣の上達は目を見張るものがある。私もご両親もそれを認めている。それでもか?」
「……もっとも、お前は手を抜いていたようだが」
自嘲気味にメティアさんはそう続ける。
「はい。その……すみません」
謝るしかなかった。
実際、稽古で手を抜く理由なんてそれしかなかった。
それに、メティアさんに下手な嘘をついても、彼女は簡単に見破ってくる。
火に油を注ぐようなものだ。
自分の返事が間違っていないことを祈り、答えを待つ。
「お前の気持ちも分からないわけじゃない」
メティアさんが口を開く。
「だから、今回は特別に許そう。ただし、次に手を抜いたら、分かるな?」
腕を組んだまま、片目を開いて、そう問うてくるメティアさんに、僕は何度も首を縦に振った。
「ならいい。稽古の続きをしよう」
どうやら僕は助かったらしい。
僕に背を向け、稽古に向かうメティアさんを見てそう実感する。
彼女の気が変わらないうちに、稽古に入ってしまう方がいい。
立ち上がり、彼女の背中を追いかける。
辺りを見ると、少し遠くに僕の家があった。
彼女は気絶した僕を運んでくれていたようだ。
「ブラン」
メティアさんに追いつくと、視線は前を向いたまま名前を呼ばれる。
「どうかしましたか」
「さっき私を殺そうとしたのは何故だ?」
やっぱり、それは聞かれるか。
メティアさんを横目で見る。
「メティアさん、僕はさっき一つ答えましたよ?」
非常に苦しいが、僕も何故あんなことをしたのかが分からない。
できることなら、有耶無耶にしておきたかった。
「……確かにそう言ったな。忘れてくれ」
あっさりと引くメティアさんに拍子抜けする。
普段なら、こういう時は無理やりにでも口を開かせることが多いのだが。
「具合でも悪いんですか?」
メティアさんの顔を覗き込む。
「問題ない。お前も答えたくないなら余計なことを言わずに、足だけ動かしていろ」
「すいません」
確かにその通りだ。
ここは素直にメティアさんの言葉に甘えよう。
家の前に着くと、メティアさんは僕の全身を確かめるように視線を走らせる。
「今すぐにでも稽古に戻りたいところだが……ブラン、お前、濡れすぎだな。私がバケツを戻してくる間に着替えてこい」
「わかりました」
誰が濡らしたと思ってるんだと抗議したいのを、グッと抑えて言う通りにする。
僕の返事に満足したのか、メティアさんは井戸の方へ歩いていく。
残された僕は、この後の稽古に思いを馳せると、がくりと肩が落ちる。
憂鬱を背負ったまま家に入ると、父さんも母さんもどこかに出かけているようで誰もいなかった。
マメな母さんのことだ、汗をかいた僕のために着替えを準備してくれているだろうと、家の中を見回す。
「お、あった。さすが母さん」
椅子の上に丁寧に畳まれた着替えを見つけた僕は、内心で手を合わせつつ、濡れた服に手を掛ける。
コンコンと扉が鳴った。
メティアさんが戻ってきたようだ。
「すいません、まだ着替えてます!」
服を脱いだまま、扉に向かってそう伝えると、ノックが止む。
「わかった、先に始めているから着替えたらすぐに来い」
メティアさんはそれだけ言い残して、扉の前から離れたみたいだ。
ブルリと寒気が走る。
遅まきながら体が冷えていることを自覚し体を抱く。
今世で風邪を引くのは少し面倒だ。
それにメティアさんを待たせているし、さっさと着替えよう……。
僕は着替えを終えると、家の裏へ回った。
そこには、草を刈って軽く地面を均した簡易的な稽古場があり、普段から僕はそこでメティアさんの稽古を受けている。
稽古場から風を斬るような音が聞こえ、足を止めた。
その音には聞き覚えがある。
家の陰から稽古場を覗き見ると、僕を待つメティアさんは、剣を振っているだけではなかった。
真剣な表情で何かを躱し、受け流すような動作を繰り返していた。
それはまるで、見えない誰かを相手にした剣舞のようで、僕はそんな彼女に見入ってしまう。
改めて見る彼女の動作は、その一つ一つが美しく、続く動きにも一切の淀みがなく、流れる風を想起させる。
燻っていた火種に、小さな火が灯り、僕を内側から焦がしていく。
惜しむらくは、その剣舞に相手がいないことだろう。
その火がそれ以上大きくなる気配はなかった。
ただ、少し分かったことがある。
普段稽古で見せるメティアさんの剣に、こうも惹かれたことはなかった。
つまり――
「……僕はメティアさんの本気の剣が好きなのかもしれない」
まずい。
気付けば、考えていたことが口から漏れていた。
僕は咄嗟に口元を押さえるが、遅かったらしい。
メティアさんは動きを止め、剣を下ろすと僕を見つける。
「……ブラン、来ていたなら声を掛けろ」
見つかった以上、ここに立っていてもメティアさんの機嫌を損ねるだけだ。
僕は、足早にメティアさんの元へ向かう。
「アハハ……すいません、遅れました」
気まずさから、頬を掻く。
「いや、お前が来たのに気が付かなかった私も悪かった」
メティアさんが僕に謝るなんて珍しい。
確かに、さっきの彼女は、今まで見たことないほど集中しているようだったが……一体何をしていたんだろうか?
「時間も惜しい、すぐに稽古に入るぞ」
「あ、はい」
メティアさんの声に思考を打ち切られ、咄嗟に返事をした。
まあいい、こんなことは後で聞けばいい。
それよりもまず問題なのは、今から何をするのかだ。
「それで、今日のために考えていたのがこれだ」
メティアさんは取り出した紙をぺらりと開く。
そこに書かれている稽古の内容に、僕は思わず顔を顰める。
素振りに始まり、腕立てや腹筋などの体づくりが相当量。
それをこなした上で彼女と日が暮れるまで打ち合い、夜は技術指南に加えて、その他諸々。
こんなの僕の体がもたない。
「不満そうな顔だな。だが、安心しろ」
そう言って、メティアさんは目の前で紙をビリビリと破ってしまう。
「破っちゃっていいんですか?」
書かれていた稽古をするのは、勘弁願いたかったが、僕が強くなれるようしっかりと考えられた内容だった。
紙も決して安いものではない。
それを破くのは少々もったいなく感じてしまう。
「もうこの紙は不要だからな」
「不要……ですか?」
「ああ、なにせこれは手を抜いていたお前用に考えたものだからな」
あー……なるほど。
なんとなく、この先の展開が見えた気がするぞ。
メティアさんが木剣を僕の鼻先に突き出す。
「お前の実力を確かめる。全力で来い」
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