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――対話/茅ヶ崎に関するエトセトラ
皇室間外交から始まった日本国と日本帝國の対話は、本質的には穏当に進んでいた。
日本国側は善意の暴走から始まった事であり、日本帝國に要求するモノが無かった。
日本帝國側も、日本国側に高圧的かつ利益を要求する向きが無かったという事が大きかった。
故に純粋に技術的な、或いは交流に関る項目の策定が主体となっていた。
幾つかの折衝。
最終的には、日本国が行うのは民需及び平和を目的とした情報の提供、そして日本帝國政府に向けた分析の提供と言う形に纏まった。
ここで2つ、問題が発生した。
1つは、未来情報の開示問題である。
日本帝國側として確実な問題回避、繁栄の為に全情報の開示を要求していた。
対して日本国側としては、犯罪その他に関しては予断を以って対応しない様にと個人情報を隠した上での提供を約束するが、特に技術情報に関しては
日本帝國が発展するのは素晴らしいのだが、その為に
この点は、日本帝國側の参加者も実に判る話であった。
特に元勲と呼ばれた江戸時代末期の混乱を駆け抜けた人間の変化は劇的であった。
それは嘗ての思いと一緒であった。
それは、日本人が西洋に膝を屈するまいとした若い頃の青雲の志であった。
かくして研究機関 ―― 内閣府の
ここで2つ目の問題が出た。
研究機関の、施設である。
港、港湾施設の併設が必要との判断であった。
コレに際して当初は港湾施設の整備が進む関東、或いは横須賀などの海軍基地に設置する事も考えられたのだが、余りにも人の目の多い場所に施設を作ってしまえば、思わぬ所から秘密の漏洩が起きる可能性が考えられた為、
これは当初の、研究機関が
選ばれた場所は、神奈川県茅ヶ崎市の沿岸部は相模川の近くであった。
土地を買い集めて3㎞四方は在ろうかと言う大規模な敷地が用意され、施設が作られる事となった。
恐ろしいスピードで行われたソレは、総理大臣の肝いりであると同時に、新聞などで宣伝された
予算が皇室費からも出される。
天皇陛下が
尚、予算が余ったので機材搬入の為として港湾施設も併設された、としていた。
尚、整備に関して偽装された日本国の器材もふんだんに投入され、特に港湾施設の浚渫や桟橋づくりには活躍する事となる。
少し先の未来。
それらが結実し、巨大な、超近代的な、東洋最大の医療研究センターであり茅ヶ崎市を医療技術開発の世界的メッカに押し上げる茅ヶ崎研究所が生まれる事となるのだ。
ここまでは問題は無い。
問題が発生したのは、その研究所の建屋の設計であった。
皇室にも関わりのある国を代表する事となる施設と言う事で、日本帝國は比類なき最高の建物を用意する事を考えた。
日本国代表は、控えめに
誠に道理であった。
地域の防災拠点としての運用、或いは将来に津波が発生した場合の避難場所としての機能も重要であるとの話にもなり、虚飾の類が排除された設計案が出された。
日本国代表は、設計図の計算を行って
未来の知見からであると、日本帝國の代表も受け入れ、設計案を改める事と成った。
そこには空気調整システムが採用され、そこには将来のエアコン導入を前提とする余裕も含まれている極めて近代的な設計案であった。
だが、日本国代表は首を横に振った。
日本帝國代表は、であるならばと日本国側が求める耐震基準の開示を要求した。
開示された数字を見た、日本帝國代表はキレた。
特に設計案を纏めていた建築技術者たちは盛大にキレていた。
日本帝國が観測して来た地震とは桁の違うモノであった。
嫌がらせであるのかと思うのも当然の話であった。
対して日本国側は、何とも言い難い顔で、必要であるから定められた数字であるとだけ告げるだけであったので、日本帝國代表と日本国代表が揃った会議室の空気は最悪なモノとなっていくのだった。
とは言え、関係を破断させようという意識は相互に無かった為、少しだけ時間を置く事となる。
実務担当同士での折衝。
その果てに、日本帝國と日本国との情報共有に関する協定が改定される事となる。
即ち、未来に於ける災害情報の開示である。
その情報は地震以上に、日本帝國政府を揺さぶる事となる。
――対話/対応、被害者1名
最大震度7。
死者行方不明者10万人以上。
記録に残る限りに於いて最大規模となる大地震が帝都を10年以内に襲うという情報は、日本帝國政府に衝撃と言う言葉では言い表せないだけの衝撃を与えた。
