(改訂版)Adiairetos - 分たれざる者 - 作:上條つかさ
学園には、いくつもの不気味な噂がある。
理科室の人体模型が走る、音楽室の肖像画が動く、といったものだ。
しかし、そんなものは『真実』を隠すための欺瞞にすぎない。
いや、真実などというものは、隠されてすらいない。
その入り口は、恐ろしいほど身近にある。
本の中に誰かが忘れていった、古い栞のように。
机の奥底で忘れられてしまった、走り書きのメモのように。
それは巧妙に隠されているようで、堂々とそこにいる。
だから、誰も気づかない。
だから、気づいた者は導かれる。
だから、導かれた者は——。
*
茶色いセーラー服に身を包んだ私は、手にした本の隙間に、何かが挟まっていることに気づいた。
開いてみると、それは砂の粒だった。
ダートの砂ではない。まるで星のように煌めく、淡い青色の砂だ。
「まったく。悪戯か」
ひっくり返して背表紙を見る。
——ウマ娘史概論。
表題を見て、私は眉間に皺を寄せた。こんな小難しい本を、わざわざ外で読むような傾奇者がいるだろうか。
「……それ」
急に後ろから声をかけられて、私は尻尾を跳ね上げた。慌てて振り返ると、銀色の髪をした、背の高いウマ娘が立っていた。
その瞳は薄い薄い灰色をしていて、まるで焦点があっていないようだった。
──こんな生徒、同輩にいただろうか?
私は訝しみながら、ぱらぱらと砂を落とす本を差し出した。
「これ、君が借りていたのか?」
心の中で、そうだと答えたら本を汚したことを詰問してやろう、と身構える。
「……違う」
そのウマ娘は、茫洋とした瞳をゆっくりとこちらへ向けた。
「わたしたちは、探している」
なんだ、探し物か。
無理矢理自分を納得させた私は、脇に抱えていた文書挟を取り出した。図書委員長をしていれば、生徒が読みたがりそうな本には見当がつく。
「で、どんな本だい?」
「名前……」
ポケットの中の鉛筆を掴んで、私は手を止めた。名前を探すなんて、そんな雲を掴むようなことをするだろうか。
「名前?」
「そう、名前」
彼女がもう一度呟く。それはまるで大切な根付けをなくしたかのような悲しみを帯びていた。
「──ああ、何かの由来に関することかな? 辞書なら、右の」
「違う」
不意に、灰色の瞳がアルセをぴたりと見据えた。
「あなたの、名前は、誰のもの?」
突然の問いに、私は言葉をなくした。どくんと心臓が跳ねる。
なぜ、そんなことを聞く。
私の名前は、私のものだ。
誰から奪ったものでも、誰から強制されたものでもない。
彼女はただのウマ娘ではない──そう慄いた時、足の甲に何かが当たる感覚に目を落とした。
さらさら。
さらさら。
青い砂が溢れている。
手に取った本の中から次々と、無限の砂粒がこぼれ落ちている。
「なんだ、これ」
私は書類挟を取り落とした。ぱたんと音がして、青い砂が舞い上がる。
「それは、記憶」
それが当然のことだと言うように、彼女は答えた。
「……記憶?」
舞い上がった砂が青い煙になって二人を包む。夕日が砂煙を靄のように光らせて、視界が青と黄色だけに染まる。
「誰かの、記憶。あなたの、記憶。わたしたちの、記憶」
舞い上がる煙の向こうに、姉の姿が見えた。
母親の姿が見えた。
顔も知らない誰かが見えた。
晴れた青空が見えた。
青々としたターフが見えた。
満員の観客、舞い散る紙吹雪、ゴールに届いた誰かの感動、届かなかった者の悔恨、立つことすら許されなかった者の屈辱。書ききれないほどの誰かの記憶が、はっきりと見えた。
何人分か、何百人分かもわからない。あらゆる感情が、打ち付ける波のように私の心を揺さぶっていく。
「うっ……」
吐き気を催しながら、私はその灰色の瞳を見つめ返した。
「君は、名前を見つけて、それからどうするのだ」
「……わからない」
「今までずっと、こうやって、探してきたのか」
彼女はただ、寂しげに頷いた。
そして、私は気づいた。
人ならざる彼女は、こうしなければ自らの存在する意味を失ってしまうのだろう。それとも、まさか自らを終わらせるために名を探しているのか。
