テルミナ・フェスティバル   作:捨独楽

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プレへビル行き列車内

 

 アベラ・イザベラ。二十七歳。長く豊かな赤毛と、百七十センチの身の丈を持つ白人の女性は、プレへビル行きの列車の中で強い眠気に襲われていた。

 

 線路を走る列車は心地よい揺れをアベラに伝えてくる。列車の座り心地はさほどよいものではないが、立ち仕事が主であった彼女にとっては座れるというだけでマシと言えた。

 

(なんだか眠くなってきたわね……)

 

 本来、アベラはそんな呑気なことを考えている場合ではない。彼女がプレへビル行きの列車に乗ったことには多少の事情があったのだ。

 

 それにも関わらず、アベラはついに眠気に負けてしまった。

 

 まどろみの中で、アベラは走馬灯のように己の人生を目撃していた。

 

 彼女の祖国、北部オルデガルドは、第一次世界大戦で大きな被害を受けた国であった。

 

 アベラは両親と多くの兄弟姉妹に囲まれ、長女として騒々しくも、幸せで愛情深い家庭で育てられた。北部の首都オルデガルドが破壊した都市を再建しているときのことであった。

 

 東ヨーロッパで、戦争があったのだ。アベラはラジオでその放送を聞いていた。

 

 新たな世界大戦。第二次世界大戦の始まりであった。

 

 

 世界情勢が緊迫していく中でも両親は家族への愛情を絶やすことはなかった。兄弟姉妹を長女として世話する傍らでアベラは『飢える』という『恐怖』を学んだが、あの悪名高い恐怖と飢餓の神の存在を知りつつも、信仰することはなかった。

 電子工学を学んだ母と、工場で働く現場肌のエンジニアであった父との間で育ったアベラは、両親の影響か、油と汗に身をやつし機械を弄くることがさほど苦ではなかった。祖国を助けるためにアベラが選んだのは、機械工学の知識と、それを活かした工場現場での作業だった。アベラは長子であったことから、年長者として下の者たちを気遣い、まとめることも多かった。

 

 そんな生活に転機が訪れたのは、ブレーメン帝国との戦争で故国が焼け野原になったことがきっかけであった。

 

 強大な軍事力を持つ帝国を前にオルデガルドは焼け、多くの命が喪われた。アベラをはじめとした年若い女たちが工場で武器を生産し、父のような男たちは前線で兵士として駆り立てられた。末期にはアベラの母すら武器を手に取って、帝国の占領下にあったオルデガルドの都市を解放するために戦地へと送られた。

 

 自分の両親。少し歳上なだけの男子。近所の会社員たち。従兄弟やはとこの父親たち。近しい間柄の人間が戦地へと赴き命を散らしていくのに、人々をより直接的に助けることができない。それはアベラの心を苛立たせた。

 

 兵役に赴こうとするアベラに対して兵士が投げかけたのは、「貴女が前線の兵士として戦うより、国内でその技術を活かすことの方が、我々の命を救うことになる」という至極真っ当な断りの文句。それに異を唱える術は、アベラにはなかった。

 兵士の言葉は事実であった。

 

 国内は長引く戦争によって疲弊し、食事はとうの昔に配給制になっていた。人々の顔に飢えへの恐怖の影がちらつくほどになっていた。戦地から二度と戻らない兵士達の代わりの労働力を国は必要としていて、エンジニアとしてその補填になれるのがアベラであった。

 

 アベラの広い肩であれば、その重荷と増え続ける仕事量を背負うことができる。アベラが機械を整備しなければ、いったい誰が代わりにそれをやってくれるというのだろう?

 

 

 アベラは家長として幼い兄弟姉妹を養う日々が続いた。手に職があり、幼い姉妹が生き残っていたアベラはまだ運が良いほうであった。アベラと同年代の、幼いアベラをからかってきた幼馴染達。ドレスに憧れ夢を語り合った女友達の消息をアベラは知らない。それに比べれば、護るべきものと職があったアベラは幸運であったのだ。

 

 いずれにせよ、このような苦難はブレーメン帝国と関わった国の民衆にはよくある話だった。帝国に対する言いようのない反骨心を抱えながらも、アベラにはそれより優先すべき事柄があった。

 

 

 ある日。

 酷い嵐の夜だった。

 