加えて、開き直った日本国側が関東大震災としてまとめられている研究成果を全部開陳してしまったのだから、衝撃は更に加速する事となる。
だが驚いてばかりはいられない。
如何にして、この公表できない情報を基に、来る関東大震災の被害を低減させるかに頭を悩ませる事となる。*2
苦悩。
だが、ある若手の関係者が簡単な答えを出した。
天才が居るじゃないか、と。
「天才?」
「ええ。100年に1人の大天才が居ますから。恐れ多くも睦仁天皇陛下の知己を得ております。それを1000年に1人としてしまえば」
「まってまってまってまって!!」
「素晴らしい。医聖だけではなく、複合天才だったと言う事だね」
「なに、日本国の知が支えるのだ。後は山田君が頑張ってくれれば簡単だ。面の皮が厚いのだから、是非にそこを有効活用するべきだ」
「いやおかしいでしょう!?」
「問題は無いな。天才であるが故に、多くの才を見出したとすればよい」
「幸い陛下も山田殿の知見を面白がられておられた。であれば幾度か進講をして、陛下がその才の活用を述べたという形式であれば。総理が動く理由となるでしょうな」
「少し、冷静になりましょう!?」
「経済政策面のアドバイスも、頭脳集団として研究所を確立させてしまえば簡単になりますでしょう」
「素晴らしい!」
「だれか、水を、い、胃が、胃薬を___ 」
約1名の悲鳴、悲嘆、絶望。
後は胃の痛みを無視し、問題は綺麗に解決する事になる。
かくして、看板に菊の御紋が彫り込まれた総理大臣の諮問機関を兼ねた茅ヶ崎研究所、総合研究所、所謂ところの総研が発足する事となったのだった。
――進講と言う場で炸裂した大爆弾
建屋が完成するよりも先に、日本帝國政府の提言機関として動き出す事となった茅ヶ崎研究所。
その最初の提言は、先ずは日本帝國と言う国家の体制を安定したものとする為の内容となった。
即ち、日本帝國憲法の改正である。
明治維新と言う
そういう話であった。
日本国からの意見に、最初は強い拒否感を示していた日本帝國側であったが、如何せんにも日本帝
元勲を筆頭に、現実主義者の集まりであるのだから当然だった。
とは言え、日本国側の
主導権を渡した訳でも無い。
日本帝國は元勲と政治家、それに政治学者などの知恵者をかき集め、日本国側が用意した各分野の官僚や近代日本史の有識者等と喧々諤々の議論を行う事となった。
とは言え、何時までも議論をすれば良いという訳では無い。
2週間と時間を区切って、ホテルに缶詰めになりながら朝から晩まで行われたその結果は、概ね、日本国の意見に沿ったモノとなった。
それなりの歴史情報の開示が行われる事と成った成果とも言えた。
日本帝國側の人々は、自分たちに続く人間がそこまで愚か者であると思いたくなかったが、同時に、人間である以上は間違えてしまうのも仕方が無い事であると受け入れられぬ程には頑迷では無かった。
それは幕末と言う、波乱と混乱の時代を乗り越えてきた人間が持つ柔軟性、或いは剛さであった。
議論の報告書を見た日本帝國政府の人々は、唖然とした気持ちで内容を精査し、その結論に間違いが無いと同意するのであった。
受け入れてしまえば後は早かった。
天皇陛下への根回しを行い、進講に際して山田大郎が発言したという事にしたのだ。*3
かくして落とされた、特大の爆弾は、日本帝國を大きく騒がせる事となった。
山田大郎と言う未知の才を、強い興味を持って見ていた人々は、大きく議論をしていく事になる。
否定する者。
肯定する者。
多種多様な意見が出て、新聞を賑わかす事になる。
そして日本帝國政府は、であるならば雑談で述べるような感想ではなく、正式な研究として纏めるべしと山田大郎に命じた ―― と言う事となった。
尚、世論が騒動しつつも沸騰しない理由は、日本帝國の頂点たる天皇陛下が一言、述べたが故であった。
「面白い」
さて、進められる事となった大日本帝國憲法の問題確認。
内閣に特命大臣を立て、山田大郎を首班として行う事となった。
勿論、先に行われた日本国と日本帝國が共同で行った内容を、専門性を削ってより簡素なモノとして纏めなおし、改めて天皇陛下に進講したのだ。
併せて、国民の関心事であるからと、内容は一般の新聞各紙にも公表される事となった。
騒動となった。
理由は、その内容を面白おかしく報道した新聞各紙が問題となったのだ。
新聞各紙には、本人とは似ても似つかない態度の悪そうな顔をした山田大郎の絵が載せられ、思い思いに悪口を言わせていたのだ。
羽織ゴロとも揶揄される新聞記者の大活躍とも言えた。
結果、日本帝國の世論は沸騰した。
そして新聞は売れた。
