(改訂版)Adiairetos - 分たれざる者 - 作:上條つかさ
短編「Adiairetos - 分たれざる者 - 」これにて閉幕です。
本作は『Everlasting BEATS』の「なにを遺してゆける?」という一節から着想を得て、「何も遺せなかった者たち」を描こうとした作品です。
もう一つの着想として「三女神以前のウマ娘とは何だったのか」という空想も重ねています。
始祖として語り継がれる存在が居るのなら、その始祖以前にも、名を持たず、系譜にも残らなかった魂がいたのではないか。その「歴史に記されなかった側」に思いを巡らせたことも、本作の出発点でした。
ご存知の通り、競馬とはブラッドスポーツと言われるほど過酷な、人工的に作られた生存競争です。
その中で、遺せる者と遺せない者が生まれることもまた、競馬という競技の本質なのでしょう。
さらに、事故や故障によって道を絶たれるリスクもあります。
これらの全てを乗り越えた先にあるものが血統であり、だからこそ「継承」という言葉には、選ばれた者だけが未来へ繋がるという厳しさも含まれているのだろうと感じています。
たとえば、日本ダービーというレースがあります。
ここに出走できるのは、年間に生産される競走馬約七千頭のうち、わずか十八頭に過ぎません。同じ日、同じ芝の上では、未勝利戦や一勝クラスのレースがいくつも行われます。彼らは実力を以て勝ち上がってきたわけですから、それを「蹴落としてきた」と貶すつもりはありません。競馬とは本来、戦いに耐えうる強い馬を選別することであって、一個体への感情云々を持ち込む場ではないからです。
しかし、私たちはいつも、競馬にifを求めます。
あのレースに勝っていたら。
あのレースで故障しなければ。
あの時、あの時、あの時──。
そして、その魂が生まれ変わった先が「ウマ娘の世界」です。
そこでは、別の世界の名を受け継いだウマ娘たちが、白熱のドラマを繰り広げている──ということになっています。
が、果たして全ての魂が、その体系へ迎え入れられているのでしょうか。
ここで少し、ネタバラシをしましょう。
アディエラトス──長いのでアディと略します──は、正確な意味で「一人」ではありません。彼女は言うなれば「記憶の集合体」、もしくは「単一の意思があるように振る舞う思念の集合体」です。
ちなみに「アディエラトス」という名前も、便宜上そう呼んでいるだけです。彼女自身に固有の名前があるわけではありません。そもそも彼女は一人ではないのですから。
どの時代の、どのウマ娘かもわからないほど「忘れられた」魂の集合体である彼女は、おそらくどの時代の、どの場所にも現れることができるでしょう。
そんな彼女の存在を定義するために必要なものは、ただ「認識されること」。
語り継がれるほどの功も、受け継がれるほどの力も持たなかった「その他大勢」の想いが、長い時間をかけて積み重なり、生み出されたものが彼女なのです。
よって、その姿もまた一定ではありません。見る者が属する時代や記憶によって異なる姿として認識されるため、アディ本来の外見は誰にもわからないのです。
そんなアディを構成する思念とは、大きく三つに分類することができます。
ひとつめは「三女神」の定義体系の外側にあった魂です。
競馬が体系化される以前はもちろん、遡れば「記録」という概念すら曖昧だった時代の魂まで含まれるでしょう。
ふたつめは「史実において記録も血も残せなかった」魂です。前述の通り、ブラッドスポーツである競馬では、種牡馬/繁殖牝馬になることなく生涯を終える多数の馬がいます。彼ら/彼女らの思念は、より近い時代のものとしてアディを構成しているでしょう。
みっつめは「他者の記録の中にのみ名を残す」魂です。
勝者の栄光を語る記録には確かに存在する。しかし、その者自身が語られることはありません。ある大レースでしんがりを走った者。あるレースが最後になってしまった者。そうした「誰かの物語の背景」となった無数の魂もまた、彼女を形作っています。
もちろん、この三つは便宜上の分類です。実際のアディは、それらを明確に区別できる存在ではなく、長い年月の中で折り重なった無数の記憶が、一つの意思を持ったかのように振る舞っているに過ぎません。
そして、この三つに共通しているのは、「誰かに覚えていてほしい」という願いです。
アディは怪異ではありますが、その本質は誰かを害することではなく、「存在し続けること」を求める記憶そのものです。
彼女は、三女神に否定された存在ではありません。むしろ、三女神が司る「継承」の体系から零れ落ちた魂の集積であり、その外側にある存在です。
少しお堅い言い方をすれば、これは「管轄権」の違いと言えるかもしれません。
三女神が受け持つのは、継承される魂です。名が受け継がれ、血統が受け継がれ、あるいは加護という形でその存在が認識されています。