 二十年間も更新しなかった機械のオーバーホールという、十二時間にも及ぶ激務を終えて帰宅する途中。アベラは雨に濡れた路地で一人の外国人男性と遭遇した。

 

 男はアベラに気付き必死で逃走を試みた。しかし、わずか3秒もしない内に倒れてしまったのである。

 

 思わず駆け寄ってその男を見れば、腹部を銃で撃たれ、血溜まりができていた。気を失った男の所持物には、オルデガルドの同盟国であるロンドン王国出身であることを示す身分証が見つかった。アベラは強まる雨の中で、重傷を負って気絶した男を見ながら選択に迫られた。

 

 アベラが選んだのは、男を家に連れ帰り介抱することであった。男は一週間もの間意識不明の状態が続いたが、丁寧な手当は徐々に男の真白な顔色を戻していった。

 

 男と話すとき、アベラは男に対して、人々を助けたいという気持ちや、長引く戦争に対する不満を打ち明けた。それはアベラの鬱屈した思いであった。

 

 戦争での荒廃から故郷を復興させ、家族を養うために日々を過ごしていたアベラは、幼かった弟や妹たちが学校に通い、或いは手に職をつけ、アベラと同じように工場に駆り出されていくにつれて心にぽっかりと大きな空洞ができた気がしていた。

 

 それは両親のもとで愛されていたときには感じなかったモノだった。その空洞は、飢えであった。決して満たされることないそれを埋める何かを、アベラは欲していた。

 

 男はそんなアベラの心を知って、オルデガルドにおける自分の任務を打ち明けた。

 

 アベラの顔立ちそのものは優れていたわけではなかったが、かといって見るに堪えない不細工というわけでもなかった。言い寄る男たちをかわしながら日々を過ごしていたアベラに、この時、2度目の転機が訪れた。

 

 男が打ち明けた言葉は、アベラにとっては天啓であった。

 

 アベラが助けた男は、日々をただ生きるだけでは持ち得ない何かを持っている気がした。

 

 故国オルデガルドにおいて、目的意識を持っている人間はそう多くはなかった。若い男たちは戦争に駆り出され、長引く戦争のストレスで皆が疲弊していた。

 

 ブレーメン軍の非道によって大切なものを喪いながらも、その日を生き延びるためには仕方がないと同胞を陥れて日銭を稼ぐ者。

 戦争に用いる物資を工面するために、ほとんど休息も休憩も取らせず仕事をさせようとする上長。 

 辛い日々から逃れるため、或いは、戦場の悲劇を忘れるために薬物に手を出す帰還した傷痍軍人。

 

 そうした日常に呑まれて、ブレーメン軍に対する反骨心すら忘れ去っていく故国の同胞たち。彼らの目は濁り、光がなかった。しかし、アベラが助けた男には確かな目の輝きがあった。

 

 

 NLU(Nameless Liberty Underground)という組織があった。ブレーメン帝国に対抗する戦いを行うレジスタンス。軍事国家に対する反抗組織。その一員であると、男はアベラに告げたのである。

 

 この組織は第一次世界大戦で結成されて以来、当局の監視の目を逃れながら、ブレーメン帝国軍とそれに対抗する東方連合軍双方の進軍を阻止していた。

 

 組織の目的は、戦火の拡大を防ぐこと。その活動範囲はヨーロッパ全土にも及ぶと男は語った。あまりに甘く、蠱惑的な声だった。

 

 冷静に考えれば、帝国や東方連合軍という『国家』……否、大陸全土に及ぶ権力そのものに対して個人ができることなど知れている。それが地下組織になったところで何がどう変わるものでもない。現に、アベラの目の前にいた男もしくじって死にかけ、アベラに介抱されていたのだ。

 

 男はロンドン王国へと運ぶための重要書類を保持していた。その内容はアベラも聞いていない。オルデガルド有力者のNLUに対する書面か、或いはオルデガルド内の不満分子の情報か、それともNLUが独自に調査していた何かなのか。その中身は男も打ち明けなかった。

 

 それでも男は、怪我で動くことが叶わない自分の代わりに、書類をロンドン王国に運んでくれとアベラに頼んできた。アベラが待ち望んでいた、【多くの人々の助けになり、戦争を終わらせる可能性のある仕事】だった。

 

