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――経済/外資の流入
アメリカからの日本本土への投資*1を呼び込む事に成功した日本帝國。
とは言え外資頼りでは、日本経済がアメリカに従属され過ぎるという当然の危惧もあった。
それ故に、日本帝國政府も国内投資を強力に推し進める積りであった。
問題は原資である。
日本帝國は日露戦争で莫大な
特に経済に詳しい一部の人間からは倹約、出費の削減こそが正道と言う声があがっていたのだ。
だが、日本帝國政府は断固とした態度で、景気の拡大こそが正道であるとの態度で対応した。*2
新聞各紙は、この民間の声と政府の声を競って報道する事となる。
とは言え極端な論争、言論戦争になる事は無かった。
景気拡大政策、所謂
モノの値段は高くなった。
だが給与も上がり、買えるモノは増えた。
そもそも、モノ自体も多く普及する事となったのだ。
であれば顧客の意向を無視出来る筈も無かった。
兎も角。
開発国債を発行し、主に
これに加えて、日本帝國は大胆な手段に出る事となる。
軍拡である。
正確に言えば、軍備拡張計画の発表であった。
――経済/軍事方針
経済を重視するという宣言、所謂
経済対策に必要な予算が限られているにも関わらず、再生産性の乏しい軍備に予算を回そうというのだから当然の話であった。
だが、日本帝國の目論見は少し違っていた。
軍備拡張計画は、その実現を短期間で図るモノではなく長期的な10年から20年単位で達成するべき目標として設定されていたからである。
即ち軍需生産に関わっている業界、特に製鉄業を含んだ重厚長大な投資に時間の掛かる界隈に対して将来的な需要を約束する事で投資への不安を無くそうと言うのだ。
勿論、達成後には投資した能力が余剰となるリスクもあったのだが、そこは経済拡大による能力の消費先が発生するという認識であった。*3
取り合えずの消費先として挙げられたのが、戦艦の建造であった。
そして同時に、これはイギリスとの約束 ―― 第3次日英同盟条約で定められた、極東からインド洋までのイギリスの海洋交易路保護に日本帝國海軍が協力する為の戦力整備と言う側面もあった。
欧州列強が極東まで派遣可能な戦力を計算し、その上でイギリス海軍東洋部隊と協力し撃退可能な戦力の整備である。
同時に、満州権益に関る様になったアメリカが過度な警戒感を抱かないだけの規模と言うモノも考慮に入れられた計画であった。
2隻の大戦艦。
4隻の巡洋戦艦。
2隻の補助戦艦。
戦力の基幹となる4万t級の大戦艦2隻。
準主力として縦横に運用する2.5万t級の巡洋戦艦4隻。
補助戦力として広洋に展開する2万t級の
都合8隻、22万t規模の整備計画であった。
242計画や2.6艦隊計画などとも言われる事となる。
大戦艦型の4万t級と言う数字は、1910年代にあって破格と言って良い数字であったが、同時に、総数で22万tと言う総t数は、列強の中にあっては控えめと言って良い数値であった。
イギリスは、日本が律義さを示そうとしている事に深い満足を覚えていた。
アメリカは、日本の整備しようとする規模を甘く見る事は出来ないが、同時に極端な脅威にならない範疇である事に満足していた。
共に、東洋の新興強国は分を弁えていると認識していた。
そうであるが故に、共に歓迎する外交文章を発表するのであった。
――経済/陸軍分野
帝國海軍に華々しい話が出たのに対し、日本陸軍には
勿論、鉄の消費先として無視されていた訳では無く、自動車化を進める事や大砲などの整備が行われるとされていたが、戦艦の大規模な整備計画に比べてしまうと、どうしても派手さと言う意味で欠けているのが実情であった。
その事を帝國陸軍の若手将校たちは不満に思っていたが、正直な話として日露戦争での将兵の大損耗を受けていた帝國陸軍は、日露戦争の戦訓を反映した新しいドクトリン構築が最優先であり、余り気にしていないというのが実情であった。
そもそも、帝國陸軍の中枢の人間は、差し迫った
又、政治的な話になれば、別の忙しさがあった。
5年程度の後を目途に、陸軍省と海軍省に分かれていた日本の軍事組織を統括する防衛総省が設立される事となった為、この準備にも忙しくしていたという部分があった。
