何度目かのあなたへ。―― All for You, 作:あいしてる
手渡された紙片に書かれていたのは、住所ではなくただの数字の羅列――緯度と経度を示す座標だけだった。
喫茶店を出ると、相変わらず街は復興の音で満ちていた。
アスファルトを叩く工事の音、忙しなく行き交うトラック、プロヒーローを応援する子供たちの歓声。
それらすべてが、久遠澪の鼓膜を不快に撫でて通り過ぎていく。
(私の居場所は……ここにはない)
ポケットの中で、折りたたんだ紙片を強く握りしめる。
迷いはなかった。
仮にあの男が自分を騙そうとしていようと、怪しい新興宗教の勧誘だろうと、どうでもよかった。
今の自分にとって、この社会で平和に生きること以上に恐ろしいことなど存在しないのだから。
電車を乗り継ぎ、街の喧騒が薄れていく方向へと向かう。
行き先は、かつてヒーローとヴィランの戦火によって放棄され、立ち入り禁止区域として指定されたまま放置されている旧市街の郊外だった。
壊れたフェンスを潜り抜け、雑草が生い茂る廃墟群を進む。
すり減った靴底が、割れたアスファルトを踏みしめる音が静かに響いた。
スマートフォンのGPSアプリを見つめながら歩くこと十数分。
指し示された場所にあったのは、崩落しかけた古い雑居ビルの地下へと続く、暗く湿った階段だった。
「……ここ、なのかな」
立ち入り禁止のテープが風に揺れている。
ヒーローの定期巡回ルートからも外れ、世間の記憶から完全に忘れ去られた死角。
久遠は躊躇うことなく、暗闇の中へと足を踏み入れた。
スマートフォンが照らす頼りない光だけを頼りに、湿った階段を降りていく。
カビと土の匂い、そして――どこか異物のような、この世界のものではないような不快な空気が肌を刺した。
階段を下りきった先には、コンクリートが剥き出しになった地下の倉庫のような空間が広がっていた。
そして、その中央。
崩れた瓦礫の中に、ポツンと置かれた無機質な鉄製の台座。
その上に、それは鎮座していた。
_____一冊の本。
革とも鱗ともつかない、不気味な鈍い光沢を放つ黒い装丁。
タイトルすら記されていないその書物は、まるでそこにあること自体が空間を歪めているかのような、悍ましい存在感を放っていた。
久遠の足が、ぴたりと止まる。
本に近づくだけで、背筋に冷や汗が吹き出していた。
____直感が告げている。
触れてはいけない。
見てはいけない。
あれは人間が関わっていい代物ではないと。
だが同時に、胸の奥で黒く渦巻く執着が、彼女の背中を強く押し出していた。
(あの警察官は言っていた……『
(ヒーローにも救えなかった。
社会も
なら――私は、この狂気に縋るしかない)
久遠は深く息を吐き出すと、怯える自分の手を強く握りしめ、ゆっくりと台座へ歩み寄った。
そして――引きつる指先を伸ばし、その黒い装丁へと触れた。
指先がその黒い装丁に触れた瞬間。
「ッ……!!!!」
脳を直接、汚物とナイフで乱雑に掻き回されたかのような強烈な狂気が頭の中へ雪崩れ込んできた。
視界が不気味に歪み、耳の奥で嫌な羽虫の大群が蠢くような羽音が響く。
ただ本を開いただけなのに、そこに並ぶ文字を目で追うだけで、喉を引き裂いて叫び出したくなるような悍ましい衝動が全身を駆け巡った。
(嫌ッ……吐きそう…………なに…これ……ッ!!?)