 考えた末に、アベラは男の仕事を引き継いだ。覚悟を決めたアベラはロンドン王国へと出立した。命を救った例に男は将校の身分を示す短剣をアベラへと手渡した。何の変哲もない二重構造の柄を取れば、将校がアベラに託したということが明らかになるというわけだ。

 

 北の故国からヨーロッパを旅し、ロンドン王国へと辿り着いたアベラはついに、NLUの組織のメンバーと接触することに成功した。組織のメンバーだった男は、NLUの現状とヨーロッパ東部の情勢についてアベラに述べた後、組織への加入を求めた。

 

 転機だった。NLUに加入すれば、アベラの工学知識は彼らの役に立つことは間違いなかった。NLUもけして人材豊富とは言えなかった。

 

 接触した同志たちはアベラと同じく故国を焼かれた若者たちだった。アベラははじめて己の中の怒りを共有できる仲間を得たのである。新しい同胞たちは、オルデガルド出身者だけではなかった。ブレーメン軍に国を焼かれた元兵士、家族を喪った少年、軍に財産を没収された元貴族。彼ら彼女らが、アベラの第二の兄妹になった。

 

 アベラは持ち前の機械工学の経験を活かして、同胞たちの武器を修理し、或いは戦うための武器や簡単な罠を作製しては、同胞に手渡した。メカニックとして己が作製した武器が帝国軍の命を奪う結果になったとしても、それが仲同胞の命を守ることに繋がるのなら、アベラにとっては苦痛ではなかった。

 

 NLUがヨーロッパ各地に潜伏させていたスパイからの情報を得ることができる程度に、アベラの地位は高くなっていた。もたらされた断片的な情報を組み合わせ、アベラはある計画の一端を掴むことに成功した。

 

 東方連合が、ボヘミアという小国において何やら邪悪な計画を企てている。しかし、その『邪悪なこと』の詳細は明らかではない。

 

 東方連合の敵国であるブレーメン帝国も、この計画を狙っている。この両者のものと思われる小競り合いや暗躍が各地で頻繁に報告されていた。

 

 ブレーメン軍の攻撃は苛烈を極め、ついにボヘミアは占領された。NLU本部はすぐさまボヘミアの首都プレへビルにNLUメンバーを送ったものの、街に到着してすぐに、彼らからの連絡は途絶えてしまった。

 

 NLU本部はこの異常事態においても、事態を楽観視していた。彼らは仲間達の手腕を信じ、帰還を待つと決めた。

 

 しかし、アベラは胸騒ぎを感じ、それを抑えることが出来なかった。仲間の危機を感じ取り、大きな陰謀によって彼らの命が失われつつあるかもしれないと思うと、座して様子を見ていることなど出来はしなかった。

 

 ブレーメン帝国の一地方であるプレへビルで消息を絶った同僚達の捜索のため、アベラはそこに行く列車に乗り込むことを決めたのだ。

 

 NLU本部からの正式な支援は期待できない。しかし、ボスはアベラにこう告げた。

 

「もし万が一任務中に援助が必要なら、現地NLUボヘミア支部の支部長を頼るといい。赤い靴が目印だ。見れば分かるとも。……先行した彼らに対しても私はそう言ったのだがな」

 

 アベラはこの旅に出た時から、えもいわれぬ緊張感に包まれていた。毎晩プレへビルで待ち受ける悪夢を見るのだ。果たしてそれは、単なる夢なのだろうか……?

 

 アベラの見る夢には、単なる理屈では説明できない恐ろしい『何か』が隠されているような気がしてならなかった。

 

***

 

「……あら……?」

 

 微睡みから目を覚ましたアベラは、周囲を見渡した。本来あるべき人の気配がなかった。

 

 ピンクのドレスを着た幼い少女が、何か得体のしれない魔法陣を描いているのが見えた。

 

(…………眠りすぎた?夢?でも何か……)

 

 確かにアベラは目的地までの旅路の間、誰と話すこともなく眠りについた。その間に手持ちのバッグや工具類を盗まれていなかったのは幸運であったが、問題はそこではない。

 

 本来あったはずの気配の残滓がない。

 

 あの少女は、血のように赤いチョークで、あろうことがコンパートメントの床に奇妙な魔法陣を描いていた。それが今は存在しないのだ。

 

 

(女の子はコンパートメントを出てしまったのだろうか?)

 

(……いや……ちょっと待って。………私の服が!?)

