「いたい、痛い……」
堪えきれない痛みを感じて、アベラは閉じていた目を開いた。
「……?」
目を開いたアベラの視界に飛び込んできたのは、節くれだった自分の左手だ。手首から上がなくなった筈なのに、今のアベラの左手は何事もなかったかのようにくっついている。
「えっ……」
アベラは左手を握り指を動かし、右手で触った。
何の変わりもなかった。左手の血管はどくん、どくんと鼓動を刻みながら、アベラの右手に熱を伝えてくる。この左手ならば、エンジニアとしての作業に支障はないだろう。
「いっ……いったい……さっきの出来事は……」
「ああ、そんなところにいましたか」
混乱するアベラの背後から、男性と思わしき少し低めの声がかけられた。まるで作り物のように抑揚のない声だ。
「誰!?」
思わず振り向いたアベラはぎょっとして声を失った。
その男は、アベラを歓迎するかのように笑みを浮かべていた。値踏みするかのように腕を組み、左手を顎に当てながらアベラを観察する姿は、NLUの上司たちを思わせた。
男の容姿はまともとは言いがたかった。男の姿を見たアベラはロンドン王国の博物館に展示されていたミイラを思い出した。男の顔は生気が感じられないほどに青く、身体は……なんと、骨が浮き出ているではないか!
アベラは思わず後ずさったが、男は何も言わない。数秒間、両者の間に沈黙が訪れた。
男の瞳の色は暗く、何の感情も感じ取れない。何より目を引くのは男の衣装で、どこかの民族のような羽飾りのついたマントと、植物のような帽子を被っていた。
目の前の男は明らかにまともではない。先程アベラが戦闘を余儀なくされた管理人の同類に違いなかった。アベラが警戒するのは当然だった。
「そう邪険にしないで頂きたい。私はあの忌まわしき場所から、貴女を救い出しました……」
忌まわしき場所から救い出された、と聞いてアベラは確かにそうだろうと思った。狂人の遺体の側から離れられたのは心情的にはありがたかった。
ただし、とアベラは周囲を確認して思った。
(ここもまともな場所とは言えないわ。でもそれを指摘するのは得策じゃないわね……)
アベラは今、塔の上に居るようであった。
空の色は暗い。列車は夜通し走っていたからそれは問題ではないのだが、不審な男の背後には、まるで骸骨のように不気味な顔の月が浮かんでいる。月はアベラを見下すように微笑んでいた。更に、塔の周囲には絡み合うヘビのモニュメントが等間隔で配置されている。悪趣味としか言えなかった。
「貴方が……私を救った……?どうしてですか?私は貴方から助けられることをした覚えはありませんが」
(……落ち着くのよ。この男とは少なくとも会話ができる。さっきの管理人のように武器を持っているわけでもない。いきなり襲ってくるとは限らない……)
アベラは努めて冷静さを装いながら尋ねた。
「ええ。貴女は、二度と戻れなくなる道の奥深くへと迷い込んでいたのです……」
抑揚のない、大きくもなく小さくもない声だったが、不思議と男の声はアベラの耳に届いた。アベラは思わず尋ねた。
「まさか私の腕は……」
「私が治癒をさせていただきました……これは……私から貴女へのささやかな気遣いだと思ってください……」
「そ、それは本当に……助けていただいてありがとうございます。私の名前はアベラです。失礼ですが、貴方は……?」
表面上笑顔を取り繕おうとしたが、うまく笑えた自信はなかった。不審な男は、アベラを見て微かに微笑んだように見えた。
「貴女は今、美しく柔らかな月明かりの下で安全です。ようこそいらっしゃいました、月の塔へ……」
言葉だけ見れば、物語の中で乙女を口説く騎士の謳い文句にも聞こえる。しかしアベラはその言葉に薄気味悪いものを感じざるをえなかった。
(治癒したとこの男は言った。それはいったいどういう意味?縫合?いいえ、こんな……切断されてなくなった腕がくっつくなんてことはあり得ない)
「これは……これは悪夢なのですか?」
尋ねるべきことや問い詰めたいことは山程あるのだが、異常事態の連続に言葉が浮かばない。アベラにできることは、縋るように不審な男に尋ねることだけであった。
夢であればいい。単なる夢ならば、覚めれば全てが終わるからだ。
「いいえ。決して悪夢ではありません。ほんの少し……瞳に映る物事の見方を変えてみるだけで」
男からかけられた言葉は、無慈悲で、残酷で、何の救いもなかった。
「そうすれば悪夢には、なり得ませんよ」
何の感情もなくそう口に出す男を見て、アベラの中に沸々とした怒りが湧き上がった。ふざけるなと言いたい気持ちを抑え、アベラは皮肉で返した。
「……これが悪夢ではないだなんて。貴方は随分と辛い日々を送ってこられたようですね。……私は今までの自分が幸せだったように思えてきましたよ」
奇妙な男は、口もとにあてていた手を開き、アベラを迎え入れるように言った。
「……フフ。貴女は今、こう考えていますね。ふざけるな、何が起きているのか説明しろと。これは大変……失礼をいたしました」
あいも変わらず抑揚のない声だ。アベラが口を差し挟む前に、奇妙な男は、アベラへと囁くように、歌うように言った。
「私たちの言葉がここから主に届くはずもありません。私が代わりにお話いたしましょう」
「主……ですか。どのような御方なのですか?」
(ブレーメン帝国?……それとも東方連合?……或いは……ボヘミアの人間?)