一方で、その体系から零れ落ちた魂は、長い時間をかけてアディという存在へ折り重なってゆきます。
三女神が「何を遺してゆける?」と未来へ問いかける存在ならば、アディは「遺せなかった者は、誰が覚えている?」と過去から問い返す存在なのです。
ですから、アディと三女神は対立しているわけではありません。かといって、相互に認知し合い、意識して補完しあっているわけでもありません。
一方で、アディが消滅してしまうことは、三女神にとっても損失になります。
三女神が持つ「継承されるべき魂を司る」というシステムは、その裏側に「継承されなかった魂」がある程度存在する、あるいは生み出されることを前提としているからです。
しかし三女神は「継承されなかった魂」を消すことはできないと考えられます。かといって、手を差し伸べることもできませんし、保護も干渉もありません。
それではアディという存在も「継承という体系の内側」に存在することになってしまい、三女神システムそのものが崩壊してしまうからです。
ここまで読んで、「それなら三女神がアディを認知しているだけで存在できるのでは」と思われた方もいるでしょう。
確かに、三女神の活動は『結果的に』アディを存在させる要素になっています。
公式でも言及されている通り、ウマ娘の能力を最大限に引き出すには「人間の干渉」が必要になります。三女神の元になっているのはウマ娘の魂、つまりウマソウルですから、別のウマソウルへの影響は限定的なものになると考えられます。
もっとも、その点だけを切り取ると「三女神もまたアディと同じではないか」と思われるかもしれません。しかし両者を分けているのは、魂そのものではなく、その在り方です。三女神は継承という体系の中で個として保存された魂であり、アディは体系の外で個を失い、無数の記憶が折り重なった存在です。起源は同じでも、その存在様式は決定的に異なります。
競馬とは、優れた血統や記録を未来へ繋ぐための競技です。
三女神の「継承」という役割も、まさにその「未来へ繋ぐ」という側面を抽出したものだと言えるでしょう。
ですが、継承という仕組みは、継承される者だけでは成立しません。勝者が記録されるということは、その記録の中には敗れた者たちもまた存在しています。
継承される魂があるならば、その裏側には継承されなかった魂もまた必ず存在します。
先ほどの分類に当てはめると、これはアディの存在要件の三つ目にあたります。
これによってアディの存在は人間によって認知されるため、結果として三女神が司る継承という営みが続く限り、アディもまた存在を保ち続けることになります。
だからアディは「勝者のおかげで生きている」のではなく、記録という営みそのもののおかげで形を保っている、とも言えます。
まとめると、両者は同じ「現在」に立ちながら、見ている方向が異なります。
三女神は任意の時間点Tを起点として、常に未来方向を見ています。対するアディは、同じTを起点として過去方向を見ています。
つまり、三女神が任意の「現在」から未来へ継承される魂を見守る存在であるならば、アディは同じ「現在」から過去へ零れ落ちた魂を見つめ続ける存在です。
では、なぜアディは不安定な存在なのでしょうか。
それは、アディとは一人の魂ではなく、「認識されること」によって辛うじて形を保つ記憶の集合体だからです。忘れ去られれば、その輪郭は再び無数の記憶へと解けてしまいます。
ある時代のある場所で、誰かがアディを構成する魂の一つでも覚えている。その細い糸の連続だけが、彼女という存在を辛うじて繋ぎ止めています。
それは彼女の唯一の希望であり、同時に誰かが覚えている限り消滅することはできない、という絶望でもあります。
私は、アディを「可哀想な存在」として描いたつもりはありません。彼女は継承から零れ落ちた記憶の集まりですが、それは競馬という文化が持つ本質の一つでもあります。
勝者がいるから敗者がいるように、受け継がれるものがあるからこそ、受け継がれないものも生まれます。アディは、その事実を象徴する存在です。
昨今は、ウマ娘から競馬に入った、という方も多いことと思います。
そして今、あなたの目の前を駆け抜けて行く馬は、継承の先頭を走っています。
もしその血があなたの推しへと繋がっているのなら、あの日あの時に同じ場所にいた「記録にだけ残った馬たち」にも思いを馳せてください。
それが競走馬という生き物への敬意であり、賛辞であると考えています。
この作品が、競馬という文化や「受け継がれるもの、受け継がれないもの」について少しでも考えるきっかけになれば、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
それでは、また別の作品でお会いしましょう。
ありがとうございました。
上條つかさ