 

 アベラが疑問に思うものはもう一つあった。アベラは列車の中で余所行きの普段着を着ていた筈だった。

 

 なのに今は、仕事用の作業着に身を包んでいた。工具をしまうことができる武骨で頑丈で、しかし、可愛げの欠片もないポケットが二つ付いただけのそれは、電車の中で着るにはあまりに不釣り合いだ。

 

 アベラは周囲を見渡した。そこに居た人々は、眠りに入る前と違いはなかった。

 

 電車に乗っていた乗客は、人種も性別も容姿も様々だった。

 

 アベラと同じコンパートメントに乗っていたのは、肩幅の広い大柄な白人男性。そして、ヨーロッパでは珍しい黄色人種の、東洋人の男性だった。彼らはアベラが立ち上がっても、女の子がいなくなっても気にすることもなく眠り込んでいる。

 

 

(……まだ夢……?おかしいわね、皆眠り込んでいるなんて)

 

(……睡眠ガスを使われた形跡はないし……)

 

 夢か現なのかはっきりとしない感覚が、アベラにはあった。偶然乗り込んだコンパートメントで、示し合わせたかのように皆が眠り込んでいるなんてことがあるだろうか。いや、ない。アベラはじっとりとした汗を流しながら、コンパートメントの扉を開けて先へと進んだ。

 

 別の車両へと進もうとしたアベラは、美しいものを見て息を呑んだ。

 

 宝石のように青く輝く蝶が舞っている。蝶はまるでアベラを導くかのように舞い、やがてコンパートメントの扉から先へと進んだ。

 

 夢にしては出来すぎていて、現実と言うには浮世離れしている。アベラは熱に浮かされるようにコンパートメントの扉を開いた。

 

「……えっ」

 

 アベラは目を疑った。

 

 電車のコンパートメントを移動しただけの筈だった。その筈なのに、今アベラの眼前には、木造の作業場が広がっている。

 

 レンチやスパナといった作業用の工具を入れた鉄製の工具箱が無造作に散乱し、木製の机と椅子の上には四角い立方体があった。

 

 

 呆気に取られていたアベラは、そこでさらに奇妙なものを見た。

 

 

 何とも言えない腐敗臭に襲われた。ギシギシと軋む床の音があったので視線を向ければ、露出してはいけない局部を含めて、全てを露出させた男がアベラに近寄ってくるではないか!?

 

 何もかもがおかしかった。

 

 

「……!?な……」

 

 一瞬呆気に取られたアベラは、足元から上に視線を向けさらに驚愕した。男の右手には、本来あるべきではないものが握られている。

 

 男が右手に持っているものは、刃渡り五十センチはあろうかという鎌……カッサラだ。鋭利な刃の表面には錆が見えた。

 あんなもので刺されてはひとたまりもない。抜いた時の出血で死んでしまうし、感染症にかかる恐れだってある。アベラの肝は冷えた。

 

 

 男の目は血走っている。顔は骸骨のように白く……そして、背中から何かタコのような触手が生えている。

 

(……あ、あり得ない)

 

 アベラの思考はそこで一度ストップした。

 

 NLUのエージェントとして訓練を受けたアベラといえど、明らかな異常者を前に平静を保つのは難しいことであった。

 

「オマエ!」

 

「アタシはオマエを探し回ったノヨ!!」

 

「そのスカスカの頭でどこかに逃げられると思ったの?ほら早く、急ぎなさい!」

 

「な……何を仰っているのか分かりませんが、お……落ち着いてください。指示に従います。貴方は……?」

 

「アタシはここの管理人ヨ!そのスカスカの頭に叩き込みなさい!」

 

 とにかく刺激してはいけないと思い、アベラはおとなしく男の指示に従うことにした。

 

(い……今は情報を得なければ……)

 

 異常事態を前にして、アベラは本来回すべき頭が回っていなかった。

 

 木製の椅子に座り、長机の上に立方体を組み立て、置いていく。アベラは黙々と作業をするフリをして周囲を伺い、隙を見て逃げることにした。

 

「……?」

 

 薄暗い作業机のロウソクに火を灯し、隣の机に視線を向けたアベラは、隣の作業机で先ほど見た少女がいることに気付いた。少女は微かに微笑むと、すっと椅子から立ち上がった。

 

(待ちなさい、まだ危ないわ!あの男が居るかもしれないのに……!)