相槌をつくようにアベラは言った。目の前の男は何かに仕えている、という。アベラが思いつくのはその三者のうちの誰かだった。
「それで。私の主はいったい誰なのか……?」
奇妙な男はくるくるとアベラの周りを踊るように回る。彼の口調は変わらないのだが、この瞬間だけは、何かしらの感情が感じ取れた。
「悪戯隙の主。……トリックスターの神」
(神……)
何かの比喩に違いないとアベラは思った。奇妙な男はアベラの一周し、ぴたりと元の場所へと舞い戻った。
「月の神、レールです」
男の立ち姿と、男の背後の夜空で輝く悪趣味な月の姿が一致した。
「あ……貴方はいったい……?」
アベラの背筋に冷たい汗が流れた。
(く……狂っている。でも……神?)
アベラは一般的なオルデガルド市民として、両親から神の存在を教えてもらった。しかし、それは誰もが教わるような道徳的な内容で、オールマーだの恐怖と飢餓だのという神の実在を本気で信じたわけもなかった。
「そして私は……?私のことは、ペルケレ……とお呼びください。私はただ、天の威厳ある声に耳を傾ける敬虔な信者に過ぎません」
(……これは比喩に違いない。この男の背後に、この男を裏で操る黒幕……つまり、この男の言う神が居る)
アベラはそう思った。エンジニアとして、人間の力で成すべきことを成してきたアベラにとって、月の神というものは受け入れられなかった。
たとえペルケレの背後の夜空に、月が座してアベラとペルケレを見守っていたとしても。曲げられない矜持がアベラにはあった。
「ご立派なことですね、ペルケレさん。神は今何処におわしますか?」
アベラは宗教関係者を怒らせるつもりはなかった。しかし、これまで真面目に宗教と向き合ってこなかったアベラは、彼に誤解を招きかねない表現で尋ねてしまった。。
「貴女は夢を見る人。あの御方は夢そのものです」
ペルケレの口調からは何の感情も感じ取れない。それがアベラにとっては幸いだったのかもしれなかった。ペルケレの機嫌次第でアベラはまたあの場所に戻されるかもしれず、生殺与奪の権を握られた状態でペルケレの機嫌を損ねることは悪手であったからだ。
「……私の主は、この特別な祭典にあなた方十四名を招待しました」
「祭典……?それはどのような催しですか?」
アベラの耳に聞こえたのは、およそ正気とは思えない言葉の羅列だった。
「祭典の候補者は十四人いますが。真の勝者は一人だけ……テルミナ・フェスティバルが始まります」
アベラの耳には、それはとても不吉な言葉に聞こえた。
(十四人?……一人だけ……?……まさか)
(殺し合えというの!?)
「な……何が何だか。私はそのようなものに参加したくはありません」
アベラは本音を言った。脳裏に浮かんだ最悪の想定を、認めたくなかったからだ。もはや彼女は己を取り繕えはしなかった。
先ほどアベラは、正気を失った管理人と殺し合った。
アレを十三回も繰り返せと、目の前のペルケレとかいう狂人は言っているのだ。少なくともアベラにはそう聞こえた。
「……嗚呼。しかし、もはや何を望むかという問題ではありません。賽は投げられたのです。十四人のうち、真の勝者は一人だけ」
「そんな馬鹿なことが許されるわけがないっ!」
ペルケレの姿は遠目に見れば、月夜に月の光を浴びながら、女性を口説く男の姿にも見えただろう。しかしその実態は、人を拉致しいきなり無理難題をほざいてきた得体のしれない男に過ぎなかった。
「私の主は選択肢を与えませんし……率直に言って私もそうです」
激怒するアベラを見ても、ペルケレは顔色ひとつ変えはしなかった。
「そんな……そんなことを聞いてはいません!ここは!?ここは何処なの!?どうすれば解放されるの!?テルミナフェスティバルは何のために……どうすれば終わるというの!?」
「貴女にとって私の言葉は非常に混乱を招くものでしょうね。
……現時点では、これ以上貴女に負担をかけるつもりも、その必要もないでしょうから……」
「今はただ、『塔』に向かってください。それだけで構いません」
ペルケレはそれだけ言うと、くるりとアベラに背中を向けた。まるでもう用は済んだと言わんばかりに。
「塔に?塔に着いたら何が……」
「貴女がそこに辿り着いたら、喜んで疑問にお答えしましょう」
(ふ……ふざけたことを……!人を……命を。尊厳を何だと……!)
月の光を浴びながら、ペルケレの青白い顔がアベラにはっきりと見えた。そのふざけた顔をアベラは忘れるものかと思った。これほどの邪悪は見たことがなかった。極悪非道のブレーメン軍や、対抗するあまり戦火を拡大する東方連合すらペルケレに比べればマシなほうであったと思わざるをえなかった。
「ではそれまで。月明かりの下でまたお会いしましょう」
ペルケレは、アベラに対して何の感情も抱いてはいなかった。それがアベラには許せなかった。アベラが口を開く前に、アベラの視界は暗く染まった。
***
アベラは叫び出す寸前の所で堪えた己を褒めなくてはならなかった。
目覚めたアベラの右手には、血塗れのカッサラが握られていたのだ。そう、管理人の男を殺した時、思わずアベラが手に取った武器。その刃には、まだ生暖かい血の跡が付着していた。そしてアベラの左手はまだアベラの身体にあり、アベラが思わず取り落としそうになったカッサラを受け止めた。
アベラの息は荒く、背中からは滝のような汗が流れていた。目覚める前のすべてが夢ではなく、現実に起きたことであったのだとアベラは自覚させられたのだ。
列車は止まった。
しかし、テルミナ・フェスティバルは始まってしまった。
月=狂気の象徴
塔=タロットで最悪の絵
前世で何をしたらこんなもんに巻き込まれるんでしょうね。