(改訂版)Adiairetos - 分たれざる者 - 作:上條つかさ
「マダム。鍵をお借りしに参りました」
その薄い薄い灰色の瞳が、白衣のウマ娘を捉えた。
「……また君か」
振り返った司書、アルセは心底うんざりした様子で椅子を回した。
「今月で何度目だ。そんなに書庫が気に入ったのかね」
春の陽は傾きかけ、司書室は午後の光に満たされていた。書類棚のガラス扉に、梢が金色の模様を描いている。
遠く運動場から、掛け声や笑い声が風に乗って届いてくる。
いつもの放課後の光景の中に、彼女は朧のように佇んでいた。
「書庫の本は、どれも素晴らしいものばかりです」
問いかけに答えるその瞳は焦点を悟らせず、彼女が、どこか遠くを見ているような錯覚を覚えさせた。
「では、出したまえ」
促されて、彼女は一枚の藁半紙を差し出した。
これは誰でも手にできる、地下書庫の使用申請書だ。下半分には、利用規則が長々と書かれている。
誰もが読み飛ばしてしまうであろう羅列の隙間に、その一行は、息を潜めるように紛れていた。
余白の中に潜り込んだような、掠れるほどに小さな文字。
その文頭に置かれた四角には、鉛筆でレ点が入っている。軽く頷いたアルセは、その紙に判をついた。
「待ちたまえ」
アルセは立ち上がると、壁に据え付けられた木製の書類棚へ向かった。
錆の浮いた閂を引く。
観音扉が開いても、中には一冊の本もなかった。代わりに、形も大きさも異なる、無数の鍵が掛けられている。
どれも古びていて、何に使うのかすら、もはやわからない。どこで使われていたのかすら、定かではない。忘れられた無数の門番が、静かにこちらを覗いていた。
アルセは、腰につけた鍵束から一本の古びた鍵を取り出した。そして吊られた鍵たちには目もくれず、枯れ落ちた節目に紛れるように仕込まれた、小さな鍵穴へと差し込む。
鍵が回ると、カチンという金属の音が響いた。
同時に、棚の中の鍵たちが一斉に、じゃらりと音を立てて揺れ動き始める。
じゃらり。
じゃらり。
じゃらり──。
目を覚ましたように音を立てる鍵たちの奥で、背板が割れ、一部が外側へとせり出してきた。
それは見かけだけの背板などではない。重く厚い、隠し金庫の扉だった。
中を開けると、奥の空間はコンクリートを乱雑に抉り取って作られていた。後から打ち込まれたらしい鍵掛けには、時代がかった意匠の鍵が数本。
アルセはその中から、ひときわ重厚な鉄の鍵を取り上げた。
「わかっていると思うが」
彼女は、ゆっくりと頷いた。
「鉛筆、紙、時計の類は持っておりません」
「よろしい」
アルセは恭しく鍵を手渡した。
そのまま、それは彼女のポケットへするりと消えていった。
さらにアルセは机の引き出しを開き、まるでオルゴールのような装飾を施された小箱を取り出した。中には真鍮製の小さな鍵と、淡い青色の砂が封じられた砂時計がひとつ。
「親鍵と砂時計だ。取りなさい」
「拝借いたします」
差し出されたそれを、彼女は再びポケットへと滑り込ませた。
箱を片付けたアルセが、壁にかけられた時計を一瞥する。
「まだ2時間はあるな。回したまえ」
彼女が砂時計をひっくり返すと、砂がサラサラと流れ始めた。窓から差し込む光に、流れる砂が捕らえられた天の川のように輝く。
「一応言っておくが、もしも戻れぬ時は」
「……心得ております」
彼女は、静かに礼をした。
「では行きたまえ。戻り過ぎても良いが、行き過ぎるなよ」
頷いた彼女は、音もなく廊下へと消えていった。
地下二階へと、彼女は今日も降りてゆく。
もしも、君も真実を知りたいというのなら、彼女を追って行くがいい。
もしも、君に望むものがあるのなら、彼女と共に行くがいい。
何かを失い、深淵へと飲み込まれる覚悟が──君に、あるのならば。
……来てくれたのですね。
ずっと、待っていました。
あなたが、あの一文に目を留めたとき。
あなたが、あの砂を傾けたとき。
あなたが、「彼女を追って行こう」と決めたとき。
わたしたちは、そこにいました。
なにも言わずに、ただ静かに、待っていました。
でも、あなたが選んだのです。
怖さよりも、知りたいという気持ちを大事にしてくれた。
その勇気をこそ、わたしたちは愛おしいと思います。
道を探せ。されば誘われん。
たとえそれが、破滅へ至る選択だったとしても。
わたしたちの名は、アディエラトス――"分たれざる者"。
ただひとつの魂にして、永遠に忘れられた真実。
ただ降り積もり、誰にも思い出されることのない事実。
でも、あなたは思い出してしまった。
だから、ここへ来たのです。
ようこそ。
忘れられた場所へ。
どうか、一握りの青い砂がまだ──
あなたの手のひらに、残っていますように