これは大日本帝國憲法の改正によって総理大臣が天皇の信託を受けた第1等の臣として、実務的な意味で日本帝國の頂点であると規定された事が理由であった。
陸軍にせよ海軍にせよ、天皇の代行である総理大臣の下に置かれると明確化されたからである。
従来の属人的システム ―― 元老、元勲による帝國陸海軍の調整を、組織化するという側面もあった。
尚、防衛総省の設立は、軍事予算/資産の効率的な運用も重視される内容であった。
とは言え、効率化は規模の削減を意味しない。
同じ分野は統合する事により、従来の2倍の予算と人員で任務に当たれる ―― 必要であれば予算の拡充は行われる。
そういう話であった。
そうであるが故に、一見すれば権限が削られる防衛総省の設立が拒否される事なくスムーズに決定していたのであった。
日本本土への投資に関して、基本的にはアメリカの親会社が経営権を持った日本国内企業との合弁会社による運営とされていた。
コレは過度なアメリカ式運営を行われた場合、日本の風土に合わない可能性を警戒しての事であった。
又、日本国内のサプライヤーを積極的に活用する事も契約に含まれていた。
とは言え、勿論ながらも日本のサプライヤーの
この点に関して日本帝國政府は内閣府に企業間の
尚、問題を引き起こす割合は、日本もアメリカもそこまで差は無かった。
アメリカ企業が傲慢な態度を見せる事もあったが、日本企業にも中々に阿漕な真似をする
尚、調整が仕切れない場合には茅ヶ崎研究所、と言うか山田大郎にぶん投げられる事もあった。
医聖として知られる事になった山田大郎であったが、同時に、日本帝國憲法改正を提言した様に様々な事に精通する複合天才と見られていた為、特に、実情を知らぬ政府関係者が調整会議への出陣を依頼する事が多かったのだ。
日本企業にとっては、
アメリカ企業からすると、東洋人にしては洗練された態度と知性で調整をしてくれる、話の分かる第一級の文明人と評価されていたのだ。
それはもう、投資調整庁の人間が面倒事が発生した場合に泣きつくのも当然であった。
とは言え山田大郎からすれば本業がおろそかになりかねない話でもあったので、複数回、この
茅ヶ崎研究所 ―― 日本国から派遣されて来ていたスタッフたちは、日本国の経済が陥った長期低迷/停滞からの脱却に関する実体験があればこそ、経済の拡大こそが借金の返済に於いても正解であると確信していた。
100円の価値が10年で1/10と成ってしまえば、100円の
極端に言ってしまえば、そういう話であった。
日本帝國政府側のスタッフは、詐欺めいているのでは? とすら思う人間も居たが、返す借金の総額には変化が無いのだから無問題であると返していた。
日露戦争での戦時国債は約13億円に達していたのだが、日本国側からすれば約13億円など戦車1両分の値段よりも安いのだ。
至極もって乱暴な話でもあるが、そういう事であった。
経済が拡大し
その意見が日本帝國政府の景気拡大政策を強く後押しする事となった。
山田大郎と
又、鉄の消費先として農業の機械化も推進する積りであった。
これは古典的な、
日本国の歴史による、強制的な小作人への土地の売却は如何な日本帝國と言えども不可能 ―― 地主は富豪であり有権者であった為、日本帝國議会の場で強い反対が予想されていた。
又、小作人が独立した農家に成った場合の、農業の将来的な農業の小規模化と言う問題を抱えている事も重要視された結果であった。
故に、税制改革等を利用してゆっくりと地主と小作人の関係性を、大規模な
ゆっくりと、である。
コレは急速な改革を行えば反発が大きいという事と、改めた制度自体が将来的には正しくなくなる可能性を考慮しての事であった。
ゆっくりと行うが故に、適時修正が可能にする。
そういう話であった。
より深く日本国の歴史情報に触れていた帝國陸軍の高官は、数年後に発生する第1次世界大戦で従来の装備が陳腐化していく事を知らされていた為、古臭い玩具を揃える事に意味を見出せなかったというのも大きかった。
今は少しばかり我慢して、後々に戦車や戦闘機と言った次世代の兵器を揃えた方が良いという考えである。
その点において日本帝國政府も帝國陸軍の要望を内々には承諾をしており、そうであるが故に余裕があったと言えた。