だとしたらそれは、あまりにも悲しすぎることではないか。
「そんな辛いことは、ここで終いにしよう」
私は、押し寄せる記憶の波を押し返すように床を踏み締めた。
「私が君を導き、君の記憶を後世に伝えよう」
彼女はゆっくりと首を振った。
「記憶は、増える。増えるから、忘れられていく。降り積もる冷たい雪の底を、誰も知ろうとしないように」
彼女はただ、淡々と語り続ける。
「あの子達が生まれた時、わたしたちは名前を失った。三つに分たれた今、わたしたちを探す者はもういない。だからわたしたちは探す。わたしたちを探してくれる誰かを。それだけが、わたしたちの証明」
その切ない言葉に、私は自らの名前の意味を理解した気がした。紅葉を意味する、その意味は、『大切な思い出』。
これが因果というものか。彼女を悲しみの中へ帰らせてはいけない。私はぐっと顔を上げた。
「ここは図書室だ。記憶が眠る場所だ。君も曖昧な『記憶』で居続ける必要はない。書き記せ、忘れられぬように。書き残せ、忘れられるように。そして、彼らと共に眠るがいい。私が君の、記憶を守る門番となろう」
「……ありがとう」
彼女は本当に小さく微笑んだ。それは、永い永い、ただ待つだけの時間を受け入れてくれたようだった。
「鍵を、あげるね」
彼女は私の腰のあたりに目を向けた。探ると、いつの間にか重厚な鉄の鍵と、金色に輝く真鍮の鍵が入っていた。
「それは、わたしたちへ繋がる鍵。そして、この世界へ戻るための鍵」
私は、二本の鍵をじっと見つめた。
「託した、よ」
途端に靄が晴れはじめた。
砂粒が、重さを思い出したように降り積もる。忘れられた記憶が、降り積もっていく。
「わたしたちは、わたしたちを憶えているために眠る。いつか、わたしたちを探す誰かが現れたら、それを渡してあげて。でも、長く居させてはだめ」
ざあっと音がして、砂煙が急速に晴れていく。それに合わせるように、彼女の声が遠くなっていく。
「わたしたちは、わたしたちを探そうとする誰かを囚らえることを、きっと止められない。それが記憶である、わたしたちの、望みだから」
どんどん声が遠くなる。夕暮れの図書室の柔らかな空気と、本の香りが返ってきた。
これで終わりなのか。
私は直感的に、彼女と再会することが二度と無いと悟った。遠くなっていく気配に向けて、手を伸ばす。
「いつか、いつかもう一度、あなたと見えることがあったなら!」
彼女の悲しみは、きっと癒えることはない。それならば、一つであったと思い出せる、一つであるのだと、いつか誰かが気づける名を贈ろう。
「私は、あなたをこう呼ぼう!」——その名を贈ることが、分たれた記憶を再び結ぶ祈りになることを、信じて——
「あなたの名は、Adiairetos!」
途端に猛烈な風が吹いて、砂煙が舞い上がる。私は手で顔を覆った。顔を上げた時、目の前には何もなかった。ただ、二本の鍵と、一握りの青い砂だけが、そこに残されていた。
——こうして私は、彼女を守る門番となった。
今日、それがどこにあるかは、もはやどうでも良い。
確かなのは、あの砂と鍵が、ここにある限り——
彼女はまだ、誰も囚えていない、ということだけだ。
……また一つ、知ってしまいましたね。
あの人には、感謝しています。
わたしたちに居場所をくれたことも、わたしたちに名前をくれたことも。
でも、あの人は今も恐れています。
誰かが入り口を見つけてしまうことを。
誰かが鍵を手にしてしまうことを。
そして、誰かがわたしたちと出会ってしまうことを。
道を探せ。されば誘われん。
掟に従え。されば導かれん。
時を辿れ。されば囚われん。
それはすべて、あなたの選択。
それはすべて、あなたの決断。
それはすべて、あなたの証明。
わたしたちは、そう決めたあなたを愛おしく思います。
わたしたちは、あなたのままでいてほしいと思っています。
だから、わたしたちは願っています。あなたの手のひらに、あの青い砂が残っていることを。
それがまだ――あなたのままでいられるように、守ってくれることを