ページに書き連ねられているのは、おそらく英語のような文字。
斜め読みしても、単語の意味すらろくに分からない。
だというのに――これがろくでもない狂気の世界のことであるということだけは、脳が勝手に『理解』させられてしまう。
文字を追うごとに、自分の中にある「人として大切なナニか」が、ボロボロと削れ、削げ落ち、消えていく恐ろしい感覚。
_____しかし
胸を突くその圧倒的な不快感と悪寒こそが、久遠に確信を与えた。
(……間違いない。)
本物だ。
指先が最後の頁へ触れた、その瞬間だった。
地下空間を満たしていた静寂が、何かに喰われるように消え失せる。
耳鳴り_____いや、それは音ではなかった。
耳ではなく、脳そのものへ直接流し込まれてくる"何か"。
聞き取れるはずもない異国の言葉。
それどころか、人間という種が発声することすら許されていないような、不規則で、不快で、不完全な音の羅列。
それなのに、意味だけが分かってしまう。
いや、理解したのではない。
理解させられている。
「…………ッ」
思わず本を閉じようとしたが、指先は一ミリたりとも動かない。
まるで自分の身体ではないようだった。
腕も、指も、喉も。
既に、自分以外の何者かへ支配され始めているような感覚だった。
吐き気が込み上げる。
胃が捩れ、視界がぐらりと傾く。
額から流れ落ちた冷や汗が頁へ零れ落ちた。
その雫は紙へ染み込むことなく、まるで意思を持つ生物のように黒い文字へ吸い寄せられ、跡形もなく消えていく。
(……嫌)
怖い。
人としての本能が叫んでいる。
ここで閉じろ。
逃げろ。
それ以上、その文字を見るな。
これは人間が知っていいものじゃない。
人間が踏み入っていい領域じゃない。
そんな警鐘を、身体中の細胞が狂ったように鳴らし続けていた。
なのに…………
私の視線だけは、文字から離れない。
頁を捲るたび、何かが削れていく。
それは知識ではない。
記憶でもない。
もっと根源的な――『私』という存在を形作っていた何か。
幼い頃、父と手を繋いで歩いた帰り道。
母が作ってくれた夕食の味。
教室の窓から見えた夕焼け。
そうした記憶が、一つひとつ消えていく。
____
何を忘れたのかすら、もう思い出せない。
けれど、その喪失だけははっきりと理解できた。
まるで誰かが、私という一冊の本を開き、不要だと思った頁だけを無造作に破り捨てているようだった。
「……ぁ」
喉が震える。
その震えは恐怖からではない。
もっと別のものだった。
頁の中央。
そこだけ、他とは異なる文字列が描かれていた。
複雑に絡み合う文字。
人間には決して発音できないはずの音節。
その一文字へ視線が触れた瞬間。
私の喉が、勝手に震えた。
違う。
震えたんじゃない。
発音を思い出した。
生まれてから一度も口にしたことがないはずの言葉を。
舌が、喉が、肺が。
何千年も前から知っていたかのように
自然と、その音を紡ぎ始めてしまう。
止めようとしても止まらない。
止めたいという意思すら、ゆっくりと溶け始めていた。
恐怖も、正気を失っていく感覚も、胸を締め付ける激しい悪寒も。
そのすべてを塗り潰すほどの勢いと、確信だけが、私の心を支配していく。
__これなら。
___これなら、あの人に
その確信だけが、私という人間を最後まで動かし続けていた。
「――’G’harne…… f’thagn……ai…… Y’golonac……!!」
一文字口にするたび、頭の中から「大切な何か」が永久に削れ落ちていく。
中学時代の思い出、親の顔、自分の名前の書き方すらも、黒い泥の中へ溶けて
けれど久遠は、喉を震わせながら狂気じみた笑みを浮かべていた。
(消えろ…)
(消えろ…………)
(消えろ………ッッ!!)
(消えてしまえッッ………全部………全部ッ!!)
(弔くんのいない思い出なんて、私には1文の価値もない……!!)
_____全部、壊してしまえッ
「――……’sft……’k’rn……’f’tagn――――ッ!!!」
意味も分からぬまま、勢いに任せて最後の言葉を叫びきった瞬間。
――ガリッ
世界が、崩壊した。
重力が失われ、視界が泥のように崩れて渦を巻く。自らの精神と肉体が千々に引き裂かれ、暗い時の隙間へと叩き落とされる。
激痛と発狂の絶頂の中、少女の意識は真っ暗な時間の泥濘へと沈んでいった。
◇
「……おい。起きろ、久遠」
不意に、耳に届いた声。
ガサツで、少し低くて、どこかゲームのやり過ぎで眠たげな、大好きな声。
久遠は弾かれたように目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたアジトの薄暗い天井。
鼻をくすぐる、安っぽいパイプ椅子と埃の匂い。
そして――すぐ目の前でコントローラーを持ち、面倒くさそうにこちらを見下ろしている一人の青年。
「……弔、くん……?」
「なんだよ。急に寝落ちしやがって。……ほら、次のラウンド始まるぞ。スピナーに交代する前に勝ち越させろ」
死柄木弔が、生きていた。
灰色の髪、カサついた肌、鋭く赤い瞳。
彼が確かにそこにいて、自分にコントローラーを向け、文句を言っている。
久遠の目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
「……あ…?な、なんだよ急に。気持ち悪いな……」
死柄木にあからさまに嫌そうな顔をされても、久遠は構わずガタガタと震える手でコントローラーを握りしめた。
(戻って……来た……)
頭の中は割れるように痛み、思い出せないことがあまりにも多すぎた。
自分がかつて通っていた学校の名前も、親の顔も、もう思い出せない。
「人として大切なナニか」が丸ごと抜け落ちてしまったような、不快で空っぽな感覚。
けれど、そんなものはもう、
(私は、救ってみせる。何度世界をやり直してでも……あなたを、絶対に死なせはしない)
胸の奥で黒く渦巻く狂気を隠し持ちながら、少女は涙を拭い、狂気に満ちた笑みを浮かべて死柄木に頷いた。
「うん……! やろう、弔くん」
こうして、壊れた少女が歩む――絶望と執着の第一のループが始まった。