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――外交/アメリカ
門戸開放政策を行っていたアメリカにとって、日本が提案してきた満州権益の日米
そして、日本への民間企業ベースでの投資拡大要請も、新しい市場を得るという意味に於いて歓迎できる話であった。
とは言え、何らかの意図があるかもしれないとして、日本との外交交渉と並行して日本国内での政治方針その他の調査を行った。
そこから見えてきたのは、ロシアに戦勝したが、そこで国力の限界に直面した極東の大国の現実であった。
アメリカの外交官が私的ルートで接触した日本の政治家たちは総じて、ロシアの南下を阻止した事で安全保障の上では安定する事が出来た。
外的な国家の不安定要素が減少したので、次は内的な国家の不安定要素を削りたい。
そういう話であった。
人間は衣食住足りて礼節を知るという。
だからこそ、国内を安定させる為には発展と繁栄が大事であるという考え方であった。
この主張にアメリカから訪日していた調査官は、そうであるならば満州権益は独占するべきではないのかと不思議そうに質問する事になる。
だが、日本の政治家は笑って返した。
外に市場を欲するのは、国内の発展がある程度の水準に達する事の出来た国家の話であり、対して日本の場合は先ずは国内の発展が優先されるべきだ ―― それが日本帝國の大方針となっているのだ、と。
地方出身の政治家は言う。
10年で大規模で機械化の進むアメリカ並みにとは高望みしないが、それでも20年後には農業の重労働部分を機械で補える様になったら嬉しいのだ、と。
日本帝國と言う国家は、他所に市場を欲するよりも先ず、国内を充足させたいのだと言う話であった。
だからこそアメリカの企業の誘致、投資を望んでいるのだ。
その話は、アメリカから来た調査官から見ても納得できる話であった為、アメリカの政府に上げる報告書に、今の日本帝國は協力して問題は無いとの旨が記載される事となっていた。*1
この報告書を受けてアメリカ政府は日本帝國との交渉に前向きに動く事となる。
――外交/イギリス
日本帝國による日英同盟の深化方針は、概ね、イギリスにとって歓迎するべき話であった。
ドイツが行っている海洋戦力の拡充は脅威そのものであったからだ。
勿論、ドイツが何かの大戦略的目的があって行った訳では無く、単純に、増大した粗鋼生産力の消費先として戦艦の建造に踏み切っていたと言う事は理解してはいた。
しかし、古来より意図よりも能力に備えるのが軍事である以上、座視する訳にはいかなかった。
イギリスは、フランスとロシアとの間で三国協商を成立させ対ドイツ包囲網を構築していた。
ヨーロッパ亜大陸はそれで充分であるが、その外側 ―― 非ヨーロッパ、非大西洋に広大な植民地を抱えている
世界中に広がっている
陸上は、今現在のドイツの陸上戦力及び輸送力を見る限りに於いて、何とかなると考えられていた。
侵略、或いは統治しようとすれば、小さな植民地であっても、莫大な陸上戦力が要求されるからだ。
だが海洋は違う。
支配しようとするのではなく、イギリスの海洋
頭を抱えていたイギリス。
そこに、日本が太平洋からインド洋までの支援を日英同盟の改定に併せて確約すると言い出したのだ。
歓迎する以上の言葉は無かった。
勿論、その対価として日本帝國がアメリカを巻き込んだ極東における安全保障関係の成立を要求している点を問題視する声も無い訳では無かったが、主目的が関係する3ヶ国の相互承認と権利その他の相互保障であったのだ。
正しくイギリスは理解していた。
日本帝國は戦争をしたいのではない。
只、単純にアメリカを日本本土と満州の開発に引き込みたいが、そこでの経済活動は
だから日本帝國はイギリスに協力を要請するのだという。
実に合理的であり、イギリスにとって損の無い話であった。
将来的と言う意味では対ドイツ戦争で日本の海上戦力が期待できるし、直近と言う意味では労せずに朝鮮半島で日本並みの権限で投資が出来る様になる。
実に良いトレードであった。
尚、同時的な話として日本はイギリスからの鉄鉱石や石炭の輸入に関しての特別的な地位を要求していた。
イギリスの国内向けレートでの購入権利である。
勿論、日本帝國が言う理由は戦艦等の整備の為、であった。
将来的なドイツとの戦争を考えれば、戦力の整備は重要であり、そうであるが故にイギリスの支援が欲しいという話であった。
何とも強欲めいた話ではあったが、同時に、ドイツとの戦争時に戦力が強化されていると考えれば、拒否もし辛いというのが現実であった。
この為、イギリスは日本帝國の要求を受け入れる方向で動く事となる。
――日英米極東協約
十分な根回しの上で行われた日米、日英の交渉。
その最終的な仕上げとして、東京で日米英による極東域での経済活動の承認と相互の安全保障を定めた協約が成立する事となる。
日本帝國政府は、協約の締結は日本帝國が世界の
だが第2類新聞紙各社は、コレは満州の権益をアメリカに売り、朝鮮をイギリスのえさ場にしようという悪しき外交であると糾弾した。
血を流した軍人、先達、その思いへの反逆であると声高に主張したのだ。
とは言え、それが日本の世論で主流となる事は無かった。
第1類新聞紙各社が激烈に反論を乗せたからである。
後に新聞戦争などと呼ばれる事となる大騒動であった。
だが、そうであるが故に人々はこぞって意見を交わし、是非を言うのであった。
ある意味でコレが大正デモクラシーと言われる事の萌芽であった。
尚、目端の利いている人間は山田大郎の意見を聞きたがった。
とは言え第2類の新聞紙は勿論、第1類の新聞紙の記者も山本大郎にインタビューに行かなかった為、紙面に乗る事は無かったが。
兎も角。
1月近い交渉を経て、日英米極東協約は成立する事となる。
これによって日本帝國は、経済発展に向けた準備が整う事となる。
そして、この日英米極東協約の締結努力の中で、
それは10年で
日本帝國内ではまだ余り知られていなかった
舶来の概念。
それを用いて、日本帝國は日露戦争の戦勝を足掛かりに更なる雄飛をする。
そういう意識の植え付けであった。
新聞各紙は新聞戦争を忘れ、GDPと言う概念と日本帝國の国力を5割増しするという政府の方針に首ったけとなるのであった。
尚、日本帝國政府がアメリカと同様にイギリスとも関係性を深める方向である事は隠されていなかった為に調査官も理解していた。
ある種のバランス外交的であり、又、アメリカはイギリスと若干の緊張関係がある為に快不快で言えば不快寄りであったのだが、同時に、アメリカやイギリスと比較して国力が極めて劣っている国家が地域の安定を図ろうとする生存戦略と考えれば妥当とも認識し、報告書を纏めていた。
快不快は別の話として、イギリスを巻き込んだ極東の安全化方針と、経済活動の促進はアメリカが何かを謀りさえしなければ全く関係の無い問題であり、さらに言えば、本質的にはアメリカは日本帝國と良好な関係を約束しさえすれば、
日本帝國からの申し込みに乗らないという選択肢はない。
そういうモノであった。
尚、アメリカ国内では新聞紙が日本帝國の外交官にインタビューを行い、アメリカ企業の日本進出を日本帝國政府は強力に後押しをする予定があると言う話が広まっていたのだ。
アメリカ企業群は、日米親善を政治に対して強力に要求していた。