 

 

 アベラは己の武器と成り得るものを手に取った。腰に将校の剣とナイフを提げ、パイプレンチを右手に持って立ち上がった。

 

 どれだけ恐ろしくとも、護るべきものが居るならば立ち上がらなくてはならない。それがアベラの信念だった。

 

(マズったわね。念のためにボスに拳銃くらいは申請(おねだり)しておくべきだったかしら)

 

 絶対にあの男に会いませんように、と願いながら、アベラは少女を探すために立ち上がった。あんな男に捕まったら何をされるかわかったものではない。少女が男に見つかる前に保護しなければ、とアベラは考えていた。

 

 そんな考えは、一瞬の内に崩れ去った。

 

「オマエ!!」

 

 管理人の声が、した。少女が居なくなった方から、血走った目つきの男が手にカッサラをもってやってくる。

 

「逃げ方を実践方式で教えてやるわヨ!ギャギャギャッ!」

 

 明らかに正気ではない管理人は、道を塞ぎながらアベラの前に立ち塞がっている。

 

「やろうってんなら容赦しないわ!かかってこいっ!!」

 

 アベラは管理人の男が近づいてくる前に、急いで長机の端に回り込んだ。パイプレンチを大きく振りかぶり……

 

 男の胴体めがけて投擲した!

 

 作業場は長机ばかりで、回り込むにしろ乗り越えるにしろ、それは大きな隙になる。アベラの投擲したパイプレンチは、男の胴体に大きく音を立ててクリーンヒットした。ごきり、と骨が折れる音がした。

 

「グワッ!!?」

 

(やった)

 

 と、アベラは思った。肋骨をマトモに折られてろくに動けるわけもない。管理人の男に成す術はない。

 

 その筈だった。

 

「……よくもヤッてくれたワね!切り刻んであげるわヨ!」

 

「ひっ……」

 

 管理人は……止まらなかった。

 

 管理人が血塗れになりながら振りかぶったカッサラを、アベラはかわそうとした。しかし、狭い作業場であったことがアベラにとっては不幸だった。

 

 男のカッサラがアベラの左腕を掠めたのだ。

 

「あっ……い……いやあっ!!」

 

 アベラの左腕から血が噴き出る。あまりの事態に冷静でいられない。

 

「死ネ!!」

 

 迫りくる殺意を前に、アベラは無我夢中だった。脳内に湧き出る何かが痛みを忘れさせ、アベラはカッサラを振りかぶった管理人の懐に潜り込んだ。

 

「うあああああっ!!」

 

 そこから先のことは、地獄と呼ぶに相応しいものだった。

 

 管理人の切り込みは鋭かった。一太刀でアベラの左腕を、正確に言えば、手首から先を切り落とすほどの腕前だった。しかし、管理人はその切断攻撃の際に、右足を身体から浮かす癖があった。

 

 女性と男性の体格差があると言えど、左足1本では全体重を支えきることはできない。

 

 勢いよくカッサラを振りかぶっていた管理人の顎に、アベラは右腕をぶち込み、管理人を仰け反らせた。その勢いのまま、全体重をかけてアベラは管理人を押し倒した。

 

***

 

 その後、アベラは血塗れになりながら難を逃れた。アベラの手にはカッサラが握られており、、アベラの左手は血に塗れている。

 

「逃げなきゃ……ここから……ここから逃げなきゃ……」

 

 ぶつぶつとつぶやくアベラの脳裏には、少女のことなど……いやそれどころか、NLUの同胞のことすらも消え去っていた。アベラにあるのは、ただこの地獄から抜け出すことだけであった。

 

 アベラは正気を失いつつあった。管理人の遺体から離れ、部屋を出たアベラは、更におかしな光景に遭遇した。出血した左腕を必死に布片で止血しながら、逃避するかのように歩みを進める。

 

 大理石で覆われた通路だった。列車のコンパートメントでも、管理人と殺し合った作業場でもない、何かおかしなところに迷い込んでいた。

 

「う……ああ……」

 

 出血した腕からの痛み。否、目の前の光景を頭が拒否しているのか。

 アベラは激しい頭痛に見舞われ、そのまま意識を失った。

 

 この日、アベラは『恐怖』を知った。

 

***

 

 

 




この作品には非常に残酷な描写がございます。閲覧にあたりお気をつけてください。
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