売れたが故に更に好き放題に書き散らす事となった。
この事は、日本帝國政府に対して情報の統制、流言飛語の恐ろしさを改めて教える事となるのだった。*4
これが政府による公的な、公共宣伝機関の必要性を痛感させる事となり、後の内閣府隷下の
正しい情報の伝達。
そして、流言飛語やデマの指摘を担当する事となる。
言論の自由の問題もあり、中々に難しい所はあったが、新聞に対して
政府による報道規制と主張する向きもあったのだが、新聞紙が売れれば良いという企業も多く、そしてその点を日本帝國政府が正面から指摘する事で、その主張が大勢となる事は無かった。
そもそも、第2類とされた新聞の出版自体が禁止されたりしている訳では無いのだ。
であれば、報道の自由が阻害されているという主張は正しくないとの雰囲気になるのも当然であった。
勿論、その世論の背景には大手新聞社たちが第1類の看板を欲したが為に、
ここに、言論の自由を叫ぶ新聞社は紙面で噛みつく事としたが、そこは日本帝國政府の主張が正論であったからと抑制的な論調で返した為、新聞を買っていた人々は喧嘩腰で下品とも言える第2類予備軍の新聞紙が作ろうとした
人は、誰しもが正義の金看板を求めていた。
そう評するべき話なのかもしれない。
兎も角。
この第1類新聞と第2類新聞の対立は後々まで
人生万事、塞翁が馬と言うべきであろう。
人道的結果であるとは言え、面倒事でもある日本帝國との交流を予期せぬ形でおっぱじめさせた山田大郎に対する日本国の官僚たちの怨嗟の結果とも言えた。
或いは、仕事を押し付け、責任で血反吐を履かせてやろうという意趣返しであった。
良識は持てども、ごく一般的な医師免許保持者でしか無かった山田太郎を
と言う
さもありなん。
医療分野で歴史に名を遺す様な赫々たる人々の前で
真っ当な感性と恥を知る山田大郎が真っ青になるのも当然の話であった。
当然ながらも辞退を述べたが、日本国官僚はそれを許す筈も無かった。
辞職すらも考えたが、責任から逃げる積りかと言われては強くも抵抗できず。
かくして特殊職国家公務員である山田大郎は、日本帝國
尚、医療分野に於ける情熱自体は本物であり、善意も溢れていた為、以後の日本の公衆衛生と医療の発展に強く尽力する事となり、平均寿命の劇的な上昇の原動力にすらなった。
結果として、半世紀ほど後には山田神社の創建が民意として上がる事態に繋がる。
勿論、創建自体は死後とされてはいた。
兎も角として、その話を聞いた山田大郎は泡を吹いて卒倒する羽目になる。
意識回復後にいっそ死にたいと漏らした山田大郎であったが、彼が育てた日本帝國の医療と医療魔法と言う異世界の技術を受けて更なる長足の進歩を遂げていた日本国の医療とがそれを許さなかった。
更に血反吐を吐きながら現場の総責任者として活躍する羽目になるのであった。
日本帝國政府と日本国政府は共に、この100年の狭間を持った交流を国外に漏らす必要性と言うモノを感じてはいなかった。
共に、日本帝國と言う国が安定し、平和に発展するという軸からブレなかったというのが大きい。
特に日本帝國側は、まだ
実利優先。
何と言われようとも、豊かにならねばならぬ。
列強の座、世界的強国にならなければ他国から
そんな恐怖感が残っていると言うべきかもしれない。
もう少し後の時代であったならば、大アジア主義が勃興する事にもなるのだが、今の所、その影響は大きくは無かった。
当初は日本帝國総理大臣の要求として、日露戦争後の日本の発展に重要な事はナニかと茅ヶ崎研究所に研究させた結果、成果とする予定であったのだが、その場合には余りにも時間が必要となるという事で、生贄として山田大郎が選ばれたのであった。
医療分野の進講、その後の雑談で言ってしまった話、との態である。
誠にもって日本国の
兎も角。
この大日本帝國憲法の問題点の上奏が、医聖にして複合天才である山田大郎伝説の始まりとなった。
日露戦争終結時に於ける
否。
理解していたのではない。
理解した積りになっていたのだと知覚した。
それ程の政治的騒動となったのだ。
言論の自由は大事であるが、野放図にデマや流言飛語を許す事は違うという事である。
又、それによって人が傷つくのであれば特に大問題と言う事であった。
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可愛そうな山田大郎氏
とても美味しいです ペロペロ(^ω^)
尚、未婚だったので、血縁に成ろうという親が大量に出て問題になります
仕方ないね!
誰も、こんなモテ方、したくなーい!!